平成8年(ラ)第66号即時抗告申立事件

陳述書(2) 

抗告人  李 在一
相手方  置野昭子

上記当時者間の冒頭事件について、下記のとおり陳述致します。

1996年9月4日
 抗告人  李 在一

名古屋高等裁判所
   民事部 御中


四 提訴から和解調停に移行するまで(1989年8月〜1991年9月)

 置野は、提訴により、私との離婚・離縁だけを単に求めたのではありません。

置野とその親族らは、離婚・離縁を求めた訴状(資料1、平成元年8月18日付)において、婚姻生活の破綻の原因を、私の一連の身勝手な行動、脅迫行為、暴行傷害行為によるものだとしています。こういった事実とは極端にかけ離れた虚偽の主張を、裁判所を通じて、合法的に認めさせようと画策したのです。 私からすれば、裁判所に対して平然と極端なウソを主張することができる置野らの行為に心底恐怖しましたが、私は、とりわけそういった主張が、子どもの誕生以来、置野とその親族らが一丸となって、私と子どもを執拗に隔離してきた延長線上にあることを強く感じました。

 それは、私が子どもと会うことを拒絶するためには、なりふりかまわない強引な手段をとってきた状態の連続という経緯でありながら、そのことを置野らの訴状では、すでに子どもと「同居」しているという表現でもって、既成事実のように述べ、親権の指定を当然のように求めている点にあります。しかし、置野らが訴状で述べている「同居」とは、私や私の親族を、露骨極まる差別言動で罵倒したり、暴力でもって、子どもを力ずくで取り上げてきた状態を「同居」だと言っているのにすぎません。

 置野らは、親権を求めるのと同時に、婚姻生活の破綻の理由を、私が非社会的な人間だと裁判を通じてでっちあげることで、父親失格の虚像をつくりあげ、合法的に子どもと私との親子関係を永久に抹殺しようとしたとしか、私には受け止めようがありませんでした。

 なぜなら、提訴前の2回で決裂した調停でも、置野側は最初から提訴の強い意向をしめしていましたが、私が特に子どものことについて、どれだけ話し合いを求めても、置野からの返答は、調停委員を通じて、住居不法侵入罪で告訴するというだけで、離婚には不可欠であるはずの子どものことについても、当初から一貫して問答無用という姿勢でまったく話し合いに応じようとしなかったからです。

 したがって置野らの提訴は、私に対して離婚・離縁を求めるための提訴であると同時に、置野とその親族らが、何が何でも子どもを、無条件に私と接触させようとしない意図のもとに、仕組まれた提訴でもありました。

 置野らが提訴した離婚裁判で、私がどうしても納得できなかった点は、置野らのウソの主張もさることながら、民族差別の動機から、子どもを私から完全に隔離させようとした点にあります。

 離婚裁判は、裁判の進行に合わせて次第に、婚姻生活の真相が明らかになっていきました。その事実関係は、すでに貴裁判所に「資料1」として提出済みですので、ご理解のほどをお願いする次第です。

 ここでは離婚裁判が、調停に移行するまでの審理期間において、私と置野の間で、子どもをめぐって明らかになったことを中心に述べます。

 置野とその親族らが、子どもの誕生以来、私と子どもの隔離を執拗に行なってきたことは、私自身のそれまでの実体験からも、十分に知ってはいたものの、置野らが何としても隔離を徹底させようと強く考えていた断面を、私は、裁判を通じて改めて思い知らされました。

 尋問調書(資料1、平成2年9月14日、本人調書)の41番で、置野は警察に被害届け、並びに、告訴状も出したと証言しています。

 私は、警察から事情聴取されたことなど、一度もありませんでしたし、そもそも私は、置野とその親族らによる暴力行為の被害者であり、加害者は置野らなのです。にも関わらず、置野らは、離婚裁判を提訴する前に、私を刑事事件の被告に仕立てることを画策していたのです。

 私が改めて思い知ったというのは、この尋問調書の41番には省略されていて記載されていませんが、当日の法廷では、この41番のところで、置野自身が、警察に告訴状を出したが、受け取ってもらえなかったことを「とても悲しかった」と証言したことです。

 置野の親族はともかく、私はそれまで、置野自身には母親として、子どもに対し、少なくとも私が父親であるという意識が、少しはあるだろうと思っていました。しかし、もし仮に冤罪であれ、置野らの思惑どおりに進行した場合、私は刑事事件の被告であり、あるいは犯罪者であり、前科者だということになります。

 置野は、母親として子どもに「あなたのお父さんは、犯罪者で、じつは私が犯罪者に仕立てたのよ。」とでも言うつもりだったのでしょうか?

 つまり、告訴状を受け取ってもらえなかったという証言は、私を犯罪者に仕立てることができなかった点を、置野は法廷で「とても悲しかった」と証言している意味になると思います。

 私は、この置野の「とても悲しかった。」という証言から、置野自身にも、私が子どもの父親であるという意識が、完全にないことを視たのです。

 なぜなら置野自身に、もし私が子どもの父親であるという意識があるなば、少なくとも警察が告訴状を受け取らなかったことを、「とても悲しかった」というような証言としては出てこないはずです。

 置野が「とても悲しかった」のは、父親を犯罪者に仕立てることで、子どもから永久に隔離させようとした行為が、警察から拒否された点に他ありません。

 私が求めても、一切の話し合いを拒否したうえで、置野らが提訴に持ち込み、裁判所で平然とウソの主張を証言した背景には、内容の真偽には関わりなく、日本人社会は置野らに味方するであろうという、朝鮮人に対する根強い偏見と合わせて、私には訴訟能力が経済的にもないであろうと判断したからだと思います。

