名古屋高等裁判所 民事第3部 御中
控訴人法定代理人 李 在一(リジェイル)
事件番号:1995年(行コ)第12号 外国人登録申請却下処分取消請求控訴事件
忌避申立書
公正な審理を願い、渡辺裁判官の忌避を求めて
※資料1,資料2別添
はじめに
私は、本件における控訴人李聖徳の法定代理人親権者の李在一(以下、私と記す)です。控訴人李聖徳は私の息子であり、現在7才であることから実質の控訴人は私になります。
貴裁判所で本件が審理されるにつきまして、貴裁判所での公正な審理を求めるため、本件を担当している渡辺裁判官に対して弾劾を込め、ここに渡辺裁判官の忌避を求めます。
(1)裁判官が公正であることについて
私は法律全般について専門的な知識をもつ者ではありません。しかし一般社会にあるイメージのごとく、少なくとも裁判官が「公正」であるという点について、客観的には疑ってかかってはならないと考える者です。
たとえば、大内兵衛氏ならび我妻栄氏著の「日本の裁判制度」(岩波1965年11月20日第1刷発行P−35)のなかから引用すると、
「・・・そこで裁判官として必要なことは何かといえば、第一には、公正であって偏頗でない、公平無私であるということ。それにはまず第一に、私利私欲によって不正なことをしない、ということですね。第二は、そのときの政治的権力に影響されない。第三は、その社会の一部からの声というか、一部の社会的な力に影響されないということ、この三つ考えられる。『富貴と淫することあたわず、権勢も犯すことあたわず、威武も屈することあたわず』という言葉がありますがその通りですね。・・・」と述べています。
あるいは、1974年発行ジュリストNo44の「114裁判官弾劾」では、解説において、
「・・・前者の狭義の懲戒は、「職務上の義務に違反し、若しくは職務を怠り、又は品位を辱める行状があったとき」(裁判官分限法二条)に処するものであり、後者の罷免は、「・・・二その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき」(裁判官弾劾法二条)に罷免するものである。・・・」とあります。
これら二つの引用例は、裁判官が職務を遂行するにあたって、少なくとも公正でなければならないことを意味していると私は思います。そして本件を担当する渡辺裁判官も、裁判官である以上、公正な審理をおこなう必要があると思います。
(2)渡辺裁判官による「北鮮」発言について
@「北鮮」発言がされた状況について
1995年9月18日、名古屋高裁において本件は第一回目の公判がもたれました。渡辺裁判官はその公判の席上で「北鮮」という用語を使いました。法廷内で渡辺裁判官が発言した正確な時間は、午後1時15分前後でした。私の息子であり、本件控訴人である李聖徳の国籍について、被控訴人に渡辺裁判官は、「この子は韓国かね、『北鮮』かね?」と問うたのです。
傍聴席に位置していた私は、我が耳を疑うと同時に、渡辺裁判官の問いに被控訴人が返答し裁判が進行されていくのを血が凍りつく思いで受けとめていました。
私は渡辺裁判官の「北鮮」発言に大声で抗議したい衝動を押さえることに必死でした。その私の挙動に法廷内の事務官はただごとではないという気配を察知したのでしょう。事務官から私に対する緊張に満ちた眼差しにより、私はかろうじて冷静を保つことができたのです。
戦後50年にして、ようやくアジアに対する侵略責任をはじめとする日本の現近代史が一般世論においても問いなおされている日本人社会のなかの、しかも高等裁判所でよもや裁判官から「北鮮」発言を受けると誰が思うことでしょうか?
