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半月城の論文
竹島=独島は日本の「固有領土」か?

『飛礫』47号、つぶて書房、2005夏号


 はじめに

  島根県が「竹島の日」を制定して以来、にわかに日韓の間で竹島=独島問題が大きく
クローズアップされてきました。この問題の余波により、長年にわたる両国の地方交流が
途絶えるなど、無視できない影響がありました。しかし、騒がれるわりには日本で竹島=
独島問題の歴史的背景がどれだけ知られているのか疑問です。
  日本の外務省はホームページで「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も
明らかに我が国固有の領土である」と一方的に主張していますが、本当に歴史的に日本の
「固有領土」といえるのかどうか、また竹島=独島はどのような経緯で日本の領土に編入
されたのかに焦点をあてて、この稿を書くことにします。

1.江戸時代の竹島=独島認識

  江戸時代、現在の竹島=独島は松島とよばれましたが、日本でこの島の領有がどのよ
うに考えられていたのでしょうか。これは水戸光圀が編纂を始めて、明治時代になって完
成した著名な『大日本史』でその一端を知ることができます。同書は隠岐(おき)国の条
で松島をこう記しました。

 隠岐国・・・およそ四島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は
一百七十九で、総称して隠岐小島という)。
 別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦よ
り松島に至るには海上六十九里、竹島に至るには百里四町である。韓人は竹島を称して鬱
陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。
ついては、以て考えに備える)。

  これによると、松島(竹島=独島)が日本の版図と考えられたのは『隠岐古記集』
(一八二三)などに基づくが、なぜそうなったのかよくわからないと記されました。
  ここで注目すべきは、松島が『隠州視聴合記』(一六六七)に記述されていても、同書
からは日本の版図とは考えられていなかったことです。同書は出雲の藩士である斉藤豊仙
が隠岐島の郡代として見聞したことを記した書ですが、そのなかで斉藤は、磯竹島(竹
島)を朱印船が行くような島、すなわち異国の地と認識し「村川氏、官より朱印を賜り、
大舶を磯竹島へ致す」と記しました。
  村川氏とは米子の商人ですが、同じく大谷氏とともに鳥取藩をつうじて幕府から一六
二四年ころ竹島(鬱陵島)への渡海免許を受け、同島で漁業や伐木などの経済活動を行っ
ていました。その最中、松島に出会い、竹島への往復の途中で同島でも多少の漁労を行い
ました。そうした航海を斉藤豊仙はあたかも朱印船による活動のように記したのでした。
  ところで『隠岐古記集』や『大日本史』は竹島、松島を日本の領土と考えていました
が、これは幕府による竹島(鬱陵島)の放棄を知らなかったとみられます。幕府は対馬藩
をつうじて朝鮮政府と「竹島一件」とよばれる竹島の領有権交渉を行った結果、一六九六
年に竹島を放棄したのでした。このとき、幕府は松島(竹島=独島)も暗に放棄したとみ
られるだけに「竹島一件」は今日にもつながる重大事です。

