平成8年ラ第66号即時抗告申立事件

陳述書(3)

抗告人  李 在一
相手方  置野昭子

 上記当事者間の頭書事件について、相手方の主張に対する私の認識及び反論について下記のとおり陳述致します。

1997年5月12日
  抗告人  李 在一

名古屋高等裁判所民事1部 御中

六 原審の決定結果について

 原審では、私が子どもを朝鮮籍へと単国籍化したことが、子どもの福祉に反するという理由でもって、親権を相手側に与える決定が下されました。また原審では、子どもを日本籍へ帰化させるという相手側の意向を肯定さえしていますが、私や子どもにとって親権を相手側に変更するという原審の決定は、私からの親権の剥脱以外何物でもありません。「親権の剥脱」という決定そのものが、私には到底納得できませんが、それ以上に私としましては、朝鮮籍への単国籍化が子どもの福祉に反しているとされた点が極めて遺憾に思います。

 この点に関して、なぜこのような決定が下されたのか私は原審の決定文の一言一句を噛みしめてみましたが、随所に事実誤認があるにしても、私が親権を剥脱されるほどの理由としては、私にとって原審はいささか抽象的であり、理解しがたく思いました。

 ところが抗告の本件に及んで、原審段階で相手方からたくさんの主張の書面が出されていたことを私は初めて知りたいへん驚きました。さらに驚いたことはすでに出されていた相手方の主張内容についてです。そこにはあまりにも事実とはかけ離れた虚偽の主張が多々あることです。いうまでもなく私は裁判制度については素人ですから詳しく知りませんが、それにしても原審では相手方の主張の真偽について私には答弁の機会さえ与えてもらえなかったことが残念でなりません。

 私がこのように強く思うのは、原審で2年間ほど継続してもたれた調停において相手方は私に対しては親権の変更を求めたわずかな文面の提訴状以外に如何なる主張もないと言い、そしてこちら側からの質問には如何なる答弁もしないという姿勢を一貫して表明していた事実経過があったからです。

 相手方は日常生活においても子どものことについて離婚成立以降も引き続き、私に対しては無視と沈黙と拒絶ばかりでした。ですから相手方から親権の変更が提訴された原審段階の調停の場において、私は相手方に幾度も子どものことに関して話し合いを要望したのです。ところがたとえば原審で相手方の代理人であった中村弁護士からは、調停の席上で話し合いを要望する私に対して「憲法には言論の自由がある、言論の自由の中に沈黙する自由もある、従って私が沈黙するのは憲法を守るためなのだ」という、私にとっては詭弁としか思われないような言でもって、私とは如何なる話し合いもする必要がないと表明されもしてきたのです。

 したがってその結果として原審の決定は、相手方の一方的で多くの虚偽をおり交ぜた主張がそのまま裁判官に受け入れられているという質の重大な事実誤認があることを私は抗告に及んで改めて述べたいと思います。

七 相手方の主張について

 原審段階と本抗告において、相手方は「裁判所にだけ」に対し共通して一貫した主張があります。それは離婚成立後に私が子どもの国籍を朝鮮籍へと単国籍化したことにより、まるで日本人から突然「外国人」になったとして、そのことが原因で子どもの福祉に反した著しい不利益があると主張しています。また子どもの「姓」が置野姓から李姓へと変わったことを、子どもの「名前」が変わったとして、そのことが原因で子どもの学校生活を中心とする日常生活において、子ども自身がたいへん苦しんでいるとも主張しています。 その上で、 こういったことが新国籍法に反しているとか、子どもの権利条約に反している、あるいは子どもの基本的人権までも侵害していると主張しています。

 相手方のこういった主張を踏まえて、以下に述べたいと思います。

八 子どもの養育について

 原審判文には前提として、子どもの「福祉」と「教育」というものを別々のものとして切り離して判断されているような印象を私はもちました。しかしながら、私は本件のように発達段階の途上にある幼いわが子の場合、福祉と教育は一体不可分なものであると考えています。それは子どもの福祉に反した教育は許される教育ではなく、また健全な教育が子どもの福祉に反するなどということは社会的にありえないと思います。そして子どもの「福祉」と「教育」は同一のものとして親として当然のことながら養育していく責任と義務があり、またそこにはかけがえのない喜びや生きがいがあると思います。

 さて本件における子どもの養育について、私と相手方とは明らかに養育方針が異なっている点があります。相手方は盛んに朝鮮籍への単国籍化と李姓への変更について子どもの代弁者を装いながら、そのことを徹底して拒絶しています。この点について養育方針が異なっている状況を仮に原審のように、私と相手方との「確執」だと表現されるならば、この「確執」の起点は、相手方との結婚後の子どもの出産前から始まっていた事実をご理解願います。そしてこの「確執」の内容が相手方とその親族らによる激しい民族差別の動機から始まっていることも、先の離婚裁判における和解内容に示されている事実としてご理解願います。