渡辺裁判官による「北鮮」発言────これは朝鮮民族に対する戦前からのきわめて古典的かつ典型的な差別発言なのです。
A「北鮮」が差別発言であることについて
まず「北鮮」が差別用語であることについて、1994年の朝日新聞社の「取り決め集」(資料1添付)から引用します。
「朝鮮の略称を「鮮」一字で表すことはしない。「鮮」は植民地支配の際、蔑称として日本政府・日本人が用いたためである。(例)北鮮→北朝鮮」
次に「北鮮」がどのような意味をもつ差別用語であるのかについて、恵泉女子学園大学教授の内海愛子氏と神奈川大学教授の梶村秀樹氏著の1986年発行明石書店「朝鮮人差別ことば」(資料2添付)から引用して渡辺裁判官による「北鮮」発言の問題を以下に指摘します。(資料2,P−83から)
「“鮮人”、日本人は私たち朝鮮人のことをこう呼んだ。それは、頭がない民族だから、上の朝の字は取ってしまったというのである。おお!頭のない民族。日本人は、自分たちの手で、朝鮮人の頭をふみにじり挙句のはてに頭をとってしまった。この哀れな民族は、訴える所もなく、ただ悲しみを耐えて、奪われた頭の代わりに日本人の頭を被って生きていかねばならなかった。・・・日本人の口から発せられる「鮮人」「北鮮」等の言葉は、言った当人が意識しようとしまいと、朝鮮人を傷つけるのである。その言葉の負う歴史と現実の関係の故にである。」
この引用部分は、朝鮮人側からの「北鮮」に関する感覚を述べており、内海氏・梶村氏の両著者が指摘する日本人側からの視点で「北鮮」差別用語について述べている部分を次に二つ引用します。(資料2、P−83から)
「・・・「北鮮」という言葉の背後にある現実は、ここまで複雑化してきている。それでも、そういう現実から目をそむけて、平気で、何の気なしに、「いいじゃないかそんな神経質にならなくて」とばかりにこの言葉を使い続けるとしたら、私たち(日本人のことである)は一体何者なのだろうか?」(資料2,P−110から)
「・・・「鮮人」ということばに凝縮された自らの内部に根深く残る植民者の思想、それを変えていく努力を一人一人の日本人が地道につみ重ねてゆくなかでようやく朝鮮と「出会う」地点に私たち(日本人のことである)が立ちうるだろう。差別語を言いかえですますのではなく、自らの意識を変えていく出発点と位置づけて、日本人自らの手になる植民地意識の克服へと歩み出さなければならない。」
以上のように本件第一回目の公判における渡辺裁判官による「北鮮」発言は、朝鮮人に対する明らかな差別発言であるばかりではありません。日本のアジア侵略による現近代史について、1995年の現代においてさえ渡辺裁判官自身のまちがった歴史観を端的にしめす発言であるのです。
(3)渡辺裁判官の忌避を主張することについて
@本件における渡辺裁判官と控訴人の関係について
私の息子は現在7才という幼少にあることから、実際の控訴人は私ということになるわけですが、この日本社会から民族差別の根絶を願う私にとって、まず渡辺裁判官のような「北鮮」発言者と対峙したときの私自身の日常的な対応から述べます。
確信犯的な差別者は論外として、たいていの人々は「差別は悪いことだ」という良識をもっています。ですから私は日常においては、蔑称用語を用いる人と出会ったとき、少なくとも発言者と話しをすることにより、相互理解を踏まえて、より良い人間関係を形成することが可能です。
ここで私が特に強調したい点は、差別発言によってマイノリティーの側が傷つくということでなく、対等な人間関係においては、差別発言から生じる問題を自発的に解決できる手段があるという点です。差別について最も大切なことは、差別者対被差別者という図ではなく、差別はひたすらなくさなければならない対象であると認識することであると思います。
また対等な人間関係ではなく、行政等などの公権力機関が差別発言をおこなった場合でも、社会問題として告発することにより、問題の解決を図る手段は残されています。
それでは本論の裁判官はどうでしょうか? 裁かれる者と裁く者との関係において、差別問題の解決を図る如何なる道があるのでしょうか? あるいは、もし裁判所の職員が差別発言をした場合であるなら、話し合いは十分に可能であり、問題の解決を図ることは容易であると思われます。
しかし裁判官と控訴人という関係においては、差別発言によって生じた問題を少なくとも控訴人の立場から解決を図ることは不可能ではないかというのが私の結論なのです。なぜなら極端に表現するならば、控訴人である私にとっても、また一般社会から観ても、裁判官はいずれにせよ聖域の立場にある人だからなのです。
そういった聖域の立場にある人───すなわち裁判官が、控訴人から「あなたの「北鮮」発言は、これこれしかじかで差別発言だから、控訴人に対して謝罪した以降、認識を改めなくてはいけませんよ。」とレクチャーされて、「ごもっとも」だと、裁判官自身がいえるような法廷を、私は現実的にイメージすることはできないのです。
A本件において渡辺裁判官を忌避する理由
本件において渡辺裁判官の忌避を求めるのは、渡辺裁判官が差別発言をしたという単純な理由によるものではありません。私が渡辺裁判官の忌避を主張するのは、あくまでも本件について「公正」な審理を求めるからです。
本件の控訴人は私の息子であり、私ともども在日朝鮮人です。そして本件は、一審の津地裁で棄却されたとはいえ、被告側が訴えの利益そのものがないから却下することを求めたのに対し、津地裁の窪田裁判官による判決文において、少なくとも訴えの利益はあると認められています。
すなわち本件は、外国人登録の受理をめぐっての裁判ですが、その背景として、実際に在日朝鮮人の人権を問う内容であることはまちがいありません。
にもかかわらず、在日朝鮮人の人権に関わる裁判を担当する渡辺裁判官は、公判の初日に朝鮮人を侮蔑する「北鮮」発言をしながら、当日の裁判は何の支障もなく進行されていきました。在日朝鮮人が控訴人となっている裁判で、裁判官自らが社会的にあきらかな民族差別発言をおこなったにもかかわらずです。
裁判官の権威ある「公正」さのなかに、社会的にあきらかな差別発言をしてもよいという余地や要素があるわけありません。しかしそれ以上に、民族差別の発言をおこなった裁判官に、果たして在日朝鮮人の人権に関わる審理が可能なのでしょうか?
