「在日」と日本人との共生は可能か
(月刊『アプロ・21』)

福岡安則

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日本を愛するのは日本国民だけ?

 「公務員になりたければ帰化すればいい/外国人採用問題 自民総 務会で異論」という見出し記事を、11月27日付けの朝日新聞が 報じていた。先の総選挙の結果、まがりなりにも自民党単独政権が 復活したことにともなって、歴史の流れに逆らう右寄りのホンネが、 自民党の総務会のなかで噴出してきたのだ。少し長くなるが、この 記事の一部を引用しておこう。

 この代議士の考えでは、国籍の所有と愛国心の保持とが等値されて いる。日本国籍を持たざる者は、日本を愛せない。そして、日本国 籍を持っている者は、おのずから日本を愛するのだ、と。ほんとう だろうか。

 このことは、日本人と在日韓国・朝鮮人との〈共生〉の問題を考え るうえで、きちんと考えておくべき論点のひとつであろう。 ただし、このような問題を議論するにあたって、主観的な考えをお たがいにぶつけあうだけでは埒があかない。せいぜい、声の大きい ほうが論争に勝ったかのような印象を残しながら、いつまでも議論 に終止符が打たれないという後味の悪さを、私たちは味わうはめに なろう。

 私は社会学者である。社会学者は、まずは、議論すべき問題の現状 がどうなっているのかを調査し、その調査結果にもとづいて、もの ごとを考えていくという訓練を受けてきている。

 私は、1988年以降、韓国籍・朝鮮籍のみならず日本国籍をもつ にいたった者も含めて、150名余りの「在日」の若者たちから、 生活史とアイデンティティに焦点をあてた聞き取り調査を実施して きた。これらの質的データをもとに、私は、『在日韓国・朝鮮人: 若い世代のアイデンティティ』(中公新書)などをまとめたが、幸 いにも、数多くの人たちに読んでいただくことができた。

 また、1993年夏には、民団傘下の在日韓国青年会のみなさんに、 私と在日三世である若い社会学者の金明秀氏が協力して、「日本生 まれ、韓国籍、18〜30歳の者」を対象とした全国的な意識調査 を実施した(有効回収サンプル数800票、回収率46%)。

 ここでは、この数量的データから明らかになったことをもとに、 “日本国籍をもたない者は日本を愛せないかどうか”といった問題 を含めて、在日韓国・朝鮮人と日本人との〈共生〉の可能性、そし てもし可能だとすれば、それを実現するための条件は何か、という ことを私なりに考えてみたい。なお、データの細かな数値を記載す るだけのスペースがないので、その点は、2月に東大出版会から刊 行される予定の、私と金明秀との共著『在日韓国人青年の生活と意 識』をご覧いただきたいと思う。

「在日」青年は祖国よりも日本が好き

 1994年の春、民団は、その正式名称「在日本大韓民国居留民 団」から「居留」の2文字をはずし、「在日本大韓民国民団」と名 乗るようになった。この名称変更が象徴しているのは、日本による 朝鮮植民地支配の時代に渡日をよぎなくされた「在日」も、すでに 三世四世の時代をむかえ、日本はすでに「仮の宿」ではなく「定住 の地」になっていることを、民族団体のリーダーたちも認めざるを えなくなったという、厳然たる事実であろう。

 私たちの調査結果によれば、「日本」に愛着を感じると答えた青年 が73%、愛着を感じないと答えた青年はたった7%であった( 「どちらともいえない」という回答は省略する)。それにたいして、 「韓国」に愛着を感じると答えた青年が38%、愛着を感じないと 答えた青年は24%であった。三世世代を中心とする現在の「在 日」青年たちは、祖国よりも、生まれ育った日本のほうに、圧倒的 な愛着感をいだいているのだ。

 このように答えた青年たちは、帰化をして日本国籍をもつにいたっ た青年たちではない。韓国籍を保持している青年たちなのである。 したがって、冒頭に紹介した松永光代議士の「外国籍では日本の国 を愛するのは無理だ」という考え方は、事実に反することが一目瞭 然だ。松永代議士や彼と考えを同じくする人たちには、ただちに間 違った認識をあらためてもらわなければならない。

 さらに、松永代議士たちに留意してもらわなければならないことが ある。「日本による植民地支配の歴史」にたいする考えを尋ねた質 問で、「日本のやった残虐行為のかずかずをきちんと知っておくべ きだ」と答えた青年が54%、「自分たちが生まれる前の出来事だ からこだわらなくてもいい」と答えた青年はわずか24%であった、 ということだ。

 先の「日本」への愛着という設問への回答結果とあわせて考えると、 「在日」の青年たちの多くがいまなお日本の侵略行為に批判的であ るが、それは日本を嫌いだからではなく、愛着感をいだいているか らこそ、その日本には反省すべき点はきちんと反省してもらいたい、 と考えているということだ。

