第一 はじめに

 津家裁におきまして、親権を李在一(以下、私と記す。)から相手方(以下、置野と記す。)に変更し、私が求めた監護者の変更は却下するとの審判が下されました。

 その審判文を初めて手にしたとき、私は審判文を読みすすめるにつれて、審判文で指摘されている事柄が、あまりにも実態とかけ離れた内容になっていることに強い衝撃を受けました。

 とりわけ私がたいへん残念でならないのは、審判文には、子どもの福祉や利益を中心に判断するとの見解が示されているにも関わらず、子ども自身の福祉や利益となるはずの、将来にむけた子どもの健全な育成に不可欠な養育及び教育のありかたや実状が、親権の変更の判断においては、まったく理解されていないばかりか、むしろ否定されている点にあります。

 審判文では、そもそも親権と監護権の分属状態に問題があったと位置づけされ、親権変更最大の論拠に、朝鮮籍単国籍化(日本国籍の離脱)が占められています。

そして、さらに親権を置野に変更することで、子どもの国籍を日本籍に新たに単国籍化(帰化)させるという置野の意向を肯定しています。

 しかし、こういった論拠で親権の変更を判断した審判文は、子どもをめぐる私と置野のこれまでの経過状況を明らかに無視しているうえに、現段階で親権が置野に変更されることは、今後の子ども自身の育成において、何ら解決の道もないまま、生涯にわたる癒しがたい苦痛と、その生命さえ脅かされかねないほどの深刻な問題に、子ども自身を孤立させてしまうことになります。

 また、子どもを朝鮮人にするような親は、親権者として失格で、子どもを日本人にする者こそが、親として適切だといわんばかりの審判文からは、親権が置野に変更されることで、私が子どもの父親である事実は変えられないものの、社会制度上からは、私が子どもの父親であることが抹消されてしまいます。そのため日常的な社会生活の場では、子どもの父親でありながらも、父親であることが実際には、完全といってよいほど抹消される実態に、私は憤りを感じざるをえません。

 しかし私個人の憤りより、人格形成期のきわめて重要な渦中にある子ども自身にとって、これまで置野の執拗な妨害にあいながらも、私が子どもを受け持つ学校の教師らと共に培ってきた、子どもの健全な教育環境が、親権が置野に変更されることで、ここにきて一変してしまうのは、小学校入学時から現在の3学年まで安定している学校現場に新たな混乱を来すことにもなります。

 本件の抗告におきまして、私が貴裁判所に切望する最大の願いは、親権が置野に変更されることで、今まで培ってきた子ども自身の健全な教育環境が壊されてしまう点に対する救済にあります。

 貴裁判所におかれましては、何卒、子どもが将来にわたって健全に成長できる道と、子どもをとりまく真実の実態の御理解を願いまして、以下に本件に至る事実経過を中心に陳述します。



第二 本件に至る事実経過

 以前の離婚裁判において提出しました、置野との出会いから、私が置野から提訴(離婚裁判)されるまでの全容を、時系列上に詳細に述べた陳述書(資料1、平成3年2月1日付乙第4号証)があります。

 本陳述書では、前述の陳述書と重なる部分もありますが、事実経過を合わせて、主に子どもをめぐる私と置野のことを中心に述べます。

一 子どもの誕生から同居まで(1987年〜1988年3月)

 1987年○○月○○日、津市内の平木病院で子どもは誕生しました。私は出産のため置野が入院してから退院するまで、毎日病院に通い、出産前後は、病院に泊まり込んで子どもの出産時に分娩室の中に連れ添いました。

 ところが置野は、離婚裁判の訴状(資料1、平成元年8月18日付)の、二、婚姻の破綻(5)の冒頭で、「○○月○○日、長男聖徳が生まれたが、子どもの顔も見に来なかった。」と主張しながら、私のほうからの準備書面(資料1、1990年3月13日付の第二の六)や(資料1、1990年5月11日付の五)においてその虚偽が指摘されると、置野は、同年の6月22日付の準備書面(資料1、平成2年6月22日付の五のイ)では一転して、自らの主張をひるがえし、私が病院に行ったときの状況を捏造して、私に「人間らしい心が無いと確信した。」との主張にまで展開させています。

 このように置野とその親族が、私を排除しようとした主張には、私の人格を誹謗・中傷しているのが特徴ですが、そこには置野が、私と子どもを執拗に「隔離」してきた経緯があります。その状況を、子どものことを中心に順次述べます。

 置野が出産から退院した後、私の意思は無視されて、子どもは置野の実家に連れていかれました。1987年の8月頃まで私と同居していた置野は、置野の親族らの強い要請もあり、出産を口実に実家に帰って以来、私がどれだけ説得しても、それまで私と同居生活をしていた私の実家に戻ることはありませんでした。当時、置野と同席していることが多かった置野の母(以下、和子と記す。)は、私が出産前の別居生活についての不満を口にしようものなら、「出産費用として3千万を出せ」と叫んで、私は罵倒される有様でした。

 出産による退院後、置野の実家に連れていかれた子どもに、私はほとんど会うことができなくなります。私は毎朝の出社時に、置野の父(以下、正彦と記す。)を車で迎えにいく運転手もさせられていましたが、そのとき、私が子どもに会いたくて、玄関から子どものいる居間のほうを見ようとすると、和子から「そんなとこに突っ立ってないで、外で待てぃ」と罵られ、決して子どもに私を会わそうとしないのです。

 また、改めて子どもに会いに置野家の実家に何度も行きましたが、その都度「育児に男は必要なし」「産後の肥立が悪くて今、寝てるんじゃあ」等と語気荒く一喝され、玄関のドアを力一杯閉められたのです。

 私の友人が、子どもをぜひ見たいというので、一緒に行ったときも、決して子どもを見せようとしない和子の傲慢な態度は変わりませんでした。和子は、そのような態度で、私からの電話も置野に取り次ぐことが滅多にありませんでした。

 他方、置野が出産を口実に実家に帰ってから、翌年の3月に置野と再同居するまでの約半年間、置野は、津市内にアパートを借り、私に無断で、まったく必要のなかった無人のアパートに、私の給与から家賃を支払っていました。もっとも当時は私の給与の全額が、私の再三にわたる抗議の指摘は無視され、そのほとんどが正彦から娘の置野に渡されていました。正彦の経営する電気工事会社で働いた給与の明細さえ、それを求めても無視され、私には知らされないことが多かった有様でした。

 出産による退院後から、年が明けた1988年の2月、私は子どもに会えない状況に耐えられなくなり、それまで置野が私に無断で家賃を支払っていた津市内のアパートで暮す決心をしました。この頃になると、私は、置野が無人のアパートに半年間にわたって家賃を払い続けた意味がわかっていました。

 置野とその親族は、私が母と同居している家に、置野と子どもが帰ることを拒否する口実のため、必要のなかった無人のアパートに家賃を払い続けていたのです。私の母が子どもと接触するのを避けるためでした。

 当時、私が津市内のアパートで暮らすことになると、私の母親が一人暮らしになってしまう点がたいへん気がかりでしたが、それよりも私は、子どもを交えた健全な生活が回復することを願って、津市内のアパートで暮す決心をしたのです。

 そういった事情から、1988年の2月に私は子どもを含めた同居生活を回復するため、置野家の実家に理解を求めに行きました。和子からは、「まず、あなたが一人で暮らせ」と罵られましたが、私は和子からの罵声を無視して、ようやく引っ越しの日程についての合意をとりつけたのです。

二 同居から子どもを連れて置野が蒸発するまで (1988年3月〜1989年1月)

 同居にあたっての引っ越しについてですが、私は私の兄を含めた私の友人たちに手伝ってもらってすませたのですが、引っ越しの最中、置野は5分ほど顔を出して指示をしただけで、置野をはじめとするその親族らは、引っ越しには何ら協力はせず、新たに始まる同居生活にはきわめて消極的な態度でした。

 ところが、置野の準備書面(資料1、平成2年6月22日付、七のイ)では、私が引っ越しの準備に非協力的であったとして、そこから私を誹謗する状況を捏造しながら、同居については私が努力したためではなかったという主張を展開しています。

 しかし真相は、尋問調書(資料1、平成2年12月17日付)の12番から17番にわたる置野本人の尋問において、いかに置野が、同居にあたって否定的であったかが、明らかになっていると思います。

 また、そのうちの15番、16番では、同居にあたっては最初から、子どもの教育については私を除外するという置野自身の直筆の手紙について、置野は「思いつきで書いたものだ。」と証言しましたが、当時、子どもを含めた健全な夫婦生活を願っていた私には、そんな置野の悪意はわかりませんでした。

 置野が「思いつきで書いた」と証言した手紙(資料1、乙第1号証)の文面を引用すると、「・・・ふつうの育て方ではふつうの子にしかならないでしょう。(ふつうの育て方さえもしないと章雄(※李在一の当時の通称名)の様な原始人になってしまいますが)・・・というわけで、子供の教育に関しては、もちろん章雄を除外し、置野家でやることになります。「親がなくとも子は育つ」と彼がしょっちゅう言っていたので、その通りにしてやろうと思っています。・・・」

 そして現実に同居してから、この手紙で書かれた文面にあるように、置野が子どもの教育から私を除外し、置野自身の手ではなく、「置野家」において、子どもの教育を強行する生活が始まったのです。

 まず置野は、私が子どもと一緒に風呂に入ろうとすることに、過敏な反応でもって拒否をしていました。そんなことが連日続いたので、私が置野を説得して、一度、私は子どもと一緒に入浴したことがありました。すると、翌日から置野は、私が会社から帰る前の午後4時頃に子どもの入浴時間を変えてしまい、私を子どもと一緒に入浴させまいと、執拗に拒否していました。

 そしてこの当時、置野は、幼児教育の高額な教材をローンで度々購入していましたが、私が教材の存在に気づいて指摘すると、そのときになって初めて私に事後報告する状況でした。私が子どもの将来についての話題をしても、置野は黙って聞いているだけで、置野がそんな話に反応することは滅多にありませんでした。

 そもそも置野は、子どもの誕生以来から本件に至る現在まで、父親である呼称(おとうさん等)を、私や子どもに一度たりとも使ったことがありません。

 そのような置野の生活態度ではありましたが、私は、新たな同居生活で健全な夫婦生活を回復させようと自分なりに精一杯努力したつもりです。

 その当時の暮しぶりを示すものに、置野が弟(置野の弟で以下、明と記す。)宛てに書いた置野自身の直筆による手紙(資料1、乙第7号証二の(一二)の11行目、添付資料2)があります。

 その手紙では、置野とその親族が、私との同居生活にいかに否定的であったかを始め、私と子どものそれまでの「隔離」状況が書かれています。

 また同時に、手紙の文面を引用すると「・・・新町(※置野の実家)にいる間、彼(※李のこと)と接触することはできず、(Telで話しても内容を細かに聞かれる)毎日、ママ(※和子)は彼の悪口を言い、パパ(※正彦)は愚痴をこぼす・・・この7ヵ月間で私の中での「大谷章雄像」(※当時の李の通称名)が、かなりゆがんでしまっていたのです。あれ程憎んでいた「大谷章雄」はどこに行ったのだろうと、彼を見て思います。仕事に対する考えだってパパが言う程問題を感じないのです。家の中のことも適当に動いてくれるし、聖徳もベロベロに可愛がっています。私に対しても、ものすごく気を使っています。・・・」

 このように、私は健全な夫婦生活の回復に努力し、置野自身からみても私は、子どもを「ベロベロに可愛がる」父親であったのです。

 この手紙について、置野本人の尋問調書(資料1、尋問調書平成2年12月7日付)の5番から12番にかけて、直筆の手紙であることは認めながらも(当日の尋問では、この場で置野はとりわけ長く沈黙しました。)、書いてある内容は事実ではないとし、その理由として、明からみて私の子どもに対する目が父親のものではないと心配していたので、それを安心させるために書いたのだと証言しました。

 しかし、明を安心させる目的で書いた手紙になっていないことは、内容からしても明らかであり、私が離婚裁判で証拠として出した、明から置野に宛てて書かれた手紙をみても、置野が姉弟間で、少なくとも当事者達にとっての「事実」について、相談のやりとりをしていたことが明らかです。

 たとえば、置野家の在日朝鮮人に対する偏見と差別性が端的に出ている、置野宛ての明の手紙(資料1、乙第3号証の添付資料2)があります。

 そこでは、置野からの手紙の返信として、「・・・・朝鮮の連合が出てくるの話ですが、これは金の話になると思います。多分親父(※正彦)はそこらを考えて“5年”といったと思うのです。相手(※李のこと)はもはや倫理の通用する相手ではありません故、金を積むか、もしくは右翼でもたのむしかないでしょう・・・・」という内容です。

 けれども結婚生活において、当時、明は島根県の大学に行っていたので、私とはほとんどといっていいくらい明と接触もありませんでした。したがって明から、「子どもに対する目が父親のものではない」等と誹謗されること自体ありえなかったのです。

 さて以上のように新たな同居生活において、私は子どもを含めた健全な家庭生活の回復に必死でしたが、私の努力に反して、3月から始まった同居生活は次第に破綻へとむかっていきます。

 破綻への起点は、和子の2回目の自殺未遂でした。

 同居をした翌月の4月に、和子は、置野と子どもが私と同居することに反対して、手首を切りました。(別添資料2、1988年5月5日に私のアパートで撮った写真です。和子の手首には自殺未遂の痕跡として包帯がまかれています。)私は、正彦からそのことを知らされると同時に、正彦から和子の安全のためにも、置野と子どもを帰してほしいと強要されました。ところが実状として、置野は、私と同居生活を始めたものの、私の意思には関わりなく、ほぼ毎日、昼間は和子のいる実家に帰っていたのです。

 私がそのことを正彦に指摘すると、正彦は、「夜が淋しいんだ」と言い、早く子どもと置野を帰してくれという有様でした。

 和子の自殺未遂は、私にとって苦悩の種となりましたが、そんなこともあって私は、昼間に置野が子どもを実家に連れて行くことを止めたことは一度もありませんでした。

 ところが、車で20分ほどの距離にある一人暮しをしている私の母の実家に、私が子どもを連れて行こうとすると、その度に必ず置野とその親族らから拒否され、私の母に子どもを会わすことはなかなかできませんでした。なぜなら、置野と合意のうえ約束した日に、置野は何も言わずに実家に帰ってしまうからです。

 そんなことがくり返し続いたので、私が置野と正彦に、私の母に子どもを会わせに行くことについての承諾を改めて求めた翌日の夜のことです。私は置野と和子から露骨で凄まじい抵抗にあいました。その夜、私はアパートに長時間にわたって、きってもきってもかかってくる和子からの電話に、怒りで体を震わしていました。和子は電話で私に、子どもを私の母に会わせることは、絶対に許さないと言い、私がその理由を問うと、「あなたは豚だから、しゃべる資格はないし、クズのあなたの親には、子どもを見せることはできません。」という言い分でありました。私がそんな和子からの怒鳴り声の電話をきると、今度は置野が「なぜきるの!」と怒鳴り、置野の怒鳴り声で泣き出した子どもをあやす私の背に、和子からかかってくる電話の受話器を置野が手に取りつきつけ、受話器から叫ばれ続ける和子からの「豚、朝鮮、半島人、三国人」等と際限なく続く罵声を聞かされたのです。

 そして和子からの電話が終わってしばらくたつと、私の母から電話があり、「無理に子どもを連れてこなくていい」とのこと。母にその事情をたずねると、和子から私の母に電話があり、「あなたはアホだから、もっと勉強してもらわないと、子どもを見せにいくことはできません。」と言われたとのことでした。

 しかし、私は子どもを連れて、しぶる置野と一緒に私の母に子どもを見せに行ったのですが、そのときまたしても私の実家に、和子から早く置野と子どもを帰せという傲慢な電話がありました。

 この件があってから、置野は子どもを連れて和子のいる実家へ無断外泊することが日増しに多くなり、私は一人暮しの状態になっていきました。

 それでも私は、子どものためになんとか健全な家庭生活をとりもどそうと苦悩していた7月頃のことです。

 私が置野に「俺にできることがあったら何でも言ってくれ」と言ったところ、置野は「実はひとつだけ、あなたにやってほしいことがあるの。」とまえおきをして、「お願い、あなたに自殺してほしいの」と言われました。このときの置野は真剣そのもので、哀願する調子で続けて言うのです。