2.「竹島一件」

  当時、朝鮮において鬱陵島は江原道に属していましたが、朝鮮政府は倭寇対策のため
に同島を無人の地とする空島政策をとっていました。しかし、いつの間にか島に居住する
者がいたり、こっそり鬱陵島へ漁労にでかける者が絶えませんでした。
  そうした中、元禄時代の一六九二年および翌年、二年つづけて日朝漁民が竹島(鬱陵
島)でハチ合わせをする出来事がありました。二回目の遭遇の時、出漁した大谷・村川両
家は二名の朝鮮人を米子へ連行しました。ひとりは後年、鬱陵島、子山島(于山島)は朝
鮮領であると訴えるため日本を来訪した安龍福でした。
  報告をうけた鳥取藩は、幕府に朝鮮人が入島しないよう朝鮮に申し入れることを要請
しました。幕府は、対朝鮮交渉の窓口であった対馬藩をつうじて朝鮮人の竹島での出漁禁
止を朝鮮に申し入れたのを皮切りに、竹島(鬱陵島)の領有をめぐる外交交渉が本格化しま
した。
  そのとき、幕府の決定に重大な影響を与えた文書に、鳥取藩の一六九六年一月(元禄
八年十二月)の回答書がありました。これは、幕府の老中 阿部豊後守からの質問に対す
る鳥取藩の回答でした。
  幕府から鳥取藩への質問は七か条で、その第一に「因州 伯州え付候 竹島はいつの此
より両国の附属候哉」とありました。幕府としては、竹島をてっきり因幡(いなば)、伯
耆(ほうき)を支配する鳥取藩に所属する島と考えていたのでした。これに対する鳥取藩
の回答は「竹島は因幡 伯耆附属には御座なく候」として、竹島は自藩領ではないと断言
しました。
  さらに重要なのは、質問の第七項「竹島の外 両国へ附属の島 これ有り候や」とある
ことでした。これに対する鳥取藩の回答は「竹島 松島其外 両国え附属の島 御座なく候
事」として、竹島とともに松島(竹島=独島)についても、因伯両国に附属するものでな
いことを明言しました。
  竹島、松島が鳥取藩の領地でなく、幕府の天領や寺社領でもなければ日本の領土では
ありません。江戸時代、領主なき土地はないのが封建社会の原則なので、そうした土地は
異国の地になります。一六九六年、幕府は竹島を放棄し、その旨を対馬藩を通じて朝鮮へ
伝えて「竹島一件」は落着しました。

  この結末について外務省のホームページは、「鬱陵島周辺の漁業を巡る日韓間(マ
マ)の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」)、竹島への渡航は
禁じなかった」と記しました。
  これは、松島(竹島=独島)は日本領と考えられていなかったので当然です。幕府は
松島の存在をほとんど知らず、したがって領有意識をもっていなかったので、放棄のしよ
うがありません。加えて当時、一般に松島は竹島の付属島ないしは竹島と一対に考えられ、
史料に「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋之内松嶋」などと記されました。したがって、竹島の放棄
は同時に松島の放棄でもあると考えられました。
  そもそも、松島はその名前に反して松の木はおろか、木が1本もはえていない岩の島
でした。それでも松島と呼ばれたのは、竹島と対をなすという考えから自然に名づけられ
たようでした。両島を対にする表現は、江戸時代の代表的な地図である「日本輿地路程全
図」にもみることができます。両島は明瞭に一対として描かれました。
  したがって、幕府が竹島を放棄したことにより、自然に竹島と松島は日本の版図外に
なったと考えられました。これは後に詳述しますが、明治政府もそのような解釈で改めて
竹島と松島は日本の領土外であると確認しました。
  その後、松島(竹島=独島)への渡航は、同島がほとんど独自の経済的価値がない島
であったので、竹島への渡航禁止後はほとんど顧みられませんでした。そのため、明治時
代になると外国の誤った地図の影響で、松島という島名すらあいまいになって、松島の名
は次第に鬱陵島の代名詞として使われるようになりました。かわりに古来の松島にはリア
ンクールやリアンコールト、あるいはリャンコ島などと外国名がつけられるようになりま
した。固有領土の意識がほとんどなかったといえます。

3.朝鮮の空島政策

  当時の朝鮮政府は竹島=独島をどのように把握していたのかをみることにします。朝
鮮の東海(日本海)に鬱陵島があることはすでに6世紀の新羅時代には知られていました
が、長い間、東海に存在する島が一島なのか二島なのかはっきりせず、史料によってまち
まちでした。
  しかし「竹島一件」のころから、東海には鬱陵島と于山島の二島が存在し、于山島は
日本でいう松島であると記録されるようになりました。たとえば、朝鮮王朝の百科全書で
ある『東国文献備考』(一七七〇)には「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于
山はすなわち倭がいうところの松島なり」と記されました。『輿地志』は現在伝わりませ
んが、刊行は『隠州視聴合記』より古い一六五六年とされます。