「北鮮」という疑いのない差別発言は、先に「日本の裁判制度」という中から引用した「・・・公正であって偏頗でない・・・公平無私であること」の概念に真っ向から対立する状況であると、私には受けとめざるをえません。
また、国際的及び社会的にあきらかな「北鮮」という差別発言は、「・・・二その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行・・・」に該当すると指摘しても過言でないと思われます。
なぜならここでもうひとつ引用例をあげ、「公正」な審理を求める私の主張を理解していただきたいと思います。
慶応義塾大学法学部の石川明教授は、その著書のなかで日本の裁判制度の歴史的変動から現在の形を比喩的に次のように表現しています。「ビヤダルに赤ワインをつめ、コカコーラのレッテルを貼ったようなものである。枠組、体系はビヤダル、すなわちドイツ式。内容には赤ワイン、フランスの影響が強く見られ、前後の憲法、刑事訴訟法等にコカコーラのレッテル、すなわちアメリカの影響が見られるのである。」(「はじめて学ぶ法学」から)
アメリカの影響───私が引用したいのは、日本社会でも昨今話題となったアメリカのシンプソン裁判です。各報道がつたえたところによると、その真偽はともかく、取り調べの刑事が黒人のことを「ニガー」という蔑称発言していたことがあきらかにされ、人種差別問題に発展していったという点です。そのようなアメリカ社会で、もし法廷内で裁判官自らが黒人である控訴人を前にして「ニガー」と発言したらどうなるでしょうか? アメリカでなら、その裁判官はまちがいなく控訴人が主張するまでもなく罷免になると思います。たとえばアメリカとは「お国事情」が異なるからといって、威信のある「公正」の名において、日本の法廷内で裁判官が在日朝鮮人の控訴人を前にして、「北鮮」と差別発言してもおかまいなしだということに、私はならないと思うのです。
私は渡辺裁判官の罷免を求めているのではなく、これから始まる本件の審理が「公正」におこなわれることを求めている次第です。その手段として、渡辺裁判官の忌避を求める次第です。ご理解のほどを切に願います。
(4)結語
私が聞いた範囲ですが、裁判官の忌避というのは、実際には成立しがたい状況にあるとのことです。もしそれが現実であって、本件を今後も渡辺裁判官が担当していくとするならば、私が渡辺裁判官の忌避を求める行為は、裁判上「不利」であるのかも知れません。しかし裁判の結果が「不利」であるとか「有利」であるとかの観測から私は渡辺裁判官の忌避を求めるのでは決してありません。
私自身の心情として、本件は、父親として息子の将来を大きく左右する裁判であると同時に、父親としての生きかたを息子にしめすひとつの存在に他ありません。そうであるからこそ、仮に判決をゴールとたとえうるなら、むしろその道程に私はこだわるのです。息子の将来がかかっている本件で、もし私が差別発言に沈黙したとするなら、私は父親失格であると思います。
だからこそ、私は裁判の結果は別にして、裁判の審理が「公正」におこなわれることを求めるのです。すなわち裁判の「公正」の名において、あえて私は迷いなく、ここに渡辺裁判官の忌避を求めるのです。
ご理解のほどを切に願う次第です。
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