抗告人 李 在一
相手方 置野昭子
上記当事者間の頭書事件について、下記のとおり陳述致します。
1996年7月3日
抗告人 李 在一
名古屋高等裁判所
民事部 御中
記
津家裁におきまして、親権を李在一(以下、私と記す。)から相手方(以下、置野と記す。)に変更し、私が求めた監護者の変更は却下するとの審判が下されました。
その審判文を初めて手にしたとき、私は審判文を読みすすめるにつれて、審判文で指摘されている事柄が、あまりにも実態とかけ離れた内容になっていることに強い衝撃を受けました。
とりわけ私がたいへん残念でならないのは、審判文には、子どもの福祉や利益を中心に判断するとの見解が示されているにも関わらず、子ども自身の福祉や利益となるはずの、将来にむけた子どもの健全な育成に不可欠な養育及び教育のありかたや実状が、親権の変更の判断においては、まったく理解されていないばかりか、むしろ否定されている点にあります。
審判文では、そもそも親権と監護権の分属状態に問題があったと位置づけされ、親権変更最大の論拠に、朝鮮籍単国籍化(日本国籍の離脱)が占められています。
そして、さらに親権を置野に変更することで、子どもの国籍を日本籍に新たに単国籍化(帰化)させるという置野の意向を肯定しています。
しかし、こういった論拠で親権の変更を判断した審判文は、子どもをめぐる私と置野のこれまでの経過状況を明らかに無視しているうえに、現段階で親権が置野に変更されることは、今後の子ども自身の育成において、何ら解決の道もないまま、生涯にわたる癒しがたい苦痛と、その生命さえ脅かされかねないほどの深刻な問題に、子ども自身を孤立させてしまうことになります。
また、子どもを朝鮮人にするような親は、親権者として失格で、子どもを日本人にする者こそが、親として適切だといわんばかりの審判文からは、親権が置野に変更されることで、私が子どもの父親である事実は変えられないものの、社会制度上からは、私が子どもの父親であることが抹消されてしまいます。そのため日常的な社会生活の場では、子どもの父親でありながらも、父親であることが実際には、完全といってよいほど抹消される実態に、私は憤りを感じざるをえません。
しかし私個人の憤りより、人格形成期のきわめて重要な渦中にある子ども自身にとって、これまで置野の執拗な妨害にあいながらも、私が子どもを受け持つ学校の教師らと共に培ってきた、子どもの健全な教育環境が、親権が置野に変更されることで、ここにきて一変してしまうのは、小学校入学時から現在の3学年まで安定している学校現場に新たな混乱を来すことにもなります。
本件の抗告におきまして、私が貴裁判所に切望する最大の願いは、親権が置野に変更されることで、今まで培ってきた子ども自身の健全な教育環境が壊されてしまう点に対する救済にあります。
貴裁判所におかれましては、何卒、子どもが将来にわたって健全に成長できる道と、子どもをとりまく真実の実態の御理解を願いまして、以下に本件に至る事実経過を中心に陳述します。
以前の離婚裁判において提出しました、置野との出会いから、私が置野から提訴(離婚裁判)されるまでの全容を、時系列上に詳細に述べた陳述書(資料1、平成3年2月1日付乙第4号証)があります。
本陳述書では、前述の陳述書と重なる部分もありますが、事実経過を合わせて、主に子どもをめぐる私と置野のことを中心に述べます。
1987年○○月○○日、津市内の平木病院で子どもは誕生しました。私は出産のため置野が入院してから退院するまで、毎日病院に通い、出産前後は、病院に泊まり込んで子どもの出産時に分娩室の中に連れ添いました。
ところが置野は、離婚裁判の訴状(資料1、平成元年8月18日付)の、二、婚姻の破綻(5)の冒頭で、「○○月○○日、長男聖徳が生まれたが、子どもの顔も見に来なかった。」と主張しながら、私のほうからの準備書面(資料1、1990年3月13日付の第二の六)や(資料1、1990年5月11日付の五)においてその虚偽が指摘されると、置野は、同年の6月22日付の準備書面(資料1、平成2年6月22日付の五のイ)では一転して、自らの主張をひるがえし、私が病院に行ったときの状況を捏造して、私に「人間らしい心が無いと確信した。」との主張にまで展開させています。
このように置野とその親族が、私を排除しようとした主張には、私の人格を誹謗・中傷しているのが特徴ですが、そこには置野が、私と子どもを執拗に「隔離」してきた経緯があります。その状況を、子どものことを中心に順次述べます。