  このように日本の松島は于山島であるという認識は官撰史料で確認されるだけでなく、
それを実際の行動により日本と朝鮮でアピールした人がいました。先に述べた安龍福です。
  すでに幕府の竹島渡海禁止令が出された一六九六年、安龍福は、鬱陵島および于山島
は朝鮮領であると訴えるため、はるばる朝鮮から隠岐を経て伯耆へやってきました。安は
日本へ来たとき、船に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげました。
これは日本では「朝鬱両島は 鬱陵島 日本にて是を竹島と称す。 子山島 日本にて松島と
呼ぶ」と理解されました。子山島は于山島をさします。
  安の訴えは竹島一件をめぐる外交交渉自体にはほとんど影響を与えませんでしたが、
安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えました。それは、日本でい
う竹島は朝鮮の鬱陵島、松島は于山島という認識を日本および朝鮮政府に定着させたこと
にあります。
  たとえば明治時代、松島、竹島の島名が混乱し、鬱陵島を対象とする「松島開拓」問
題が起きた時、外務省の田邊局長は「聞く 松島は・・・于山なり」として、古来の松島
は于山島であると判断しました。朝鮮でも先の史料以外に『増補文献備考』『疆界考』
『粛宗実録』『萬機要覧』などの官撰書でたびたび「鬱陵、于山は皆于山国の地、于山は
すなわち倭人のいう松島」と記録されました。

  朝鮮政府は「竹島一件」の反省から僉使(せんし)張漢相を鬱陵島調査に派遣するな
ど空島政策の見直しに乗りだしました。僉使とは各鎮台に属した従三品の武官職をさしま
す。一行は鬱陵島で綿密な調査をしたようですが、その過程で竹島=独島を望見すること
ができたようでした。張漢相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。

  東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。
雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向か
い合っているがこれを三峰という。
  西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島
がみえるが、はるかに辰方に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三
百余里に過ぎない。

  張は、辰方(東南東)にある島までの距離を三百余(朝鮮)里、百二十キロメートル
としましたが、鬱陵島と竹島=独島間の実際の距離は九十二キロです。ちなみにその距離
は、後述の島根県伺書では四十里、百六十キロとされました。当時の水準で「鬱陵島事
績」の距離感はむしろ当っているほうでした。
  一方、島の大きさは鬱陵島の三分の一未満と書かれていますが、実際は三百分の一な
ので、張漢相は竹島=独島をかなり大きく見ていたことになります。島の大きさは違って
も、東南東の方向というと竹島=独島しかないので「鬱陵島事績」に記された島が竹島=
独島であることはまちがいないようです。

4.日本の地図

  安龍福の活動や竹島一件の結果、日本で松島、竹島は一対として朝鮮領と認識される
ようになりました。そのため、江戸時代の代表的な地図はおしなべて松島、竹島を日本の
領土外として扱いましたた。
  官撰地図でいえば「日本国地理測量之図」など伊能忠敬の地図はすべて松島、竹島を
記載しませんでした。同様に徳川幕府が幕末に伊能忠敬の日本全図や間宮林蔵の測量図を
もとに唯一出版した木版画の官撰地図『官板実測日本地圖』も松島、竹島を載せませんで
した。

  一方、民間発行の地図では、徳川幕府が最初に作成した日本図を写したと思われる
「扶桑国都水陸地理図」が江戸時代初期の代表的な地図ですが、それは松島、竹島を記載
しませんでした。また、一七一二年以来たびたび発刊され、江戸時代中期を代表する地図
である石川流宣の「大日本国大絵図」も松島、竹島を記載しませんでした。
  さらに、江戸時代後期を代表する地図として、一七七八(安永七)年に官許を得て半
世紀にわたりたびたび発刊された長久保赤水の日本地図があげられます。この地図は、日
本領を色分けするに際して松島、竹島を朝鮮領同様に無着色のままにしました。これは幕
府の官許を得ているので準官撰地図といえますが、そこにおいて松島、竹島の両島は朝鮮
領と認識されていたと見なされます。
  さらに明治時代になると、国家事業として国土の測量や地図の作成がなされましたが、
完成した地図は民間から『大日本管轄分地図』として一八九四年に発刊されました。その
地図でも鬱陵島と竹島=独島を記載しませんでした。これは、島嶼や水路の測量を担当し、
国境を画定する機関である海軍水路部が両島を日本領でなく朝鮮領として認識していたこ
とによります。