 なぜなら、平成3年9月6日付の置野自身の陳述書(資料1、甲第10号証)のNo31の終わりからNo32の冒頭において、置野は裁判費用を独身時代の貯金から出しており、私が第三者からカンパをしてもらって裁判をしているとして、私をどこまでも甘えた人間だと誹謗しています。

 置野のこの陳述書が如何にデタラメであり、ウソで糊塗されているかは、すでに離婚裁判で証明されていると思いますが、本件においては、私と子どもを完全に隔離するために、置野が提訴に持ち込んだ状況が、経済的に私に訴訟能力がないであろうと置野らが判断していた部分に絞って、述べておきます。

 置野は、その陳述書のなかで、私と生計を共にしていたと主張し、『・・・幼児を抱えて仕事をする私に比べ被告の方がずっと稼ぎがあるはずではありませんか、・・・けれども親にもお金を借りていませんし、自由に働ける被告が「裕福でない」と、ことわるのはおかしいと思います。・・・』と述べています。

 まず私は、置野と生計を共にしていませんでした。なぜなら、置野弱電工事で働いた私の給与の全額は、置野に支払われ、ほとんど私には支払われなかったからです。

 それは、尋問調書(資料1、平成2年12月7日付、本人調書)の18番から25番にあるように、私は置野弱電工事でどれだけ酷使されても、給与は置野と二人で一本化すると、社長であり、置野の父親である正彦から、露骨に搾取されていたのです。

 そういった不当な給与の支払い状況に加え、出産のため置野が仕事を辞めた以降も、正彦は仕事をしない置野に、私の働いた分も含めて二人分だとして、置野に給与を支払っていました。

 仕事をしない置野に給与を支払うのは、正彦と置野が、父娘関係にあるからに他ありません。

 そういった状況のなかで、私は一人暮しから貧窮の状態になり、生活費を置野に求めても、置野は、自筆のメモ(資料1、乙第3号証)にあるように、「置野家において夫のこづかいは」と一方的に称して、実際に食事にも事欠く生活費しか、私は受け取ることができなかったのです。

 そんな状況から、解雇ということも告げられず、私は、それまで働いていた置野弱電工事を自宅待機という名のもとに、給与さえ支払われずに放り出されたのですから(会社にその点を確認したいと調停時に指摘すると、住居不法侵入罪で告訴するとのことでした。)、少なくとも置野とその親族らは、私が経済的に困窮していた状態をよく知っていたのです。

 すなわち私からすると、置野らは、私が経済的に困窮する状態を置野らがつくりあげておいて、その上で、私を提訴したのです。

 また、裁判の進行に伴い、次第に置野の主張にウソがあることが、明らかになってくる中、置野は、自分のウソを補おうと裁判外でも、積極的に第三者の人のところをまわっていました。

 それは、置野が尋ねた第三者の人から、私に連絡があり、要するに『第三者として、置野に有利になるウソの証言もしくは意見書を出してほしい。』と、録音テ−プをもってまわっていたとのことでした。

 そして置野は、裁判の傍聴に来ていた私の支援者を、朝鮮総連の人間であると吹聴して歩いていました。

 私の知人から、「君の裁判には、朝鮮総連の人達が傍聴に来ているんだってね。」と指摘されたことがあるのですが、実際に傍聴に来ていた人達はほとんど日本人の一般市民であり、朝鮮総連は何の関わりも関係もありませんでした。私がそう指摘した知人に、なぜそう思うのか訊ねると、知人は置野本人から聞いたということでした。

 これは置野が、偏見でもって、朝鮮総連の名を吹聴することによって、離婚裁判を、日本人対朝鮮人という争いの構図に捏造し、それを回りの人達に位置づけたかったのだと思います。

 置野の弟である明が、置野に宛てた返信(資料1、乙第3号証の添付資料2)のなかで、「・・・朝鮮の連合が出てくるとの話しですが、これは金の話しになると思います。・・・・・金を積むか、もしくは右翼でも頼むしかないでしょう。・・・」といった内容からも、置野が朝鮮総連に偏見があることは明らかです。

 そのとき、置野といっしょに行動していた人物ですが、本件において、津家裁で親権を置野に変更するよう意見書を出した西村氏(以下、西村と記す。)がいます。

 西村は、離婚裁判の傍聴にも度々来ており、問題の真相がよくわかっているはずなのですが、離婚裁判の期間に、私はこの西村から、人前で怒鳴られたことがあります。

 離婚裁判について、西村から出し抜けに「おまえ、いいかげんにせいよ!」と怒鳴りつけられたので、私が西村に、事の真相を話しだすと、西村は「そんなもんは、どうでもいいんや!」と、内容に関しては聞く耳を持たず、敵意ある感情だけを私にぶつけてくるということがありました。

 私は、離婚裁判が始まってから、それまで隔離されていた子どもについて、置野らが強引に私から子どもをさらっていっているように、私も子どもを取り戻す方法について、弁護士である私の代理人に相談をしました。

 そうしたところ、強引な置野らから子どもを取り戻すことは、トラブルが避けられない状況が予想され、その際、子どもにどんな被害が及ぶかわからないので、とりあえず裁判の進行をみながら、子どものことを考えようとアドバイスを受けました。

 私も力ずくで子どもを取りあうようなことは、子どもにとって決してよいことではないと考えていましたので、弁護士の言うとおり、社会的にも認められる方法を考えていこうと思いました。