差別ゆえの民族的劣等感

 さて、〈共に生きる〉という言葉が、いま、ひとつの流行り言葉に なっている。私自身も、この言葉の響きには共感をもつ。

 だが、〈共生〉というのは、たんに、おなじ社会のなかに一緒に暮 らしている、ということで成り立つものではない。私の考える〈共 生〉とは、〈おたがいの違いを認めあったうえで、共に生きられる 社会〉をつくること、である。したがって、〈共生〉が成り立つた めには条件がある。私は、その条件としてふたつのことが必要だ、 と思っている。

 ひとつは、差別がないことである。もうひとつは、おたがいの違い を大事にしあうことである。まずここでは、差別の問題から考えて みたい。

 私たちの調査結果によれば、「これまでに在日韓国・朝鮮人である 自分を嫌だと思ったことがありますか」との問いに、「ある」と答 えた青年が64%であった。3人に2人の青年たちが、成育過程で 民族的劣等感をいだかせられているのだ。

 では、そのような民族的劣等感をいだかせられるにいたった原因は、 なにか。統計的な分析の結果、その最大の要因が「民族的差別」を 受けたことがあるかどうかであることが判明した。差別は「在日」 の子どもたちを葛藤の渦のなかに投げこむのだ。〈共生〉関係の実 現のためには、日本人側が一日も早く差別を根絶しなければならな いのだ。

 ただ同時に、「民族教育」をより多く受けていれば、民族的劣等感 をいだかないですむということも、分析の結果、判明した。「在 日」の子どもたちがのびやかに育っていくためには、民族教育が必 要とされている。

薄まりつつある民族性

 〈共生〉が成り立つためのもうひとつの条件は、民族を異にする者 どうしが、そのおたがいの違いを大事にしあうことである。このこ との前提条件として、「在日」の側での民族性の継承がうまくいっ ているのかどうか、という問題がある。

 私たちの調査結果によれば、三世を中心とするいまの青年たちのあ いだでは、民族的なものが薄れてきているというのが、否定しえな い事実である。

 たとえば、「母国語」をしゃべれない青年が圧倒的多数を占める。 「まったくできない」者が40%、「いくつかの単語しか知らな い」者が30%、「いくつかのあいさつの言葉しか知らない」者が 15%であった。「こみいった議論ができる」と答えた青年は、た った2%にすぎなかったのである。

 あるいは、自分の本貫を知っていると答えた青年は、35%にすぎ なかった。同姓同本のあいだがらであれば結婚できないという規範 がいまだに生きているわけだから、韓国人・朝鮮人であれば、自分 の本貫を知っていて当然だと考えられるのに、知らない青年が65 %もいるのだ。

 また、具体的な対人関係の点でも、同胞との関係が薄くなり、日本 人との関係が深まっている。友人・知人に「日本人しかいない」青 年が33%、「日本人のほうが多い」青年が48%であった。また、 結婚についても、「同胞と結婚したい」と答えた青年は、35%に すぎなかった。

継承・獲得可能な民族性

 では、こういった民族性というものは、二世、三世、四世と世代を へるにつれて、いやおうなく薄れていき、自然と日本に「同化」し ていってしまうという運命にあるのだろうか。それでは、そもそも、 日本人と「在日」との〈共生〉などという課題について、いくら考 えても無駄だということになってしまう。

 だがしかし、この点については、私たちの調査によって、けっして そうではない、ということが明らかになった。

 むずかしい分析の方法については省略するが、私たちの分析結果に よれば、ひとくちに「民族性」と言われるものが、じつは、ふたつ の部分から成り立っている。

 ひとつは「民族への愛着」とでもいうものである。これは、同胞の 友だちがほしい、結婚は同胞としたい、チェサを継承したい、韓国 籍のままでいたい、同胞社会が好きだ、といった、同胞とのきずな をいとおしく思う気持ちから成り立つものである。

 もうひとつは、「民族としての誇り」とでもいうものである。これ は、母国語を話せる、母国語が読める、民族にかんする知識をたく さん知っている、民族にかんする本をたくさん読んでいる、本名を 使っている、といった、民族的なものを主体的にわがものにしてい るという自負から成り立つものである。

 そして、「民族への愛着」は、生まれ育った家庭のなかに民族的な ものが保たれていることによって、「継承」されていくものである ことがわかった。両親の民族意識が強かったり、民族的な生活様式 が守られたりしていれば、おのずとその子どもは「民族への愛着」 をもつようになるのである。

 いっぽう、「民族としての誇り」は、どれだけ民族教育を受けたか、 そしてまた、どれだけ民族団体に参加した経験があるかによって、 「獲得」されていくものであることがわかった。

 民族性というものは、世代をへるにつれて、自然必然的に薄らいで いくものでは、けっしてないのだ。三世であれ四世であれ、子ども たちが、青年たちが、どれだけ民族性を身につけることができるか は、人為的な努力いかんにかかっているわけである。

〈共生〉社会の実現にむけて

 以上の調査結果にもとづく私なりの考察で、この日本社会を、「在 日」と日本人との〈共生〉関係を保障する社会空間につくりかえる ためには、どうすればいいか、ということが明確になったのではな いか、と思う。