5.明治政府の松島、竹島の版図外確認

  明治政府は一八六九(明治二)年、朝鮮の内情を調査するため、外務省高官の左田白
茅、森山茂、斉藤栄らを朝鮮に派遣しました。左田らはその翌年、報告書『朝鮮国 交際
始末 内探書』を提出しましたが、そのなかで松島、竹島が朝鮮付属になったとして
「竹島 松島 朝鮮附属に相成候始末」を記録しました。
  報告書に書かれた松島、竹島ですが、明治二年ころはまだ欧米の誤った地図が日本で
普及し始める前なので、両島は古来の松島と竹島、すなわち現在の竹島=独島と鬱陵島を
さしているとみられます。
  外務省がこのように松島、竹島を朝鮮領と判断したのは、報告書中に「元禄」と書か
れていることからして、元禄時代における竹島一件の解決結果を確認したものとみられま
す。竹島一件自体は松島に言及しなかったにもかかわらず、報告書が松島をわざわざ追加
したのは、松島、竹島は一対で、両島は不可分であるとみたことによります。

  同様の認識は、一八七七(明治十)年に松島、竹島を版図外とした太政官指令にもみ
られます。指令の端緒になったのは、島根県から内務省に提出された伺い書「日本海内 
竹島外一島 地籍編纂方伺」でした。これは島根県が内務省地理寮からの地籍編纂伺いに
回答するために作成した伺い書でした。その際、島根県は独自に鳥取藩の古文書や大谷、
村川両家の記録など松島、竹島関連の資料を付属文書として添付し、伺い書を内務省へ
七六年に提出しました。その付属文書で松島、竹島はこう記述されました。

 「磯竹島 一に竹島と稱す 隠岐國の乾位 一百二拾里許に在り 周回 凡十里許 山峻険に
して平地少し 川三條在り 又瀑布あり・・・次に一島あり 松島と呼ぶ 周回三十町許 竹
島と同一線路に在り 隠岐を距る八拾里許 樹竹稀なり 亦魚獣を産す」

  ここに記載された島同士の距離は、欧米の地図に影響されていない江戸時代の松島、
竹島を記した他の史料ともよく合致します。また、島同士の相対的な距離関係や島の大き
さ、様子などが現在の竹島=独島および鬱陵島に大筋で合致するし、隠岐の沖合に上記の
距離くらい隔たった島は明らかに鬱陵島と竹島=独島の二島しか存在しません。したがっ
て、伺い書で「外一島」と記載された松島は現在の竹島=独島をさしていることはまちが
いありません。
  伺い書を受理した内務省は、島根県からの付属資料に加え、独自に徳川幕府の史料を
調査しました。その中心は「竹島一件」に関する日本と朝鮮の交渉記録が主でした。内務
省はそれらを十分検討した結果、竹島外一島は本邦に関係ないとの結論をだしました。
  そのうえ、さらに「版図の取捨は重大之事件」との認識から慎重に太政官へ伺い書
「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」を提出しました。これは太政官調査局で審査され
た結果、内務省の結論がそのまま認められ、「日本海内竹島外一島を版図外と定む」とする
太政官の指令が内務省に伝達されました。
  この結果、当時の日本の最高国家機関たる太政官は内務省が上申したとおり、松島、
竹島を対にする理解にもとづいて、両島を日本領でないと公的に宣言したのでした。
  この歴史的な太政官指令に関して外務省はホームページをはじめ、いっさいの刊行物
で無視したままでした。重大な事実を知りながら、それにふれないのは情報隠しと言わざ
るをえません。

