しかしだからといって相手方は他方の朝鮮人としてのアイデンティティ−がどうして必要でないと考えることができるのでしょうか。相手方と私と決定的に異なることは、相手方は日本人と朝鮮人の二つの民族性を有している子どもに対して、日本人としてのひとつの民族性しか認めておらず、朝鮮人としての民族性は混在してはならぬものして、朝鮮人性は排除すべき対象としか捉えていないことです。比べて私は相手方のように日本人性を排除する対象であるなどとは当初から毛頭考えておりません。私は社会制度の観点からではなく、二つの民族性は一人の人間の中で対立するものではなく矛盾なく十分に共存できる性質があると考えているのです。
たとえば在日朝鮮人について特段の知識がなくとも、子どもが日本と朝鮮の二つの民族性を有していることを相手方は知っているはずです。子どもが二つの民族性を有しているという事実を放置した相手方の養育姿勢は、これから実社会の中で生きていく子どもの監護者として、さらには子どもの実の母親としてあまりにも無責任です。いみじくも相手方の主張の中に朝鮮人でもあるということについて、「幼い子どもに背負わせるにはあまりにも重荷です。」という箇所があります。これは結婚当時、相手方の父親である正彦が私の母親に、「生まれてくる子どもが朝鮮人と知られたら身が切られるように痛い。」と述べた内容と同質の表現であると思われます。「重荷」ということも「痛い」ということも、前提に朝鮮人が劣った存在だとして敵対的な蔑視観がなければ到底出てこない文言です。
私が相手方の養育姿勢が無責任だという理由は次の通りです。子ども自身がこれからの人生において、在日朝鮮人でもあるということを「重荷」に感じることがあるかも知れません。また「身が切られる」ような思いをすることもあるかも知れません。確かに私自身も在日朝鮮人2世として自己の成育歴において苦悩した体験もあります。相手方らはそういった子どもの「痛み」を想像できていながら、それを解決していこうとするどころが、あえていうならば逆に子どもの「痛み」に塩をすりこむが如くの苛酷な行為をしているということがどうしてわからないのでしょうか。なぜならば「痛み」を感じる当事者は子ども自身なのです。
それは何故の「痛み」なのでしょうか。それは朝鮮人であることが人として劣っているという誤った価値観を受けて、当事者自身からして朝鮮人であるということが恥ずべきことだという意識からのみ出てくる「痛み」です。当人に朝鮮人が恥ずべき存在ではないという自覚さえあればその種の「痛み」は容易に克服できます。逆に当人が朝鮮人でもあるという自己の出自に劣等感をもち、隠さなければなならいことだという意識であれば、その「痛み」は増幅されていくばかりです。その弊害は当人に歪んだ人格が形成されるだけでなく、実際に自殺にまで追い込まれた実例は決して少なくありません。あるいは「帰化」した人々も含めた在日朝鮮人の教育に関する書籍を読めば、現実に何人もの在日の若者が成育歴において自殺を考えたことを回顧しています。それらすべてに共通しているのが自らの民族性を「隠し続けた」という点なのです。
相手方は、子どもを「だからこそ日本人にするのだ。」という考え方をしているようにも思います。日本人になれば前述したような問題が解決できると考えるのでしょう。もしそうであるとするならば、この点が相手方の養育姿勢の最大にして根本的なまちがいなのです。私は子どもが生まれた当初からわが子が日本人になることについて反対なのではありません。相手方には改めてよく考えてほしいのですが、日本人になったからといって、前述した問題がどうして解決されると考えられるのでしょうか。子どもは一個の独立した人格を有する人間なのです。
一人の人間にとって国籍は変更可能ですが、自らの出自は変更できません。問題の原因は国籍の所在にあるのではなく、これから生きていく上で子ども自身が自らの出自を自らが卑下し逃避しようとする意識になるか否かにあるのです。もし逃避する意識になってしまったとしたら、そのことこそが子どもの人格を破綻へと向かわせる原因になるという現実を、相手方は少なくとも子どもの母親として監護者として理解する義務すら私はあると思います。私は父親として将来特に子どもの思春期においてひょっとしたら反発されることも予想されるのかも知れません。しかし相手方が子どもに強いてきたような質でわが子が私を嫌悪するようなことはないと、私はわが子との関係においてそう確信しています。
また相手方は「名前」の変更だという認識のもとに主張を展開していますが、わが子の場合姓名における「置野」という日本姓から「李」という民族姓への変更を意味しています。「置野」という「family name」の変更であり、「聖徳」という「first name」の変更ではないということも述べておきます。