置野が出産から退院した後、私の意思は無視されて、子どもは置野の実家に連れていかれました。1987年の8月頃まで私と同居していた置野は、置野の親族らの強い要請もあり、出産を口実に実家に帰って以来、私がどれだけ説得しても、それまで私と同居生活をしていた私の実家に戻ることはありませんでした。当時、置野と同席していることが多かった置野の母(以下、和子と記す。)は、私が出産前の別居生活についての不満を口にしようものなら、「出産費用として3千万を出せ」と叫んで、私は罵倒される有様でした。
出産による退院後、置野の実家に連れていかれた子どもに、私はほとんど会うことができなくなります。私は毎朝の出社時に、置野の父(以下、正彦と記す。)を車で迎えにいく運転手もさせられていましたが、そのとき、私が子どもに会いたくて、玄関から子どものいる居間のほうを見ようとすると、和子から「そんなとこに突っ立ってないで、外で待てぃ」と罵られ、決して子どもに私を会わそうとしないのです。
また、改めて子どもに会いに置野家の実家に何度も行きましたが、その都度「育児に男は必要なし」「産後の肥立が悪くて今、寝てるんじゃあ」等と語気荒く一喝され、玄関のドアを力一杯閉められたのです。
私の友人が、子どもをぜひ見たいというので、一緒に行ったときも、決して子どもを見せようとしない和子の傲慢な態度は変わりませんでした。和子は、そのような態度で、私からの電話も置野に取り次ぐことが滅多にありませんでした。
他方、置野が出産を口実に実家に帰ってから、翌年の3月に置野と再同居するまでの約半年間、置野は、津市内にアパートを借り、私に無断で、まったく必要のなかった無人のアパートに、私の給与から家賃を支払っていました。もっとも当時は私の給与の全額が、私の再三にわたる抗議の指摘は無視され、そのほとんどが正彦から娘の置野に渡されていました。正彦の経営する電気工事会社で働いた給与の明細さえ、それを求めても無視され、私には知らされないことが多かった有様でした。
出産による退院後から、年が明けた1988年の2月、私は子どもに会えない状況に耐えられなくなり、それまで置野が私に無断で家賃を支払っていた津市内のアパートで暮す決心をしました。この頃になると、私は、置野が無人のアパートに半年間にわたって家賃を払い続けた意味がわかっていました。
置野とその親族は、私が母と同居している家に、置野と子どもが帰ることを拒否する口実のため、必要のなかった無人のアパートに家賃を払い続けていたのです。私の母が子どもと接触するのを避けるためでした。
当時、私が津市内のアパートで暮らすことになると、私の母親が一人暮らしになってしまう点がたいへん気がかりでしたが、それよりも私は、子どもを交えた健全な生活が回復することを願って、津市内のアパートで暮す決心をしたのです。
そういった事情から、1988年の2月に私は子どもを含めた同居生活を回復するため、置野家の実家に理解を求めに行きました。和子からは、「まず、あなたが一人で暮らせ」と罵られましたが、私は和子からの罵声を無視して、ようやく引っ越しの日程についての合意をとりつけたのです。
1 同居にあたっての引っ越しについてですが、私は私の兄を含めた私の友人たちに手伝ってもらってすませたのですが、引っ越しの最中、置野は5分ほど顔を出して指示をしただけで、置野をはじめとするその親族らは、引っ越しには何ら協力はせず、新たに始まる同居生活にはきわめて消極的な態度でした。
ところが、置野の準備書面(資料1、平成2年6月22日付、七のイ)では、私が引っ越しの準備に非協力的であったとして、そこから私を誹謗する状況を捏造しながら、同居については私が努力したためではなかったという主張を展開しています。
しかし真相は、尋問調書(資料1、平成2年12月17日付)の12番から17番にわたる置野本人の尋問において、いかに置野が、同居にあたって否定的であったかが、明らかになっていると思います。
また、そのうちの15番、16番では、同居にあたっては最初から、子どもの教育については私を除外するという置野自身の直筆の手紙について、置野は「思いつきで書いたものだ。」と証言しましたが、当時、子どもを含めた健全な夫婦生活を願っていた私には、そんな置野の悪意はわかりませんでした。
置野が「思いつきで書いた」と証言した手紙(資料1、乙第1号証)の文面を引用すると、「・・・ふつうの育て方ではふつうの子にしかならないでしょう。(ふつうの育て方さえもしないと章雄(※李在一の当時の通称名)の様な原始人になってしまいますが)・・・というわけで、子供の教育に関しては、もちろん章雄を除外し、置野家でやることになります。「親がなくとも子は育つ」と彼がしょっちゅう言っていたので、その通りにしてやろうと思っています。・・・」