 6.竹島=独島の軍事的価値

  竹島=独島に対する明治政府の視点は日露戦争を機に変貌しました。その背景を知る
ために、ひとまず当時の東アジア情勢をふり返ってみます。
  日本は満州を放棄するかわりに韓国を勢力圏におさめるべく、ロシアと「満韓交換」
を交渉しましたが不調に終わり、ついに一九〇四年二月、ロシアに対し戦闘行動を開始し
ました。
  日本は、旅順に停泊中のロシア艦隊にたいし連合艦隊が奇襲攻撃をかけるとともに、
臨時派遣隊が韓国の仁川に上陸、漢城に入り首都を制圧しました。その軍事的威圧のもと
で韓国に軍事協力を強要し「軍略上必要の地点を臨機収用する」と規定した日韓議定書の
調印を強制しました。日本はこの条項を拡大解釈して韓国に思うがまま軍事施設を設ける
ようになりました。
  しかし、その日韓議定書すらほどなく日本により踏みにじられるようになりました。
議定書では「大日本帝国は大韓帝国の独立及領土の保全を確実に保障」とうたっていまし
たが、日露戦争の本格化にともない、日本は韓国の独立を保証するどころか、早くも五月
には韓国を半植民地化する「対韓施設綱領」を閣議決定しました。その方針のもと、九月
には第一次日韓協約を強引に承諾させ、保護国化を着々と実行にうつしました。

  他方、戦局は六月になると日本海で一挙に緊張が高まりました。ロシアのウラジオ艦
隊が朝鮮海峡に出現、日本の輸送船を次々と沈めていきました。これに対処するため、海
軍は敵艦監視・通信施設の増強をはかりました。
  九州・中国地方の沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島
等に望楼を建設し、それらを海底電信線によって連結しました。朝鮮内の望楼は約二十か
所にもおよびましたが、それらはすべて有無をいわせぬ軍事占領でした。そしてそれらの
戦略の一環として鬱陵島に望楼を建設して、そこと朝鮮本土の日本海軍碇泊地である竹辺
湾との間を軍用海底電信線で結ぶことが決定されました。
  鬱陵島の望楼は二か所で九月に完成しました。海底電信線の方はウラジオ艦隊に脅か
されながらも敷設が進められ、これも九月に完成しました。これによって鬱陵島の望楼は
朝鮮本土を経由して、佐世保の海軍鎮守府と直接交信できることになりました。さらに、
リアンクール島(竹島=独島)にも望楼の建設が計画され、軍艦対馬によって予備調査が
おこなわれました。

  翌一九〇五年五月、リアンクール島付近で日露の歴史的な「日本海海戦」があり、日
本はロシアのバルチック艦隊に大勝し、戦局を有利に転換しました。これによりリアン
クール(竹島=独島)の戦略価値が一層重要視されたのはいうまでもありません。日本海
軍は鬱陵島、リアンクール島を含めた水域の総合施設計画を立て、八月リアンクール島に
望楼を完成させました。
  海底電信線の方は、九月に講和が成立したため当初の計画が変更され、リアンクール
島と隠岐との間ではなく鬱陵島からリアンクール島を経て松江に接続されました。
  こうして、朝鮮半島の竹辺から鬱陵島、リアンクール島、松江に到る一連の軍用通信
線の体系がつくりあげられました。このように、日本政府にとって日本海中のリアンクー
ル島とは軍事的な利用対象にほかならず、またそれは当時朝鮮各地でおこなった軍事的占
領と密接不可分なものでした。

7.竹島=独島の領土編入

  日露戦争の時局柄、日本はリャンコ島(竹島=独島)を軍事的に必要としていました
が、同島を領土編入する直接のきっかけになったのは、日露戦争中に提出された一漁師の
「りゃんこ島 領土編入願 並に貸下願」でした。まずはこの「貸下願」が出されるに至っ
た経緯をみることにします。
  明治維新以後、対外膨張の気運に乗り、多くの日本人が竹島(鬱陵島)に渡航するよ
うになりました。当時、朝鮮政府は鬱陵島を空島にしていましたが、日本人の移住は空島
政策を転換させる契機になりました。一八八一年、朝鮮政府は日本人の渡航禁止を日本政
府に申し入れるとともに、翌年「鬱陵島開拓令」を発布し開拓に乗り出しました。
  こうした朝鮮の措置に日本政府は八三年に島内の日本人を強制帰国させましたが、そ
の後も日本人の無断渡航は絶えませんでした。朝鮮政府の日本人退去要求は、八八年、九
五年、九八年、九九年、一九〇〇年とたびたび出されるようになりました。
  九八年以降、毎年のように退去要求が出されたのは、日清戦争に勝利した日本政府が
一八九八年に遠洋漁業奨励法、一九〇二年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して海外
進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになったからでした。その
意義を、大アジア主義をとなえる黒竜会幹事の葛生修亮は、「我邦の勢力を扶植し・・・
他面に於ては我邦の人口を排泄する」と侵略意図をあらわにして『韓海通漁指針』を著し
たくらいでした。