 けれども私としては、子どもが置野らに、ちょうど人質にとられているような感覚でした。

 私がそんな思いで苦悩していたところ、尋問調書(資料1、平成2年11月16日の本人調書)の5番で、置野らが子どもを保育園に通園させていることを知りました。 

 そこで代理人と相談したところ、保育園にいる子どもに私が会いに行くことは、何の問題もないということで、保育園へ子どもに会いに行くことにしたのです。

 ところが、どこの保育園に行っているのかがわかりませんので、おそらく津市内の保育園であろうと見当をつけ、津市内の北から、順次すべての保育園を子どもを探して回ったのです。

 そうしたところ1990年12月20日に、津市の南に位置する富士保育園に子どもがいることを探し出しました。

 私が、「聖徳という名の園児がいますか?」と保母さんに言うと、突然保母さんは「聖徳君、お父さんがお見えになったわよ−」と大声で園児らが遊んでいる運動場に向かって呼んだのです。

 私が、まだ何の説明もしていないのに、どうして私が父親だとわかるのですかと保母さんに問うと、保母さんは笑いながら「だって顔がそっくりですもん、わかりますよ。」という返事がありました。

 かくして私は、約2年ぶりに隔離されていた子どもと会うことができました。保育園で子どもと私は、約2時間ほどいっしょに過ごしたのですが、私が父親であることを子どもに言うと、子どもは「お父さんはおじいちゃんなん」と答えました。置野らは、子どもに対して、正彦のことを父親だと教え込んでいたのです。私は改めて子どもを抱きしめながら、私が父親であることを告げました。

 そして私が帰る段になって、子どもが「いかんといて、もうちょっとおって」としきりに言うので、私は胸がはり裂けそうな切ない気持ちになりました。置野が、子どもを連れて蒸発した頃、まだ子どもは言葉をしゃべれないほど小さかったのです。

 また、保育園の方に、私が子どもの父親であることや、子どもと別居を余儀なくされている事情を改めて説明したところ、保育園の方は、そんな事情は置野からいっさい聞いていないとのことでした。

 そこで、今後は定期的に子どもに会いにきたいと要望したところ、保育園の見解としては、「子どもを保育園外へ連れ出すことは困るが、保育園内で会うことはかまいませんよ。」ということでした。

 置野が隔離を遂行してきたそれまでの経緯から、きっと私が、保育園で子どもと会うことを妨害するにちがいないと思われました。

 そこで、私は念のために保育園に、代理人である伊藤弁護士から子どもと面接確保のための依頼書(別添資料3)と、私からお礼の手紙を合わせて事情を説明した手紙を郵送しておきました。

 そうして、私が子どもに会いに保育園を2度めに尋ねたときのことです。保母さんから、「聖徳君は、今日は風邪でお休みです。」と説明を受けていたとき、子どもが私に走りよって、私の腰をつかんだのです。

 「いるやないですか?」と子どもを抱きあげて、保母さんに聞いたところ、保母さんは「園長から、お父さんが来たら、そういうふうに言うようにいわれていたもんですから。」とのこと。

 そこで園長に事情を訊ねたところ、「お母さん(置野)から、父親が子どもに会いに来たら、絶対子どもを会わせないでほしい。」と強く依頼されていたということでした。

 私が、「だからといってウソをつくことはないでしょう」と不満を述べたうえで、その時点では、まだ離婚も成立していないし、私が父親であることから、子どもに会いにくることに、保育園としては何らかの問題があるのでしょうかと問うと、園長は「あなたは父親だとおっしゃいますが、子どもの保護者は置野さん一人で、母子家庭扱いになっていますので。」という説明でありました。

 これは、置野が蒸発してから、津南町のアパートにあった子どもの住所を、置野が私に無断で、置野の実家に住所変更をしてしまい、その上、私が朝鮮籍であるため、住民票には登録されない制度を悪用して、保育園の入園に際しては母子家庭だと偽っていたのです。

 住民票からは、置野が世帯主になり、置野だけの子どもとして記載され、私の存在は、どこにも記載されない制度になっているのです。

 子どもが通園していた富士保育園は民間保育園であり、園長は、入園の際の契約者として、住民票の書類上からは、私の存在はどこにも確認できなかったの

で、保育園としては、契約者である置野の意向を無視することができないということでありました。

 また当時、子どもは朝鮮籍と日本籍の二重国籍者でありましたが、置野から保育園に対して、そのような説明は一切なく、当然のように、子どもは日本籍者としてのみしか扱われていませんでした。

 離婚も成立していないのに、母子家庭扱いになっているという点に、私は強い疑問を感じましたので、後日、その点について、津市役所の住民課と福祉課に事情を訊ねにいきました。

 まず、住民課では、外国人と日本人の世帯は、外国人登録や住民票の書式から別になってはいても、世帯としては「複合世帯」とのことで、ひとつの世帯であるとの説明を受けました。

 そして福祉課の課長の説明によると、離婚が成立していないのに、民間保育園といえども、置野が母子家庭ということで入園を申請したのは、明らかなまちがいであるとのことでした。

 置野は本件において、私が無断で単国籍化の手続きを為したと、無断という点については、虚偽の主張をしていますが、子どもの住所変更をはじめ、子どもの生活に関わるすべての申請手続きを、置野は、私に無断で、偽りの申請をしてきた経緯があります。