そして現実に同居してから、この手紙で書かれた文面にあるように、置野が子どもの教育から私を除外し、置野自身の手ではなく、「置野家」において、子どもの教育を強行する生活が始まったのです。
まず置野は、私が子どもと一緒に風呂に入ろうとすることに、過敏な反応でもって拒否をしていました。そんなことが連日続いたので、私が置野を説得して、一度、私は子どもと一緒に入浴したことがありました。すると、翌日から置野は、私が会社から帰る前の午後4時頃に子どもの入浴時間を変えてしまい、私を子どもと一緒に入浴させまいと、執拗に拒否していました。
そしてこの当時、置野は、幼児教育の高額な教材をローンで度々購入していましたが、私が教材の存在に気づいて指摘すると、そのときになって初めて私に事後報告する状況でした。私が子どもの将来についての話題をしても、置野は黙って聞いているだけで、置野がそんな話に反応することは滅多にありませんでした。
そもそも置野は、子どもの誕生以来から本件に至る現在まで、父親である呼称(おとうさん等)を、私や子どもに一度たりとも使ったことがありません。
そのような置野の生活態度ではありましたが、私は、新たな同居生活で健全な夫婦生活を回復させようと自分なりに精一杯努力したつもりです。
その当時の暮しぶりを示すものに、置野が弟(置野の弟で以下、明と記す。)宛てに書いた置野自身の直筆による手紙(資料1、乙第7号証二の(一二)の11行目、添付資料2)があります。
その手紙では、置野とその親族が、私との同居生活にいかに否定的であったかを始め、私と子どものそれまでの「隔離」状況が書かれています。
また同時に、手紙の文面を引用すると「・・・新町(※置野の実家)にいる間、彼(※李のこと)と接触することはできず、(Telで話しても内容を細かに聞かれる)毎日、ママ(※和子)は彼の悪口を言い、パパ(※正彦)は愚痴をこぼす・・・この7ヵ月間で私の中での「大谷章雄像」(※当時の李の通称名)が、かなりゆがんでしまっていたのです。あれ程憎んでいた「大谷章雄」はどこに行ったのだろうと、彼を見て思います。仕事に対する考えだってパパが言う程問題を感じないのです。家の中のことも適当に動いてくれるし、聖徳もベロベロに可愛がっています。私に対しても、ものすごく気を使っています。・・・」
このように、私は健全な夫婦生活の回復に努力し、置野自身からみても私は、子どもを「ベロベロに可愛がる」父親であったのです。
この手紙について、置野本人の尋問調書(資料1、尋問調書平成2年12月7日付)の5番から12番にかけて、直筆の手紙であることは認めながらも(当日の尋問では、この場で置野はとりわけ長く沈黙しました。)、書いてある内容は事実ではないとし、その理由として、明からみて私の子どもに対する目が父親のものではないと心配していたので、それを安心させるために書いたのだと証言しました。
しかし、明を安心させる目的で書いた手紙になっていないことは、内容からしても明らかであり、私が離婚裁判で証拠として出した、明から置野に宛てて書かれた手紙をみても、置野が姉弟間で、少なくとも当事者達にとっての「事実」について、相談のやりとりをしていたことが明らかです。
たとえば、置野家の在日朝鮮人に対する偏見と差別性が端的に出ている、置野宛ての明の手紙(資料1、乙第3号証の添付資料2)があります。
そこでは、置野からの手紙の返信として、「・・・・朝鮮の連合が出てくるの話ですが、これは金の話になると思います。多分親父(※正彦)はそこらを考えて“5年”といったと思うのです。相手(※李のこと)はもはや倫理の通用する相手ではありません故、金を積むか、もしくは右翼でもたのむしかないでしょう・・・・」という内容です。
けれども結婚生活において、当時、明は島根県の大学に行っていたので、私とはほとんどといっていいくらい明と接触もありませんでした。したがって明から、「子どもに対する目が父親のものではない」等と誹謗されること自体ありえなかったのです。
2 さて以上のように新たな同居生活において、私は子どもを含めた健全な家庭生活の回復に必死でしたが、私の努力に反して、3月から始まった同居生活は次第に破綻へとむかっていきます。
破綻への起点は、和子の2回目の自殺未遂でした。