私が子どもにとって李姓並び朝鮮籍への単国籍化をおこなった経緯は異なりますが、そのことが必要だと考えたのは次に述べる通り同一の理由によるものです。
私が「自然」だと思うのは、子どもにとってそのように知らさせたり教えられたりすることが、ことさら個人的見解によるものであるとか、正誤の判断がされるようなことではないという意味において「自然」であると思うのです。
そのように考えていた私にとっては、子どもが二つの民族性について知ることは国籍の所在や姓のありかたとは別次元のこととして認識していましてたので、ことさら関係があると考えていたわけではありません。
ところが相手方は、二つの民族性を有する子どもに対して、朝鮮人は劣った存在だという意識でもってそのことを徹底して隠し続けたのです。相手方は子どもを日本人としてのみ育てようとしたのではありません。なぜなら日本人として育てようとすることが、最初からたちまち他方の朝鮮人性を隠し続けたり排除すべき理由にならないと私は思うからです。二つの民族性を有しているということを隠さないでも、日本人として育てることは容易にできると私は思います。もし仮に二つの民族性を有している子どもに日本人性以外の民族性を隠し必ず排除しなければ「日本人」として育たないというような発想があるとすれば、それは人間の存在を矮小化した発想であると思います。
さらに他民族の存在を拒絶しなければ成立しない「日本人」像の意識があるとするなら、それはあまりにも偏狭であると思います。たとえば日常生活の基本構成でもある「衣・食・住」がすでに国際関係を無視しては成立しない今日において、そのようなことは求められている共生社会の公益に反するような発想ではないでしょうか。
相手方が子どもにとって父親である私の存在を隔離(排除)することによって隠してきたのは、私が「帰化」をしようとしない在日朝鮮人であったからです。もし子どものことに関係なく、夫婦として私の存在が嫌であったのなら、長期間にわたって子どもから父親である私を排除したり、二つの民族性を有していることを隠し続ける必要はないはずです。
私は結婚生活において相手方と子育てについて、一度たりとも話し合いができた記憶がありません。それは私が相手方にどれだけ求めても、無視と拒絶のみで一度も応じてもらえなかったからです。子育てについて私は現在に至っても相手方から無視されています。私を無視するのは、朝鮮人でもあるということを何としても排除したい相手方にとって、在日朝鮮人である私が父親の存在であってはならないと考えているのだと思います。私には子どもを前にしてあくまで父親の存在を否定し続ける相手方の態度は、母親としてふさわしい姿であると思えないのです。
私は、子どもが二つの民族性を有していることを決して認めようとしない相手方の態度は子育てに値しないと考えています。それはもはや子育てではなく、子どもに民族差別を強いる加害行為でさえあると思います。子どもの眼前でも父親の存在を積極的に否定してきた母親である故に、残念なことに母親でありながらわが子に差別を強いて、そのことが子どもにとって如何に深刻な問題をもたらすのか理解できないのです。
すでに教育界では、もしこのような劣等感を子どもが成育過程で克服することができなかった場合、「生まれてこなければよかった」という意識が高じて自殺する可能性もあるということが現実の事例から警鐘として報告されています。自殺事例は最悪に位置していますが、ことさら教育関係者でなくとも自己の出自に劣等感を抱いたまま成長することが、如何に健全な人格形成に有害であるかは自明のことであると思います。こういった問題は「アイデンティティーの危機」と表現されています。
アイデンティティーの危機は、大局的には社会に厳存している根強い差別意識と因果関係にありますが、私は個々人の人生において克服や解決が十分可能な問題だと考えています。
子どもの人格形成におけるアイデンティティ−の危機は、その原因が放置されることによって生じる一種の病理現象と類似しています。たとえば個人差はあるものの発病までに長い潜伏期間を要するというような類似性です。私は子どもの出自に劣等感を強いる相手方の養育姿勢こそが、アイデンティティーの危機を招く原因になると判断したのです。
したがって私がそのことを放置することは、むしろ父親として失格であると思います。子どもに劣等感を強いる相手方の意思を変えることは残念ながら困難でありますが、子どもにアイデンティティーの危機が生じることのないための環境として、李姓と朝鮮籍への単国籍化が必要であると私は考えたのです。
こういった私の教育方針が、「国籍離脱」という単国籍化の手続き行為のみを中心にされ、子どもの福祉の観点からその益害が判断されるという次元が私にはピンときません。子どもの人格形成の行方における是非が判断されることこそが、子どもを独立した人格をもつ一人の人間として最大に尊重することではないでしょうか。またこのことは福祉の観点においても同様であると思います。