 改めて言うならば、私は日本人である相手方との結婚に際して自己が在日朝鮮人であることを隠したりしていません。また結婚前も結婚後も相手方及びその親族らから私は執拗に「帰化」を強要される日々が続きましたが、この点に関して私は当初から一貫して同意しないということを相手方に表明してもいました。

 「帰化」に私が同意しないことから相手方及びその親族らから一丸となって私は罵倒される結婚生活の中でも、私はやがて生まれてくるわが子に父親としての喜びと生きがいを強く感じていました。当然のことながら私は子どもが生まれたら、家庭内で朝鮮人としてのル−ツを子どもの発達年齢に応じて教えていくつもりでした。なぜなら母親が日本人であり、父親が朝鮮人という「国際結婚」の基に生まれてきたという子ども自身の出自を相手方のように隠さなければならないなどという考えなど私には少なくとも微塵もなかったのです。

 ところが相手方やその親族らには、子どもが朝鮮人でもあるという出自からして隠さなければならないものだという頑なな固定観念がありました。まして私が子どもに対して家庭内で朝鮮人でもあるということの民族教育をしていくことの必要性を明らかにすると相手方は問答無用という形でひたすら、私を子どもから隔離すること及び排除することに躍起になりました。それは私に自殺することを要求したり、ときには暴力を用い、また私が極悪非道な人間だと離婚理由を捏造してまで私を子どもから排除しようとしてきました。現在に至る相手方によるこれら一連の行為は、子どもから朝鮮人でもあるということを消し去ろうとするために、子どもから父親である「私」や私の親族らを排除しようとする目的以外の何物でもありません。

 一般的に子どもの養育という家庭内教育については個々の家庭それぞれに特色があることでしょう。わが子の場合、当時の私が考えたように、私が父親として相手方との協力の下に家庭内で朝鮮人でもあるという民族教育をしていこうとすることは、到底反社会的なことだと私には思えません。むしろ日本人と朝鮮人との間に生まれた子どもにとってそのことを教えていくことは自然なことであり、現実にこれから日本社会の中で生きていく子どもにとって必要なことであると私は思います。

 私にはダブル(「混血者」のこと、以下ダブルと記す。)の出自をもつわが子にそのことを教えようとせず、相手方のように朝鮮人でもあるということを隠し通そうとする養育の有り方のほうが異常に思えるのです。私にはそういった相手方の養育方針のほうが良識的な社会規範からも逸脱しているように思えて仕方ありません。それほどまでに朝鮮人を嫌うなら相手方は最初から私と恋愛結婚をしなければよかったのです。

 相手方の親族らは結婚話が出た当時から、どうしても私を劣等感のある在日朝鮮人だと勝手に決めつけ、日本人になりたいにちがいないと勝手な憶測を押しつけてきましたが、少なくとも私は相手方に対しては恋愛期間を通じて在日朝鮮人であることの意義を自分なりに精一杯説明してきたつもりです。そのことに相手方はたいへん積極的な理解を示していたからこそ私とは恋愛から結婚に進展したのです。そのくせ子どもの出産の時期になって、相手方がその両親に同調してこれほどまでに朝鮮人を嫌悪し蔑む人格になろうとは私には想像もできませんでした。

 たとえば私が相手方に対して情けなさを通り越し切なくさえ感じることは、原審段階の主張にわが子のことをある日突然「外国人」になってしまったというような文言があることです。私は在日朝鮮人として日本人から「外国人」と呼称されることに違和感はありませんが、身内の者のことを「外国人」と記述できてしまう相手方の感性には今さらながら暗澹たる気持ちになります。

 この陳述書は審理して下さる貴裁判官に述べているつもりですが、この場を通じて相手方に一言いいたいのです。子どもは「外国人」じゃなくて「朝鮮人」です。そして新国籍法をもって私を批判する主張もしているのですから、子どもの出生の時点から日本人でもあり朝鮮人でもあったことを十分に知っているはずです。それをある日突然「外国人」になったという記述はあまりにも情けなく思うのです。

 このように原審において「確執」と表現されている子どもの養育方針をめぐる相手方と私との問題が顕在化した時期は、和解成立後に私が単国籍化した時期からではなく、また先の離婚裁判中でもなく、子どもの出産前に私が家庭内で民族教育の必要性を相手方らに明らかにした時期から始まっているのです。先の離婚裁判において相手方が提訴し私が反訴で応じたのは、離婚や離縁を求めてのことではないのです。最大の争点は子どもの親権、すなわち結婚当初から始まった相手方らの朝鮮人でもあるという事実を執拗かつ強引に隠し続けて子どもを養育しようとしてきた経緯さえなければ、本件に至るような問題は生じていないのです。

