原 告 李 聖 徳
被 告 津 市 長
一九九三年八月一日
原告訴訟代理人
弁護士 伊 藤 誠 基
弁護士 梅 山 光 法
津地方裁判所 御中
準備書面
第一 本件訴えの背景
一 本準備書面ではまず、本件訴えの背景として、李存一と置野昭子が婚姻し離婚するまでの経緯と離婚後の原告を巡る状況について、必要な範囲で経過を辿る。
二 婚姻関係が破綻するまでの経緯
1 李と置野は、李が津市で結成したアマチア劇団「劇団サークル・エム」の活動を通して知り合い、一九八六年九月頃から交際を始めた。
置野は李との結婚を真剣に考えており、恋文を送り、手編みのセ−タ−を贈ったりして親密な交際を求めてきたが、李は自己が日本人ではなく在日朝鮮人であることから障害なく結婚生活が営めるものか多少の不安を抱いていた。
しかし、このような李の迷いに対して、置野は「朝鮮人であることは関係ないし気にする方がおかしい。」と励ましてくれたことから、二人の仲は急速に結婚を前提とした交際に発展していった。
2 その結果、一九八七年二月頃置野は李との間で懐胎したことから、李も置野との結婚を決意して、津市内の置野の実家を訪ね、父置野正彦と母和子に懐妊の事実と結婚の意思を伝えた。ところが、和子は「朝鮮人との結婚は絶対反対です。」「子供はすぐ始末しなさい。」と頑なに反対し、正彦も「私の会社(置野弱電工事)は順調にいっており、この時期に朝鮮人との結婚は困る。なんとか子供を始末してくれ。」と取り合おうとしなかった。
しかし、置野は両親の反対に合っても「子供は生むし、とにかく結婚する。」という意思を貫き、話し合いは平行線を辿った。
3 置野は毎日妊娠中絶を強要されるという理由で同年二月中頃より、○○町の李の実家で、李と李の母親らと同居生活を始めるようになった。
同居生活が約一か月間続いたことから、同年三月末頃正彦から条件付で結婚を許すという申出を受けた。条件とは、@李が置野家の養子になること、A正彦の経営する置野弱電工事に入社すること、B結婚式は正彦が仕切ること、というものであったが、李は@については、帰化をしないという条件で引受け、Aについては取り合えず半年間働いて結論を出すことにすると答え、Bについては特に肯定も否定もしなかった。
しかしともかくも、置野の両親から結婚の同意が下りたことにより、ようやく同年五月三日津都ホテルで挙式を済ますことができた。
もっとも、和子は二人の結婚に反対の意思をことある毎に不遜な態度と言動で示し続けた。
4 挙式後李と置野は李の実家で新婚生活を送ることになったが、置野の実家を訪ねる度に、和子から凄まじい民族差別発言を浴びせかけられることになった。
例えば、「三国人!半島人はすぐに半島に帰りなさい。」「人間には上・下があるんです。あんたは下の人間であることをよく自覚しなさい。」等と、時にはテ−ブルを叩き、食器を引っ繰り返したりした。
ところが、置野自身はこうした母の態度に対してただ黙って見ているだけで、諌めようとはしなかった。
5 同年○○月○○日置野は原告聖徳を出産したが、退院しても李の実家へは戻らず、和子と一緒になって李が原告と面会するのを拒否するようになった。李は置野家を訪問しても家の中へ入れてもらえず、置野自身も和子の影響を受けて李との接触を拒否するようになった。
李は再三置野に健全な夫婦生活に戻るよう説得し、ようやく一九八八年三月津市内に別にアパ−トを借りて同居生活するようになったが、置野は毎日のように原告を置野の実家に連れて帰り、夫婦生活に非協力的な態度をとり続けた。
同年四月になると無断外泊もするようになり、また、以前交際していた男性の方がよかった等と言い出し、李は置野との結婚生活の行き詰まりを次第に感ずるようになっていった。
そして、同年九月頃置野は和子が一年間中国へ留学するということを口実にアパートから置野の実家へ帰り、以後再び同居することはなかった。
6 以上のようにして、李と置野の結婚生活は、和子の異常な民族差別発言や態度とそれを制止しょうとしなかったばかりかこれに同調した置野の豹変した態度によって僅か一年半の結婚生活で破綻してしまった。
三 離婚訴訟
1 一八八九年三月置野は津家庭裁判所に離婚調停の申立てに及んだが、置野の身勝手な態度や和子から受けた数々の罵倒、民族侮辱に憤りを覚えていたことや、子供とも面会できない状況が続いていたことから李は置野の申立てにそのまま応ずることはできなかった。