 「私、いろいろ考えたけど、やっぱりあなたに自殺してほしい。そうしたら全部うまくいくのよ。」

 私は、置野から自殺するよう頼まれたことを契機に、初めて「民族差別」ということについて、改めて意識して根本的に考え始めました。

 私が、置野の両親に結婚を表明して以来、置野家において「民族差別」に該当する事象は、和子からの聞くに耐えがたい侮蔑的罵詈雑言を始めとして日常的でした。けれどもどのような罵声を浴びせられ、侮蔑的に扱われようが、在日朝鮮人である私は、自分自身に対して、自己の出自である民族のルーツに特段の思い入れやさしたる誇りもあったわけでもありません。ただ、それでも少なくとも在日朝鮮人が人として、侮蔑される対象でないことは、当然のことながら自覚していました。

 それまでの私が「民族差別」について理解していた意識は、日本人社会自らの国家が歩んできた歴史的経緯の無知故に、在日朝鮮人に対する誤った偏見があるのだという客観的な認識にとどまっていました。

 ですから、露骨な差別を続ける置野家の者たちに、私はあきれつつも「困ったものだ」という不快感はあっても、少し冷静に考えれば私自身と対立する理由にはならないと考えていたのです。そして私や子どもの存在を通して、遅かれ早かれいつの日か、自分たちのまちがいを自覚して、改まるにちがいないと信じていました。なぜなら露骨な差別は、あまりにも不合理ですから、差別を継続しようとする意識自体が、このまま続くものではないと思い願ってもいたからです。露骨な差別に対して、私の当時の胸中は怒りというより、むしろ、悲しみに占められていました。

 しかし、置野から真剣に自殺を頼まれた現実に直面して、そういった私の思いは、希望的観測にすぎなかったのだということを思い知らされました。同時に私は、「民族差別」が生み出す現実の被害を、いやがおうでも認めないわけにはいきませんでした。

 この頃から、私は在日朝鮮人をとりまく実態について、人権教育などの分野を通して新たに学習を始めました。そんなある日のことです。私が図書館から借りてきたその種の本に、子どもがハイハイで近づき触ろうとしたとき、3メートルほど離れた台所にいた置野が、突然「そんな汚い本、さわっちゃダメ!」と叫びながら、慌てて子どもを抱え隣の部屋に駆け込んだのです。また、私が「聖徳にも朝鮮民族の血が入ってるんだぞ」と言ったら、置野は「聖徳は日本人よ、置野家の人間です。」と叫びました。

 置野の子どもにむけるこういった態度から、私は子どものことを中心に、置野家の「民族差別」について考えるようになっていきました。子どもは日本人の置野と朝鮮人の私の間に生まれた「混血」(以下、ダブルと記す。)です。当時、法的には、日本籍と朝鮮籍の二重国籍でした。ところがこの事実をまえにして、置野家の者は現在に至るまで、子どもを日本人として育てたいという願いから養育するのではなく、朝鮮人は日本人より人として劣っているという偏見のもとに、徹底して子どもの朝鮮人でもある点を排除し、世間から朝鮮人でもある点を隠そうとすることによって、子どもに「純日本人」であることを強いています。

 たとえ何人であっても、自己の出自に「負」の価値観を注入されたまま成長していかなければならないとしたら、健全な人格が形成できるはずがありません。当時、正彦は頻繁に私に対して「おまえは一度、死ぬ必要がある。」などと言っていた時期もありましたが、私や子どもの出自そのものを自分たちの偏見のもとに都合のいいように否定しようとする点が、置野家の「まちがい」であり、妻が夫に自殺を哀願しなければならないというきわめて不幸な状況にまでなる元凶なのです。

 子どもに対する置野家の教育方針は、誕生から現在に至るまで常にこういった「まちがい」の連続なのです。私は朝鮮人としてではなく、子どもの健全な将来を願う親として、子どもにむけられている置野家の「民族差別」に苦悩する日々が続いたのです。

 1988年の3月から始まった子どもと置野との同居生活は、日増しに置野が実家に無断外泊する回数が増えていき、実態として7月頃から、私は一人暮らしの状態でしたが、同年の9月に和子の中国旅行を口実に、和子の口から再度、置野が私と完全に別居生活をするすることを一方的に通告されました。それは同時に、またもや私と子どもとの完全な「隔離」を強いられる日々が始まったのです。

 置野との夫婦生活は、結婚生活の最初から和子による露骨な離婚の強要がありましたが、置野との同居生活の中で、置野自身も離婚したいという意思を次第に明確に私に示すようになっていきました。そんな置野の意思を確かめるため、私から「君は俺と離婚したいのとちがうか?」と聞いてみたことがありました。すると置野は「実は、私は今すぐにでも離婚したいと思っているけど、パパ(※正彦)が子どもが5才になるまで我慢しろっていうの、子どもが5才になったら離婚してもいいっていうから、そうするつもり」ということであった。

 この置野の「5年後に離婚する」ということに対して、私は子どもの存在をあげて、何度もやりなおしをしようと説得もしましたが、置野は「これは(5年後に離婚すること)、私の決心だから、あなたには関係がない。」と、とりつく島もありませんでした。 

 こういった状態が続く生活のなかで、私はともかく、置野家の子どもにもむけられる「 民族差別」に、何ら解決の糸口を見出せずに苦悩していた私は、最後の賭のように祈るような気持ちで、それまで私を執拗に排除しようとしてきた置野家の意向を受け入れる一大決心をしました。

 それまで私がどれだけ蔑まれ罵倒されながらも、私が健全な家庭生活を築きたいと努力してきた最大の動機は、子どものためでした。私としては、父親として、また夫として、子どものために、家庭を守りたかったのです。

 しかし日々成長していく子どもからみて、日常の中で現実にまったく父親を人間扱いしない母とその親族を、子どもはどのように受けとめるだろうか?という懸念から、置野家の意向を受け入れようという決意に、私の中では発展していきました。

 置野家としては、日本人に「帰化」させるために私を蔑んだ段階から、当初から一貫して「帰化」はしないという私の意思にまったく変化がないことを知ると、私を排除するために罵倒する段階になりました。それでも私がそんな罵倒に怯むことなく、なお健全な家庭生活をめざして努力しようとする私に対して、置野家の者たちはこれでもかといわんばかりに、私を「非人間」扱いする傾向は増長していくばかりでした。

 そんな環境は、子どもにとって十分すぎるほど有害であると、私は受けとめざるをえな かったのです。

 そこで私は、それまで連綿と続いてきた離婚の強要を、置野家の者が集まった法事の後の食事の場で、無条件に受け入れることを表明することにしたのです。自殺を除いた置野家の出す、すべての条件を私が受け入れて、きれいに離婚に応じることで、置野家の者らにとっても、将来、私が子どもの実の父親であり、人間であったという意識が回復するであろうという置野家の者らの人間性に、私は一縷の望みを託して身をひこうと決心したのです。

 私は、子どもと会えなくなることも覚悟のうえ、断腸の思いでしたが、改まってきっぱりと「今までいろいろありましたが、本日、離婚に同意する意思をここに伝えます。」と言いい、続けて「争いたくないから、離婚についての条件は、すべてのみます。」と言ったのです。

 私のその発言の直後、和子が叫ぶように言いました。「あなた、まだ自分のことを人間だと思っていたのね。あなたは犬よ、犬なのよ。だから、あなたにそんなことを決める資格があるわけないじゃないの」と言い、その後に和子は、「せっかくの御馳走がまずくなった。」と文句を言うのです。私は、いつも通りに和子から続く罵り声を背にして、その店のトイレに20分ほど入っていました。私は置野家の誰にも泣き顔を見せたくはなかったのです。

 私が、どれだけ置野家の者たちの言うとおりにしたところで、私がどのようにしようが、しまいが、私の如何なる選択にも一切関わりなく、結局、置野家の者たちにとっては、「私」という人間の存在そのものがあってはならないのです。置野家が本当に私に望むことは、私が自殺するという一点しかなかったのです。

 自殺を除いた一切の選択肢は認めないという、置野家の意向が続く生活のなかで、次に私が考えたことが仕事のことでした。

 正彦が自営する弱電工事の会社(置野弱電工事)は、社員が3、4人からなる零細企業で、正彦は常に会社を大きくしたいという欲求をもっていました。

 私は一度、置野弱電工事を辞めたのですが(入社時の約束通りの行為だった。)、置野と正彦から泣きおとされて復職した経緯があります。私が会社に貢献することで、具体的に会社に経済的利益をもたらせば、私の存在を認めざるをえないだろうと考えたのです。

 私は正彦から依頼されていた仕事のひとつとして、イベントの別会社の設立にむけて、独力で働きました。1988年の12月には、年間にわたって受注する仕事量を確保し、スタッフも集め、1989年の2月1日から始動する予定も具体的に決まりました。

 ところが、翌年の1月に入って間もなくのことです。私の意思を無視して、「5年後に離婚する決意は変わらない」とあれほど言っていた置野から、突然、離婚を一方的に通告した手紙が、アパートに帰るとおいてあったのです。

 これは、正彦が私に依頼したイベントの別会社設立の現実化において、実はそのことは正彦の本意ではなかったのでしょう。正彦は私にそんな仕事ができる能力がないと判断し、あくまでも私を「生かさず殺さず」の状態にしておくための方便だったのです。なぜなら、置野がいう5年後の離婚の根拠は、正彦がそうしろと言うからだったのです

 ここにきて突然、離婚を私に通告することは、同じように正彦の意思なくして、置野だけの判断とは考えられないからです。

 しかし、離婚を私に通告した置野の手紙(資料1、乙第7号証の一六、別添資料5)は、それまで和子から私が受けた罵詈雑言の完結のように、置野自身も、明確に私の存在を否定していました。

 置野の直筆によるその手紙を引用すると、「・・・私は結婚生活に挫折(やったけれどもうまくいかなかったという失望の念、できればうまくいってほしかったものだという悔恨)をしているわけでなく、貴方との結婚生活を全面的に拒否、否定しています。ですから、万が一、貴方の性格が変わったとか、心を入れ直したとかetcあったとしても、拒否します。なぜなら貴方という「個」を否定しているからです。私には必要のない存在です。・・・」

 そして手紙のなかでは、子どものことについて、「本来ならば別居中でも養育費の支払い義務というのがあるのですが、それは一切要りません。」と述べられているにすぎません。私の人格に関わりなく、私という「個」を否定する置野にすれば、私が子どもの父親であるという意識さえ、あたりまえのようになかったのです。

 私は、この置野の置き手紙を離婚の通告というよりも、私を否定したうえで、私と子どもを将来にわたって完全に「隔離」しようとする置野の意思をみました。同時に私が苦悩し、最も回避したかった点でしたが、子どもの成長のなかで、置野がまちがいなく子どもの出自について、「民族差別」という偏見から、子どもの出自を、子ども自身に対して否定する母親になることを私は確信したのです。

 母親からむけられる愛情のなかに、自己の存在を否定する偏見に子ども自身が気がついたとき、子どもは果たして健全でいられるでしょうか?少なくとも、このような悲壮な環境からは、健全な人格を形成できる根拠がありません。偏見を「偏見」であると、当事者(子ども)が認識できない場合、自殺に追い込まれる例は、決して少なくないのです。

 置野の置き手紙から、私は、よくよく考えた結果、それまでの自分を反省しました。私はそれまで、子どものことを考えるあまり、子どもの親族でもある置野家とは、致命的な争いは何としても避けたいと考えてきました。置野家からどれだけ蔑まれ罵られようと、正面衝突のような争いはしたくないばかりに、私が必要以上に耐えてきたことが、子どもの母親である置野が、和子や正彦と同調して、子ども自身の出自を否定するような結果になった一因でもあると反省したのです。

 そして私は、子どものために、置野家の偏見に対しては、その非を正す決意を新たにしました。それは、まず私は子どもの父親なのだから、子どもと毎日会い、それを妨害する置野家の如何なる手段にも屈しないという決意でもありました。罵倒されれば、はっきりと反論をし、仮に暴力があってもこれに屈しないようにしようと思いました。

 1989年の1月17日の朝、私はいつものように正彦を出社のため、迎えにいったとき、私は決意したとおり、今後は自由に子どもと会うという方針を置野家の者たちに宣言するように伝えました。

 そして、いつものように私を罵る和子を無視して、私が子どものいる部屋に行こうとすると、和子と置野と治(置野の弟)の三人が一斉に私を阻止するために、殴りかかってきました。私はしばらく蹴られ殴られていましたが、それでも三人をふりほどき、子どもを抱きました。

 1月17日の夜と18日の朝も、私は子どもと会うため、私に殴りかかる三人をふりほどいて、子どもと会いました。私の顔面は、三人から殴打されたために腫れあがりました。

 17日の夜には、和子が津警察署に「殺されそうだから、すぐ来なさい」と電話をし、パトカーで二名の警察官がやって来ました。ところが、二名の警察官が家に入ろうとすると、玄関先で正彦が「なんでもないので、帰って下さい。」と警官を帰そうとするのです。

 私は一人の警官の腕にすがって、「せっかく来られたのだから、ぜひ、この揉め事の話を聞いて下さい。」と頼み込みました。状況を察知した警察官の方は、「私もたまに夫婦喧嘩はすることがあります、でも凶器を持ったらあかんですよ、仲良くして下さいね。」と言い残して帰っていきました。

 この当時から、和子は玄関先で私の顔を見るなり、玄関口にあった電話で、「殺されますから、すぐ来なさい」と傲慢な口調で、警察に電話をしていましたが、17日の夜以降、警官が来たことは一度もありませんでした。

 そして、私が子どもと会うために出向いた18日の夜には、置野家の玄関ドアを私が開けたとたん、観葉植物の巨大な鉢植えごと、和子は私の頭に降りおろしました。鉢植えは、私の頭で粉々に砕け、鉢植えの土を頭からかぶり、私の顔面は、吹き出る出血で血だらけになりました。このとき、置野は包丁を握って私を威嚇しましたが、私は怯むことなく、置野家の者たちが叫ぶ罵声の中で子どもに会いました。

 翌日の1月19日、私は正彦から、置野が子どもを連れて蒸発したと告げられました。置野家の者は、子どもと置野が行方不明だから、どこにいるか検討もつかないと私に言うのです。私は、独力で子どもの行方を探しましたが、わかりませんでした。ちなみに、離婚裁判で証拠として出した置野の手紙類は、このとき、置野の行方を見つける手がかりをアパートで探したとき発見した手紙です。

 ヒステリックな置野が子どもを連れていることから、私は子どもの身を案じて、1月24日津警察署に、子どもと置野の捜索願いを出しました。そのことを正彦に告げると、正彦から「取り下げろ」と怒鳴られましたが、行方不明なんでしょうと言うと、言葉を濁して沈黙しました。

三 行方不明から置野に提訴されるまで(1989年1月〜1989年8月)

 置野が子どもを連れて蒸発したことにより、2月から始まる予定であったイベントの別会社の設立は、正彦から延期することを告げられました。もっとも私にしても、子どもが行方不明になっていることが心配で、積極的に仕事に打ち込む気持ちは失せていました。

 それでも正彦の指示通りに、私は電気工事の仕事をしていたのですが、置野が子どもを連れて蒸発してから約1ヵ月ほどした2月の中頃のことです。正彦から私に、「おまえが会社にいると、昭子(置野)が、家(置野の実家)にもどって来にくいだろうから、私が指示するまで、自宅で待機しておいてくれ。」と、会社に出社しないよう言われました。

 私は子どものことが心配だったので、正彦の言う通り、翌日からアパートで待機しましたが、子どものことが不安で悶々と苦悩する状態でした。

 3月頃、私が一人で自宅待機していたアパートに津家庭裁判所から、離婚調停の呼び出し状が届きました。驚いた私は、会社にいる正彦に電話したところ、「一切私は関知しない。」という一言で一方的に電話を切られました。

 私は正彦から、自宅待機を命じられたものの、2月の半ばまで働いた給与をはじめ、何の保障もなく、解雇ということさえ告げられずに会社を放り出されたことを知りました。

 家裁からの呼び出された3月頃、私は1回目の調停に行きました。調停では、すでに最初から置野には弁護士がついており、私を提訴する訴状も出来上がっているとのことで、調停委員からその一部を見せられました。