九 相手方の養育姿勢について

 私は相手方が、子どもの朝鮮人性を無視して日本人としてのみ養育しようとしてきた姿勢は、子どもにとって有害であると考えています。それは人格形成期の途上にあるわが子に人格破綻を強いる危険な養育姿勢です。たとえば相手方は子どもがすでに日本人としてのアイデンティティ−を有していると主張していますが、その点については私も同感です。日本で生活しているのだから日本人としての自意識が育まれることは当然であり自然であると思います。その点について私には何の問題も異論もありません。

 しかしだからといって相手方は他方の朝鮮人としてのアイデンティティ−がどうして必要でないと考えることができるのでしょうか。相手方と私と決定的に異なることは、相手方は日本人と朝鮮人の二つの民族性を有している子どもに対して、日本人としてのひとつの民族性しか認めておらず、朝鮮人としての民族性は混在してはならぬものして、朝鮮人性は排除すべき対象としか捉えていないことです。比べて私は相手方のように日本人性を排除する対象であるなどとは当初から毛頭考えておりません。私は社会制度の観点からではなく、二つの民族性は一人の人間の中で対立するものではなく矛盾なく十分に共存できる性質があると考えているのです。

 たとえば在日朝鮮人について特段の知識がなくとも、子どもが日本と朝鮮の二つの民族性を有していることを相手方は知っているはずです。子どもが二つの民族性を有しているという事実を放置した相手方の養育姿勢は、これから実社会の中で生きていく子どもの監護者として、さらには子どもの実の母親としてあまりにも無責任です。いみじくも相手方の主張の中に朝鮮人でもあるということについて、「幼い子どもに背負わせるにはあまりにも重荷です。」という箇所があります。これは結婚当時、相手方の父親である正彦が私の母親に、「生まれてくる子どもが朝鮮人と知られたら身が切られるように痛い。」と述べた内容と同質の表現であると思われます。「重荷」ということも「痛い」ということも、前提に朝鮮人が劣った存在だとして敵対的な蔑視観がなければ到底出てこない文言です。

 私が相手方の養育姿勢が無責任だという理由は次の通りです。子ども自身がこれからの人生において、在日朝鮮人でもあるということを「重荷」に感じることがあるかも知れません。また「身が切られる」ような思いをすることもあるかも知れません。確かに私自身も在日朝鮮人2世として自己の成育歴において苦悩した体験もあります。相手方らはそういった子どもの「痛み」を想像できていながら、それを解決していこうとするどころが、あえていうならば逆に子どもの「痛み」に塩をすりこむが如くの苛酷な行為をしているということがどうしてわからないのでしょうか。なぜならば「痛み」を感じる当事者は子ども自身なのです。

 それは何故の「痛み」なのでしょうか。それは朝鮮人であることが人として劣っているという誤った価値観を受けて、当事者自身からして朝鮮人であるということが恥ずべきことだという意識からのみ出てくる「痛み」です。当人に朝鮮人が恥ずべき存在ではないという自覚さえあればその種の「痛み」は容易に克服できます。逆に当人が朝鮮人でもあるという自己の出自に劣等感をもち、隠さなければなならいことだという意識であれば、その「痛み」は増幅されていくばかりです。その弊害は当人に歪んだ人格が形成されるだけでなく、実際に自殺にまで追い込まれた実例は決して少なくありません。あるいは「帰化」した人々も含めた在日朝鮮人の教育に関する書籍を読めば、現実に何人もの在日の若者が成育歴において自殺を考えたことを回顧しています。それらすべてに共通しているのが自らの民族性を「隠し続けた」という点なのです。

 相手方は、子どもを「だからこそ日本人にするのだ。」という考え方をしているようにも思います。日本人になれば前述したような問題が解決できると考えるのでしょう。もしそうであるとするならば、この点が相手方の養育姿勢の最大にして根本的なまちがいなのです。私は子どもが生まれた当初からわが子が日本人になることについて反対なのではありません。相手方には改めてよく考えてほしいのですが、日本人になったからといって、前述した問題がどうして解決されると考えられるのでしょうか。子どもは一個の独立した人格を有する人間なのです。

 一人の人間にとって国籍は変更可能ですが、自らの出自は変更できません。問題の原因は国籍の所在にあるのではなく、これから生きていく上で子ども自身が自らの出自を自らが卑下し逃避しようとする意識になるか否かにあるのです。もし逃避する意識になってしまったとしたら、そのことこそが子どもの人格を破綻へと向かわせる原因になるという現実を、相手方は少なくとも子どもの母親として監護者として理解する義務すら私はあると思います。私は父親として将来特に子どもの思春期においてひょっとしたら反発されることも予想されるのかも知れません。しかし相手方が子どもに強いてきたような質でわが子が私を嫌悪するようなことはないと、私はわが子との関係においてそう確信しています。