なぜなら子どもは二つの民族性を有しながらも、社会的には先述した公証制度から日本人としてのみ扱われています。したがって子どもにとって結果的には二つの民族性について教えられることは親の養育姿勢にのみに決定されることになります。公証制度は親の養育姿勢を左右するものではありませんが、朝鮮人性を隠そうとする相手方にとっては好都合な制度です。
このような性質をもつ公証制度上に民族性を隠蔽しようとする相手方の意図が重なると、子どもの二つの民族性は家庭や社会において朝鮮人性が消えてしまうことで事実上喪失してしまうのです。
このことにより当事者である子ども自身がどれほど強い孤立感あるいは疎外感を抱くことになるでしょうか。自己の出自の真実をまわりの誰にも知られることなく、たった一人でまるで封印するかのように隠し続けて生きていかなければならないとしたら、それはきわめて残酷ですらあると思います。
さらに私との面接交渉を通じて相手方は、それまで隠してきた態度を一転させ、子どもに如何に朝鮮人という存在が恥ずべき悪い存在であるかという価値観を注入することに躍起になりました。これを放置することが子どもにとって有害だと判断した私は、その解決方法としてそれまで朝鮮人としての民族性が隠されてきた形になっている子どもを、社会的に明らかにした上で二つの民族性を子どもに教えていくことが、アイデンティティ−の危機に陥ることを回避させるだけでなく、今後の子どもの生育過程では有益であると考えたのです。
私は当初から単国籍化よりも、子どもの姓を李姓にすることを優先して考えていました。なぜなら外見上の差異においては、日本人と朝鮮人の形態人類学的差異は現実には判別不可能であり、表象における差異はまったくありません。このような社会においては国籍の所在より、むしろ 「なまえ」だけが民族的差異に根拠を与えるものとしての役割をもつからです。
たとえば近年増えつつある「日本国籍保有者」あるいは「帰化者」であっても、民族名を求める在日朝鮮人の存在はアイデンティティ−の確立を始め当事者にとっては、そのことのほうがより人間らしく生きられるという認識があるからなのです。民族性の誇示などということではありません。
離婚成立後、李姓及び単国籍化の手続きについて、私は子育てについて相手方との関係を確かめてから実行の有無を考えていました。私には、母親であり同居している監護者を無視して手続きをしようなどという考えは最初から毛頭ありませんでした。また私は現在でも相手方を無視したとは思っていません。なぜなら子育てについて私と話し合うことからして無視する態度をとり続けたのは相手方だからです。
相手方が子育てについては私を無視して、子どもに差別的価値観を注入していた姿勢から、私は何の迷いもなく和解成立の3月23日から約1ヵ月後の5月7日に氏(姓)の変更手続きを申し立てました。「離婚による親権の確定」という申立書の雛型にあった理由どおりの内容で申し立てたのです。このとき私は担当係官から1週間ほどで李姓への変更は認められるであろうということを聞きました。
ところが本件の原審の決定を下した同一裁判官の職権によって、氏(姓)の変更は調査命令にまわされてしまい、李姓への変更の可否は不明になってしまったのです。
そのことに連動して、面接時の子どもの衣服・下着・帽子・靴下・靴には32ヵ所も「置野姓」が記入され、置野姓の名札が複数ぶら下げられ始めたのです。相手方は沈黙して私を無視しているだけでしたが、そのことが李姓への変更は絶対認めないという相手方の強い意思表示でもありました。
このような状況から、私は迷うことなく翌月の6月2日に子どもの朝鮮籍への単国籍化の申請を津法務局でおこなったのです。結果的にこの単国籍化によって李姓への変更がやっと確定したのです。
もし仮に氏(姓)の変更申し立てが通常どおり認められ、その上で相手方が「李姓」を尊重するならば子どもの単国籍化は必要ありませんでした。この点をさらにいうなれば相手方が、子どもの有している二つの民族性を尊重し、子育てについて私を無視することなく協力関係を築こうとする意思さえあれば、李姓も単国籍化も何ら必要のないことなのです。もっともそのようになれば本件のような問題は当然のことながら離婚さえする必要も生じなかったと私には思われます。
しかしながら親権の変更を左右する本件においては、直裁的に教育方針の益害が判断の根拠になるとしたら私には疑問があります。それは教育方針の内容についてではなく、原審でも「確執」と表現されているように子どもを前にして私と相手方が対立しており、子どもが対立の渦中におかれているというような認識があることです。そういった認識は事実誤認なのです。
なぜなら私と相手方の教育方針が異なっていることは事実ですが、そのことで子どもが対立の渦中におかれているという事実はないからです。この事実について述べることは同時にわが子にとっての李姓並び単国籍化の意義を述べることと同一の意味があります。