 津市役所での説明を受けて、私は後日、保育園に子どもに会いに行きました。

 保育園では、「子どもは休んでいていません。」との一点の説明に終始し、子どものいるトマト組の教室を見たいと要望しても、園長から断るように指示されているとのことでした。

 私は、そこで園長に対して、母子家庭扱いになっている点はまちがいですよと、津市役所で受けた説明をして、理解してもらおうとしたのですが、園長は、契約者の置野さんから、お金をもらっているので、置野さんの意向を無視できないという答弁に終始する状況で、私は子どもに会うことができませんでした。

 私はその後、何度か子どもに会いに保育園に行ったのですが、いつ行っても「子どもは休んでいておりません。」という返事で、子どもに会うことができませんでした。

 ちなみに、この時期のことを置野は、陳述書(資料1、甲第10号証)のNo29からNo30にかけて述べています。

 引用すると、『・・・けれども園長先生から、「お母さんが、しっかりして下さい。一時の感情で決めてはいけません。子どもは親のおもちゃじゃないんだから、親は自分が会いたいときにやってきて満足するかもしれないけど、子どもがすごく傷つきます」と言われました。・・・被告は、平成3年の2月にも、今度は三重大の偉い教授を連れてやって来たそうです。園長先生は、「自分の権利ばかり主張していました。また、あなたが、母子家庭と偽った保育料を収めているのは違法とも言っていました。子どもがショックを受けるからと言ったのに、強引に子どもに会いに来る人は初めてです。他の人は皆、子どもには直接会わずに、遠くから見ているだけですよ」と言っていました。・・・・・園長先生は、「自分の子どもをさらし者にする親なんているだろうか」と言っていました。・・・・』

 私は、保育園に行った際、保育園の園長が引用されている置野のこういった陳述書の部分について、園長に直接訊ねました。

 このような発言をしたのか、あるいは、私が子どもに会いに来たため、子どもが本当にショックを受けていたのか等を訊ねたのです。

 園長は、キッパリと「そんなことを言ったことは、一度もありません。置野さんがあなたを子どもに会わせたくないと言うだけです。子どもがショックを受けるなどということもありません。」ということでした。

 置野は、自分に都合のよいように、人を巻き込んで平然とウソをつき、デタラメな陳述書を出しています。

 私が特に強調したいのは、この頃から置野はすでに、自分の意思を遂行するために「子どもが傷つく」という引用を盛んにしており、子どもの代弁者を装ったウソの主張をしているという点です。

 客観的に見ても、保育園の園長が、子どもに会いたくてやって来た父親のことを、子どもは親のおもちゃではないなどと発言するはずもありません。また、保育園の園長が子どもを「さらし者」などという表現をするはずもありません。

 置野のこの陳述書には、事実とは異なるデタラメでありながらも、「さらし者」という表現を使ってまでも、子どもが朝鮮人でもあるという点を隠したいという意思が端的に出ていると思います。

 また、離婚裁判時には、あえて出しませんでしたが、置野があまりにも人の名を多用して、平然とウソの主張をするものですから、置野が裁判で人名を出した人に私が会ったとき、その確認をしたことがありました。

 その人は、たいへん驚くと同時に、置野の行為に憤慨しており、当時、一筆書くので裁判所に出してほしいと頼まれていた文書(別添資料4)を、証拠資料として添付します。

 津家裁の審判文では、この離婚裁判を、『激しい訴訟』と評していましたが、裁判の内容は、置野らのウソの主張に対して、私は事実あったことをありのままに整理して陳述したり、証言しただけです。

 私は、置野から提訴されたことに対して反訴しましたが、それはあくまで置野らがあまりにも極端なウソでもって、民族差別の動機から、私と子どもを隔離するために、裁判を通じて、私を犯罪者に仕立てようとする行為に対する言わば身を守るための反訴でした。

 審判文では、何をもって『激しい訴訟』と評されるのかはわかりませんが、ウソの主張に対して、事実関係を主張することが、『激しい訴訟』であると評価されるとしたら、私は心外でなりません。

 また、さらには、次に述べる和解の成立を原審では、『激しい訴訟の末に離婚をまず成立させるための妥協的な措置として採られたものである』と断じていますが、訴訟においては、そもそも置野側が離婚、並び、離縁を求めたのに対し、私のほうも反訴において、離婚・離縁を求めていました。

 したがって訴訟の内容は、婚姻の破綻の原因が何であったのかが争点になり、置野側の激しい民族差別に破綻の原因があったことが、明らかになった訴訟であるのに、民族差別という事実を、離婚を成立させるための『妥協的な措置』として評されることに、私は到底納得できないのです。

五 和解調停への移行から和解の成立まで(1991年9月〜1992年3月)

(1)和解調停への移行が決定した口頭弁論について

 1991年9月6日の第14回口頭弁論において、裁判長から、双方に対して和解勧告の打診がありました。

 裁判長からの説明は、原告(置野)・被告(李)双方の本人尋問が前回(第13回口頭弁論)で終了し、今後の裁判の進行は、双方から出されている証拠申出書にそって、関係者の証人尋問に移行することになるとのことでした。

 そこで、双方の本人尋問が終了した段階で、裁判所としては本件の内容についてはおおむね把握できたので、裁判所から和解勧告をする場合があるとのことで、それについての打診でした。