十 相手方の主張する子どもの苦しみ及び不利益について

 相手方は原審段階及び本抗告においても、朝鮮籍へと単国籍化したこと並び李姓になったことが、子どもの学校生活を中心とする日常生活で如何に子ども自身に苦しみをもたらしているのか、及びそのことが如何に子どもにとって不利益な事態になっているのかということを盛んに主張しています。

 いうまでもなく相手方自身が朝鮮籍への単国籍化と李姓について、激しい嫌悪感をもっていることについてはすでに相手方の主張からも十分にうかがえると思います。相手方の主張内容においてはそういった相手方の嫌悪感を、子ども自身が苦しんでいるという形で子どもの代弁者を装いながら展開しています。そこでここでは、相手方自身がもっている嫌悪感は別にして、まず子ども自身が朝鮮籍への単国籍化と李姓について本当に相手方の主張するように、子ども自身が日常生活で苦しんでいるのかどうか、あるいは日常生活で不利益を被っているのか、その真実を述べたいと思います。

 子ども自身の苦しみについて

 相手方は子どもの姓が李姓になったことにより、学校で子どもが李と呼ばれることから子ども自身がそれを嫌い、それが原因で楽しいはずの学校生活に緊張を強いられ深刻な苦痛をもち耐えがたいストレスとなってこのままでは不登校になる恐れもあると主張しています。あるいは子どもの心をズタズタにしていることが立て続きに起こるというような表現で、子どもの苦しみを強調しています。

 しかし相手方の子ども自身が苦しんでいるという主張は虚偽であり、また相手方の嫌悪感を子どもに強要して捏造された主張でもあり、実態とは異なっているのです。

 なぜなら子ども自身は相手方が主張しているように、学校生活において苦しんでいるということは決してありません。たとえばその証拠として子ども自身の3学年の「よい子の記録」(通信簿)を添付します。(資料5)

 この通信簿には、子どもの学校生活における生活実態が示された「行動のようす」という欄があります。「行動のようす」については通信簿の裏面に「この欄は、他の児童との比較ではなく、その子ひとりひとりのようすについて「よくできる」と判断したものに〇印をつけました。」という説明文が記載されている性質の欄です。

 そこには1学期から3学期を通じて明朗・快活という項目のところに〇印がついています。そして明朗・快活の内容には「明るくはきはきとし、楽しく生活する。」と記されています。また3学期の欄では、思いやりの項目にも〇印がついています。内容には「だれにでも温かい心で接し、親切にする。」と記されています。

 このように本件とは無関係な公立小学校の担任教師が子どもの学校生活については、一貫して明朗・快活であると評価しているのです。この担任教師の評価は、学校生活で子どもが苦しんでいるという相手方の主張とは正反対に矛盾した評価になっています。これまでの子ども自身の学校生活においても私が担任教師からお聞きしていることは、子どもは平均水準以上に活発かつ積極的であり、クラスの児童の間でも人気者であり、楽しく学校生活を謳歌しているということでした。 さらに通信簿の出席状況からも明らかなように、相手方の主張するような不登校の恐れであるとか、耐えがたいストレスの影など微塵もないというのが事実なのです。朝鮮人を嫌悪する相手方の自己の身勝手な願望を遂行するために、このように事実とは正反対の子どもの学校生活を主張することは、明らかな虚偽であると思います。

 また、相手方は李姓が嫌だという子どもの書いた作文をもって、子ども自身の苦しみを訴えてますが、これは原審段階においても裁判官宛てに出されていた子どもが保育園の頃に書かされた手紙と同質のものです。

 相手方は4歳児の頃から子どもの体に32箇所も置野姓を貼りつけたりして子どもに置野姓を強要してきました。私が息子に李姓のことを説明したとき、幼い息子から聞いたことは、李姓をぬりつぶして置野姓に書きかえないと、家から放り出すと言われているということでした。4歳児の子どもにとって、「家から放り出す」と脅されることが如何に激しい強要であるかご理解していただきたく思います。

 したがって子どもの書いた作文は、原審段階の裁判官宛ての手紙同様に子どもが自主的に書いたのではなく、書かされて書いたものでり、決して子どもの真意ではないということを述べたいと思います。また、相手方が子どもに対して李姓を嫌悪し置野姓を強要してきたこれまでの経緯の中で、相手方らが子どもに暴力を振るったこともあるということを述べておきます。

 子どもの不利益について

 相手方は、子どもを朝鮮籍の単国籍にされたため子どもの生活に不利益が被っていると主張しています。相手方が主張している不利益については、社会生活上に生じた不利益と、相手方自身の自己のメンタリティ−における不利益とが混在されて列挙されていますが、ここでは主に相手方が主張する社会生活上の不利益について述べたいと思います。