そこからおそらく子どもにとって「母親は日本人であることを要求し、父親は朝鮮人であることを求める」というような状況に映るのだと思われます。ここから父母の対立関係が子ども自身に持ち込まれているという認識になり「確執」という表現になるのだと思われます。
けれどもそのような問題認識であるとするなら、その中心に子ども自身が「一体どうしたらいいんだろう?」と困ってしまうことを想定していると思われます。子ども自身が困惑するだろうから、その原因をなくすことが子どもの福祉に資するというような結論にも帰結するのだと思われます。
私が事実誤認だと指摘したいのは、子ども自身が困惑するという捉え方にあります。たとえば確かに二つのうち一つを選ばなければならない時期に、自分の両親が正反対の意見である場合、困惑する可能性もあります。しかしその場合とて基本的には子ども自身の選択がされるはずであり、困惑状態が持続するわけではありません。李姓と朝鮮籍の単国籍となったわが子にとっては、両親の異なる意見のうちどちらかを選ばなければならないような局面は事実上存在していないのです。
しいていうならば、相手方は今後も子どもに対して日本人だけであることを要求し続けることでしょう。その内容はともかく相手方による教育は子どもに日本人であるという自覚を促すことにはなるでしょう。
しかし同時に子どもの学校生活では李姓が使用され私と会うことによって、朝鮮人でもあるという二つの民族性について年齢相応に意識して考えはじめます。そのことが子どもの生育過程で有益であると私は考えますし、またそのような子どもの姿が生育過程の「教育」だと考えているのです。
このことでもし子どもが困惑するようになるとすれば、自己が日本人なのに朝鮮人だとされる点でしょうか、あるいは自己が朝鮮人なのに日本人だとされる点でしょうか。いずれにせよ、それは二つの民族性を有しているという認識になるならば子ども自身にとっては何の矛盾も困惑も生じないはずです。
もし仮に困惑が生じるとすれば、少なくともそれは両親の異なる意見が原因ではなく、子ども自身が朝鮮人を嫌悪する価値観を持ったときに生じる困惑です。私はそのような質の困惑が子どもの生育過程において有害だと認識しているのです。なぜならそれは子どもにとって容易に劣等感に転化されていくからです。
あるいは子どもは日本人のみの存在だとする相手方の意思に、私が同意しないことが子どもにとって対立的な確執になるでしょうか。私はすでに述べてもきたように子どもが日本人になることに反対しているわけではないのです。私は親として子どもが劣等感を有するようになることには同意できないのです。このようなことが対立的な確執だと認識されることに私は大きな異和感を憶えます。なぜならそこにはあるべき理性と良心を何ら見出すことができないからです。
この場合学校が苦慮することは、学校内の問題について親から指摘されるのであればどのような指摘にも積極的に応じていただけますが、学校の責任範囲外である家庭の事情が教育現場に持ち込まれても困惑するだけです。
そのような構図を要約すると、新国籍法から二重国籍者となった児童については、国籍に関係する方針は父母両系主義による両親に任されているのであり、その両親の見解が異なった場合、その判断を公共性を持つ学校に求めることは筋ちがいなのです。
また新国籍法によって二重国籍を認めた上の公証制度からは、公共性を持つ学校が一方の親の意見により他方の親の意見を無視することになる日本人か朝鮮人かと限定した判断などできようもないのです。
したがって、もし私が子どもを単国籍化しなければ、子どもの朝鮮人性を認めようとしない相手方の養育姿勢が学校現場に持ち込まれることになります。そのようになれば学校側の苦慮はもとより、児童の教育をめぐって学校現場に混乱が拡大されていくことになるのです。
もしそのようになれば、わが子の学校生活に悪影響を及ぼすことは過去の保育園での実例をいうまでもなく目に見えていたのです。したがって学校が持つ公共性の側面から予想された混乱は、単国籍化によって解消したのです。
すなわち、少なくとも二重国籍児童についての親が関わるべき範疇の判断が学校側に迫られるような局面を回避することができたという意味において。
さらに学校の基本である教育面から述べます。
子どもは単国籍化により法的には朝鮮人となりました。しかし私は学校に子どもを朝鮮人児童としてのみ扱う必要を求めてきませんでした。私が学校に親として望んできた教育方針はあくまで二つの民族性を有しているという点の教育的配慮です。その点について、私はあえて学校側に相手方の意向も尊重することを要望してきたのです。