同居をした翌月の4月に、和子は、置野と子どもが私と同居することに反対して、手首を切りました。(別添資料2、1988年5月5日に私のアパートで撮った写真です。和子の手首には自殺未遂の痕跡として包帯がまかれています。)私は、正彦からそのことを知らされると同時に、正彦から和子の安全のためにも、置野と子どもを帰してほしいと強要されました。ところが実状として、置野は、私と同居生活を始めたものの、私の意思には関わりなく、ほぼ毎日、昼間は和子のいる実家に帰っていたのです。
私がそのことを正彦に指摘すると、正彦は、「夜が淋しいんだ」と言い、早く子どもと置野を帰してくれという有様でした。
和子の自殺未遂は、私にとって苦悩の種となりましたが、そんなこともあって私は、昼間に置野が子どもを実家に連れて行くことを止めたことは一度もありませんでした。
ところが、車で20分ほどの距離にある一人暮しをしている私の母の実家に、私が子どもを連れて行こうとすると、その度に必ず置野とその親族らから拒否され、私の母に子どもを会わすことはなかなかできませんでした。なぜなら、置野と合意のうえ約束した日に、置野は何も言わずに実家に帰ってしまうからです。
そんなことがくり返し続いたので、私が置野と正彦に、私の母に子どもを会わせに行くことについての承諾を改めて求めた翌日の夜のことです。私は置野と和子から露骨で凄まじい抵抗にあいました。その夜、私はアパートに長時間にわたって、きってもきってもかかってくる和子からの電話に、怒りで体を震わしていました。和子は電話で私に、子どもを私の母に会わせることは、絶対に許さないと言い、私がその理由を問うと、「あなたは豚だから、しゃべる資格はないし、クズのあなたの親には、子どもを見せることはできません。」という言い分でありました。私がそんな和子からの怒鳴り声の電話をきると、今度は置野が「なぜきるの!」と怒鳴り、置野の怒鳴り声で泣き出した子どもをあやす私の背に、和子からかかってくる電話の受話器を置野が手に取りつきつけ、受話器から叫ばれ続ける和子からの「豚、朝鮮、半島人、三国人」等と際限なく続く罵声を聞かされたのです。
そして和子からの電話が終わってしばらくたつと、私の母から電話があり、「無理に子どもを連れてこなくていい」とのこと。母にその事情をたずねると、和子から私の母に電話があり、「あなたはアホだから、もっと勉強してもらわないと、子どもを見せにいくことはできません。」と言われたとのことでした。
しかし、私は子どもを連れて、しぶる置野と一緒に私の母に子どもを見せに行ったのですが、そのときまたしても私の実家に、和子から早く置野と子どもを帰せという傲慢な電話がありました。
3 この件があってから、置野は子どもを連れて和子のいる実家へ無断外泊することが日増しに多くなり、私は一人暮しの状態になっていきました。
それでも私は、子どものためになんとか健全な家庭生活をとりもどそうと苦悩していた7月頃のことです。
私が置野に「俺にできることがあったら何でも言ってくれ」と言ったところ、置野は「実はひとつだけ、あなたにやってほしいことがあるの。」とまえおきをして、「お願い、あなたに自殺してほしいの」と言われました。このときの置野は真剣そのもので、哀願する調子で続けて言うのです。
「私、いろいろ考えたけど、やっぱりあなたに自殺してほしい。そうしたら全部うまくいくのよ。」
私は、置野から自殺するよう頼まれたことを契機に、初めて「民族差別」ということについて、改めて意識して根本的に考え始めました。
私が、置野の両親に結婚を表明して以来、置野家において「民族差別」に該当する事象は、和子からの聞くに耐えがたい侮蔑的罵詈雑言を始めとして日常的でした。けれどもどのような罵声を浴びせられ、侮蔑的に扱われようが、在日朝鮮人である私は、自分自身に対して、自己の出自である民族のルーツに特段の思い入れやさしたる誇りもあったわけでもありません。ただ、それでも少なくとも在日朝鮮人が人として、侮蔑される対象でないことは、当然のことながら自覚していました。
それまでの私が「民族差別」について理解していた意識は、日本人社会自らの国家が歩んできた歴史的経緯の無知故に、在日朝鮮人に対する誤った偏見があるのだという客観的な認識にとどまっていました。
ですから、露骨な差別を続ける置野家の者たちに、私はあきれつつも「困ったものだ」という不快感はあっても、少し冷静に考えれば私自身と対立する理由にはならないと考えていたのです。そして私や子どもの存在を通して、遅かれ早かれいつの日か、自分たちのまちがいを自覚して、改まるにちがいないと信じていました。なぜなら露骨な差別は、あまりにも不合理ですから、差別を継続しようとする意識自体が、このまま続くものではないと思い願ってもいたからです。露骨な差別に対して、私の当時の胸中は怒りというより、むしろ、悲しみに占められていました。