 私は、その場で、代理人と相談したところ、和解勧告の内容を判断することにも意義があるとのことで、裁判長からの和解勧告をひとまず受けることにしました。

 置野側も、その場で、代理人を通じて、和解勧告を受けるとの意思を示しました。

 裁判長は、双方からの回答を受けて、「それでは次回期日(和解弁論)には、裁判所からの和解案を考えてきます。」とのことでした。

(2)1991年10月18日からの和解調停について

@1回目(10月18日)の調停内容

 和解調停は、私が提訴される前にあった、調停と同じような形式でしたが、調停委員ではなくて、それまで津地裁で裁判を担当された多見谷裁判長が、調停委員になっているという状況でした。

 その日、まず裁判長は、私と置野及び双方の代理人を調停室に呼び、裁判所からの和解案として、「親権は被告(李)に認め、監護者は原告(置野)に認める。」との和解案を発表されました。

 そして「この案を基に、和解調停を進めたいと思います。」と双方に言いました。そして双方個別に、調停が始まったのです。

 まず、置野側が調停室に呼ばれたと思います。

 しばらくたって、私と代理人が調停室に呼ばれました。そこで裁判長から言われたことに、私は驚いたのですが、置野側から、裁判長に解決金として100万円を李に支払うとの提示があったというのです。

 私としては、裁判長から発表された和解案において、親権と監護者が別々になるなどということは、それまで想像したこともありませんでしたので、どのように考えればよいのか、わからない状態でした。

 裁判長から、次回期日までに、こちら(李側)の主張を考えてきて下さいとのことでした。

A1回目の調停を受けて考えたこと

 私は代理人を始め、人権の観点から裁判を支援してくれる仲間たちと、1回目の調停の内容について、議論を重ねました。

 この当時、子どもは4才になっており、私は、監護者が置野になるということについて、それまで私自身が体験してきた置野家の環境で子どもが育っていくことについて、強い危機感をもっていました。

 それは、置野とその親族らが、朝鮮人に対して、あまりにも極端で激しい民族差別の意識をもっており、その強固な意識は修復不可能に私には思われたからです。そんな環境で、子どもが育っていくとしたら、朝鮮人と日本人の「混血」(以下ダブルと記す。)である子どもが、幸福になれるはずがないからです。

 しかし、私は、置野らが私に対して取ってきたように、子どもを母親である置野から隔離しようなどという意識は、当初から毛頭ありませんでした。子どもにとっては、私が父親であるように、置野が母親であることを否定する気持ちは私にはありません。ただ、置野家の環境において、最も子どもにとって不幸な点に、朝鮮人を徹底して差別する置野家の家庭教育のありかたを、私は到底無視することができませんでした。

 したがって当時、私が出した結論として、裁判長の和解案においては、監護権も要求するということでした。

 また、置野側からの解決金100万円の提示は、何に対する解決なのかが曖昧な状態なら拒否しようと考えました。

B2回目(11月20日)の調停内容

 前回の調停を受けて、私が裁判長に回答したのは、まず次のことでした。

 「順序付けするわけではありませんが、まず親権と監護権を優先的に要求します。相手方(置野)の言う解決金は、子どものことが解決した時点で考えますが、内容の示されない『解決金』であれば拒否しますし、額の多少より、『謝罪金』や『慰謝料』という形にならなければ、納得できません。」と回答しました。

 さらに私は、調停室で裁判長に、なぜ私が親権と監護権の両方を要求するのかという点を口頭で説明しました。

 子どもの将来にむけての健全な人格形成については、家庭教育において、正しい人権感覚に裏打ちされた民族教育が重要であり、現時点では置野家にそんな家庭教育ができる根拠がないということを話したのです。

 その上で、しかしながら、子どもにとって、母親としての置野を私には排除する気持ちは毛頭ないことを説明したのです。

 裁判長は、私の説明のひとつひとつに首を縦にふり、あいづちをうってみえました。そして「あなたのおっしゃることは、とてもよくわかります。」と言われ、「相手方にそれを伝えて説得してみましょう。」ということで、私の番は終わり、相手方の番になりました。

 相手方は、私の回答について「検討する」とのことで、調停の次回期日が決定されました。

C3回目(12月20日)の和解内容

 調停室において、裁判長は前回のことを受けて、私の主張を置野に説得したことを言われました。

 そして裁判長は、「相手方は、監護権をどうしてもほしいというのです。」と言われ、私も監護権の要求については、どうしても譲れないと言いました。私は、置野から提訴され、反訴して裁判を続けてきたのも、すべては子どもの将来に向けた健全な教育環境を確保することが、最大の目的であり、動機でしたと言うと、裁判長は、「私には、よくわかるんですけどね。」と言われて、「もう一度、置野さんのほうを説得してみましょう。」と言われました。

 しばらく置野の調停が続いた後、調停室に本人双方とその代理人が呼ばれました。

 そして裁判長は、「双方から話しを聞きましたが、裁判所からの最終和解勧告案を示します。」と言われ、順番に4つの最終和解勧告案を示されました。

 離婚しなさい。離縁しなさい。

 差別的な扱いについて、原告(置野)らは、被告(李)に謝罪しなさい。

 慰謝料として、原告(置野)らは、500万円を支払いなさい。

 親権者は父親(李)、監護者は母親(置野)にしなさい。

 そして裁判長は、「この4つが裁判所からの最終和解勧告案とします。」と言い、次回期日には、この和解案について、双方が回答しなさいということでありました。

D最終和解勧告案を受けて考えたこと

 私は、裁判長から示された4つの最終和解勧告案について、様々な人を訪ね歩いて、相談をし議論を重ねました。

 代理人や私の仲間たちはもちろんのこと、私は、在日朝鮮人の同胞弁護士のところも訪ねました。また、人権教育の専門家や有識者らにも意見を求めました。そして、私の友人たちにも忌憚のない意見をモニタ−するかのように、この当時、私は様々な観点からの意見や議論を求めました。