具体的には学校側には子どもの姓については公的な姓である李姓の使用を要望しました。ただし、当人である子どもが置野姓を使用しても、そのことは子どもの自主性を尊重する精神から容認していただきたいと要望してきたのです。それまでの経緯から相手方が置野姓を子どもに強要することも明らかであったからです。
私は小学校入学に際して、このようなことについて詳細な協議を学校側とおこなってきました。たとえばクラスの他の児童が、学校では李姓が使用されているのに、当人が置野姓を使用していることに疑義の声があった場合、「李はお父さんの名前で、置野はお母さんの名前、聖徳くんはお母さんの名前が好きなんだね」というような説明でもって対応していただきたいと協議してきたのです。
このような私の要望は学校の先生方にとってはたいへん好意的に理解していただけました。なぜなら私のそのような教育方針は、公教育の目的に合致していると判断されたからです。
それは近年の人権教育の高まりにより、学校現場ではすでに在日朝鮮人児童における最大の教育課題として、劣等感に陥ることなく健全な人格形成に資するためには、日本人児童と同質に扱うのではなく、民族性を尊重することが重要であると位置づけされているからです。
そこでは児童自身が民族性を「隠す」ということが問題であり、その有効な解決手段として民族名の使用を教育現場では奨励するようになってきているのです。私の学校側に対する要望はこのような教育理念と合致するものでした。
したがってわが子が、学校生活においてたとえ相手方から置野姓を強要され李姓を禁じられた結果、李姓をぬりつぶし置野姓に書き変えても、公的に李姓が使用されている限り、わが子にとってそのことが「隠す」という行為に直結していきません。すなわちわが子はアイデンティティ−の危機に陥ることなく、これから自己の二つの民族性についての学習を重ねることが容易な環境となるのです。
また現在までにわたって子どもが学校生活を、陳述書(2)で述べたように明朗・快活に謳歌している事実は、相手方の姿勢を含めた上でも、わが子に対するこれまでの教育方針が学校と私との協力関係により成功してきたことを証明していると思います。
私には入学当初から子どもがいじめを受けるのではないかという懸念がありました。あるいは相手方の強要により、わが子が学校で困惑してしまうのではないかという心配もありました。そのため私は学校生活でのわが子の様子について頻繁に学校を訪れたものです。その都度、先生方からは「大丈夫です、子どもさんはたいへん元気ですよ、何も心配されるようなことはありませんよ」とむしろ私は励まされてきました。
さらに私自身も学校教育について積極的に学んでいくことは今後のわが子に有益であると考え、同時に学校との信頼関係存続のためにも、教育機関からの講師依頼には積極的に応じてきました。(別添資料6)以前から私は教師対象の講師に招かれることが度々あったのですが、小中学生を対象とする講演には自信がありませんでしたので断ることのほうが多かったのです。利己的であるかも知れませんが、私は今後のわが子の教育に有益であると判断しましたので、今後も児童対象の講演には積極的に対応し努力していきたいと考えています。
しかしながら子どもは単国籍化によって法的には朝鮮籍のみとなり日本国籍はありません。このことが子どもを日本人になるための道を奪ったとか、国籍選択の余地を奪ったと断じられることは事実誤認です。
なぜなら、法的に子どもは「在日」朝鮮人になったのであり、「在日」である故に日本人としての資質の育成には何ら問題ありません。
また日本人になるための道として日本国籍の取得は「帰化」によって可能です。なぜならこの点について単国籍化をおこなった時点で津法務局に私は念入りに確認してきたからです。
「帰化」要件は年々緩和傾向にありますが、そういった緩和傾向においてもわが子の場合は、きわめて容易な「帰化」要件になっているとのことでした。したがってわが子がおかれてきた環境に照らすと、むしろ単国籍化は事実上子ども自身にとって国籍選択の余地を拡大・充実することであり、選択の余地を奪うというような実態にはないと思います。
私は現時点の国籍の所在より、今後の子どもの健全な育成のほうが重要であると考えているのです。原審では現在の時点で相手方の「帰化」の意向を肯定していますが、私が本件のように即時抗告をしたのも、また、もしも本件で親権の変更が認められるような決定がなされたとしたら、私にはそれを認めることが到底できません。
それは日本国籍者になるということが認められないのではなく、すでに述べてきたように子どもの生育過程において、子ども自身にきわめて深刻で有害な環境をもたらすからです。わが子が不幸になることを私自身がわかっていながら、その原因を放置することは、人として、親として、きわめて無責任であると思うからです。
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