  このような日本の官民による侵略の結果、鬱陵島には日本人警官が常駐するまでにな
りました。それにともない、鬱陵島への途中航路に当たるリャンコ島も注目されるように
なりました。とくに同島のアシカ猟は、日露戦争直前になると皮革や油の高値相場から注
目され、一層盛んになりました。
  そのなかで漁師の中井養三郎は、リャンコ島におけるアシカ猟の独占をはかろうとし
て種々画策しました。リャンコ島をよく知る中井は、同島を朝鮮の鬱陵島付属と信じ、当
初、貸下願を朝鮮にある日本の統監府に提出しようとしました。
  リャンコ島を朝鮮領と信じていたのは中井だけでなく、内務省や海軍省、はては大陸
浪人までもそのように考えていました。先の葛生修亮は、韓国沿岸を詳細に調査したうえ
で『韓海通漁指針』を著しましたが、その中で竹島=独島を「ヤンコ島」の名前でとりあ
げていました。同島を韓国領と考えていたことが明白です。
  中井は貸下願を推進する過程でまず農水産省に接触したところ、リャンコ島は「必ら
ずしも韓国領に属せざるの疑を生じ」たので、さらに水路部を訪ね、そこで同島は「無所
属」との回答を得たようでした。
  しかし、水路部こそ日本の国境画定機関として同島を朝鮮所属と断定し、リアンコー
ルト列岩の名で『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に編入して一八九四年に刊行した
のでした。海軍から独立した水路部は、戦争という時局にあってリャンコ島奪取の意図を
あらわにしたものとみられます。
  こうした関係機関の意見に勇気づけられた中井は「りゃんこ島領土編入願 並に貸下
願」を内務、農水産、外務省に提出しました。内務省では「此時局に際し 韓国領地の疑
ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの
疑を大ならしむる」として反対され、却下されかかりました。かつて内務省は、竹島、松
島を本邦の版図外として判断し、太政官の確認指令を受けただけに内務省の判断は当然の
成りゆきでした。
  内務省に反対された中井は、今度は外務省に走り山座政務局長に陳情したところ、山
座は「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し 無線もしくは海底電
信を設置せば敵艦監視上極めて届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することな
し、須らく速かに願書を本省に回附せしむべし」として中井を督促しました。
  外務省はかつて「朝鮮国 交際始末内探書」で朝鮮領と考えていたリアンクール島を
戦争という「時局なればこそ」編入を急ぐ必要があると判断し、内務省などを説得したの
でした。
  結局、内務省も外務省の意見に賛成し、リアンクール島の領土編入を閣議にはかりま
した。一九〇五年一月二八日、閣議は中井の申請を認める形で領土編入を決定し、竹島と
命名しました。