 私が求める意見や議論のテ−マは、ひとつしかありませんでした。果たして、私や子どもがおかれている状況で、監護者を置野に認めてもよいかどうかという一点についてです。

 なぜなら、裁判長からの最終和解勧告案を受け入れるか、否か、という判断は、監護者が、置野になるという点以外は、私には何の異論もなかったからです。

 最終和解勧告案について、様々な人との議論を通し、私にはひとつの動機から二つのことが整理できました。

 ひとつの動機というのは、私から見た置野がどんな人格であれ、端的には、修復不可能な強固な民族差別者であったとしても、子どもを前にして、私が父親であるように、置野が母親であることは、あくまでも尊重しなければならないという動機でした。

 子どもにとって、母性というより、母親の存在はどこまでいってもかけがえのない存在にはちがいありません。これは父親にしても同様ですが。そもそも子どもの出産時には、私は分娩室の中にも連れ添ったのです。私は、母親の存在の重要性を、この当時は、むしろ素朴な多くの母親たちと議論する中で、幼児にとっての「母親」の重要性を再認識したのです。

 二つの整理というのは、監護者が置野である場合、子どもが朝鮮人でもあるということを、人権教育の観点から視た民族教育の保障を、置野に対して一定の効力があるような担保のある確約を取らねばならないということでした。

 そして、これまでのように、二度と置野らが、私と子どもの隔離をしないように、面接の保障をとることにありました。

 最低でも、この二つの条件が認められれば、私は監護権については、断腸の思いがありつつ揺れながらも、裁判長からの、最終和解勧告案を受け入れてもよいと考える傾向になっていきました。

 この二つの条件を、具体的にどのように条文化するかで、代理人と私の仲間たちの間で、さらに議論が重ねられました。

 当初、私は、子どもに李姓である民族名を名乗らせることを、和解の条件として提案したのですが、代理人から、それは私が親権者であるならば、親権の権利に折り込み済みだから重複することになり、和解条項にはなじまないと指摘されました。

 後にこのことが問題になろうとは、私は夢にも思いませんでしたが、当時は、確かに日本人同志でも、離婚により、親権者の方の姓を子どもが名乗ることが、むしろ一般常識だと指摘され、その通りだと私も思っていました。氏の変更申請資格は、法定代理人である親権者にあるとのことでした。

 いろいろ議論が重ねられた結果、最終和解勧告案の2項の謝罪条項について、『婚姻生活の破綻が、置野側の民族差別によるものであることを認め謝罪し、置野とその親族らは、今後民族差別をせず、朝鮮民族を尊重することを誓約する』という文言にすれば、私の条件を満たすのではないかという結論になりました。

 つまり、差別の謝罪だけでなく、民族の尊重の誓約条項が入れば、今後は、置野らが子どもの監護者として、それまでのように子どもを日本籍者としてのみ扱い、朝鮮人でもあるという点を抹殺する差別的な家庭教育をすることはないであろうし、また、子どもにとって必要な民族教育の担保にもなり得ると考えたのです。

E4回目(1月29日)の和解内容

 裁判長からの最終和解勧告案に、私の主張をもり込むことが、裁判長に受け入れられ、また当日に、置野と合意に至った和解条項を項目別に述べます。

 (1) 離婚する。離縁する。

 これは始めから、双方が同じ主張でしたので、争点にはなっていません。

 (2) 婚姻生活の破綻が置野側の民族差別によるものであったことを認め謝罪し、置野とその親族らは、今後民族差別をせず、朝鮮民族を尊重することを誓約する。

 この条項は、「差別的な扱いを謝罪しなさい」という裁判長から示された和解案を、子どもの民族教育の担保のためにも、具体化させるためには必要だということで、李側が裁判長に提示して、最終和解勧告案として裁判長に受け入れられた条項です。

 当日、置野側は、この条項を認めるということでした。

 (3) 置野側は、慰謝料として、李に500万円支払う。

 当日、置野側は、これも認めるということでした。

 (4) 親権者は父親(李)、監護者は母親(置野)にしなさい。

 親権者を李、監護者を置野とする最終和解案でしたが、当日、置野はもう少し考えたいので返事は、保留させてほしいと言ってきました。

 どのように考えたいのかと、李側が裁判長を通じて、置野に打診したところ、「とにかくもう少し考えたい」とのことで、その内容や方向性は示しませんでした。

 (5) 父子として、子どもとの面接を保障すること。

 この条項も、李側が裁判長に最終和解勧告案に入れてほしいと提示して、裁判長に受け入れられた条項です。

 当日、置野側は、この条項も認めました。

 (6) 置野弱電工事の株を李が返すこと。

 これは当日、置野側が提示した条件ですが、株を返すも返さないも、私は自分が置野弱電工事の株を所有していることさえ、それまで知らされてもいませんでしたから、私が合意を拒む理由は何もありませんでした。

 置野らは、私に無断で、私の名義を利用していたのです。

 置野の保留を除いて、以上のことが調整され、当日に最終和解勧告案として裁判長に受け入れられ、また、置野とも合意に至りました。

 ただし、置野が親権と監護者について内容を示さずに保留しましたが、私は、置野が、監護者も私に認めるというのであれば、私は、その条件で和解に応ずるつもりであることを、裁判長に言いました。