そして、置野は離婚調停が不調に終わるや同年八月一八日津地方裁判所に離婚訴訟(平成元年タ第二四号)を提起した。
李も弁護士を依頼して応訴し、一九九○年六月一六日、婚姻関係の破綻は和子の民族差別的言動と夫婦生活への不当介入、それに和子に同調した置野の態度が原因であるとして一○○○万円の慰謝料の支払いと、原告の親権者を李に指定されることを求める反訴を提起した(平成二年タ第一一号)。
2 弁論手続きを経て、一九九○年九月一四日から一九九一年六月七日まで計六回の原・被告(原告置野・被告李)本人尋問が実施されたが、本人尋問終了後担当裁判官から和解勧告がなされた。
和解の経緯は一九九三年五月一○日付原告準備書面第一、一で述べたが、若干敷衍すると次のような経過を辿った。
もともと、和解での最大の課題は親権の帰属問題に尽きたと言っても過言ではない。名目はともかく置野側が某かの金銭を李に支払うことについては付随的な問題に過ぎなかった。
李は婚姻関係が破綻してから離婚訴訟中、原告聖徳との面会を置野や和子から頑なに拒否され、原告聖徳の行く末を案じていた李は親権を置野に譲ることなどどうしてもできなかった。
そして、このような状況を踏まえて担当裁判官から一九九一年一○月一八日の和解期日に「親権者は李在一、監護権者は置野昭子にしてはどうか。」という和解案が提示され、金銭問題については置野側から弁護士を通じて「解決金として一○○万円を支払う。」という案が示された。
これを受けて、同年一一月二○日の和解期日に、李は「親権、監護権とも要求します。解決金の問題も内容が示されないものでは納得しません。」という回答をした。
同年一二月二○日、最終の和解案が裁判官から示された。「李と置野は離婚する。李と置野の両親とも離縁する。」「差別的な扱いについて、置野とその家族は謝罪しなさい。」「慰謝料として置野は李に五○○万円を支払いなさい。」「親権は父親、監護権は母親にしなさい。」という四点ではどうかというものであった。
一九九二年一月二九日の和解期日で双方回答することになっていたが、合意したのは、「離婚する。離縁する。」「婚姻生活の破綻が民族差別によるものであることを認め、置野とその両親は今後民族差別をせず、朝鮮民族を尊重することをもって謝罪する。」「父子として李と聖徳との面接を保障する。」「李が置野弱電工事の株を返す(もっとも、李は置野弱電工事の株を持たされていることは知らなかった。)」であり、親権と監護権の問題は双方とも保留した。
同年二月二六日の和解期日では、李は裁判官の和解案を受け入れる旨回答した。李は原告聖徳を自ら監護することこそが子が将来日本人と朝鮮人の子として誇りをもって生きてゆける最良の養育方法であると考えていたので監護権を置野に譲ることなどできない筈であったが、置野が母親として子の養育に当たりたいという心情も理解できないわけではなかったので、断腸の思いで右のような決意をすることにした。しかし、置野は「親権の点についてはもう一度考えたい。」「父子の面会は2か月に一度とする。約束を履行しないときは一回につき一五万円を支払う。」との提案をしてきたので、李は裁判官の和解案でないと和解はできないと意見を述べて、同年三月二三日の最終和解期日を迎えることになった。
この日冒頭、置野から李の親権を一年間だけなら認めてよいという再提案がなされた。勿論、李は時限的な親権などかえって子にとって不利益であるとして一蹴した。そこで、裁判官から親権、監護権の行使状況や面接の履行状況をみて、一年後に変更の問題を協議してみるということでよいのではないかと置野側を説得し、その後面接の回数、養育費の金額、支払方法等細部の詰めをして甲八の調停離婚が成立することとなった。
四 離婚後の状況
1 一九九二年三月二三日前記の離婚調停が成立したのに、置野は原告(申立人)でありながら離婚の届出をしょうとはしなかった。
やむなく李は所定の手続きを経て自ら置野の本籍地である東京都○○市に書類を送付して離婚手続きをとった。
同年四月一二日(日)から第一回の面接交渉が実施されることになった(一九九三年五月一○日付原告準備書面第一、二では六月一五日が第一回であると主張していたが、誤りであるので訂正する。)。以後、四月二八日(火)、五月一○日(日)、五月一八日(月)、六月一五日・・・と面接交渉自体は調停どおり忠実に実行されていった。