しかし、置野から真剣に自殺を頼まれた現実に直面して、そういった私の思いは、希望的観測にすぎなかったのだということを思い知らされました。同時に私は、「民族差別」が生み出す現実の被害を、いやがおうでも認めないわけにはいきませんでした。
4 この頃から、私は在日朝鮮人をとりまく実態について、人権教育などの分野を通して新たに学習を始めました。そんなある日のことです。私が図書館から借りてきたその種の本に、子どもがハイハイで近づき触ろうとしたとき、3メートルほど離れた台所にいた置野が、突然「そんな汚い本、さわっちゃダメ!」と叫びながら、慌てて子どもを抱え隣の部屋に駆け込んだのです。また、私が「聖徳にも朝鮮民族の血が入ってるんだぞ」と言ったら、置野は「聖徳は日本人よ、置野家の人間です。」と叫びました。
置野の子どもにむけるこういった態度から、私は子どものことを中心に、置野家の「民族差別」について考えるようになっていきました。子どもは日本人の置野と朝鮮人の私の間に生まれた「混血」(以下、ダブルと記す。)です。当時、法的には、日本籍と朝鮮籍の二重国籍でした。ところがこの事実をまえにして、置野家の者は現在に至るまで、子どもを日本人として育てたいという願いから養育するのではなく、朝鮮人は日本人より人として劣っているという偏見のもとに、徹底して子どもの朝鮮人でもある点を排除し、世間から朝鮮人でもある点を隠そうとすることによって、子どもに「純日本人」であることを強いています。
たとえ何人であっても、自己の出自に「負」の価値観を注入されたまま成長していかなければならないとしたら、健全な人格が形成できるはずがありません。当時、正彦は頻繁に私に対して「おまえは一度、死ぬ必要がある。」などと言っていた時期もありましたが、私や子どもの出自そのものを自分たちの偏見のもとに都合のいいように否定しようとする点が、置野家の「まちがい」であり、妻が夫に自殺を哀願しなければならないというきわめて不幸な状況にまでなる元凶なのです。
子どもに対する置野家の教育方針は、誕生から現在に至るまで常にこういった「まちがい」の連続なのです。私は朝鮮人としてではなく、子どもの健全な将来を願う親として、子どもにむけられている置野家の「民族差別」に苦悩する日々が続いたのです。
5 1988年の3月から始まった子どもと置野との同居生活は、日増しに置野が実家に無断外泊する回数が増えていき、実態として7月頃から、私は一人暮らしの状態でしたが、同年の9月に和子の中国旅行を口実に、和子の口から再度、置野が私と完全に別居生活をするすることを一方的に通告されました。それは同時に、またもや私と子どもとの完全な「隔離」を強いられる日々が始まったのです。
置野との夫婦生活は、結婚生活の最初から和子による露骨な離婚の強要がありましたが、置野との同居生活の中で、置野自身も離婚したいという意思を次第に明確に私に示すようになっていきました。そんな置野の意思を確かめるため、私から「君は俺と離婚したいのとちがうか?」と聞いてみたことがありました。すると置野は「実は、私は今すぐにでも離婚したいと思っているけど、パパ(※正彦)が子どもが5才になるまで我慢しろっていうの、子どもが5才になったら離婚してもいいっていうから、そうするつもり」ということであった。
この置野の「5年後に離婚する」ということに対して、私は子どもの存在をあげて、何度もやりなおしをしようと説得もしましたが、置野は「これは(5年後に離婚すること)、私の決心だから、あなたには関係がない。」と、とりつく島もありませんでした。
こういった状態が続く生活のなかで、私はともかく、置野家の子どもにもむけられる「 民族差別」に、何ら解決の糸口を見出せずに苦悩していた私は、最後の賭のように祈るような気持ちで、それまで私を執拗に排除しようとしてきた置野家の意向を受け入れる一大決心をしました。
それまで私がどれだけ蔑まれ罵倒されながらも、私が健全な家庭生活を築きたいと努力してきた最大の動機は、子どものためでした。私としては、父親として、また夫として、子どものために、家庭を守りたかったのです。
しかし日々成長していく子どもからみて、日常の中で現実にまったく父親を人間扱いしない母とその親族を、子どもはどのように受けとめるだろうか?という懸念から、置野家の意向を受け入れようという決意に、私の中では発展していきました。