 そして私が、調停委員を通じて言われたことは、私が子どもに会いに行くことは自由だが、置野家の中はもちろん、その土地に一歩でも足を踏み入れたら住居不法侵入罪で私を告訴するとのことでした。それは置野家だけでなく、会社も同じことだということでした。

 調停委員の方から、私は、念を押すように「いいですか、家の中ではなくて土地ですよ、土地に一歩でも入ったら、告訴するということですよ。」という説明を受けたのです。

 私が調停委員に、「そうなると、子どもに私は会ってはならないということですか?」と問うと、子どものことには関係なく、法的に住居不法侵入罪は成立するとのことでした。

 また、調停においての置野の主張は、私と話し合いに応ずるつもりはなく、私が置野家に対して行なった「暴力行為」を認めたうえで、離婚に応じるなら提訴はしないが、それ以外なら裁判提訴するという主張でありました。

 その場で、私は調停委員に、そんな主張はとても認めることができないと言うと、「よく考えてきて下さい。」とのことで、2回目の調停が5月に決定されました。

 その後、私は幾度か置野家や置野弱電工事に電話をしましたが、私が名前を告げた瞬間にすべて無言で切られました。

 この時期になって、初めて私は自分の母親に、置野と離婚する可能性がきわめて高い事情を話しました。私の母は、そんな状況に薄々感ずいていたものの、一度は自分一人で置野家に事情を聞きに行くといって出かけたのです。

 置野家を一人で訪れた私の母に対して、和子が玄関先で、「ここは日本です。朝鮮人は半島へ帰れ、さもないと警察に電話する」と怒鳴り、「そんなものの言い方はありませんやろ」と怒る私の母に、続けて置野の弟二人が母の両脇をつかまえて、玄関先から外へ突き飛ばしたということでした。もし私が、その直後にこの件を聞いていたら、私は、たとえ不法侵入罪で告訴されようが、置野家に抗議に出向いたと思います。 

 調停は、2回目で決裂しました。2回目の調停では、私は、置野家で体験してきた生活を話し始めたのですが、調停委員にさえぎられ、「わかりました。調停は決裂しましたので、後はどうぞ裁判でやって下さい。」と、比較的短い時間で終わったのです。

 私の母が、会社にいる正彦に電話で調停のことを尋ねたところ、正彦は母に「私はうまくまとめたいと思とったんだけどね、章雄(李の当時の通称名)が調停室で暴れたもんで、話し合いができなかった」という稚拙なウソを言ったそうです。

 私は何度も子どもに会いに行きたい衝動に駆られましたが、不法侵入罪など裁判で、合法的に私を葬ろうと待ち受ける置野家に行くことは、みすみす置野家の罠に私が陥ることになるため自制してました。

 私は解決の道について考えるのですが、苦悩するばかりで、これといった名案も浮かばないまま生活におわれて時間ばかりがすぎていくという状態でした。

 そんな私のもとに8月の下旬頃、津地方裁判所から置野の訴状が届いたのでした。その訴状では、私は極悪非道に描かれており、そのあまりのでっちあげに、私は抗議のため置野弱電工事に電話をしました。直接電話に出た正彦は、私からの抗議の電話であることを知ると、「おまえは、まだそんな野暮なことをいっとるのか、わしはおまえと何も話しをする気がないし、一切関知しない。従ってこの電話も切る。」と言うなり、電話を切られました。

四 提訴から和解調停に移行するまで(1989年8月〜1991年9月)

 置野は、提訴により、私との離婚・離縁だけを単に求めたのではありません。

 置野とその親族らは、離婚・離縁を求めた訴状(資料1、平成元年8月18日付)において、婚姻生活の破綻の原因を、私の一連の身勝手な行動、脅迫行為、暴行傷害行為によるものだとしています。こういった事実とは極端にかけ離れた虚偽の主張を、裁判所を通じて、合法的に認めさせようと画策したのです。

 私からすれば、裁判所に対して平然と極端なウソを主張することができる置野らの行為に心底恐怖しましたが、私は、とりわけそういった主張が、子どもの誕生以来、置野とその親族らが一丸となって、私と子どもを執拗に隔離してきた延長線上にあることを強く感じました。

 それは、私が子どもと会うことを拒絶するためには、なりふりかまわない強引な手段をとってきた状態の連続という経緯でありながら、そのことを置野らの訴状では、すでに子どもと「同居」しているという表現でもって、既成事実のように述べ、親権の指定を当然のように求めている点にあります。しかし、置野らが訴状で述べている「同居」とは、私や私の親族を、露骨極まる差別言動で罵倒したり、暴力でもって、子どもを力ずくで取り上げてきた状態を「同居」だと言っているのにすぎません。

 置野らは、親権を求めるのと同時に、婚姻生活の破綻の理由を、私が非社会的な人間だと裁判を通じてでっちあげることで、父親失格の虚像をつくりあげ、合法的に子どもと私との親子関係を永久に抹殺しようとしたとしか、私には受け止めようがありませんでした。

 なぜなら、提訴前の2回で決裂した調停でも、置野側は最初から提訴の強い意向をしめしていましたが、私が特に子どものことについて、どれだけ話し合いを求めても、置野からの返答は、調停委員を通じて、住居不法侵入罪で告訴するというだけで、離婚には不可欠であるはずの子どものことについても、当初から一貫して問答無用という姿勢でまったく話し合いに応じようとしなかったからです。

 したがって置野らの提訴は、私に対して離婚・離縁を求めるための提訴であると同時に、置野とその親族らが、何が何でも子どもを、無条件に私と接触させようとしない意図のもとに、仕組まれた提訴でもありました。

 置野らが提訴した離婚裁判で、私がどうしても納得できなかった点は、置野らのウソの主張もさることながら、民族差別の動機から、子どもを私から完全に隔離させようとした点にあります。

 離婚裁判は、裁判の進行に合わせて次第に、婚姻生活の真相が明らかになっていきました。その事実関係は、すでに貴裁判所に「資料1」として提出済みですので、ご理解のほどをお願いする次第です。

 ここでは離婚裁判が、調停に移行するまでの審理期間において、私と置野の間で、子どもをめぐって明らかになったことを中心に述べます。

 置野とその親族らが、子どもの誕生以来、私と子どもの隔離を執拗に行なってきたことは、私自身のそれまでの実体験からも、十分に知ってはいたものの、置野らが何としても隔離を徹底させようと強く考えていた断面を、私は、裁判を通じて改めて思い知らされました。

 尋問調書(資料1、平成2年9月14日、本人調書)の41番で、置野は警察に被害届け、並びに、告訴状も出したと証言しています。

 私は、警察から事情聴取されたことなど、一度もありませんでしたし、そもそも私は、置野とその親族らによる暴力行為の被害者であり、加害者は置野らなのです。にも関わらず、置野らは、離婚裁判を提訴する前に、私を刑事事件の被告に仕立てることを画策していたのです。

 私が改めて思い知ったというのは、この尋問調書の41番には省略されていて記載されていませんが、当日の法廷では、この41番のところで、置野自身が、警察に告訴状を出したが、受け取ってもらえなかったことを「とても悲しかった」と証言したことです。

 置野の親族はともかく、私はそれまで、置野自身には母親として、子どもに対し、少なくとも私が父親であるという意識が、少しはあるだろうと思っていました。しかし、もし仮に冤罪であれ、置野らの思惑どおりに進行した場合、私は刑事事件の被告であり、あるいは犯罪者であり、前科者だということになります。

 置野は、母親として子どもに「あなたのお父さんは、犯罪者で、じつは私が犯罪者に仕立てたのよ。」とでも言うつもりだったのでしょうか?

 つまり、告訴状を受け取ってもらえなかったという証言は、私を犯罪者に仕立てることができなかった点を、置野は法廷で「とても悲しかった」と証言している意味になると思います。

 私は、この置野の「とても悲しかった。」という証言から、置野自身にも、私が子どもの父親であるという意識が、完全にないことを視たのです。

 なぜなら置野自身に、もし私が子どもの父親であるという意識があるなば、少なくとも警察が告訴状を受け取らなかったことを、「とても悲しかった」というような証言としては出てこないはずです。

 置野が「とても悲しかった」のは、父親を犯罪者に仕立てることで、子どもから永久に隔離させようとした行為が、警察から拒否された点に他ありません。

 私が求めても、一切の話し合いを拒否したうえで、置野らが提訴に持ち込み、裁判所で平然とウソの主張を証言した背景には、内容の真偽には関わりなく、日本人社会は置野らに味方するであろうという、朝鮮人に対する根強い偏見と合わせて、私には訴訟能力が経済的にもないであろうと判断したからだと思います。

 なぜなら、平成3年9月6日付の置野自身の陳述書(資料1、甲第10号証)のNo31の終わりからNo32の冒頭において、置野は裁判費用を独身時代の貯金から出しており、私が第三者からカンパをしてもらって裁判をしているとして、私をどこまでも甘えた人間だと誹謗しています。

 置野のこの陳述書が如何にデタラメであり、ウソで糊塗されているかは、すでに離婚裁判で証明されていると思いますが、本件においては、私と子どもを完全に隔離するために、置野が提訴に持ち込んだ状況が、経済的に私に訴訟能力がないであろうと置野らが判断していた部分に絞って、述べておきます。

 置野は、その陳述書のなかで、私と生計を共にしていたと主張し、『・・・幼児を抱えて仕事をする私に比べ被告の方がずっと稼ぎがあるはずではありませんか、・・・けれども親にもお金を借りていませんし、自由に働ける被告が「裕福でない」と、ことわるのはおかしいと思います。・・・』と述べています。

 まず私は、置野と生計を共にしていませんでした。なぜなら、置野弱電工事で働いた私の給与の全額は、置野に支払われ、ほとんど私には支払われなかったからです。

 それは、尋問調書(資料1、平成2年12月7日付、本人調書)の18番から25番にあるように、私は置野弱電工事でどれだけ酷使されても、給与は置野と二人で一本化すると、社長であり、置野の父親である正彦から、露骨に搾取されていたのです。

 そういった不当な給与の支払い状況に加え、出産のため置野が仕事を辞めた以降も、正彦は仕事をしない置野に、私の働いた分も含めて二人分だとして、置野に給与を支払っていました。

 仕事をしない置野に給与を支払うのは、正彦と置野が、父娘関係にあるからに他ありません。

 そういった状況のなかで、私は一人暮しから貧窮の状態になり、生活費を置野に求めても、置野は、自筆のメモ(資料1、乙第3号証)にあるように、「置野家において夫のこづかいは」と一方的に称して、実際に食事にも事欠く生活費しか、私は受け取ることができなかったのです。

 そんな状況から、解雇ということも告げられず、私は、それまで働いていた置野弱電工事を自宅待機という名のもとに、給与さえ支払われずに放り出されたのですから(会社にその点を確認したいと調停時に指摘すると、住居不法侵入罪で告訴するとのことでした。)、少なくとも置野とその親族らは、私が経済的に困窮していた状態をよく知っていたのです。

 すなわち私からすると、置野らは、私が経済的に困窮する状態を置野らがつくりあげておいて、その上で、私を提訴したのです。

 また、裁判の進行に伴い、次第に置野の主張にウソがあることが、明らかになってくる中、置野は、自分のウソを補おうと裁判外でも、積極的に第三者の人のところをまわっていました。

 それは、置野が尋ねた第三者の人から、私に連絡があり、要するに『第三者として、置野に有利になるウソの証言もしくは意見書を出してほしい。』と、録音テ−プをもってまわっていたとのことでした。

 そして置野は、裁判の傍聴に来ていた私の支援者を、朝鮮総連の人間であると吹聴して歩いていました。

 私の知人から、「君の裁判には、朝鮮総連の人達が傍聴に来ているんだってね。」と指摘されたことがあるのですが、実際に傍聴に来ていた人達はほとんど日本人の一般市民であり、朝鮮総連は何の関わりも関係もありませんでした。私がそう指摘した知人に、なぜそう思うのか訊ねると、知人は置野本人から聞いたということでした。

 これは置野が、偏見でもって、朝鮮総連の名を吹聴することによって、離婚裁判を、日本人対朝鮮人という争いの構図に捏造し、それを回りの人達に位置づけたかったのだと思います。

 置野の弟である明が、置野に宛てた返信(資料1、乙第3号証の添付資料2)のなかで、「・・・朝鮮の連合が出てくるとの話しですが、これは金の話しになると思います。・・・・・金を積むか、もしくは右翼でも頼むしかないでしょう。・・・」といった内容からも、置野が朝鮮総連に偏見があることは明らかです。

 そのとき、置野といっしょに行動していた人物ですが、本件において、津家裁で親権を置野に変更するよう意見書を出した西村氏(以下、西村と記す。)がいます。

 西村は、離婚裁判の傍聴にも度々来ており、問題の真相がよくわかっているはずなのですが、離婚裁判の期間に、私はこの西村から、人前で怒鳴られたことがあります。

 離婚裁判について、西村から出し抜けに「おまえ、いいかげんにせいよ!」と怒鳴りつけられたので、私が西村に、事の真相を話しだすと、西村は「そんなもんは、どうでもいいんや!」と、内容に関しては聞く耳を持たず、敵意ある感情だけを私にぶつけてくるということがありました。

 私は、離婚裁判が始まってから、それまで隔離されていた子どもについて、置野らが強引に私から子どもをさらっていっているように、私も子どもを取り戻す方法について、弁護士である私の代理人に相談をしました。

 そうしたところ、強引な置野らから子どもを取り戻すことは、トラブルが避けられない状況が予想され、その際、子どもにどんな被害が及ぶかわからないので、とりあえず裁判の進行をみながら、子どものことを考えようとアドバイスを受けました。

 私も力ずくで子どもを取りあうようなことは、子どもにとって決してよいことではないと考えていましたので、弁護士の言うとおり、社会的にも認められる方法を考えていこうと思いました。

 けれども私としては、子どもが置野らに、ちょうど人質にとられているような感覚でした。

 私がそんな思いで苦悩していたところ、尋問調書(資料1、平成2年11月16日の本人調書)の5番で、置野らが子どもを保育園に通園させていることを知りました。 

 そこで代理人と相談したところ、保育園にいる子どもに私が会いに行くことは、何の問題もないということで、保育園へ子どもに会いに行くことにしたのです。

 ところが、どこの保育園に行っているのかがわかりませんので、おそらく津市内の保育園であろうと見当をつけ、津市内の北から、順次すべての保育園を子どもを探して回ったのです。

 そうしたところ1990年12月20日に、津市の南に位置する富士保育園に子どもがいることを探し出しました。

 私が、「聖徳という名の園児がいますか?」と保母さんに言うと、突然保母さんは「聖徳君、お父さんがお見えになったわよ−」と大声で園児らが遊んでいる運動場に向かって呼んだのです。

 私が、まだ何の説明もしていないのに、どうして私が父親だとわかるのですかと保母さんに問うと、保母さんは笑いながら「だって顔がそっくりですもん、わかりますよ。」という返事がありました。

 かくして私は、約2年ぶりに隔離されていた子どもと会うことができました。保育園で子どもと私は、約2時間ほどいっしょに過ごしたのですが、私が父親であることを子どもに言うと、子どもは「お父さんはおじいちゃんなん」と答えました。置野らは、子どもに対して、正彦のことを父親だと教え込んでいたのです。私は改めて子どもを抱きしめながら、私が父親であることを告げました。

 そして私が帰る段になって、子どもが「いかんといて、もうちょっとおって」としきりに言うので、私は胸がはり裂けそうな切ない気持ちになりました。置野が、子どもを連れて蒸発した頃、まだ子どもは言葉をしゃべれないほど小さかったのです。

 また、保育園の方に、私が子どもの父親であることや、子どもと別居を余儀なくされている事情を改めて説明したところ、保育園の方は、そんな事情は置野からいっさい聞いていないとのことでした。

 そこで、今後は定期的に子どもに会いにきたいと要望したところ、保育園の見解としては、「子どもを保育園外へ連れ出すことは困るが、保育園内で会うことはかまいませんよ。」ということでした。

 置野が隔離を遂行してきたそれまでの経緯から、きっと私が、保育園で子どもと会うことを妨害するにちがいないと思われました。

 そこで、私は念のために保育園に、代理人である伊藤弁護士から子どもと面接確保のための依頼書(別添資料3)と、私からお礼の手紙を合わせて事情を説明した手紙を郵送しておきました。