 本件における私が知る限りの情報において相手方が主張している社会生活上の不利益については、@子どもの姓を李姓にせよと社会保険事務所に強く訴えたため、子どもの社会保険が使用できなくなったこと、A日本国籍をもっていないために小学校入学の権利がなく、津市長による特別の配慮でやっと入学できたこと、B日本国籍をもっていないために母子家庭医療受給資格がなくなったこと、などを相手方は子どもの単国籍化を原因として生じた不利益であると主張しています。

 まず結果から述べますと、相手方の主張にあるように単国籍化によって子どもが社会生活上不利益を被っている事実は1点として存在しておりません。

 しかし相手方が子どもの住民票の機能にも該当する外国人登録を拒否したために、子どもの住民としての法的地位が公証されないことから社会生活上に何らかの支障が出るのではないかとむしろ私自身が懸念してきました。

 これは津市法務局において子どもの朝鮮籍への単国籍化は認められ確定したものの、そこで私は担当官から単国籍化に伴い、義務として子どもの外国人登録を履行するよう指示を受けました。担当官の指示に従い津市役所の窓口で子どもの外国人登録履行の手続きをしたところ、未成年者の場合の代理申請者として私が親権者であっても子どもと同居していないことが外国人登録法第15条2項に定める同居人資格の範囲に該当しないという理由で、私からの外国人登録が申請から3ヵ月後に津市によって却下された経緯があります。

 そして当時津市の担当職員から外国人登録の代理義務は子どもと同居している者に科せらるので、子どもと同居している本件における相手方とその親族に義務があるとのことでした。相手方は科料に処せられても外国人登録の履行義務を現在まで果たしておりません。

 これは相手方が一般に悪法の名高い外国人登録法に反発する動機から外国人登録の不履行を続けているわけではありません。朝鮮籍を認めたくないという意思が招いた外国人登録制度への無知によることが原因になっています。

 なぜなら子どもはすでに朝鮮籍になっていることは合法的に確定した状態になっているのですから、外国人登録の有無によって国籍が変更されるわけではありません。したがって子どもの立場からみれば朝鮮籍は確定されているものの、登録されないことにより住民としての権利が脅かされる恐れが残るのです。

 たとえば仮に相手方の意向でもある子どもの日本籍への「帰化」申請手続きにも、外国人登録は絶対要件となっていますから、無登録の状態を放置することは日本籍の取得にも道を閉ざすことになるのです。

 私が子どもを単国籍化する以前から相手方は私に対して沈黙状態で如何なる話あいも拒絶していましが、そういった相手方の姿勢は単国籍化以降も何ら変わりはありませんでした。

 そこで相手方の無登録状態を放置する態度は頑なであることを思い知らされた私は、子どもの生活上の支障を解決するためにやむなく、1993年の1月11日に子どもの外国人登録を求めて津市を相手どり行政訴訟を提訴しました。この行政訴訟では一審、二審ともに私の敗訴という形になりました。その判決の要旨は子どもが無登録におかれていることは好ましくないが、無登録状態によって子どもの社会生活上においての具体的な不利益はないので救済するまでに至らない、よって却下するという判決文になっています。

 私としては無登録状態でも本当に具体的な不利益はないのだろうかと少々疑問に思うのですが、長い審理期間を経た上の判決ですので、とりあえず社会生活上の不利益はないと判断してもよいと思います。

 そこで不利益を述べている相手方の主張にもどりますが、まず@の社会保険事務所を私が訪れたのは、李姓の記載を求めて訴えにいったのではありません。子どもが無登録状態であるため保険の適用が除外される心配があり、その確認に行ったのです。社会保険事務所では無登録でも社会保険の適用については心配ないと確認でき安心した次第ですが、その際子どもが置野姓から李姓になっていることを指摘したのにすぎません。したがって相手方が子どもの社会保険が使用できなくなったというのは虚偽です。

 Aの小学校入学に際して、相手方は日本国籍をもっていないため、小学校入学の権利がないと主張していますがこれはまちがいです。 在日朝鮮人及び日本に定住しているあらゆる在日外国人の児童には、内外人平等をいうまでもなく教育を受ける権利は法的並び社会的にも保障されています。

 また津市長の特別の配慮でやっと入学できたと主張していることは、日本国籍をもっていないからでなく、子どもが無登録であることから超法規的措置の入学になったのにすぎません。

 もっともここでいう超法規的措置とは、子どもが無登録であるために形式上小学校入学の案内状を津市が郵送できないという事情にとどまる範囲のものにすぎません。

 子どもの小学校入学については私もたいへん心配でしたので、何度も津市教育委員会に足を運び確認してもきましたし、その際直接私が就学届けの手続きをしてきた経緯があります。