置野家としては、日本人に「帰化」させるために私を蔑んだ段階から、当初から一貫して「帰化」はしないという私の意思にまったく変化がないことを知ると、私を排除するために罵倒する段階になりました。それでも私がそんな罵倒に怯むことなく、なお健全な家庭生活をめざして努力しようとする私に対して、置野家の者たちはこれでもかといわんばかりに、私を「非人間」扱いする傾向は増長していくばかりでした。
そんな環境は、子どもにとって十分すぎるほど有害であると、私は受けとめざるをえな かったのです。
そこで私は、それまで連綿と続いてきた離婚の強要を、置野家の者が集まった法事の後の食事の場で、無条件に受け入れることを表明することにしたのです。自殺を除いた置野家の出す、すべての条件を私が受け入れて、きれいに離婚に応じることで、置野家の者らにとっても、将来、私が子どもの実の父親であり、人間であったという意識が回復するであろうという置野家の者らの人間性に、私は一縷の望みを託して身をひこうと決心したのです。
私は、子どもと会えなくなることも覚悟のうえ、断腸の思いでしたが、改まってきっぱりと「今までいろいろありましたが、本日、離婚に同意する意思をここに伝えます。」と言いい、続けて「争いたくないから、離婚についての条件は、すべてのみます。」と言ったのです。
私のその発言の直後、和子が叫ぶように言いました。「あなた、まだ自分のことを人間だと思っていたのね。あなたは犬よ、犬なのよ。だから、あなたにそんなことを決める資格があるわけないじゃないの」と言い、その後に和子は、「せっかくの御馳走がまずくなった。」と文句を言うのです。私は、いつも通りに和子から続く罵り声を背にして、その店のトイレに20分ほど入っていました。私は置野家の誰にも泣き顔を見せたくはなかったのです。
私が、どれだけ置野家の者たちの言うとおりにしたところで、私がどのようにしようが、しまいが、私の如何なる選択にも一切関わりなく、結局、置野家の者たちにとっては、「私」という人間の存在そのものがあってはならないのです。置野家が本当に私に望むことは、私が自殺するという一点しかなかったのです。
6 自殺を除いた一切の選択肢は認めないという、置野家の意向が続く生活のなかで、次に私が考えたことが仕事のことでした。
正彦が自営する弱電工事の会社(置野弱電工事)は、社員が3、4人からなる零細企業で、正彦は常に会社を大きくしたいという欲求をもっていました。
私は一度、置野弱電工事を辞めたのですが(入社時の約束通りの行為だった。)、置野と正彦から泣きおとされて復職した経緯があります。私が会社に貢献することで、具体的に会社に経済的利益をもたらせば、私の存在を認めざるをえないだろうと考えたのです。
私は正彦から依頼されていた仕事のひとつとして、イベントの別会社の設立にむけて、独力で働きました。1988年の12月には、年間にわたって受注する仕事量を確保し、スタッフも集め、1989年の2月1日から始動する予定も具体的に決まりました。
ところが、翌年の1月に入って間もなくのことです。私の意思を無視して、「5年後に離婚する決意は変わらない」とあれほど言っていた置野から、突然、離婚を一方的に通告した手紙が、アパートに帰るとおいてあったのです。
これは、正彦が私に依頼したイベントの別会社設立の現実化において、実はそのことは正彦の本意ではなかったのでしょう。正彦は私にそんな仕事ができる能力がないと判断し、あくまでも私を「生かさず殺さず」の状態にしておくための方便だったのです。なぜなら、置野がいう5年後の離婚の根拠は、正彦がそうしろと言うからだったのです 。
ここにきて突然、離婚を私に通告することは、同じように正彦の意思なくして、置野だけの判断とは考えられないからです。
しかし、離婚を私に通告した置野の手紙(資料1、乙第7号証の一六、別添資料5)は、それまで和子から私が受けた罵詈雑言の完結のように、置野自身も、明確に私の存在を否定していました。
置野の直筆によるその手紙を引用すると、「・・・私は結婚生活に挫折(やったけれどもうまくいかなかったという失望の念、できればうまくいってほしかったものだという悔恨)をしているわけでなく、貴方との結婚生活を全面的に拒否、否定しています。ですから、万が一、貴方の性格が変わったとか、心を入れ直したとかetcあったとしても、拒否します。なぜなら貴方という「個」を否定しているからです。私には必要のない存在です。・・・」
そして手紙のなかでは、子どものことについて、「本来ならば別居中でも養育費の支払い義務というのがあるのですが、それは一切要りません。」と述べられているにすぎません。私の人格に関わりなく、私という「個」を否定する置野にすれば、私が子どもの父親であるという意識さえ、あたりまえのようになかったのです。