 そうして、私が子どもに会いに保育園を2度めに尋ねたときのことです。保母さんから、「聖徳君は、今日は風邪でお休みです。」と説明を受けていたとき、子どもが私に走りよって、私の腰をつかんだのです。

 「いるやないですか?」と子どもを抱きあげて、保母さんに聞いたところ、保母さんは「園長から、お父さんが来たら、そういうふうに言うようにいわれていたもんですから。」とのこと。

 そこで園長に事情を訊ねたところ、「お母さん(置野)から、父親が子どもに会いに来たら、絶対子どもを会わせないでほしい。」と強く依頼されていたということでした。

 私が、「だからといってウソをつくことはないでしょう」と不満を述べたうえで、その時点では、まだ離婚も成立していないし、私が父親であることから、子どもに会いにくることに、保育園としては何らかの問題があるのでしょうかと問うと、園長は「あなたは父親だとおっしゃいますが、子どもの保護者は置野さん一人で、母子家庭扱いになっていますので。」という説明でありました。

 これは、置野が蒸発してから、津南町のアパートにあった子どもの住所を、置野が私に無断で、置野の実家に住所変更をしてしまい、その上、私が朝鮮籍であるため、住民票には登録されない制度を悪用して、保育園の入園に際しては母子家庭だと偽っていたのです。

 住民票からは、置野が世帯主になり、置野だけの子どもとして記載され、私の存在は、どこにも記載されない制度になっているのです。

 子どもが通園していた富士保育園は民間保育園であり、園長は、入園の際の契約者として、住民票の書類上からは、私の存在はどこにも確認できなかったの

で、保育園としては、契約者である置野の意向を無視することができないということでありました。

 また当時、子どもは朝鮮籍と日本籍の二重国籍者でありましたが、置野から保育園に対して、そのような説明は一切なく、当然のように、子どもは日本籍者としてのみしか扱われていませんでした。

 離婚も成立していないのに、母子家庭扱いになっているという点に、私は強い疑問を感じましたので、後日、その点について、津市役所の住民課と福祉課に事情を訊ねにいきました。

 まず、住民課では、外国人と日本人の世帯は、外国人登録や住民票の書式から別になってはいても、世帯としては「複合世帯」とのことで、ひとつの世帯であるとの説明を受けました。

 そして福祉課の課長の説明によると、離婚が成立していないのに、民間保育園といえども、置野が母子家庭ということで入園を申請したのは、明らかなまちがいであるとのことでした。

 置野は本件において、私が無断で単国籍化の手続きを為したと、無断という点については、虚偽の主張をしていますが、子どもの住所変更をはじめ、子どもの生活に関わるすべての申請手続きを、置野は、私に無断で、偽りの申請をしてきた経緯があります。

 津市役所での説明を受けて、私は後日、保育園に子どもに会いに行きました。

 保育園では、「子どもは休んでいていません。」との一点の説明に終始し、子どものいるトマト組の教室を見たいと要望しても、園長から断るように指示されているとのことでした。

 私は、そこで園長に対して、母子家庭扱いになっている点はまちがいですよと、津市役所で受けた説明をして、理解してもらおうとしたのですが、園長は、契約者の置野さんから、お金をもらっているので、置野さんの意向を無視できないという答弁に終始する状況で、私は子どもに会うことができませんでした。

 私はその後、何度か子どもに会いに保育園に行ったのですが、いつ行っても「子どもは休んでいておりません。」という返事で、子どもに会うことができませんでした。

 ちなみに、この時期のことを置野は、陳述書(資料1、甲第10号証)のNo29からNo30にかけて述べています。

 引用すると、『・・・けれども園長先生から、「お母さんが、しっかりして下さい。一時の感情で決めてはいけません。子どもは親のおもちゃじゃないんだから、親は自分が会いたいときにやってきて満足するかもしれないけど、子どもがすごく傷つきます」と言われました。・・・被告は、平成3年の2月にも、今度は三重大の偉い教授を連れてやって来たそうです。園長先生は、「自分の権利ばかり主張していました。また、あなたが、母子家庭と偽った保育料を収めているのは違法とも言っていました。子どもがショックを受けるからと言ったのに、強引に子どもに会いに来る人は初めてです。他の人は皆、子どもには直接会わずに、遠くから見ているだけですよ」と言っていました。・・・・・園長先生は、「自分の子どもをさらし者にする親なんているだろうか」と言っていました。・・・・』

 私は、保育園に行った際、保育園の園長が引用されている置野のこういった陳述書の部分について、園長に直接訊ねました。

 このような発言をしたのか、あるいは、私が子どもに会いに来たため、子どもが本当にショックを受けていたのか等を訊ねたのです。

 園長は、キッパリと「そんなことを言ったことは、一度もありません。置野さんがあなたを子どもに会わせたくないと言うだけです。子どもがショックを受けるなどということもありません。」ということでした。

 置野は、自分に都合のよいように、人を巻き込んで平然とウソをつき、デタラメな陳述書を出しています。

 私が特に強調したいのは、この頃から置野はすでに、自分の意思を遂行するために「子どもが傷つく」という引用を盛んにしており、子どもの代弁者を装ったウソの主張をしているという点です。

 客観的に見ても、保育園の園長が、子どもに会いたくてやって来た父親のことを、子どもは親のおもちゃではないなどと発言するはずもありません。また、保育園の園長が子どもを「さらし者」などという表現をするはずもありません。

 置野のこの陳述書には、事実とは異なるデタラメでありながらも、「さらし者」という表現を使ってまでも、子どもが朝鮮人でもあるという点を隠したいという意思が端的に出ていると思います。

 また、離婚裁判時には、あえて出しませんでしたが、置野があまりにも人の名を多用して、平然とウソの主張をするものですから、置野が裁判で人名を出した人に私が会ったとき、その確認をしたことがありました。

 その人は、たいへん驚くと同時に、置野の行為に憤慨しており、当時、一筆書くので裁判所に出してほしいと頼まれていた文書(別添資料4)を、証拠資料として添付します。

 津家裁の審判文では、この離婚裁判を、『激しい訴訟』と評していましたが、裁判の内容は、置野らのウソの主張に対して、私は事実あったことをありのままに整理して陳述したり、証言しただけです。

 私は、置野から提訴されたことに対して反訴しましたが、それはあくまで置野らがあまりにも極端なウソでもって、民族差別の動機から、私と子どもを隔離するために、裁判を通じて、私を犯罪者に仕立てようとする行為に対する言わば身を守るための反訴でした。

 審判文では、何をもって『激しい訴訟』と評されるのかはわかりませんが、ウソの主張に対して、事実関係を主張することが、『激しい訴訟』であると評価されるとしたら、私は心外でなりません。

 また、さらには、次に述べる和解の成立を原審では、『激しい訴訟の末に離婚をまず成立させるための妥協的な措置として採られたものである』と断じていますが、訴訟においては、そもそも置野側が離婚、並び、離縁を求めたのに対し、私のほうも反訴において、離婚・離縁を求めていました。

 したがって訴訟の内容は、婚姻の破綻の原因が何であったのかが争点になり、置野側の激しい民族差別に破綻の原因があったことが、明らかになった訴訟であるのに、民族差別という事実を、離婚を成立させるための『妥協的な措置』として評されることに、私は到底納得できないのです。

五 和解調停への移行から和解の成立まで(1991年9月〜1992年3月)

(1)和解調停への移行が決定した口頭弁論について

 1991年9月6日の第14回口頭弁論において、裁判長から、双方に対して和解勧告の打診がありました。

 裁判長からの説明は、原告(置野)・被告(李)双方の本人尋問が前回(第13回口頭弁論)で終了し、今後の裁判の進行は、双方から出されている証拠申出書にそって、関係者の証人尋問に移行することになるとのことでした。

 そこで、双方の本人尋問が終了した段階で、裁判所としては本件の内容についてはおおむね把握できたので、裁判所から和解勧告をする場合があるとのことで、それについての打診でした。

 私は、その場で、代理人と相談したところ、和解勧告の内容を判断することにも意義があるとのことで、裁判長からの和解勧告をひとまず受けることにしました。

 置野側も、その場で、代理人を通じて、和解勧告を受けるとの意思を示しました。

 裁判長は、双方からの回答を受けて、「それでは次回期日(和解弁論)には、裁判所からの和解案を考えてきます。」とのことでした。

(2)1991年10月18日からの和解調停について

@1回目(10月18日)の調停内容

 和解調停は、私が提訴される前にあった、調停と同じような形式でしたが、調停委員ではなくて、それまで津地裁で裁判を担当された多見谷裁判長が、調停委員になっているという状況でした。

 その日、まず裁判長は、私と置野及び双方の代理人を調停室に呼び、裁判所からの和解案として、「親権は被告(李)に認め、監護者は原告(置野)に認める。」との和解案を発表されました。

 そして「この案を基に、和解調停を進めたいと思います。」と双方に言いました。そして双方個別に、調停が始まったのです。

 まず、置野側が調停室に呼ばれたと思います。

 しばらくたって、私と代理人が調停室に呼ばれました。そこで裁判長から言われたことに、私は驚いたのですが、置野側から、裁判長に解決金として100万円を李に支払うとの提示があったというのです。

 私としては、裁判長から発表された和解案において、親権と監護者が別々になるなどということは、それまで想像したこともありませんでしたので、どのように考えればよいのか、わからない状態でした。

 裁判長から、次回期日までに、こちら(李側)の主張を考えてきて下さいとのことでした。

A1回目の調停を受けて考えたこと

 私は代理人を始め、人権の観点から裁判を支援してくれる仲間たちと、1回目の調停の内容について、議論を重ねました。

 この当時、子どもは4才になっており、私は、監護者が置野になるということについて、それまで私自身が体験してきた置野家の環境で子どもが育っていくことについて、強い危機感をもっていました。

 それは、置野とその親族らが、朝鮮人に対して、あまりにも極端で激しい民族差別の意識をもっており、その強固な意識は修復不可能に私には思われたからです。そんな環境で、子どもが育っていくとしたら、朝鮮人と日本人の「混血」(以下ダブルと記す。)である子どもが、幸福になれるはずがないからです。

 しかし、私は、置野らが私に対して取ってきたように、子どもを母親である置野から隔離しようなどという意識は、当初から毛頭ありませんでした。子どもにとっては、私が父親であるように、置野が母親であることを否定する気持ちは私にはありません。ただ、置野家の環境において、最も子どもにとって不幸な点に、朝鮮人を徹底して差別する置野家の家庭教育のありかたを、私は到底無視することができませんでした。

 したがって当時、私が出した結論として、裁判長の和解案においては、監護権も要求するということでした。

 また、置野側からの解決金100万円の提示は、何に対する解決なのかが曖昧な状態なら拒否しようと考えました。

B2回目(11月20日)の調停内容

 前回の調停を受けて、私が裁判長に回答したのは、まず次のことでした。

 「順序付けするわけではありませんが、まず親権と監護権を優先的に要求します。相手方(置野)の言う解決金は、子どものことが解決した時点で考えますが、内容の示されない『解決金』であれば拒否しますし、額の多少より、『謝罪金』や『慰謝料』という形にならなければ、納得できません。」と回答しました。

 さらに私は、調停室で裁判長に、なぜ私が親権と監護権の両方を要求するのかという点を口頭で説明しました。

 子どもの将来にむけての健全な人格形成については、家庭教育において、正しい人権感覚に裏打ちされた民族教育が重要であり、現時点では置野家にそんな家庭教育ができる根拠がないということを話したのです。

 その上で、しかしながら、子どもにとって、母親としての置野を私には排除する気持ちは毛頭ないことを説明したのです。

 裁判長は、私の説明のひとつひとつに首を縦にふり、あいづちをうってみえました。そして「あなたのおっしゃることは、とてもよくわかります。」と言われ、「相手方にそれを伝えて説得してみましょう。」ということで、私の番は終わり、相手方の番になりました。

 相手方は、私の回答について「検討する」とのことで、調停の次回期日が決定されました。

C3回目(12月20日)の和解内容

 調停室において、裁判長は前回のことを受けて、私の主張を置野に説得したことを言われました。

 そして裁判長は、「相手方は、監護権をどうしてもほしいというのです。」と言われ、私も監護権の要求については、どうしても譲れないと言いました。私は、置野から提訴され、反訴して裁判を続けてきたのも、すべては子どもの将来に向けた健全な教育環境を確保することが、最大の目的であり、動機でしたと言うと、裁判長は、「私には、よくわかるんですけどね。」と言われて、「もう一度、置野さんのほうを説得してみましょう。」と言われました。

 しばらく置野の調停が続いた後、調停室に本人双方とその代理人が呼ばれました。

 そして裁判長は、「双方から話しを聞きましたが、裁判所からの最終和解勧告案を示します。」と言われ、順番に4つの最終和解勧告案を示されました。

 離婚しなさい。離縁しなさい。

 差別的な扱いについて、原告(置野)らは、被告(李)に謝罪しなさい。

 慰謝料として、原告(置野)らは、500万円を支払いなさい。

 親権者は父親(李)、監護者は母親(置野)にしなさい。

 そして裁判長は、「この4つが裁判所からの最終和解勧告案とします。」と言い、次回期日には、この和解案について、双方が回答しなさいということでありました。

D最終和解勧告案を受けて考えたこと

 私は、裁判長から示された4つの最終和解勧告案について、様々な人を訪ね歩いて、相談をし議論を重ねました。

 代理人や私の仲間たちはもちろんのこと、私は、在日朝鮮人の同胞弁護士のところも訪ねました。また、人権教育の専門家や有識者らにも意見を求めました。そして、私の友人たちにも忌憚のない意見をモニタ−するかのように、この当時、私は様々な観点からの意見や議論を求めました。

 私が求める意見や議論のテ−マは、ひとつしかありませんでした。果たして、私や子どもがおかれている状況で、監護者を置野に認めてもよいかどうかという一点についてです。

 なぜなら、裁判長からの最終和解勧告案を受け入れるか、否か、という判断は、監護者が、置野になるという点以外は、私には何の異論もなかったからです。

 最終和解勧告案について、様々な人との議論を通し、私にはひとつの動機から二つのことが整理できました。

 ひとつの動機というのは、私から見た置野がどんな人格であれ、端的には、修復不可能な強固な民族差別者であったとしても、子どもを前にして、私が父親であるように、置野が母親であることは、あくまでも尊重しなければならないという動機でした。

 子どもにとって、母性というより、母親の存在はどこまでいってもかけがえのない存在にはちがいありません。これは父親にしても同様ですが。そもそも子どもの出産時には、私は分娩室の中にも連れ添ったのです。私は、母親の存在の重要性を、この当時は、むしろ素朴な多くの母親たちと議論する中で、幼児にとっての「母親」の重要性を再認識したのです。

 二つの整理というのは、監護者が置野である場合、子どもが朝鮮人でもあるということを、人権教育の観点から視た民族教育の保障を、置野に対して一定の効力があるような担保のある確約を取らねばならないということでした。

 そして、これまでのように、二度と置野らが、私と子どもの隔離をしないように、面接の保障をとることにありました。

 最低でも、この二つの条件が認められれば、私は監護権については、断腸の思いがありつつ揺れながらも、裁判長からの、最終和解勧告案を受け入れてもよいと考える傾向になっていきました。

 この二つの条件を、具体的にどのように条文化するかで、代理人と私の仲間たちの間で、さらに議論が重ねられました。

 当初、私は、子どもに李姓である民族名を名乗らせることを、和解の条件として提案したのですが、代理人から、それは私が親権者であるならば、親権の権利に折り込み済みだから重複することになり、和解条項にはなじまないと指摘されました。

 後にこのことが問題になろうとは、私は夢にも思いませんでしたが、当時は、確かに日本人同志でも、離婚により、親権者の方の姓を子どもが名乗ることが、むしろ一般常識だと指摘され、その通りだと私も思っていました。氏の変更申請資格は、法定代理人である親権者にあるとのことでした。

 いろいろ議論が重ねられた結果、最終和解勧告案の2項の謝罪条項について、『婚姻生活の破綻が、置野側の民族差別によるものであることを認め謝罪し、置野とその親族らは、今後民族差別をせず、朝鮮民族を尊重することを誓約する』という文言にすれば、私の条件を満たすのではないかという結論になりました。