 相手方は小学校への入学について原審段階では私から就学届けが出されていないから入学が確定していないとか、教育委員会からは何の連絡も受けていないとか、入学説明会に参加もできなかったのでさっぱりわからない状態であると主張していますが、これらはすべて虚偽の主張です。

 なぜなら、相手方とて津市教育委員会に市会議員を同伴させて入学については子どもの李姓の使用を禁じるよう再三にわたって強い抗議を繰り返していたからです。したがって就学届けの件も入学の確定のことも、また入学の説明会のことも津市教育委員会を通じて相手方は事前に知っていました。そして入学説明会の当日に相手方は受けつけまで来ていながら李姓の名簿を見るなり参加せず帰っていったと担当教師から聞いております。

 さらに原審段階で相手方は、津市教育委員会から法的に相手方が親権者にならなければ子どもの利益は守れないと言われたと主張していますが、この点について荒木教育長をはじめ教育委員の方々に確認したところ、「そんなことをいった事実は一度たりともありません。」とはっきりと言われました。

 Bにおいては、相手方は日本国籍をもっていないため母子家庭医療受給資格がなくなったと主張していますがこれもまちがいです。朝鮮籍でも医療受給資格は日本籍者と同様に平等です。医療受給資格がなくなったのは相手方による外国人登録義務の不履行によって子どもが無登録状態になったことが原因なのです。

 またこの点については後日津市から市条例を改正してまで子どもの医療受給資格を認めていただきました。私としましては、市条例の改正は津市行政が人権に配慮していただいたこととして受けとめています。

 けれども外国人登録を求めて私が(裁判の形式上、津市を相手取って)提訴した行政訴訟において、実態として子どもの具体的不利益の有無が争点になっていた時期と市条例改正の時期が重なることから、やや複雑な心境にもなりますが、結果的に子どもの不利益がなくなったことについてはありがたく思う次第です。

 相手方は子どもの単国籍化によって、福祉面、教育面で様々な困難にさらされていると述べた上で関係各庁において相手方の家族で子どもを守ってきたと主張しています。けれども相手方の朝鮮人に対する激しい嫌悪感の心情を別にして、客観的な社会生活上の困難があるとすれば、外国人登録義務者である相手方の義務不履行により子どもを無登録状態に放置している相手方の行為から生じる困難なのです。科料まで処せられているのに、それを関係各庁において子どもを守ってきたというのは支離滅裂な方便であると思います。

 子どもの真意について

 私は子どもの幼児期には相手方から不当に隔離されてきました。相手方は私から子どもを強引に隔離しておきながら、その事実は無視して私が子どもの育児に無関心であったなどという虚偽をならべたて、子どもを相手方だけが養育してきたことを盛んに主張しています。

 たとえば原審段階では、「子どもにとっての家族は、私(相手方のこと)を含め、私の両親、兄弟たちなど長年共に暮らしてきた者たちをさしている」とまで主張しています。このように相手方は現在に及んでもなお、私を子どもの父親だと認めていないばかりか、そのことを子どもに強要している実態があります。

 しかし相手方のそういった身勝手な思惑に反して、子どもはすでに私を父親だと認識しています。現在わが子は小学4年生になっており、相手方と私の関係について子どもは年齢相応に子ども自身の思いがあります。そのことを子どもの真意として述べたいと思います。

 ところで私が子どもの真意を本件で述べるあたって、まず貴裁判官に理解しておいていただきたいことから述べたいと思います。まず相手方は子どもと同居していることから、子どもの「代弁」についてはイニシアチブをにぎっていると考えているように思います。

 本件は子どもをめぐってのことであるから、相手方は子どもと同居していることを本件で有利だと考え、盛んに子ども自身の意思を尊重せよと主張することで相手方自身の意図を主張しています。私は相手方が本件においてそのように子どもの存在を利用することは、子どもに対してたいへん残酷なことだと認識しています。

 いみじくも相手方は子どもが母親を慕っており、子ども自身が相手方に親権者となるよう強く希望していると主張しています。これらの主張は要するに「子どもに親を選択させろ」という主張に等しいと思います。相手方の主張は、幼い子どもに「おまえは母を選ぶか、父を選ぶか」という問いをつきつけているに等しいことです。相手方の「子どもは母を選んだ」というような主張に、もし仮に私が反発して「いや、子どもは父を選んだ」などという主張をしたとしましょう。客観的には子どもの取りあいだと映るのかも知れませんが、このことは子ども自身にしてみれば父母のいずれかを否定することを強いられるという、人としてきわめて残酷な発想でしかありません。

 もとより相手方の中では当初から私は子どもの父親であってはならないと考えていますが、子ども自身には当然のことながら父母のいずれかを否定するような考え方はないのです。私は父親として子どもの真意を述べるにあたり、父母のいずれかを否定するかのような意味で子どもの真意を述べるのではないということをご理解していただきたく思います。