 また、もし仮に置野が、親権を私に認めないというのであれば、和解条件のすべては連動しているので、調整済みの最終和解勧告案でない限り、受け入れることはできないとも言いました。

 裁判長は、調停室で、本人双方と代理人を呼び、置野側の代理人(角谷弁護士)に対して、「和解内容がつまってきましたので、親権者を被告(李)とし、監護者を原告(置野)とすることについて、置野側が納得するように説得しておいて下さい。」と言いました。

 置野側の代理人は、「わかりました。次回は和解調印のため、置野正彦と置野和子が出席しますので、よろしくお願いします。」と応えていました。

 私としては、置野側の代理人がそう言うのを聞いて、次回は、和解が成立するであろうと思いました。

F5回目(2月26日)の和解内容

 私は、当日の調停の冒頭で、前回に裁判長から認められた最終和解勧告案であるならば、和解を受け入れる意思を表明しました。

 ところが、私が裁判長からの最終和解案を受け入れると表明したのち、他方の置野側が、前回合意した条件をひるがえしてきたのです。 

 まず先に述べた前回の合意状況と比べて、置野がひるがえした内容を述べます。

 (2) 謝罪については、「差別的な扱いと誤解されるようなことは、ありました。」ということでもって、謝罪としたい。なぜなら、民族差別的な意識はなかったから、という主張でした。

 (4) 親権については、もう一度、考えさせてほしい。

 (5) 父子の面接は月に一度(当日の当初は、2ヵ月に一度と主張したが、月に一度と変更する。)とする。その約束を履行しない場合は、1回につき、違約金15万円を支払う。

 以上の置野の変節について、私のほうは、前回に裁判長から認められた最終和解勧告案の条件でないと、和解は受けられないし、また、置野がひるがえした条件は、私のほうには検討する余地もないと主張しました。

 これは、おそらく前回の合意内容が、置野の親族らには受け入れられなかったのでしょう。

 当日、置野の変節を知らされて、私が裁判長に話したことは、民族差別の謝罪もなければ、民族尊重の誓約もないという、置野の出してきた条件では、将来に向けて、とても子どもの民族教育など何ら確約されないことは、明らかであるということ。

 また、和解内容の条件は、置野は条項別に考えている節があるが、私のほうはすべて連動しており、どれ一つとっても欠落させたり、変更することはできないので、置野の出した条件には、こちらとしては、考えたり検討したりする余地も、まったくありませんとキッパリと言いました。

 そして、子どもと月一度という制限のある面接条件については論外であり、さらには、子どもとの面接を履行しない場合には、1回につき、違約金15万円を支払うという申し出に至っては、金さえ払えば、また私と子どもを隔離することが可能であると、そう置野らが考えている証拠であることを強く感じると言いました。

 裁判長は、私の話しに終始うなづいておられ、「そうですね。」と同意も示されていました。

 私はそこで改めて、裁判長に、「せっかく和解調停をもってもらいましたが、裁判所から認められた最終和解勧告案でない限り、和解を受け入れることはできませんので、こんな条件を置野が言い出した以上は、もう和解はけっこうですので、判決で決めて下さい」とまで言いました。

 裁判長は、「わかりました。」と言い、本人双方と代理人を調停室に呼び、「和解が成立しても不成立でも、次回期日をもって、和解調停の最終期日とします。」と言い、置野側に最終和解勧告案について「よく考えてきなさい。」と、それまでにない強い調子で言われました。

 当日、私としては、もう判決ではっきりとさせてもらったほうが、後々のことを考えるとよいという考えに傾いていました。

 ここで私は、置野の弟である明の置野に宛てた返信を思い出し、たいへん不愉快な気持ちになっていました。

 「・・多分、親父(正彦)はそこらへんを考えて5年と言ったと思うのです。・・・相手(李のこと)はもはや倫理の通用する相手ではありません故、金を積むか、もしくは右翼でもたのむしかないでしょう・・・」との文面通り、置野は、金を積んだら、私が子どもに会わなくてもよいと本気で考えることができる、その意識が、私にはたいへん醜怪に映り、そんな環境で育っている我が子を不憫に感じ、切なくなったのです。

 私のほうとしては、裁判長に、裁判所からの最終和解案でない場合、わずかな譲歩もする余地がないということを明確にしていましたので、実態として、和解成立の可否については、置野の監護者としてのあり方について、置野側だけが裁判所からの最終和解勧告案の条件を受け入れるか、否か、という状況で、最終和解調停の期日が決められたのです。

G和解が成立した5回目(3月23日)の和解内容

 当日の冒頭に、置野側から、私の親権を1年間だけなら認めてもよいという新たな再提案をしてきました。

 親権を私にすることは、すでに和解の当初から、裁判長も積極的に認めており、私としては、置野がもしかすると、監護者を私に認める可能性もはかないながらも期待していたので、置野の再提案は聞いたその場で、私は、検討する余地がないと一蹴しました。

 また、私が一蹴した点について、裁判長もうなづきながら「そうでしょうね。」と同意を示されていました。

 私が、最終和解期日として、「あくまでも裁判長からの最終和解案の条件でないと、和解を受けることはできません。」と言うと、裁判長は「よく、わかりました、相手に伝えます。」と言い、私は裁判長と置野との調停を、控え室で待っていました。