 つまり、差別の謝罪だけでなく、民族の尊重の誓約条項が入れば、今後は、置野らが子どもの監護者として、それまでのように子どもを日本籍者としてのみ扱い、朝鮮人でもあるという点を抹殺する差別的な家庭教育をすることはないであろうし、また、子どもにとって必要な民族教育の担保にもなり得ると考えたのです。

E4回目(1月29日)の和解内容

 裁判長からの最終和解勧告案に、私の主張をもり込むことが、裁判長に受け入れられ、また当日に、置野と合意に至った和解条項を項目別に述べます。

 (1) 離婚する。離縁する。

 これは始めから、双方が同じ主張でしたので、争点にはなっていません。

 (2) 婚姻生活の破綻が置野側の民族差別によるものであったことを認め謝罪し、置野とその親族らは、今後民族差別をせず、朝鮮民族を尊重することを誓約する。

 この条項は、「差別的な扱いを謝罪しなさい」という裁判長から示された和解案を、子どもの民族教育の担保のためにも、具体化させるためには必要だということで、李側が裁判長に提示して、最終和解勧告案として裁判長に受け入れられた条項です。

 当日、置野側は、この条項を認めるということでした。

 (3) 置野側は、慰謝料として、李に500万円支払う。

 当日、置野側は、これも認めるということでした。

 (4) 親権者は父親(李)、監護者は母親(置野)にしなさい。

 親権者を李、監護者を置野とする最終和解案でしたが、当日、置野はもう少し考えたいので返事は、保留させてほしいと言ってきました。

 どのように考えたいのかと、李側が裁判長を通じて、置野に打診したところ、「とにかくもう少し考えたい」とのことで、その内容や方向性は示しませんでした。

 (5) 父子として、子どもとの面接を保障すること。

 この条項も、李側が裁判長に最終和解勧告案に入れてほしいと提示して、裁判長に受け入れられた条項です。

 当日、置野側は、この条項も認めました。

 (6) 置野弱電工事の株を李が返すこと。

 これは当日、置野側が提示した条件ですが、株を返すも返さないも、私は自分が置野弱電工事の株を所有していることさえ、それまで知らされてもいませんでしたから、私が合意を拒む理由は何もありませんでした。

 置野らは、私に無断で、私の名義を利用していたのです。

 置野の保留を除いて、以上のことが調整され、当日に最終和解勧告案として裁判長に受け入れられ、また、置野とも合意に至りました。

 ただし、置野が親権と監護者について内容を示さずに保留しましたが、私は、置野が、監護者も私に認めるというのであれば、私は、その条件で和解に応ずるつもりであることを、裁判長に言いました。

 また、もし仮に置野が、親権を私に認めないというのであれば、和解条件のすべては連動しているので、調整済みの最終和解勧告案でない限り、受け入れることはできないとも言いました。

 裁判長は、調停室で、本人双方と代理人を呼び、置野側の代理人(角谷弁護士)に対して、「和解内容がつまってきましたので、親権者を被告(李)とし、監護者を原告(置野)とすることについて、置野側が納得するように説得しておいて下さい。」と言いました。

 置野側の代理人は、「わかりました。次回は和解調印のため、置野正彦と置野和子が出席しますので、よろしくお願いします。」と応えていました。

 私としては、置野側の代理人がそう言うのを聞いて、次回は、和解が成立するであろうと思いました。

F5回目(2月26日)の和解内容

 私は、当日の調停の冒頭で、前回に裁判長から認められた最終和解勧告案であるならば、和解を受け入れる意思を表明しました。

 ところが、私が裁判長からの最終和解案を受け入れると表明したのち、他方の置野側が、前回合意した条件をひるがえしてきたのです。 

 まず先に述べた前回の合意状況と比べて、置野がひるがえした内容を述べます。

 (2) 謝罪については、「差別的な扱いと誤解されるようなことは、ありました。」ということでもって、謝罪としたい。なぜなら、民族差別的な意識はなかったから、という主張でした。

 (4) 親権については、もう一度、考えさせてほしい。

 (5) 父子の面接は月に一度(当日の当初は、2ヵ月に一度と主張したが、月に一度と変更する。)とする。その約束を履行しない場合は、1回につき、違約金15万円を支払う。

 以上の置野の変節について、私のほうは、前回に裁判長から認められた最終和解勧告案の条件でないと、和解は受けられないし、また、置野がひるがえした条件は、私のほうには検討する余地もないと主張しました。

 これは、おそらく前回の合意内容が、置野の親族らには受け入れられなかったのでしょう。

 当日、置野の変節を知らされて、私が裁判長に話したことは、民族差別の謝罪もなければ、民族尊重の誓約もないという、置野の出してきた条件では、将来に向けて、とても子どもの民族教育など何ら確約されないことは、明らかであるということ。

 また、和解内容の条件は、置野は条項別に考えている節があるが、私のほうはすべて連動しており、どれ一つとっても欠落させたり、変更することはできないので、置野の出した条件には、こちらとしては、考えたり検討したりする余地も、まったくありませんとキッパリと言いました。

 そして、子どもと月一度という制限のある面接条件については論外であり、さらには、子どもとの面接を履行しない場合には、1回につき、違約金15万円を支払うという申し出に至っては、金さえ払えば、また私と子どもを隔離することが可能であると、そう置野らが考えている証拠であることを強く感じると言いました。

 裁判長は、私の話しに終始うなづいておられ、「そうですね。」と同意も示されていました。

 私はそこで改めて、裁判長に、「せっかく和解調停をもってもらいましたが、裁判所から認められた最終和解勧告案でない限り、和解を受け入れることはできませんので、こんな条件を置野が言い出した以上は、もう和解はけっこうですので、判決で決めて下さい」とまで言いました。

 裁判長は、「わかりました。」と言い、本人双方と代理人を調停室に呼び、「和解が成立しても不成立でも、次回期日をもって、和解調停の最終期日とします。」と言い、置野側に最終和解勧告案について「よく考えてきなさい。」と、それまでにない強い調子で言われました。

 当日、私としては、もう判決ではっきりとさせてもらったほうが、後々のことを考えるとよいという考えに傾いていました。

 ここで私は、置野の弟である明の置野に宛てた返信を思い出し、たいへん不愉快な気持ちになっていました。

 「・・多分、親父(正彦)はそこらへんを考えて5年と言ったと思うのです。・・・相手(李のこと)はもはや倫理の通用する相手ではありません故、金を積むか、もしくは右翼でもたのむしかないでしょう・・・」との文面通り、置野は、金を積んだら、私が子どもに会わなくてもよいと本気で考えることができる、その意識が、私にはたいへん醜怪に映り、そんな環境で育っている我が子を不憫に感じ、切なくなったのです。

 私のほうとしては、裁判長に、裁判所からの最終和解案でない場合、わずかな譲歩もする余地がないということを明確にしていましたので、実態として、和解成立の可否については、置野の監護者としてのあり方について、置野側だけが裁判所からの最終和解勧告案の条件を受け入れるか、否か、という状況で、最終和解調停の期日が決められたのです。

G和解が成立した5回目(3月23日)の和解内容

 当日の冒頭に、置野側から、私の親権を1年間だけなら認めてもよいという新たな再提案をしてきました。

 親権を私にすることは、すでに和解の当初から、裁判長も積極的に認めており、私としては、置野がもしかすると、監護者を私に認める可能性もはかないながらも期待していたので、置野の再提案は聞いたその場で、私は、検討する余地がないと一蹴しました。

 また、私が一蹴した点について、裁判長もうなづきながら「そうでしょうね。」と同意を示されていました。

 私が、最終和解期日として、「あくまでも裁判長からの最終和解案の条件でないと、和解を受けることはできません。」と言うと、裁判長は「よく、わかりました、相手に伝えます。」と言い、私は裁判長と置野との調停を、控え室で待っていました。

 しばらくして、本人双方とその代理人が調停室に呼ばれました。

 以下に述べるやりとりは、すべて置野側も同席している場で決定した内容です。

 そこで裁判長から、私に、親権については1年後に協議するということでどうですかと訊ねられました。

 私は即座に、それを拒否して、その理由を述べました。

 「1年後の協議ということは、親権が1年後に変更される可能性があるということのように思われますので、私は拒否します。」と言いました。

 すると裁判長は、「そんなことはありませんよ、協議はあくまでも協議ですから、あなたの親権が変わるということではありません。」と言われました。

 そして裁判長は私に続けて、「置野さんのほうは、最終和解勧告案の条件をすべて飲むということですから、あなたが懸念されていた子どもとの隔離も、民族の尊重の誓約条項もありますから、心配いらないでしょう、ですから、面接状況を踏まえて協議することは、子どもさんの将来について話しあえる場としてもいいのではないですか。」と言われました。

 また、私のほうの代理人からも、「李君、協議は協議以上でも、以下でもないから、協議することは、かまわないんじゃないの、裁判長が言われるように、親権が変わるということにはならないんだから。」と言うので、私が、裁判長の顔を確認のため見ると、裁判長は首を大きく縦にふってうなづかれました。私が「本当に協議というのは、協議以上でも以下でもないのですね、単に協議するというだけなのですね。」と裁判長に言うと、裁判長は、「そうです。」と明確に応えられたのです。

 そこで、私のほうから「だったら、監護者のほうも協議対象に入れてほしいと思います。」と言うと、裁判長は置野側の代理人に「どうですか」と訊ねました。置野側の代理人は、「それで、けっこうです。」と答えました。

 本件における津家裁の審判文で、盛んに指摘されている協議条項は、このようにして決まったのです。

 裁判長は、「それでは、これでおおむね和解が詰まりましたから、後は細かい部分を詰めましょう。」と言われました。

 そこで子どもの面接回数を決める段になり、私のほうから、2週間に2回として、その内、1回は私の家に宿泊させたいと言いました。

 すると裁判長は、「月2回にしたらどうですか」と言うのです。

 私が、「月2回の回数でしたら、子どもに家庭教育をするのは無理です。だから、最低でも一週間に1回は子どもに会いたいと思います。」と言うと、裁判長は「李さんは、誤解してみえますね、あなたは親権者だから、いつでも子どもに毎日でも自由に会えるのですよ。ここで決める回数は、また子どもさんと隔離されないよう、その防止策として、最低の回数を双方に義務として、科しておくという意味なのですよ。」と説明されました。

 私は裁判長からの意外な説明に、安心して「本当に毎日でも自由に会えるのですね、あくまで隔離の防止策として回数を決めておくということなのですね。」と確認を求めると、裁判長は「そうですよ、あなたは親権者なんですからね。」と言われました。

 私は、自分の代理人にも、「本当ですね、裁判長の言われる通り、親権者なら子どもに毎日自由に会えるんですね。」と言うと、代理人は「裁判長の言う通りで、最低2回ということですね。」と代理人は、裁判長に同意を促し、裁判長は「そうです。」と言われたのです。

 そこで私は、「そういうことであるなら、私は月2回ということで、かまいません。」と了解したのです。

 子どもとの面接回数は、こういった経緯で決定されたのです。

 また、子どもの養育費についてですが、これは裁判長からも、置野側からも和解では終始出ませんでしたので、私は、自分のほうから裁判長に子どもの養育費を置野に月々支払いたいと主張しました。

 裁判長は私の主張を受けて、「月どれだけ払いますか」と訊ねられました。

 そこで、私が「毎月4万円づつ、子どもが成人するまで払いたいと思います。」と言うと、裁判長は置野側に「どうですか」と訊ねました。

 置野側の代理人は、「それでけっこうです。」と言うので、養育費の支払いが決定しました。

 子どもの置野への養育費の支払いは、このように、私のほうから自主的に主張して認められた条項なのです。

 そして置野側からは、慰謝料の支払いについては、会社(置野弱電工事)の経営状態が苦しいので、1年間に100万円づつということで分割にしてほしいとのことでした。

 私のほうは、何の反対する理由もありませんので、それで承諾した次第です。

 和解成立が確定する中、私のほうから裁判長に質問もしました。それは、置野の両親である、正彦と和子のことでした。

 1月29日の4回目の和解調停の最後に、置野側は、正彦と和子が、和解調印のため出席すると述べていましたが、正彦と和子は、最終和解期日の当日になっても、地裁の裁判を含めて、とうとう最後まで一度も裁判所に来たことがありませんでした。

 和解条項は、離縁もあることから、少なくとも正彦と和子も当事者として、裁判所に出席して調印するというのが通常ではないかと、私は思ったのです。裁判長は私の疑問に対して、「通常は出席するのが普通なんですけどね、どうしたのですか」と置野側の代理人に訊ねられました。

 置野側の代理人は、「仕事でちょっと来れないということで、二人についても私が代理人になっていますので。」という返事でした。

 続けて私の代理人が、「まあ、李君、普通なら出席するのが通常なんだけどね、けど、出席しなくとも、この和解条項は、正彦さんや和子さんにも、同じ効力があるから心配しなくていいよ。」と言うと、裁判長は「そうです。」と言われました。

 私は内心、感情的な和子が裁判所に出てくると、私に対するそれまでの和子の差別的な態度が裁判所で明らかになってしまうため、置野側の代理人が和子の出席を断ったのだと思いました。

 このようにして和解が成立し、最後に裁判長のほうから、「双方、離婚はしましたが、これから子どもさんのためにも、和解条項を守って、良い関係を築く努力をして下さい。」と言われ、私は「努力したいと考えています。」と答え、置野は小さく「はい」と答えました。

六 原審の決定結果について

 原審では、私が子どもを朝鮮籍へと単国籍化したことが、子どもの福祉に反するという理由でもって、親権を相手側に与える決定が下されました。また原審では、子どもを日本籍へ帰化させるという相手側の意向を肯定さえしていますが、私や子どもにとって親権を相手側に変更するという原審の決定は、私からの親権の剥脱以外何物でもありません。「親権の剥脱」という決定そのものが、私には到底納得できませんが、それ以上に私としましては、朝鮮籍への単国籍化が子どもの福祉に反しているとされた点が極めて遺憾に思います。

 この点に関して、なぜこのような決定が下されたのか私は原審の決定文の一言一句を噛みしめてみましたが、随所に事実誤認があるにしても、私が親権を剥脱されるほどの理由としては、私にとって原審はいささか抽象的であり、理解しがたく思いました。

 ところが抗告の本件に及んで、原審段階で相手方からたくさんの主張の書面が出されていたことを私は初めて知りたいへん驚きました。さらに驚いたことはすでに出されていた相手方の主張内容についてです。そこにはあまりにも事実とはかけ離れた虚偽の主張が多々あることです。いうまでもなく私は裁判制度については素人ですから詳しく知りませんが、それにしても原審では相手方の主張の真偽について私には答弁の機会さえ与えてもらえなかったことが残念でなりません。

 私がこのように強く思うのは、原審で2年間ほど継続してもたれた調停において相手方は私に対しては親権の変更を求めたわずかな文面の提訴状以外に如何なる主張もないと言い、そしてこちら側からの質問には如何なる答弁もしないという姿勢を一貫して表明していた事実経過があったからです。

 相手方は日常生活においても子どものことについて離婚成立以降も引き続き、私に対しては無視と沈黙と拒絶ばかりでした。ですから相手方から親権の変更が提訴された原審段階の調停の場において、私は相手方に幾度も子どものことに関して話し合いを要望したのです。ところがたとえば原審で相手方の代理人であった中村弁護士からは、調停の席上で話し合いを要望する私に対して「憲法には言論の自由がある、言論の自由の中に沈黙する自由もある、従って私が沈黙するのは憲法を守るためなのだ」という、私にとっては詭弁としか思われないような言でもって、私とは如何なる話し合いもする必要がないと表明されもしてきたのです。

 したがってその結果として原審の決定は、相手方の一方的で多くの虚偽をおり交ぜた主張がそのまま裁判官に受け入れられているという質の重大な事実誤認があることを私は抗告に及んで改めて述べたいと思います。

七 相手方の主張について

 原審段階と本抗告において、相手方は「裁判所にだけ」に対し共通して一貫した主張があります。それは離婚成立後に私が子どもの国籍を朝鮮籍へと単国籍化したことにより、まるで日本人から突然「外国人」になったとして、そのことが原因で子どもの福祉に反した著しい不利益があると主張しています。また子どもの「姓」が置野姓から李姓へと変わったことを、子どもの「名前」が変わったとして、そのことが原因で子どもの学校生活を中心とする日常生活において、子ども自身がたいへん苦しんでいるとも主張しています。 その上で、 こういったことが新国籍法に反しているとか、子どもの権利条約に反している、あるいは子どもの基本的人権までも侵害していると主張しています。