 したがって本件においては、子どもをめぐる問題にはちがいありませんが、その責任や原因は相手方と私にのみあるのであって、親子関係を客観的に社会認識するであろう子ども自身の将来において、子ども自身に本件を左右させるかのような形の如何なる解決も、私は親として子ども自身には何の責任もないと認識していますので、私自身としましては本件においてはあくまで私と相手方の関係に留まる範囲内で審理していただきたいことを強く望みます。

 子どもの真意は、相手方と私の双方に仲良くしてもらいたいということにつきるのです。

 なぜなら子どもにとって、相手方から李姓をぬりつぶしたり嫌っているというような作文を強要されたりすることは、相手方の思惑のように朝鮮人が嫌いになったり李姓が嫌いになったりするわけではありません。子どもにとってはその都度、自分の両親は如何に仲が悪いかということを相手方から思い知らされるだけなのです。相手方は子どもに自己の意思を表現する能力があると主張していますが、子どもにとって国籍や李姓の意味はまだ自己認識できるほどの年齢に達しておりません。ですから、子ども自身にとっては両親が不仲であるということを悲しく思うのみです。

 私はそんな息子の胸中を知っていますので、現在まで一貫して子どもを前にしたときは、最大に相手方を子どもの母親として尊重する姿勢を示してきました。その結果、子どもはまるで憧れや夢のように、自分の両親がいつの日か仲良くなることを願い期待しているのです。私は息子のそのような胸中に触れるたびに心底切なくなってしまいますが、これが本件に関わる子どもの真意であり、子どもにとっての真実はそれ以上でもそれ以下でもありません。

十一 新国籍法と子どもの権利条約について

 相手方は、子どもが李姓になったことや朝鮮籍へと単国籍化したことを、二重国籍状態にあったのだから、将来子ども自身に選択させる道を奪ったとして、このことが二重国籍を認めている新国籍法に反しているとか、子どもの意思を無視しているとして子どもの権利条約に反していると主張しています。私はこういった相手方の主張に対して、相手方が引用している新国籍法や子どもの権利条約に反しているのは相手方であるということをあえて主張することで反論としたいと思います。

 新国籍法について

 1985年の1月1日から新国籍法が施行されました。それまでの旧国籍法の下では、父の国籍が子の国籍となるため、それが女性差別になると指摘されたからだということです。そこから子どもが最長22才になるまで父母のどちらの国籍も与えることができるという新国籍法に改正されたのです。そこで新国籍法の趣旨に留意していただきたいのですが、新国籍法は男女平等である父母両系主義を実現させるための改正です。相手方が主張しているような「国際結婚」の間に生まれた二つの国籍をもつ子ども自身にとって、二つの国籍を平等に扱うという趣旨の法改正ではありません。

 たとえばそのことは日本人と外国人の間に生まれた子どもの出生届けが出された時点で自動的に男女問わずまず必ず日本人の配偶者の戸籍に就籍されて、実社会では日本人としてのみカウントされる制度になっています。したがって二つの国籍を有しているとされる子ども自身にとっては「日本籍」だけが社会的に認知される制度になっており、他方の「外国籍」はいずれの国籍を選択するか22才まで留保できるという潜在的な位置にしかありません。新国籍法ではこの「留保」できるという点が、父母双方の国籍について男女平等である父母両系主義を反映しているというものです。

 すなわち新国籍法における子どもの国籍の行方は、明らかに父母両系主義という両親双方の意思と判断に委ねられている制度であり、子どもの国籍について両親の意思が無視されるような制度ではないのです。ですから「子どもが国籍を選択できる」という意見は、あくまで両親が子どもの選択に任したという両親の選択肢のひとつにすぎません。

 相手方が新国籍法に反していると私が主張する根拠は次の通りです。新国籍法の下では子どもの国籍について三つの選択肢があります。

 わが子の場合、@日本籍、A朝鮮籍、あるいはB子どもに成人してから選択させるという選択です。

 相手方は本件において盛んにBを主張していますが、子どもに対してBの選択をした場合には前提条件が必要になると私は思います。その前提条件とは子ども自身に国籍を選択させるのであれば、少なくとも当然のことながら子ども自身に二つの国籍それぞれについて「選択」できるほどの材料を親として子どもに与える必要が生じることになると思います。

 Bの選択の場合、子どもの国籍について親として放置してよいという選択ではないはずです。相手方は放置どころか、子どもの出生から一貫して実態として相手方は単独で子どもに対して@の選択を強行してきました。これは男女平等の父母両系主義に反する態度です。もし仮に相手方がそれでもBを選択してきたのだと主張するのであれば、二つの国籍を有していた子どもに対してどのように朝鮮籍について説明してきたのかを述べる必要があると思います。したがって私は実態を無視して新国籍法を引用した相手方の主張こそ、父母両系主義という新国籍法に反した方便であると思います。