 私は、その課題として、3つのことを強調したい。

 ひとつは、差別をなくす。いまひとつは、民族性をつちかう。そし て、国籍にこだわらない。

 順番に、言葉をおぎなっておこう。

 まず、差別をなくすこと。アメリカの公民権運動のなかで、“黒人 問題は黒人の問題ではない、白人の問題だ”という言い方がなされ た。差別という問題構成は、“差別は差別される側の問題ではない。 差別する側の問題である”という構図をとる。これは、私たちが差 別問題にアプローチするときの大前提となる視角である。

 その意味で、民族差別をなくす営みは、日本人側が担うべき課題で あることは、明らかだ。だが、差別する側に位置するマジョリティ ・グループには、えてして、マイノリティの存在は目にはいらない。 それゆえ、差別を糺す抗議のたたかいを、被差別当事者たちが担わ ざるをえざるをえないのだ。差別をなくす取り組みは、基本的に日 本人側の課題でありながら、手を携えて運動を展開することが必要 とされている。

 つぎに、民族性をつちかうこと。在日韓国・朝鮮人の次世代たちの 民族性の涵養は、一義的には、「在日」自身が担う課題であろう。 民族性をはぐくむ民族教育は、差別によってこうむる民族的劣等感 から「在日」の子どもたちを守るためにも、また、おたがいの違い を認めあう前提条件を保持するという意味でも、きわめて大切な環 をなすということを、私は述べてきた。この点について苦言を呈す れば、総連に結集する在日朝鮮人たちにくらべて、民団に結集する 在日韓国人たちのあいだでは、民族教育の取り組みが、これまで弱 かったことは否定できまい。たしかに、家庭での民族教育の意義は 無視しえないものであるけれども、私たちの調査結果によれば、 「民族への愛着」ははぐくむことはできても、母国語の習得をはじ めとする「民族としての誇り」をつちかうことはできていないのだ。 ただし、民族教育の取り組みも、「在日」だけに課せられた課題で はありえない。現状では、「在日」の子どもたちの圧倒的多数が、 民族学校ではなく、日本の学校に通っている。この現実を踏まえる とき、日本の学校での「民族学級」などの取り組みが、全面的に展 開されることが求められよう。

 このことについて、もうひとこと付言しておきたい。私が「在日」 の問題にかかわりだした当初、「今日の在日の若い世代の人たちが 民族性を失いつつあるとしたら、それは日本人の責任だ。日本の敗 戦直後、日本各地につくられた民族学校を弾圧した日本政府の責任 だ。歴史を元に戻せ」という、強い口調の意見をぶつけられたこと がある。正直なところ、私は当惑した。“歴史を元に戻すことなど、 不可能だ”と。しかし、民族性をはぐくむための民族教育の課題は、 過去の問題ではなく、まさに現在の問題なのだ、ということを、私 たちの調査結果は指し示している。これからの日本人と「在日」と の関係のありようを決定づけるだけの大きな問題であるという意味 において、それは、いまの問題なのだと思う。

 その意味で、民族教育の課題も、「在日」の側と日本人とが手を携 えて取り組んでいかなければならない課題なのだと言えよう。

 さいごに、国籍にこだわらないこと。冒頭に紹介した松永代議士た ちの、国籍と愛国心を等値しようとする発想がなんの現実的根拠を も持たないことは、すでにデータにもとづいて明らかにした。同時 に、いま、「在日」の側でも、国籍の保持と民族性とを等値する発 想から自由になることが求められているように思われる。周知のよ うに、「在日」と日本人との結婚が急増している。1984年の日 本の国籍法の改正により、このようなインターマリッジによって生 まれてくる子どもたちは、二重国籍の余地はありながらも、事実上、 日本国籍となっている。日本国籍をもつそのような子どもたちが、 民族としては在日韓国・朝鮮人として、あるいは、民族性をダブル にもつ存在として、この日本社会で生きていける可能性を広げてい くことが、いま求められているように思われる。

 最後に、ふたつのことを言って、この小論をしめくくりたい。

 ひとつは、私たちの調査結果によれば、「民族性」を強くもてば、 それだけ「日本への愛着度」が少なくなる、という関係は見られな かった。しばしば、日本人学生たちのレポートに散見される“民族 的な人は日本嫌いにちがいない”という意見は、妥当性をもたない のだ。次世代の「在日」の子どもたちが、民族性をゆたかに継承・ 獲得していくことは、けっして〈共生〉を阻むものではないのであ る。

 いまひとつは、私たちが模索する〈共生〉というのは、じつは、達 成されるべき社会関係の青写真ではなく、その実現にむけての運動 プロセスにほかならない、ということである。〈共生〉にむけて、 日本人と「在日」が出会いを深め、広めていく運動そのもののなか に、〈共生〉の関係が芽吹いていくのではないか、と私は考えてい る。