 相手方のこういった主張を踏まえて、以下に述べたいと思います。

八 子どもの養育について

 原審判文には前提として、子どもの「福祉」と「教育」というものを別々のものとして切り離して判断されているような印象を私はもちました。しかしながら、私は本件のように発達段階の途上にある幼いわが子の場合、福祉と教育は一体不可分なものであると考えています。それは子どもの福祉に反した教育は許される教育ではなく、また健全な教育が子どもの福祉に反するなどということは社会的にありえないと思います。そして子どもの「福祉」と「教育」は同一のものとして親として当然のことながら養育していく責任と義務があり、またそこにはかけがえのない喜びや生きがいがあると思います。

 さて本件における子どもの養育について、私と相手方とは明らかに養育方針が異なっている点があります。相手方は盛んに朝鮮籍への単国籍化と李姓への変更について子どもの代弁者を装いながら、そのことを徹底して拒絶しています。この点について養育方針が異なっている状況を仮に原審のように、私と相手方との「確執」だと表現されるならば、この「確執」の起点は、相手方との結婚後の子どもの出産前から始まっていた事実をご理解願います。そしてこの「確執」の内容が相手方とその親族らによる激しい民族差別の動機から始まっていることも、先の離婚裁判における和解内容に示されている事実としてご理解願います。

 改めて言うならば、私は日本人である相手方との結婚に際して自己が在日朝鮮人であることを隠したりしていません。また結婚前も結婚後も相手方及びその親族らから私は執拗に「帰化」を強要される日々が続きましたが、この点に関して私は当初から一貫して同意しないということを相手方に表明してもいました。

 「帰化」に私が同意しないことから相手方及びその親族らから一丸となって私は罵倒される結婚生活の中でも、私はやがて生まれてくるわが子に父親としての喜びと生きがいを強く感じていました。当然のことながら私は子どもが生まれたら、家庭内で朝鮮人としてのル−ツを子どもの発達年齢に応じて教えていくつもりでした。なぜなら母親が日本人であり、父親が朝鮮人という「国際結婚」の基に生まれてきたという子ども自身の出自を相手方のように隠さなければならないなどという考えなど私には少なくとも微塵もなかったのです。

 ところが相手方やその親族らには、子どもが朝鮮人でもあるという出自からして隠さなければならないものだという頑なな固定観念がありました。まして私が子どもに対して家庭内で朝鮮人でもあるということの民族教育をしていくことの必要性を明らかにすると相手方は問答無用という形でひたすら、私を子どもから隔離すること及び排除することに躍起になりました。それは私に自殺することを要求したり、ときには暴力を用い、また私が極悪非道な人間だと離婚理由を捏造してまで私を子どもから排除しようとしてきました。現在に至る相手方によるこれら一連の行為は、子どもから朝鮮人でもあるということを消し去ろうとするために、子どもから父親である「私」や私の親族らを排除しようとする目的以外の何物でもありません。

 一般的に子どもの養育という家庭内教育については個々の家庭それぞれに特色があることでしょう。わが子の場合、当時の私が考えたように、私が父親として相手方との協力の下に家庭内で朝鮮人でもあるという民族教育をしていこうとすることは、到底反社会的なことだと私には思えません。むしろ日本人と朝鮮人との間に生まれた子どもにとってそのことを教えていくことは自然なことであり、現実にこれから日本社会の中で生きていく子どもにとって必要なことであると私は思います。

 私にはダブル(「混血者」のこと、以下ダブルと記す。)の出自をもつわが子にそのことを教えようとせず、相手方のように朝鮮人でもあるということを隠し通そうとする養育の有り方のほうが異常に思えるのです。私にはそういった相手方の養育方針のほうが良識的な社会規範からも逸脱しているように思えて仕方ありません。それほどまでに朝鮮人を嫌うなら相手方は最初から私と恋愛結婚をしなければよかったのです。

 相手方の親族らは結婚話が出た当時から、どうしても私を劣等感のある在日朝鮮人だと勝手に決めつけ、日本人になりたいにちがいないと勝手な憶測を押しつけてきましたが、少なくとも私は相手方に対しては恋愛期間を通じて在日朝鮮人であることの意義を自分なりに精一杯説明してきたつもりです。そのことに相手方はたいへん積極的な理解を示していたからこそ私とは恋愛から結婚に進展したのです。そのくせ子どもの出産の時期になって、相手方がその両親に同調してこれほどまでに朝鮮人を嫌悪し蔑む人格になろうとは私には想像もできませんでした。

 たとえば私が相手方に対して情けなさを通り越し切なくさえ感じることは、原審段階の主張にわが子のことをある日突然「外国人」になってしまったというような文言があることです。私は在日朝鮮人として日本人から「外国人」と呼称されることに違和感はありませんが、身内の者のことを「外国人」と記述できてしまう相手方の感性には今さらながら暗澹たる気持ちになります。

 この陳述書は審理して下さる貴裁判官に述べているつもりですが、この場を通じて相手方に一言いいたいのです。子どもは「外国人」じゃなくて「朝鮮人」です。そして新国籍法をもって私を批判する主張もしているのですから、子どもの出生の時点から日本人でもあり朝鮮人でもあったことを十分に知っているはずです。それをある日突然「外国人」になったという記述はあまりにも情けなく思うのです。

 このように原審において「確執」と表現されている子どもの養育方針をめぐる相手方と私との問題が顕在化した時期は、和解成立後に私が単国籍化した時期からではなく、また先の離婚裁判中でもなく、子どもの出産前に私が家庭内で民族教育の必要性を相手方らに明らかにした時期から始まっているのです。先の離婚裁判において相手方が提訴し私が反訴で応じたのは、離婚や離縁を求めてのことではないのです。最大の争点は子どもの親権、すなわち結婚当初から始まった相手方らの朝鮮人でもあるという事実を執拗かつ強引に隠し続けて子どもを養育しようとしてきた経緯さえなければ、本件に至るような問題は生じていないのです。

九 相手方の養育姿勢について

 私は相手方が、子どもの朝鮮人性を無視して日本人としてのみ養育しようとしてきた姿勢は、子どもにとって有害であると考えています。それは人格形成期の途上にあるわが子に人格破綻を強いる危険な養育姿勢です。たとえば相手方は子どもがすでに日本人としてのアイデンティティ−を有していると主張していますが、その点については私も同感です。日本で生活しているのだから日本人としての自意識が育まれることは当然であり自然であると思います。その点について私には何の問題も異論もありません。

 しかしだからといって相手方は他方の朝鮮人としてのアイデンティティ−がどうして必要でないと考えることができるのでしょうか。相手方と私と決定的に異なることは、相手方は日本人と朝鮮人の二つの民族性を有している子どもに対して、日本人としてのひとつの民族性しか認めておらず、朝鮮人としての民族性は混在してはならぬものして、朝鮮人性は排除すべき対象としか捉えていないことです。比べて私は相手方のように日本人性を排除する対象であるなどとは当初から毛頭考えておりません。私は社会制度の観点からではなく、二つの民族性は一人の人間の中で対立するものではなく矛盾なく十分に共存できる性質があると考えているのです。

 たとえば在日朝鮮人について特段の知識がなくとも、子どもが日本と朝鮮の二つの民族性を有していることを相手方は知っているはずです。子どもが二つの民族性を有しているという事実を放置した相手方の養育姿勢は、これから実社会の中で生きていく子どもの監護者として、さらには子どもの実の母親としてあまりにも無責任です。いみじくも相手方の主張の中に朝鮮人でもあるということについて、「幼い子どもに背負わせるにはあまりにも重荷です。」という箇所があります。これは結婚当時、相手方の父親である正彦が私の母親に、「生まれてくる子どもが朝鮮人と知られたら身が切られるように痛い。」と述べた内容と同質の表現であると思われます。「重荷」ということも「痛い」ということも、前提に朝鮮人が劣った存在だとして敵対的な蔑視観がなければ到底出てこない文言です。

 私が相手方の養育姿勢が無責任だという理由は次の通りです。子ども自身がこれからの人生において、在日朝鮮人でもあるということを「重荷」に感じることがあるかも知れません。また「身が切られる」ような思いをすることもあるかも知れません。確かに私自身も在日朝鮮人2世として自己の成育歴において苦悩した体験もあります。相手方らはそういった子どもの「痛み」を想像できていながら、それを解決していこうとするどころが、あえていうならば逆に子どもの「痛み」に塩をすりこむが如くの苛酷な行為をしているということがどうしてわからないのでしょうか。なぜならば「痛み」を感じる当事者は子ども自身なのです。

 それは何故の「痛み」なのでしょうか。それは朝鮮人であることが人として劣っているという誤った価値観を受けて、当事者自身からして朝鮮人であるということが恥ずべきことだという意識からのみ出てくる「痛み」です。当人に朝鮮人が恥ずべき存在ではないという自覚さえあればその種の「痛み」は容易に克服できます。逆に当人が朝鮮人でもあるという自己の出自に劣等感をもち、隠さなければなならいことだという意識であれば、その「痛み」は増幅されていくばかりです。その弊害は当人に歪んだ人格が形成されるだけでなく、実際に自殺にまで追い込まれた実例は決して少なくありません。あるいは「帰化」した人々も含めた在日朝鮮人の教育に関する書籍を読めば、現実に何人もの在日の若者が成育歴において自殺を考えたことを回顧しています。それらすべてに共通しているのが自らの民族性を「隠し続けた」という点なのです。

 相手方は、子どもを「だからこそ日本人にするのだ。」という考え方をしているようにも思います。日本人になれば前述したような問題が解決できると考えるのでしょう。もしそうであるとするならば、この点が相手方の養育姿勢の最大にして根本的なまちがいなのです。私は子どもが生まれた当初からわが子が日本人になることについて反対なのではありません。相手方には改めてよく考えてほしいのですが、日本人になったからといって、前述した問題がどうして解決されると考えられるのでしょうか。子どもは一個の独立した人格を有する人間なのです。

 一人の人間にとって国籍は変更可能ですが、自らの出自は変更できません。問題の原因は国籍の所在にあるのではなく、これから生きていく上で子ども自身が自らの出自を自らが卑下し逃避しようとする意識になるか否かにあるのです。もし逃避する意識になってしまったとしたら、そのことこそが子どもの人格を破綻へと向かわせる原因になるという現実を、相手方は少なくとも子どもの母親として監護者として理解する義務すら私はあると思います。私は父親として将来特に子どもの思春期においてひょっとしたら反発されることも予想されるのかも知れません。しかし相手方が子どもに強いてきたような質でわが子が私を嫌悪するようなことはないと、私はわが子との関係においてそう確信しています。

十 相手方の主張する子どもの苦しみ及び不利益について

 相手方は原審段階及び本抗告においても、朝鮮籍へと単国籍化したこと並び李姓になったことが、子どもの学校生活を中心とする日常生活で如何に子ども自身に苦しみをもたらしているのか、及びそのことが如何に子どもにとって不利益な事態になっているのかということを盛んに主張しています。

 いうまでもなく相手方自身が朝鮮籍への単国籍化と李姓について、激しい嫌悪感をもっていることについてはすでに相手方の主張からも十分にうかがえると思います。相手方の主張内容においてはそういった相手方の嫌悪感を、子ども自身が苦しんでいるという形で子どもの代弁者を装いながら展開しています。そこでここでは、相手方自身がもっている嫌悪感は別にして、まず子ども自身が朝鮮籍への単国籍化と李姓について本当に相手方の主張するように、子ども自身が日常生活で苦しんでいるのかどうか、あるいは日常生活で不利益を被っているのか、その真実を述べたいと思います。

 子ども自身の苦しみについて

 相手方は子どもの姓が李姓になったことにより、学校で子どもが李と呼ばれることから子ども自身がそれを嫌い、それが原因で楽しいはずの学校生活に緊張を強いられ深刻な苦痛をもち耐えがたいストレスとなってこのままでは不登校になる恐れもあると主張しています。あるいは子どもの心をズタズタにしていることが立て続きに起こるというような表現で、子どもの苦しみを強調しています。

 しかし相手方の子ども自身が苦しんでいるという主張は虚偽であり、また相手方の嫌悪感を子どもに強要して捏造された主張でもあり、実態とは異なっているのです。

 なぜなら子ども自身は相手方が主張しているように、学校生活において苦しんでいるということは決してありません。たとえばその証拠として子ども自身の3学年の「よい子の記録」(通信簿)を添付します。(資料5)

 この通信簿には、子どもの学校生活における生活実態が示された「行動のようす」という欄があります。「行動のようす」については通信簿の裏面に「この欄は、他の児童との比較ではなく、その子ひとりひとりのようすについて「よくできる」と判断したものに〇印をつけました。」という説明文が記載されている性質の欄です。

 そこには1学期から3学期を通じて明朗・快活という項目のところに〇印がついています。そして明朗・快活の内容には「明るくはきはきとし、楽しく生活する。」と記されています。また3学期の欄では、思いやりの項目にも〇印がついています。内容には「だれにでも温かい心で接し、親切にする。」と記されています。

 このように本件とは無関係な公立小学校の担任教師が子どもの学校生活については、一貫して明朗・快活であると評価しているのです。この担任教師の評価は、学校生活で子どもが苦しんでいるという相手方の主張とは正反対に矛盾した評価になっています。これまでの子ども自身の学校生活においても私が担任教師からお聞きしていることは、子どもは平均水準以上に活発かつ積極的であり、クラスの児童の間でも人気者であり、楽しく学校生活を謳歌しているということでした。 さらに通信簿の出席状況からも明らかなように、相手方の主張するような不登校の恐れであるとか、耐えがたいストレスの影など微塵もないというのが事実なのです。朝鮮人を嫌悪する相手方の自己の身勝手な願望を遂行するために、このように事実とは正反対の子どもの学校生活を主張することは、明らかな虚偽であると思います。

 また、相手方は李姓が嫌だという子どもの書いた作文をもって、子ども自身の苦しみを訴えてますが、これは原審段階においても裁判官宛てに出されていた子どもが保育園の頃に書かされた手紙と同質のものです。

 相手方は4歳児の頃から子どもの体に32箇所も置野姓を貼りつけたりして子どもに置野姓を強要してきました。私が息子に李姓のことを説明したとき、幼い息子から聞いたことは、李姓をぬりつぶして置野姓に書きかえないと、家から放り出すと言われているということでした。4歳児の子どもにとって、「家から放り出す」と脅されることが如何に激しい強要であるかご理解していただきたく思います。

 したがって子どもの書いた作文は、原審段階の裁判官宛ての手紙同様に子どもが自主的に書いたのではなく、書かされて書いたものでり、決して子どもの真意ではないということを述べたいと思います。また、相手方が子どもに対して李姓を嫌悪し置野姓を強要してきたこれまでの経緯の中で、相手方らが子どもに暴力を振るったこともあるということを述べておきます。

 子どもの不利益について

 相手方は、子どもを朝鮮籍の単国籍にされたため子どもの生活に不利益が被っていると主張しています。相手方が主張している不利益については、社会生活上に生じた不利益と、相手方自身の自己のメンタリティ−における不利益とが混在されて列挙されていますが、ここでは主に相手方が主張する社会生活上の不利益について述べたいと思います。

 本件における私が知る限りの情報において相手方が主張している社会生活上の不利益については、@子どもの姓を李姓にせよと社会保険事務所に強く訴えたため、子どもの社会保険が使用できなくなったこと、A日本国籍をもっていないために小学校入学の権利がなく、津市長による特別の配慮でやっと入学できたこと、B日本国籍をもっていないために母子家庭医療受給資格がなくなったこと、などを相手方は子どもの単国籍化を原因として生じた不利益であると主張しています。

 まず結果から述べますと、相手方の主張にあるように単国籍化によって子どもが社会生活上不利益を被っている事実は1点として存在しておりません。

 しかし相手方が子どもの住民票の機能にも該当する外国人登録を拒否したために、子どもの住民としての法的地位が公証されないことから社会生活上に何らかの支障が出るのではないかとむしろ私自身が懸念してきました。