 しばらくして、本人双方とその代理人が調停室に呼ばれました。

 以下に述べるやりとりは、すべて置野側も同席している場で決定した内容です。

 そこで裁判長から、私に、親権については1年後に協議するということでどうですかと訊ねられました。

 私は即座に、それを拒否して、その理由を述べました。

 「1年後の協議ということは、親権が1年後に変更される可能性があるということのように思われますので、私は拒否します。」と言いました。

 すると裁判長は、「そんなことはありませんよ、協議はあくまでも協議ですから、あなたの親権が変わるということではありません。」と言われました。

 そして裁判長は私に続けて、「置野さんのほうは、最終和解勧告案の条件をすべて飲むということですから、あなたが懸念されていた子どもとの隔離も、民族の尊重の誓約条項もありますから、心配いらないでしょう、ですから、面接状況を踏まえて協議することは、子どもさんの将来について話しあえる場としてもいいのではないですか。」と言われました。

 また、私のほうの代理人からも、「李君、協議は協議以上でも、以下でもないから、協議することは、かまわないんじゃないの、裁判長が言われるように、親権が変わるということにはならないんだから。」と言うので、私が、裁判長の顔を確認のため見ると、裁判長は首を大きく縦にふってうなづかれました。私が「本当に協議というのは、協議以上でも以下でもないのですね、単に協議するというだけなのですね。」と裁判長に言うと、裁判長は、「そうです。」と明確に応えられたのです。

 そこで、私のほうから「だったら、監護者のほうも協議対象に入れてほしいと思います。」と言うと、裁判長は置野側の代理人に「どうですか」と訊ねました。置野側の代理人は、「それで、けっこうです。」と答えました。

 本件における津家裁の審判文で、盛んに指摘されている協議条項は、このようにして決まったのです。

 裁判長は、「それでは、これでおおむね和解が詰まりましたから、後は細かい部分を詰めましょう。」と言われました。

 そこで子どもの面接回数を決める段になり、私のほうから、2週間に2回として、その内、1回は私の家に宿泊させたいと言いました。

 すると裁判長は、「月2回にしたらどうですか」と言うのです。

 私が、「月2回の回数でしたら、子どもに家庭教育をするのは無理です。だから、最低でも一週間に1回は子どもに会いたいと思います。」と言うと、裁判長は「李さんは、誤解してみえますね、あなたは親権者だから、いつでも子どもに毎日でも自由に会えるのですよ。ここで決める回数は、また子どもさんと隔離されないよう、その防止策として、最低の回数を双方に義務として、科しておくという意味なのですよ。」と説明されました。

 私は裁判長からの意外な説明に、安心して「本当に毎日でも自由に会えるのですね、あくまで隔離の防止策として回数を決めておくということなのですね。」と確認を求めると、裁判長は「そうですよ、あなたは親権者なんですからね。」と言われました。

 私は、自分の代理人にも、「本当ですね、裁判長の言われる通り、親権者なら子どもに毎日自由に会えるんですね。」と言うと、代理人は「裁判長の言う通りで、最低2回ということですね。」と代理人は、裁判長に同意を促し、裁判長は「そうです。」と言われたのです。

 そこで私は、「そういうことであるなら、私は月2回ということで、かまいません。」と了解したのです。

 子どもとの面接回数は、こういった経緯で決定されたのです。

 また、子どもの養育費についてですが、これは裁判長からも、置野側からも和解では終始出ませんでしたので、私は、自分のほうから裁判長に子どもの養育費を置野に月々支払いたいと主張しました。

 裁判長は私の主張を受けて、「月どれだけ払いますか」と訊ねられました。

 そこで、私が「毎月4万円づつ、子どもが成人するまで払いたいと思います。」と言うと、裁判長は置野側に「どうですか」と訊ねました。

 置野側の代理人は、「それでけっこうです。」と言うので、養育費の支払いが決定しました。

 子どもの置野への養育費の支払いは、このように、私のほうから自主的に主張して認められた条項なのです。

 そして置野側からは、慰謝料の支払いについては、会社(置野弱電工事)の経営状態が苦しいので、1年間に100万円づつということで分割にしてほしいとのことでした。

 私のほうは、何の反対する理由もありませんので、それで承諾した次第です。

 和解成立が確定する中、私のほうから裁判長に質問もしました。それは、置野の両親である、正彦と和子のことでした。

 1月29日の4回目の和解調停の最後に、置野側は、正彦と和子が、和解調印のため出席すると述べていましたが、正彦と和子は、最終和解期日の当日になっても、地裁の裁判を含めて、とうとう最後まで一度も裁判所に来たことがありませんでした。

 和解条項は、離縁もあることから、少なくとも正彦と和子も当事者として、裁判所に出席して調印するというのが通常ではないかと、私は思ったのです。裁判長は私の疑問に対して、「通常は出席するのが普通なんですけどね、どうしたのですか」と置野側の代理人に訊ねられました。

 置野側の代理人は、「仕事でちょっと来れないということで、二人についても私が代理人になっていますので。」という返事でした。

 続けて私の代理人が、「まあ、李君、普通なら出席するのが通常なんだけどね、けど、出席しなくとも、この和解条項は、正彦さんや和子さんにも、同じ効力があるから心配しなくていいよ。」と言うと、裁判長は「そうです。」と言われました。

 私は内心、感情的な和子が裁判所に出てくると、私に対するそれまでの和子の差別的な態度が裁判所で明らかになってしまうため、置野側の代理人が和子の出席を断ったのだと思いました。

 このようにして和解が成立し、最後に裁判長のほうから、「双方、離婚はしましたが、これから子どもさんのためにも、和解条項を守って、良い関係を築く努力をして下さい。」と言われ、私は「努力したいと考えています。」と答え、置野は小さく「はい」と答えました。


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