2 李は以前から原告が日本人と朝鮮人のハ−フとして厳しい差別社会を生き抜いていかなければならないことに多くの不安を抱いていたので、二重国籍となっている原告の姓をどうすればよいのか、朝鮮人としての民族教育も必要となってくるのにどのようにしてこれを実施するのか等々色々な養育に係わる事柄について置野と協議をする必要性を感じていた。しかし、李と原告との面接時に原告を連れてきた置野は一切李と話し合いをしようとはせず、無視する態度に終始した。そればかりか置野が原告に父である李の悪口を教え込んでいたことが面接時に原告から聞き出して判った。また、原告を日本人としてのみ養育していこうとしている置野の態度から、先の調停での「朝鮮民族を尊重する。」という精神が少しも生かされていないことに失望感を覚えるようになった。
李は決して原告が朝鮮人でなければならないと考えるものではない。日本人の母を持つ以上、日本人としての民族性があることも勿論否定するようなことはこれまでしてこなかったし、将来否定するつもりもない。しかし、朝鮮人に対する差別意識が強く残存する日本社会では、朝鮮人としての民族性を隠したまま育てられることほど不幸なことはなく、民族差別という大きな障害を乗り越えるために、どうしても幼少時からの朝鮮籍の単国籍化が必要であると確信していた。
そして、一九九二年五月二五日から国籍離脱手続きを開始したことは前回準備書面で述べたとおりである。
第二 外登法一五条二項の代理申請義務者から外国人登録申請がなされなかった場合の処置について
一 被告は第一準備書面で、原告の母で同居者である置野に対して、外登法一五条二項で定める外国人登録義務について通知したとし(乙五)、更に、申請義務の不履行により津簡易裁判所に過料に関する通知(乙七)を発したと主張しているが、申請義務者がその義務を履行せず、外登法一九条の過料に処された場合、その後の外国人登録がどのような手続きでなされるのか全く述べていない。
過料の裁判で一件落着というのであろうか。明らかに外国人登録が必要であるのに申請義務者がその義務を履行しない場合、これに替わる措置をとるのが外登法の趣旨からして市町村長に求められる義務ではないだろうか。
二 被告は置野から届いた内容証明郵便(乙六)を証拠として申請している。
確かに、置野は現在津家庭裁判所に親権者変更の申立てをしているが、仮に置野の申立てが認められたとしても、原告の外国人登録の法律上の必要性が消滅するわけではない。既に原告は朝鮮籍を有する外国人になっているのであるから、一日も早い外国人登録が外登法上求められており、本件申請は不適法であるとの形式論で済ませられるほど事態は甘くないことを肝に命ずべきである。
三 一九九三年七月一五日付産経新聞によると、被告は六月の定例記者会見の席上、原告の来年度(一九九四年)における就学問題に関して、「特例措置を取ってでも入学させるべきだ」と発言し、その後の取材でも「敬徳(原告を指す仮名:筆者注)ちゃんは外国人登録はしていなくても現実に津市に居住する。子供の教育を最優先に考えれば当然である。」と話していたという。
同記事は更に続けて「文部省の見解では入学の対象者が日本人で、親の事情などで入学する学校のある市町村に住民登録が移せない場合、実際にその市町村る住んでいることが確認できれば入学可能という。」「岡村市長(被告:筆者注)は、この例を応用しょうというのだ。」「やっと一筋の光明が見えてきた。血の通った法の運用、それが今、弱い立場の人々を考える時、求められている。」と結んでいる。
被告のこのような姿勢は高く評価されるべきであり、「血の通った法の運用」こそが今あらゆる分野で行政に求められているのである。
にもかかわらず、それならどうして本件の外登法の解釈において硬直した姿勢を変えようとしないのか。大元はそのままにしておいて、この先更に特例の特例を重ねてゆくことは決して得策ではない。
被告自身が自治体の長として原告である子の利益を最優先に考えているにも係わらず、国が外登法の杓子定規的適用にあくまでこだわるのは全く理由のないことでありもはや、本件申請を不適法とする理由は見当たらない。
以上
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