  ここで日本政府が竹島=独島を領土編入した論理ですが、それは「無主地」であるリ
アンクール島に一九〇三年来、中井が「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて
日本の領土に編入したというものでした。
  しかし、この論理には無理があります。まず、竹島=独島は民間人が居住できるよう
な島ではなかったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実もありませんでした。
中井が同島を利用した実態は、四月から八月にかけてアシカ猟のたびに菰葺小屋で「毎回
約十日間仮居」したにすぎないのであり「移住」や「占領」とはほど遠いものでした。
  それにも増して重要なのは、日本政府が朝鮮領であるリアンクール島を無主地と判断
したことです。かつて明治政府は、内務省や外務省、海軍、太政官など関係機関が同島を
朝鮮領と考えていましたが、その判断を根本的に覆すものでした。そしてその主な動機は、
これまで見たように日露戦争遂行のため同島に軍事施設を設けることにありました。
  なお、領土編入の閣議決定に際し、日本は関係国である朝鮮との協議はおろか、政府
レベルでの公示すら一切しませんでした。これは小笠原諸島の領土編入とくらべると対照
的です。小笠原諸島の場合、日本は関係国であるアメリカなどと何度も十分な協議を重ね
て相手国の同意を得て領土編入を行いました。
  それに反し竹島=独島の場合は政府内で秘密裏に処理されました。官報による告示も
なく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が県告示で公表したにとどまりました。同県は
ちょうど百年前の二月二十二日、県告示四〇号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管に
すると公示しました。
  このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日本国民は
その事実をほとんど知らずにいました。それどころか主要なマスコミすら知らずにいまし
た。告示から三か月以上たった五月三十日、日本海海戦を伝えるほとんどの新聞は「竹
島」の名前を用いずに、外国名の「リアンコルド」岩という名で報道しました。
  はなはだしくは、官報や海軍省ですら「竹島」でなく「リアンコルド」岩の名を使用
していました。これはかつて水路部を擁し、国境について熟知しているはずの海軍省すら
「竹島」編入の事実を知らなかった可能性があります。もし知っていたなら、日露戦争で
戦局が日本に有利になるまで秘密扱いにしていたのかも知れません。
 「竹島編入」について外務省のホームページは「閣議決定及び島根県告示による竹島の
島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認した」と
記しましたが、秘密裏の措置が近代的であるとは我田引水にすぎます。
  さらに外務省の「固有領土」という言い分ですが、これは明治政府が強弁した「無主
地」という主張と相容れないことは言うまでもありません。

8.戦後の取り決め

  戦後、日本はポツダム宣言をとおしてカイロ宣言を受けいれましたが、日本を占領し
た連合国総司令部GHQはカイロ宣言「日本が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切
の島嶼を剥奪する」という原則にしたがい、指令SCAPIN六七七号を一九四六年に発し、竹
島=独島を日本から政治的、行政的に分離しました。これは最終的決定ではないとされま
したが、これに変更を加えるような国際的明文規定は現在にいたるまで作成されませんで
した。
  一時、サンフランシスコ講和条約において竹島=独島問題が論議されましたが、結局、
締結された条約で竹島=独島はまったく言及されませんでした。当初のアメリカ案は竹島
=独島を韓国領にしましたが、途中から日本のロビー活動を受けいれて日本領にするなど
迷走しました。結局、竹島=独島を韓国領とするイギリス案との調整過程で最終的に日本
領案も削除され、竹島=独島の文字は条約に一言半句もありませんでした。
  最近、アメリカのロブモ氏により発見された駐日アメリカ大使館の秘密資料では、ア
メリカは一九五二年、竹島=独島が「ある時期に朝鮮王朝の一部であった」との結論を出
していたことが判明しました。このように、新しい資料が発見されるたびに「日本の固有
領土」説は不利になる一方です。

 あとがき

  明治政府は、江戸幕府が竹島(鬱陵島)とともに松島(竹島=独島)も一体として放棄
したと解釈し、両島を本邦の版図外とする太政官決定をくだしました。これは外務省の
「竹島は日本の固有領土」という認識とはおよそほど遠い決定だったといえます。
  その後、日本は日露戦争時に「時局なればこそ」という理由で、朝鮮領と考えていた
竹島=独島を「無主地」と強弁し、中井から出された「りゃんこ島領土編入 並に貸下
願」を認める形をとり、政府レベルで秘密裏に竹島を領土編入しました。これが韓国から
日本は帝国主義的方法で竹島=独島を奪取したと非難される由縁です。
  日本は、竹島=独島に関するすべての史実を明らかにしたうえで、外務省の「竹島は
日本の固有領土」という主張に無理があるなら、竹島=独島をカイロ宣言の精神にそって
いさぎよく断念すべきではないでしょうか。

  最後におことわりですが、引用した史料でカタカナ書きになっている文はひらがなに、
旧字体は新字体に、漢文は読み下し文にしました。そうした史料や参考文献などは下記の
サイトで論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」をご参照してください。
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.698