 子どもの権利条約について

 相手方は、子どもには李姓と朝鮮籍を嫌がっている意思があるので、嫌がっている子ども自身の意思を尊重すべきであって、そういった子どもの意思が尊重されていないことが子どもの権利条約に反していると主張しています。

 具体的には相手方は子どもの権利条約における7条「名前・国籍を得る権利、親を知り養育される権利」、8条「アイデンティティの保全」、12条「意思表明権」等の各条項に従えば、子どもの姓名は置野聖徳しか存在しないと主張しています。

 相手方のこのような主張については、私は客観的にも欺瞞であると思います。なぜなら12条の「意思表明権」については子どもがおかれている実態についての事実認識によって解釈が分かれるかも知れませんが、7条と8条をどのように解釈すれば相手方の主張を根拠づける条項になるのか、私は純粋に不思議でなりません。なぜなら7条と8条などはむしろ私の子どもに対する考え方と同一の条項であると私は思っているからです。

 私はわが子の日本人性を否定をしているのではありません。なぜなら日本で生活するわが子には日本人性の保持は容易です。しかしすでに述べてきたように子どもにとって朝鮮人性が否定されてきた経緯から、そのことを子どもに積極的に教えていく必要があると主張しているのです。そのことが同時に日本人性を否定することにはならないはずです。

 私は人格形成期の途上にある子どもにとって、親として日本と朝鮮の両方を教えていく必要を主張しているのであって、子どもにとってどちらかを排除しようとしているのでは決してありません。私が子どもを朝鮮籍へと単国籍化したり、李姓としたのは日本人性の否定ではなく、子どもが二つの民族の出自をもっているということを教えていくためには、子どものそれまでおかれていた環境から最低限必要だと考えたからです。

 子どもに対し徹底して朝鮮人性の排除に躍起になってきた相手方の環境の下で、これまでの経緯を踏まえてもなお、わが子のこれからの成育歴において二つの民族性について積極的に教えていくことができるという他の具体的な方法があるというなら、そうした方法を明らかにしていただきたいと思います。

 しかし,相手方による子どもの権利条約の引用は、まるで権利条約は日本人専用の条約であって、在日朝鮮人には適用されないといわんばかりの解釈をしているように私には映ります。日本人も朝鮮人も子どもの権利条約を平等に享受する資格があるとするなら、生まれてから一貫して自己の朝鮮人性が隠されてきたわが子に、隠されてきたほうの朝鮮人性を知る権利が7条であり、二つの民族性を有している一人の人間としてのアイデンティティが保全されることが8条であると思います。

 また相手方は、「子どもに一方的に自分の考えを押しつけることは、福祉の観点から見ても大問題であり、そのことが子どもの権利条約に照らして許されない」と主張しています。しかし許されないというのであれば、相手方こそ子どもの出生から一方的に父親を排除する考えを押しつけてきたのであり、子どもの外国人登録の履行義務者であるにもかかわらず、科料に処せられてもなお無登録状態に放置していることのほうが福祉の観点から見て大問題なのではないでしょうか。

十二 「無断」ということについて

 私は本件について、これまでしばしば相手方と私の双方による話し合いで解決できないのかといった意見を耳してきました。こういった意見について、相手方は盛んに子どもの単国籍化の手続きを私が「無断」でなしたという点を当初から強調して批判しています。そういったことから、まるで私があたかも相手方の意思を無視して独善的に親権を行使したという点が印象づけされているように思われます。

 しかし当初から一貫して私との如何なる話し合いにも絶対に応じようとしなかったのは相手方なのです。したがって相手方が本件で強調している「無断」という点は、相手方が私からの如何なる話し合いも拒絶してきた結果生じた事象を、相手方が「無断」だと強調しているのです。

 さらにこのことについて相手方は、一方的に私との話し合いを拒絶してきた根拠らしき理由として、私や私を支援してきた市民から相手方に対して民族差別を激しく糾弾され脅されたというような主張をしています。「相手方を名指しで糾弾するビラがまかれ、そのことにより相手方の日常生活に支障が出た」というような主張です。しかしそのような事実はありません。私の友人(支援者)らは極めて良識的な人々であり、やみくもに人を糾弾するような人々では決してありません。あえていうなら教育関係者をはじめとするそれなりに社会的地位にある人たちばかりです。

 たとえば相手方は保育園に糾弾するビラを送りつけたと主張しています。しかし真相はビラを送りつけたのではなく弁護士である私の代理人から子どもとの面会の依頼文と合わせて、私が子どもを預かってもらっている保育園に事情を記したお礼の手紙を出したにすぎません。このことが相手方の主張によると激しい糾弾を受けたというようになっています。相手方は私から日常生活に支障が出るほど激しく糾弾されたというのであれば、その内容を具体的に明らかにするべきであると思います。




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