私は、この置野の置き手紙を離婚の通告というよりも、私を否定したうえで、私と子どもを将来にわたって完全に「隔離」しようとする置野の意思をみました。同時に私が苦悩し、最も回避したかった点でしたが、子どもの成長のなかで、置野がまちがいなく子どもの出自について、「民族差別」という偏見から、子どもの出自を、子ども自身に対して否定する母親になることを私は確信したのです。
母親からむけられる愛情のなかに、自己の存在を否定する偏見に子ども自身が気がついたとき、子どもは果たして健全でいられるでしょうか?少なくとも、このような悲壮な環境からは、健全な人格を形成できる根拠がありません。偏見を「偏見」であると、当事者(子ども)が認識できない場合、自殺に追い込まれる例は、決して少なくないのです。
置野の置き手紙から、私は、よくよく考えた結果、それまでの自分を反省しました。私はそれまで、子どものことを考えるあまり、子どもの親族でもある置野家とは、致命的な争いは何としても避けたいと考えてきました。置野家からどれだけ蔑まれ罵られようと、正面衝突のような争いはしたくないばかりに、私が必要以上に耐えてきたことが、子どもの母親である置野が、和子や正彦と同調して、子ども自身の出自を否定するような結果になった一因でもあると反省したのです。
そして私は、子どものために、置野家の偏見に対しては、その非を正す決意を新たにしました。それは、まず私は子どもの父親なのだから、子どもと毎日会い、それを妨害する置野家の如何なる手段にも屈しないという決意でもありました。罵倒されれば、はっきりと反論をし、仮に暴力があってもこれに屈しないようにしようと思いました。
7 1989年の1月17日の朝、私はいつものように正彦を出社のため、迎えにいったとき、私は決意したとおり、今後は自由に子どもと会うという方針を置野家の者たちに宣言するように伝えました。
そして、いつものように私を罵る和子を無視して、私が子どものいる部屋に行こうとすると、和子と置野と治(置野の弟)の三人が一斉に私を阻止するために、殴りかかってきました。私はしばらく蹴られ殴られていましたが、それでも三人をふりほどき、子どもを抱きました。
1月17日の夜と18日の朝も、私は子どもと会うため、私に殴りかかる三人をふりほどいて、子どもと会いました。私の顔面は、三人から殴打されたために腫れあがりました。
17日の夜には、和子が津警察署に「殺されそうだから、すぐ来なさい」と電話をし、パトカーで二名の警察官がやって来ました。ところが、二名の警察官が家に入ろうとすると、玄関先で正彦が「なんでもないので、帰って下さい。」と警官を帰そうとするのです。
私は一人の警官の腕にすがって、「せっかく来られたのだから、ぜひ、この揉め事の話を聞いて下さい。」と頼み込みました。状況を察知した警察官の方は、「私もたまに夫婦喧嘩はすることがあります、でも凶器を持ったらあかんですよ、仲良くして下さいね。」と言い残して帰っていきました。
この当時から、和子は玄関先で私の顔を見るなり、玄関口にあった電話で、「殺されますから、すぐ来なさい」と傲慢な口調で、警察に電話をしていましたが、17日の夜以降、警官が来たことは一度もありませんでした。
そして、私が子どもと会うために出向いた18日の夜には、置野家の玄関ドアを私が開けたとたん、観葉植物の巨大な鉢植えごと、和子は私の頭に降りおろしました。鉢植えは、私の頭で粉々に砕け、鉢植えの土を頭からかぶり、私の顔面は、吹き出る出血で血だらけになりました。このとき、置野は包丁を握って私を威嚇しましたが、私は怯むことなく、置野家の者たちが叫ぶ罵声の中で子どもに会いました。
翌日の1月19日、私は正彦から、置野が子どもを連れて蒸発したと告げられました。置野家の者は、子どもと置野が行方不明だから、どこにいるか検討もつかないと私に言うのです。私は、独力で子どもの行方を探しましたが、わかりませんでした。ちなみに、離婚裁判で証拠として出した置野の手紙類は、このとき、置野の行方を見つける手がかりをアパートで探したとき発見した手紙です。
ヒステリックな置野が子どもを連れていることから、私は子どもの身を案じて、1月24日津警察署に、子どもと置野の捜索願いを出しました。そのことを正彦に告げると、正彦から「取り下げろ」と怒鳴られましたが、行方不明なんでしょうと言うと、言葉を濁して沈黙しました。
置野が子どもを連れて蒸発したことにより、2月から始まる予定であったイベントの別会社の設立は、正彦から延期することを告げられました。もっとも私にしても、子どもが行方不明になっていることが心配で、積極的に仕事に打ち込む気持ちは失せていました。