 これは津市法務局において子どもの朝鮮籍への単国籍化は認められ確定したものの、そこで私は担当官から単国籍化に伴い、義務として子どもの外国人登録を履行するよう指示を受けました。担当官の指示に従い津市役所の窓口で子どもの外国人登録履行の手続きをしたところ、未成年者の場合の代理申請者として私が親権者であっても子どもと同居していないことが外国人登録法第15条2項に定める同居人資格の範囲に該当しないという理由で、私からの外国人登録が申請から3ヵ月後に津市によって却下された経緯があります。

 そして当時津市の担当職員から外国人登録の代理義務は子どもと同居している者に科せらるので、子どもと同居している本件における相手方とその親族に義務があるとのことでした。相手方は科料に処せられても外国人登録の履行義務を現在まで果たしておりません。

 これは相手方が一般に悪法の名高い外国人登録法に反発する動機から外国人登録の不履行を続けているわけではありません。朝鮮籍を認めたくないという意思が招いた外国人登録制度への無知によることが原因になっています。

 なぜなら子どもはすでに朝鮮籍になっていることは合法的に確定した状態になっているのですから、外国人登録の有無によって国籍が変更されるわけではありません。したがって子どもの立場からみれば朝鮮籍は確定されているものの、登録されないことにより住民としての権利が脅かされる恐れが残るのです。

 たとえば仮に相手方の意向でもある子どもの日本籍への「帰化」申請手続きにも、外国人登録は絶対要件となっていますから、無登録の状態を放置することは日本籍の取得にも道を閉ざすことになるのです。

 私が子どもを単国籍化する以前から相手方は私に対して沈黙状態で如何なる話あいも拒絶していましが、そういった相手方の姿勢は単国籍化以降も何ら変わりはありませんでした。

 そこで相手方の無登録状態を放置する態度は頑なであることを思い知らされた私は、子どもの生活上の支障を解決するためにやむなく、1993年の1月11日に子どもの外国人登録を求めて津市を相手どり行政訴訟を提訴しました。この行政訴訟では一審、二審ともに私の敗訴という形になりました。その判決の要旨は子どもが無登録におかれていることは好ましくないが、無登録状態によって子どもの社会生活上においての具体的な不利益はないので救済するまでに至らない、よって却下するという判決文になっています。

 私としては無登録状態でも本当に具体的な不利益はないのだろうかと少々疑問に思うのですが、長い審理期間を経た上の判決ですので、とりあえず社会生活上の不利益はないと判断してもよいと思います。

 そこで不利益を述べている相手方の主張にもどりますが、まず@の社会保険事務所を私が訪れたのは、李姓の記載を求めて訴えにいったのではありません。子どもが無登録状態であるため保険の適用が除外される心配があり、その確認に行ったのです。社会保険事務所では無登録でも社会保険の適用については心配ないと確認でき安心した次第ですが、その際子どもが置野姓から李姓になっていることを指摘したのにすぎません。したがって相手方が子どもの社会保険が使用できなくなったというのは虚偽です。

 Aの小学校入学に際して、相手方は日本国籍をもっていないため、小学校入学の権利がないと主張していますがこれはまちがいです。 在日朝鮮人及び日本に定住しているあらゆる在日外国人の児童には、内外人平等をいうまでもなく教育を受ける権利は法的並び社会的にも保障されています。

 また津市長の特別の配慮でやっと入学できたと主張していることは、日本国籍をもっていないからでなく、子どもが無登録であることから超法規的措置の入学になったのにすぎません。

 もっともここでいう超法規的措置とは、子どもが無登録であるために形式上小学校入学の案内状を津市が郵送できないという事情にとどまる範囲のものにすぎません。

 子どもの小学校入学については私もたいへん心配でしたので、何度も津市教育委員会に足を運び確認してもきましたし、その際直接私が就学届けの手続きをしてきた経緯があります。

 相手方は小学校への入学について原審段階では私から就学届けが出されていないから入学が確定していないとか、教育委員会からは何の連絡も受けていないとか、入学説明会に参加もできなかったのでさっぱりわからない状態であると主張していますが、これらはすべて虚偽の主張です。

 なぜなら、相手方とて津市教育委員会に市会議員を同伴させて入学については子どもの李姓の使用を禁じるよう再三にわたって強い抗議を繰り返していたからです。したがって就学届けの件も入学の確定のことも、また入学の説明会のことも津市教育委員会を通じて相手方は事前に知っていました。そして入学説明会の当日に相手方は受けつけまで来ていながら李姓の名簿を見るなり参加せず帰っていったと担当教師から聞いております。

 さらに原審段階で相手方は、津市教育委員会から法的に相手方が親権者にならなければ子どもの利益は守れないと言われたと主張していますが、この点について荒木教育長をはじめ教育委員の方々に確認したところ、「そんなことをいった事実は一度たりともありません。」とはっきりと言われました。

 Bにおいては、相手方は日本国籍をもっていないため母子家庭医療受給資格がなくなったと主張していますがこれもまちがいです。朝鮮籍でも医療受給資格は日本籍者と同様に平等です。医療受給資格がなくなったのは相手方による外国人登録義務の不履行によって子どもが無登録状態になったことが原因なのです。

 またこの点については後日津市から市条例を改正してまで子どもの医療受給資格を認めていただきました。私としましては、市条例の改正は津市行政が人権に配慮していただいたこととして受けとめています。

 けれども外国人登録を求めて私が(裁判の形式上、津市を相手取って)提訴した行政訴訟において、実態として子どもの具体的不利益の有無が争点になっていた時期と市条例改正の時期が重なることから、やや複雑な心境にもなりますが、結果的に子どもの不利益がなくなったことについてはありがたく思う次第です。

 相手方は子どもの単国籍化によって、福祉面、教育面で様々な困難にさらされていると述べた上で関係各庁において相手方の家族で子どもを守ってきたと主張しています。けれども相手方の朝鮮人に対する激しい嫌悪感の心情を別にして、客観的な社会生活上の困難があるとすれば、外国人登録義務者である相手方の義務不履行により子どもを無登録状態に放置している相手方の行為から生じる困難なのです。科料まで処せられているのに、それを関係各庁において子どもを守ってきたというのは支離滅裂な方便であると思います。

 子どもの真意について

 私は子どもの幼児期には相手方から不当に隔離されてきました。相手方は私から子どもを強引に隔離しておきながら、その事実は無視して私が子どもの育児に無関心であったなどという虚偽をならべたて、子どもを相手方だけが養育してきたことを盛んに主張しています。

 たとえば原審段階では、「子どもにとっての家族は、私(相手方のこと)を含め、私の両親、兄弟たちなど長年共に暮らしてきた者たちをさしている」とまで主張しています。このように相手方は現在に及んでもなお、私を子どもの父親だと認めていないばかりか、そのことを子どもに強要している実態があります。

 しかし相手方のそういった身勝手な思惑に反して、子どもはすでに私を父親だと認識しています。現在わが子は小学4年生になっており、相手方と私の関係について子どもは年齢相応に子ども自身の思いがあります。そのことを子どもの真意として述べたいと思います。

 ところで私が子どもの真意を本件で述べるあたって、まず貴裁判官に理解しておいていただきたいことから述べたいと思います。まず相手方は子どもと同居していることから、子どもの「代弁」についてはイニシアチブをにぎっていると考えているように思います。

 本件は子どもをめぐってのことであるから、相手方は子どもと同居していることを本件で有利だと考え、盛んに子ども自身の意思を尊重せよと主張することで相手方自身の意図を主張しています。私は相手方が本件においてそのように子どもの存在を利用することは、子どもに対してたいへん残酷なことだと認識しています。

 いみじくも相手方は子どもが母親を慕っており、子ども自身が相手方に親権者となるよう強く希望していると主張しています。これらの主張は要するに「子どもに親を選択させろ」という主張に等しいと思います。相手方の主張は、幼い子どもに「おまえは母を選ぶか、父を選ぶか」という問いをつきつけているに等しいことです。相手方の「子どもは母を選んだ」というような主張に、もし仮に私が反発して「いや、子どもは父を選んだ」などという主張をしたとしましょう。客観的には子どもの取りあいだと映るのかも知れませんが、このことは子ども自身にしてみれば父母のいずれかを否定することを強いられるという、人としてきわめて残酷な発想でしかありません。

 もとより相手方の中では当初から私は子どもの父親であってはならないと考えていますが、子ども自身には当然のことながら父母のいずれかを否定するような考え方はないのです。私は父親として子どもの真意を述べるにあたり、父母のいずれかを否定するかのような意味で子どもの真意を述べるのではないということをご理解していただきたく思います。

 したがって本件においては、子どもをめぐる問題にはちがいありませんが、その責任や原因は相手方と私にのみあるのであって、親子関係を客観的に社会認識するであろう子ども自身の将来において、子ども自身に本件を左右させるかのような形の如何なる解決も、私は親として子ども自身には何の責任もないと認識していますので、私自身としましては本件においてはあくまで私と相手方の関係に留まる範囲内で審理していただきたいことを強く望みます。

 子どもの真意は、相手方と私の双方に仲良くしてもらいたいということにつきるのです。

 なぜなら子どもにとって、相手方から李姓をぬりつぶしたり嫌っているというような作文を強要されたりすることは、相手方の思惑のように朝鮮人が嫌いになったり李姓が嫌いになったりするわけではありません。子どもにとってはその都度、自分の両親は如何に仲が悪いかということを相手方から思い知らされるだけなのです。相手方は子どもに自己の意思を表現する能力があると主張していますが、子どもにとって国籍や李姓の意味はまだ自己認識できるほどの年齢に達しておりません。ですから、子ども自身にとっては両親が不仲であるということを悲しく思うのみです。

 私はそんな息子の胸中を知っていますので、現在まで一貫して子どもを前にしたときは、最大に相手方を子どもの母親として尊重する姿勢を示してきました。その結果、子どもはまるで憧れや夢のように、自分の両親がいつの日か仲良くなることを願い期待しているのです。私は息子のそのような胸中に触れるたびに心底切なくなってしまいますが、これが本件に関わる子どもの真意であり、子どもにとっての真実はそれ以上でもそれ以下でもありません。

十一 新国籍法と子どもの権利条約について

 相手方は、子どもが李姓になったことや朝鮮籍へと単国籍化したことを、二重国籍状態にあったのだから、将来子ども自身に選択させる道を奪ったとして、このことが二重国籍を認めている新国籍法に反しているとか、子どもの意思を無視しているとして子どもの権利条約に反していると主張しています。私はこういった相手方の主張に対して、相手方が引用している新国籍法や子どもの権利条約に反しているのは相手方であるということをあえて主張することで反論としたいと思います。

 新国籍法について

 1985年の1月1日から新国籍法が施行されました。それまでの旧国籍法の下では、父の国籍が子の国籍となるため、それが女性差別になると指摘されたからだということです。そこから子どもが最長22才になるまで父母のどちらの国籍も与えることができるという新国籍法に改正されたのです。そこで新国籍法の趣旨に留意していただきたいのですが、新国籍法は男女平等である父母両系主義を実現させるための改正です。相手方が主張しているような「国際結婚」の間に生まれた二つの国籍をもつ子ども自身にとって、二つの国籍を平等に扱うという趣旨の法改正ではありません。

 たとえばそのことは日本人と外国人の間に生まれた子どもの出生届けが出された時点で自動的に男女問わずまず必ず日本人の配偶者の戸籍に就籍されて、実社会では日本人としてのみカウントされる制度になっています。したがって二つの国籍を有しているとされる子ども自身にとっては「日本籍」だけが社会的に認知される制度になっており、他方の「外国籍」はいずれの国籍を選択するか22才まで留保できるという潜在的な位置にしかありません。新国籍法ではこの「留保」できるという点が、父母双方の国籍について男女平等である父母両系主義を反映しているというものです。

 すなわち新国籍法における子どもの国籍の行方は、明らかに父母両系主義という両親双方の意思と判断に委ねられている制度であり、子どもの国籍について両親の意思が無視されるような制度ではないのです。ですから「子どもが国籍を選択できる」という意見は、あくまで両親が子どもの選択に任したという両親の選択肢のひとつにすぎません。

 相手方が新国籍法に反していると私が主張する根拠は次の通りです。新国籍法の下では子どもの国籍について三つの選択肢があります。

 わが子の場合、@日本籍、A朝鮮籍、あるいはB子どもに成人してから選択させるという選択です。

 相手方は本件において盛んにBを主張していますが、子どもに対してBの選択をした場合には前提条件が必要になると私は思います。その前提条件とは子ども自身に国籍を選択させるのであれば、少なくとも当然のことながら子ども自身に二つの国籍それぞれについて「選択」できるほどの材料を親として子どもに与える必要が生じることになると思います。

 Bの選択の場合、子どもの国籍について親として放置してよいという選択ではないはずです。相手方は放置どころか、子どもの出生から一貫して実態として相手方は単独で子どもに対して@の選択を強行してきました。これは男女平等の父母両系主義に反する態度です。もし仮に相手方がそれでもBを選択してきたのだと主張するのであれば、二つの国籍を有していた子どもに対してどのように朝鮮籍について説明してきたのかを述べる必要があると思います。したがって私は実態を無視して新国籍法を引用した相手方の主張こそ、父母両系主義という新国籍法に反した方便であると思います。

 子どもの権利条約について

 相手方は、子どもには李姓と朝鮮籍を嫌がっている意思があるので、嫌がっている子ども自身の意思を尊重すべきであって、そういった子どもの意思が尊重されていないことが子どもの権利条約に反していると主張しています。

 具体的には相手方は子どもの権利条約における7条「名前・国籍を得る権利、親を知り養育される権利」、8条「アイデンティティの保全」、12条「意思表明権」等の各条項に従えば、子どもの姓名は置野聖徳しか存在しないと主張しています。

 相手方のこのような主張については、私は客観的にも欺瞞であると思います。なぜなら12条の「意思表明権」については子どもがおかれている実態についての事実認識によって解釈が分かれるかも知れませんが、7条と8条をどのように解釈すれば相手方の主張を根拠づける条項になるのか、私は純粋に不思議でなりません。なぜなら7条と8条などはむしろ私の子どもに対する考え方と同一の条項であると私は思っているからです。

 私はわが子の日本人性を否定をしているのではありません。なぜなら日本で生活するわが子には日本人性の保持は容易です。しかしすでに述べてきたように子どもにとって朝鮮人性が否定されてきた経緯から、そのことを子どもに積極的に教えていく必要があると主張しているのです。そのことが同時に日本人性を否定することにはならないはずです。

 私は人格形成期の途上にある子どもにとって、親として日本と朝鮮の両方を教えていく必要を主張しているのであって、子どもにとってどちらかを排除しようとしているのでは決してありません。私が子どもを朝鮮籍へと単国籍化したり、李姓としたのは日本人性の否定ではなく、子どもが二つの民族の出自をもっているということを教えていくためには、子どものそれまでおかれていた環境から最低限必要だと考えたからです。

 子どもに対し徹底して朝鮮人性の排除に躍起になってきた相手方の環境の下で、これまでの経緯を踏まえてもなお、わが子のこれからの成育歴において二つの民族性について積極的に教えていくことができるという他の具体的な方法があるというなら、そうした方法を明らかにしていただきたいと思います。

 しかし,相手方による子どもの権利条約の引用は、まるで権利条約は日本人専用の条約であって、在日朝鮮人には適用されないといわんばかりの解釈をしているように私には映ります。日本人も朝鮮人も子どもの権利条約を平等に享受する資格があるとするなら、生まれてから一貫して自己の朝鮮人性が隠されてきたわが子に、隠されてきたほうの朝鮮人性を知る権利が7条であり、二つの民族性を有している一人の人間としてのアイデンティティが保全されることが8条であると思います。

 また相手方は、「子どもに一方的に自分の考えを押しつけることは、福祉の観点から見ても大問題であり、そのことが子どもの権利条約に照らして許されない」と主張しています。しかし許されないというのであれば、相手方こそ子どもの出生から一方的に父親を排除する考えを押しつけてきたのであり、子どもの外国人登録の履行義務者であるにもかかわらず、科料に処せられてもなお無登録状態に放置していることのほうが福祉の観点から見て大問題なのではないでしょうか。

十二 「無断」ということについて

 私は本件について、これまでしばしば相手方と私の双方による話し合いで解決できないのかといった意見を耳してきました。こういった意見について、相手方は盛んに子どもの単国籍化の手続きを私が「無断」でなしたという点を当初から強調して批判しています。そういったことから、まるで私があたかも相手方の意思を無視して独善的に親権を行使したという点が印象づけされているように思われます。

 しかし当初から一貫して私との如何なる話し合いにも絶対に応じようとしなかったのは相手方なのです。したがって相手方が本件で強調している「無断」という点は、相手方が私からの如何なる話し合いも拒絶してきた結果生じた事象を、相手方が「無断」だと強調しているのです。

 さらにこのことについて相手方は、一方的に私との話し合いを拒絶してきた根拠らしき理由として、私や私を支援してきた市民から相手方に対して民族差別を激しく糾弾され脅されたというような主張をしています。「相手方を名指しで糾弾するビラがまかれ、そのことにより相手方の日常生活に支障が出た」というような主張です。しかしそのような事実はありません。私の友人(支援者)らは極めて良識的な人々であり、やみくもに人を糾弾するような人々では決してありません。あえていうなら教育関係者をはじめとするそれなりに社会的地位にある人たちばかりです。

 たとえば相手方は保育園に糾弾するビラを送りつけたと主張しています。しかし真相はビラを送りつけたのではなく弁護士である私の代理人から子どもとの面会の依頼文と合わせて、私が子どもを預かってもらっている保育園に事情を記したお礼の手紙を出したにすぎません。このことが相手方の主張によると激しい糾弾を受けたというようになっています。相手方は私から日常生活に支障が出るほど激しく糾弾されたというのであれば、その内容を具体的に明らかにするべきであると思います。

十三 親子関係について

 私は李姓並び朝鮮籍への単国籍化が、子どもの人格形成上において必要だと考えています。原審の決定ではその必要性が理解されていないばかりか、私から親権が剥脱されるほど子どもに有害だと判断されました。李姓と単国籍化が子どもの福祉の観点といった子ども自身にもたらす影響について判断されること自体には、私自身にも異存はありません。しかしそういった判断の結果に連動して親権の変更が左右されることについて私には異論があります。それは単国籍化によって生じる子どもの福祉上の内容と、親権変更の問題は必ずしも同質の問題だと私には思われないからです。子どもの姓(氏)並び単国籍化の問題を親権者変更に直結されることについて、私には子どもの福祉とは異質である次のような疑問があるのです。

 親子の公証関係について

 たとえば日本人同士の離婚においても、特に子どもが幼児である場合子どもは親権者となった者の戸籍に記載され、姓(氏)も親権者の姓になることは少なくないと思います。そのように親権者と子どもの親子関係が公証されることは社会通念上からも奇異なことではないはずです。

 その際たとえ親権者と監護者に分かれていても、親権者との親子関係を示す子どもの公証あるいは帰属状態については監護者のほうが優先され親権者が除外されるとは思えません。もっとも日本人同士の場合なら親権者と監護者に分かれていた場合、子どもは親権者のほうの戸籍に記載されても、同居している監護者とは住民票という公証制度があるので、子どもとの親子関係についての公証の有無が生じる余地がほとんどないと思われます。なぜならその場合、社会生活上において親権者としての親子関係は戸籍によって証明されるからです。

 ところが日本人と外国人との「国際結婚」の離婚に伴う親子関係の公証については、前述したような日本人同士の場合とは異なった制度になっています。たとえば本件のように「国際結婚」において両親が離婚し、外国人が親権者になったとしましょう。外国人には戸籍や住民票はありません。在日外国人の社会生活上における戸籍や住民票に該当するものは外国人登録基本台帳のみです。近年の新国籍法のもとでは子どもは二重国籍を有しているといわれていますが、子どもは日本人配偶者の戸籍にのみ記載され、そのことに連動して外国人である子どもの親の存在は男女問わず子どもの住民票から欠落しています。二重国籍を有しているといわれていても子どもが戸籍に就籍されることは義務化された制度になっており、他方の外国人登録基本台帳には子どもは記載されないのです。

 こうした制度の下に、子どもと外国人親との親子関係についての公証関係についてみると、そもそも「国際結婚」における社会生活上の親子関係を公証するものは、実態として日本人配偶者との婚姻関係しかないという事実があります。子どもは日本人配偶者との親子関係が公証されています。その日本人配偶者と外国人配偶者との婚姻関係が公証されることにより、子どもと外国人親の親子関係が公証されるといういわば間接的公証関係になっています。

 したがって離婚により日本人配偶者との婚姻関係が消滅することは同時に、外国人親権者であっても社会生活上においては子どもとの親子関係の公証が消滅するに等しいのです。しかしながら通常では、たとえ婚姻関係が消滅し、それに伴い社会的に親子関係が公証されることがなくとも、相手方のように親子関係を無視する人はきわめて希であると思います。ところが、本件では、私が親権者であっても相手方の戸籍に子どもが記載されている限り、社会生活上の親権者は相手方のみになってしまうという事実があります。

 国籍との異質性

 私が親権者であっても、このような制度上のもとに私を父親であると認めようとしない相手方の姿勢から、私は親権者として親子関係を公証する必要のために子どもを外国人登録基本台帳に記載しようとして朝鮮籍に単国籍化したわけではありません。私が子どもを単国籍化したのは他の理由によるものです。

 けれども仮に私が親権者として、子どもとの父子関係を公証する動機から単国籍化の措置をとったとしても、親権者として親子関係を社会的に明らかにすることが社会通念上から批判の対象になるとは思えません。このように子どもとの親子関係の公証の有無と、子どもの国籍の所在とは実際に異質の問題であると思います。

 なぜなら社会生活上において親子関係が公証されないという事実は、たとえ離婚成立時の和解条項に私が親権者であると定められていても、社会生活上において私は何ら子どもの親権者すなわち父親たりえないということになるのです。

 本件の場合、現実に社会的には監護者である相手方のみが親権者として扱われることになります。すなわち離婚の成立時に私は親権者でありながらも、子どもの父親であるという実態を失うということになるのです。実際では子どもの父親としての親子関係存続の有無は婚姻関係が消滅した下では、唯一監護者である相手方の意思にのみ左右されることになります。たとえ私が親権者であっても相手方が私を排除しようとすれば、こういった制度上の背景から相手方次第で父親としての私の排除が容易に可能となるのです。

 そのようなことが生じないようにするための信義則が和解条項であり、それ故に朝鮮民族尊重の誓約条項まで定められていたのです。けれども本件における相手方の主張からも十分にうかがえるように、相手方は当初から私を父親として認めようとせず、むしろ排除することに躍起になってきたのです。

 私が疑問に思うのは、李姓と単国籍化を福祉の観点から仮に問題があると判断されたとしても、前述したような背景から相手方の意向どおり親権すなわち私が子どもの父親であるということを社会的に排除しなければ解決できない福祉の問題とはどのような質の問題なのかという疑問なのです。私が父親であるということをやめなければ守れない子どもの福祉とはどういった「福祉」なのでしょう。いうまでもなく子どもにとって父親の存在は福祉上の問題になるわけではありません。

 しかしながら本件において福祉の問題と親権の変更が連動しているとされるならば、私が朝鮮人の父親であるという事実が子どもの福祉に反しているとされるに等しい判断であると思います。私は在日朝鮮人ですが、まぎれもなく人として子どもの父親であることを否定されたくありません。

 貴裁判官におかれましては私が子どもの父親であるということを認めていただくことを願うばかりです。

十四 李姓並び単国籍化を求めた時期の経緯について

 李姓並び朝鮮籍への単国籍化を私が初めて意識したのは、先の離婚訴訟時の和解調停において親権者と監護者に分けられるということを聞いた時期からです。本件ではその手続きについて私は相手方から無断でおこなったと主張されていますが、むしろ私が姓(氏)の変更申請及び単国籍化が現実に必要であると痛感したのは離婚成立後の相手方の姿勢からその必要性を改めて確信したのです。

 ここでは私が相手方のどのような姿勢からそう確信したのかということについて、その時期の前後の情状を次に時系列にそって述べます。

 最初の面接日について

 和解成立後の4月12日が初めての子どもとの面接日でした。子どもを乗せた私の車が発進しようとしたとき、相手方は突然車のフロントガラスに飛び出しへばりついて子どもの名を絶叫しました。私はこのような相手方の異様な態度から、子どもの情緒に悪影響が及ぶと思い、子どもと二人で会うことを断念しかけたのですが、子ども自身が早く行こうとせがむのに気を取り直して出発したほどの状態でした。

 また、息子が私の財布を見て「あっ、どうぼうや」と言うのです。私が尋ねると「お父さんはママのお金を盗んだ泥棒なんやて、ママが言うとったもん」と言うのです。私は息子に「お父さんは泥棒とはちがうぞ」と言うと、息子は笑いながら「だってママが言うとったもん、それにお父さんとちがうもん」と言うのです。そこで「おまえもお父さんじゃないって思うのかい」と尋ねると、息子は「ぼくはお父さんって知ってるけど、お父さんって呼んだらママにすごく怒られるもん」と言うのです。私は「わかった、それじゃお父さんと二人だけでいるときのことは、ママには秘密にしておこう」と言うと、息子は「絶対秘密やで、ママにはないしょやで、絶対言わんといてな」とはしゃいで言うのです。

 面接終了時では、相手方は次回面接時間について午後6時から7時半までの短時間を主張し、その理由として相手方自身が保育園に午後6時でないと子どもを迎えにいけないと説明しました。それなら私が直接保育園に迎えに行くことを提案すると、私が保育園にいくと園長が困るのでそれはやめてほしいと言いました。そこで園長がなぜ困るのかと問うと、相手方は沈黙しているだけで何も答えようとしません。

 このように相手方は常に面接時間をなるべく短時間にしようとするときだけに限っては、私に子どもの眼前で怒鳴るように口をひらくのですが、それ以外は私が何を話しかけても黙っているだけです。

 このとき私はこれからの子どものことについて話しあいをしたいので、連絡先や住所も知りたいと言いましたが、相手方は私を無視して帰っていきました。

 面接交渉において相手方が面接時間を短時間にしようとするために子どもの眼前で怒鳴る行為は1年以上にわたって続きました。そして私が話しかけることに対しては一貫して沈黙し無視する態度は現在まで同様に続いています。以下に私に対する相手方の姿勢を子どもとの会話を列挙することで述べます。

 姓(氏)の変更申請以前の状況

 @息子が、私の家のトイレに入るのを拒むので、私がいっしょに行ってあげようとしたときの息子との会話。

 A息子が食事になかなか手をつけない状態から。

 Bテレビから北朝鮮の核査察についてのニュ−スがながれたとき

 C最初の面接日に子どもに買い与えたオモチャについて。

 姓(氏)の変更申請申立てをした以降

 @もっと私と遊んでいたいとせがむ息子を説得して帰る車の中。

 A相手方は2回目の面接から、私に露骨に敵意を示す男性同伴(原審段階で私の怨念から私が相手方に復讐しようとしているという趣旨の意見書を出した西村氏、以下西村と記す。)で来ることが多く、92年5月18日の面接開始状況。

 単国籍化した以降

 @子どもがスケッチブックに絵を描く中に、盛んに日章旗と日本人という漢字を描いていました。

 A息子に朝鮮人と日本人のダブルであるということを教えたとき

 B息子と川で遊んでいたとき息子が突然

十五 李姓並び朝鮮籍への単国籍化を必要だと考えた理由について

 原審では子どもの朝鮮籍への単国籍化を「日本国籍離脱の手続き」と表現されていますが、日本国籍の離脱は子どもの朝鮮籍への単国籍化の手続き的経緯にすぎません。子どもの国籍が日本籍から朝鮮籍へと変更されたのではなく、日本籍と朝鮮籍の二重国籍者から朝鮮籍への単国籍者になったというのが事実です。したがって私は本件において国籍が日本籍から朝鮮籍へと変更されたという誤解が生じることのないよう「単国籍化」という表現をしている次第です。

 また相手方は「名前」の変更だという認識のもとに主張を展開していますが、わが子の場合姓名における「置野」という日本姓から「李」という民族姓への変更を意味しています。「置野」という「family name」の変更であり、「聖徳」という「first name」の変更ではないということも述べておきます。

 私が子どもにとって李姓並び朝鮮籍への単国籍化をおこなった経緯は異なりますが、そのことが必要だと考えたのは次に述べる通り同一の理由によるものです。

 問題の所在について

 子どもは幼児期において朝鮮人としての民族性も有していながら、すでに述べてきたように相手方から二つの民族性を保持しているということが意図的に隠されてきました。相手方のそういった意図はともかく、本来子どもにとっては二つの民族性を有していることを教えられる姿が自然であると思います。

 私が「自然」だと思うのは、子どもにとってそのように知らさせたり教えられたりすることが、ことさら個人的見解によるものであるとか、正誤の判断がされるようなことではないという意味において「自然」であると思うのです。

 そのように考えていた私にとっては、子どもが二つの民族性について知ることは国籍の所在や姓のありかたとは別次元のこととして認識していましてたので、ことさら関係があると考えていたわけではありません。

 ところが相手方は、二つの民族性を有する子どもに対して、朝鮮人は劣った存在だという意識でもってそのことを徹底して隠し続けたのです。相手方は子どもを日本人としてのみ育てようとしたのではありません。なぜなら日本人として育てようとすることが、最初からたちまち他方の朝鮮人性を隠し続けたり排除すべき理由にならないと私は思うからです。二つの民族性を有しているということを隠さないでも、日本人として育てることは容易にできると私は思います。もし仮に二つの民族性を有している子どもに日本人性以外の民族性を隠し必ず排除しなければ「日本人」として育たないというような発想があるとすれば、それは人間の存在を矮小化した発想であると思います。

 さらに他民族の存在を拒絶しなければ成立しない「日本人」像の意識があるとするなら、それはあまりにも偏狭であると思います。たとえば日常生活の基本構成でもある「衣・食・住」がすでに国際関係を無視しては成立しない今日において、そのようなことは求められている共生社会の公益に反するような発想ではないでしょうか。

 相手方が子どもにとって父親である私の存在を隔離(排除)することによって隠してきたのは、私が「帰化」をしようとしない在日朝鮮人であったからです。もし子どものことに関係なく、夫婦として私の存在が嫌であったのなら、長期間にわたって子どもから父親である私を排除したり、二つの民族性を有していることを隠し続ける必要はないはずです。

 私は結婚生活において相手方と子育てについて、一度たりとも話し合いができた記憶がありません。それは私が相手方にどれだけ求めても、無視と拒絶のみで一度も応じてもらえなかったからです。子育てについて私は現在に至っても相手方から無視されています。私を無視するのは、朝鮮人でもあるということを何としても排除したい相手方にとって、在日朝鮮人である私が父親の存在であってはならないと考えているのだと思います。私には子どもを前にしてあくまで父親の存在を否定し続ける相手方の態度は、母親としてふさわしい姿であると思えないのです。

 私は、子どもが二つの民族性を有していることを決して認めようとしない相手方の態度は子育てに値しないと考えています。それはもはや子育てではなく、子どもに民族差別を強いる加害行為でさえあると思います。子どもの眼前でも父親の存在を積極的に否定してきた母親である故に、残念なことに母親でありながらわが子に差別を強いて、そのことが子どもにとって如何に深刻な問題をもたらすのか理解できないのです。

 アイデンティティーの危機について

 前述したような環境で子どもが放置されたまま育っていけば、当然のことながら子どもは問題を被ります。それは変えようのない自己の出自に子どもが劣等感を抱くようになるからです。相手方から朝鮮人としての民族性を隠すことを強いられた結果、子ども自身が隠すようになれば、子どもにとってそれは自己の出自を隠すことを意味しています。隠すという意識は、恥ずかしいことあるいは悪いことだという前提がなければ生じません。自己の出自に劣等感をもって育つことは、子どもの人格形成上においてきわめて有害だと思います。

 すでに教育界では、もしこのような劣等感を子どもが成育過程で克服することができなかった場合、「生まれてこなければよかった」という意識が高じて自殺する可能性もあるということが現実の事例から警鐘として報告されています。自殺事例は最悪に位置していますが、ことさら教育関係者でなくとも自己の出自に劣等感を抱いたまま成長することが、如何に健全な人格形成に有害であるかは自明のことであると思います。こういった問題は「アイデンティティーの危機」と表現されています。

 アイデンティティーの危機は、大局的には社会に厳存している根強い差別意識と因果関係にありますが、私は個々人の人生において克服や解決