それでも正彦の指示通りに、私は電気工事の仕事をしていたのですが、置野が子どもを連れて蒸発してから約1ヵ月ほどした2月の中頃のことです。正彦から私に、「おまえが会社にいると、昭子(置野)が、家(置野の実家)にもどって来にくいだろうから、私が指示するまで、自宅で待機しておいてくれ。」と、会社に出社しないよう言われました。
私は子どものことが心配だったので、正彦の言う通り、翌日からアパートで待機しましたが、子どものことが不安で悶々と苦悩する状態でした。
3月頃、私が一人で自宅待機していたアパートに津家庭裁判所から、離婚調停の呼び出し状が届きました。驚いた私は、会社にいる正彦に電話したところ、「一切私は関知しない。」という一言で一方的に電話を切られました。
私は正彦から、自宅待機を命じられたものの、2月の半ばまで働いた給与をはじめ、何の保障もなく、解雇ということさえ告げられずに会社を放り出されたことを知りました。
家裁からの呼び出された3月頃、私は1回目の調停に行きました。調停では、すでに最初から置野には弁護士がついており、私を提訴する訴状も出来上がっているとのことで、調停委員からその一部を見せられました。
そして私が、調停委員を通じて言われたことは、私が子どもに会いに行くことは自由だが、置野家の中はもちろん、その土地に一歩でも足を踏み入れたら住居不法侵入罪で私を告訴するとのことでした。それは置野家だけでなく、会社も同じことだということでした。
調停委員の方から、私は、念を押すように「いいですか、家の中ではなくて土地ですよ、土地に一歩でも入ったら、告訴するということですよ。」という説明を受けたのです。
私が調停委員に、「そうなると、子どもに私は会ってはならないということですか?」と問うと、子どものことには関係なく、法的に住居不法侵入罪は成立するとのことでした。
また、調停においての置野の主張は、私と話し合いに応ずるつもりはなく、私が置野家に対して行なった「暴力行為」を認めたうえで、離婚に応じるなら提訴はしないが、それ以外なら裁判提訴するという主張でありました。
その場で、私は調停委員に、そんな主張はとても認めることができないと言うと、「よく考えてきて下さい。」とのことで、2回目の調停が5月に決定されました。
その後、私は幾度か置野家や置野弱電工事に電話をしましたが、私が名前を告げた瞬間にすべて無言で切られました。
この時期になって、初めて私は自分の母親に、置野と離婚する可能性がきわめて高い事情を話しました。私の母は、そんな状況に薄々感ずいていたものの、一度は自分一人で置野家に事情を聞きに行くといって出かけたのです。
置野家を一人で訪れた私の母に対して、和子が玄関先で、「ここは日本です。朝鮮人は半島へ帰れ、さもないと警察に電話する」と怒鳴り、「そんなものの言い方はありませんやろ」と怒る私の母に、続けて置野の弟二人が母の両脇をつかまえて、玄関先から外へ突き飛ばしたということでした。もし私が、その直後にこの件を聞いていたら、私は、たとえ不法侵入罪で告訴されようが、置野家に抗議に出向いたと思います。
調停は、2回目で決裂しました。2回目の調停では、私は、置野家で体験してきた生活を話し始めたのですが、調停委員にさえぎられ、「わかりました。調停は決裂しましたので、後はどうぞ裁判でやって下さい。」と、比較的短い時間で終わったのです。
私の母が、会社にいる正彦に電話で調停のことを尋ねたところ、正彦は母に「私はうまくまとめたいと思とったんだけどね、章雄(李の当時の通称名)が調停室で暴れたもんで、話し合いができなかった」という稚拙なウソを言ったそうです。
私は何度も子どもに会いに行きたい衝動に駆られましたが、不法侵入罪など裁判で、合法的に私を葬ろうと待ち受ける置野家に行くことは、みすみす置野家の罠に私が陥ることになるため自制してました。
私は解決の道について考えるのですが、苦悩するばかりで、これといった名案も浮かばないまま生活におわれて時間ばかりがすぎていくという状態でした。
そんな私のもとに8月の下旬頃、津地方裁判所から置野の訴状が届いたのでした。その訴状では、私は極悪非道に描かれており、そのあまりのでっちあげに、私は抗議のため置野弱電工事に電話をしました。直接電話に出た正彦は、私からの抗議の電話であることを知ると、「おまえは、まだそんな野暮なことをいっとるのか、わしはおまえと何も話しをする気がないし、一切関知しない。従ってこの電話も切る。」と言うなり、電話を切られました。