平成8年ラ第66号即時抗告申立事件

抗告理由補充書(第2回目)

抗告人  李 在一 相手方  置野昭子

 抗告人が1997年3月13日付で提出した抗告理由補充書に加えて更に下記のとおり補足して意見を述べる。

1997年4月11日

抗告人代理人 弁護士  伊藤誠基

名古屋高等裁判所民事第1部 御中


第1 原審判批判

原審判が親権者の変更を是とした根拠について

原審判は、二(当裁判所の判断)、3(親権者及び監護者の変更の当否について)、(二)において、親権者を変更する理由として、親権者と監護者の分属状態を継続することは未成年者の養育、福祉にとって有害であるという説明をしているが、何故「有害」なのかというと、判文に沿って考慮要素を抽出すると、

(1) 調停成立後四年経過していること

(2) 抗告人は相手方(置野昭子、以下同じ)との協議を経ないで未成年者の生活に重大な影響を及ぼす日本国籍離脱の措置を採り、紛争を拡大する一因を作ったこと

(3) 未成年者を巡る抗告人と相手方の確執は鎮静化する気配がないこと

(4) このような確執の中で成長してゆくのは未成年者の福祉にとって望ましくないこと

(5) 未成年者の養育はこれまで相手方が行ってきたこと

(6) 未成年者は小学校二年生であり母子関係は安定していること

(7) その他本件に顕れた諸事情 の諸点を挙げている。

 これらのうち、(1)と(5)及び(6)は有害理由ではなく、(7)も決まり文句で且つ補足的な事情であろうから検討の対象外である。

 従って、原審判が有害理由と判断したのは、(2)ないし(4)の事由あたりになる。

 しかしながら、離婚訴訟の審理を経て裁判上の和解にまでこぎつけ、双方十分な熟慮の上でしかも裁判官の適切な示唆の下で決めた,これが子の福祉のために最良だとする親権者と監護者の定めを僅かの期間で親権者を変更するためには、そうしなければ未成年者の利益を害するような事情の変更を要するものと考えられるところ、原審判は遺憾ながら十分な検証、考慮を払っているとは言いがたい。

 以下、(2)ないし(4)の事由が果たして親権者を変更すべき事情変更に該当するのか改めて検討したい。

 相手方との協議を経ないで抗告人が国籍離脱の手続きをとったことについて

 相手方が本件親権者変更申立の最大の理由としているのも実はこの点にある。

 確かに形式的に見れば相手方の言うように「信義則」に反することなのかもしれない。しかしながら、親権者変更の可否を考えるのに、「信義に反する行為」がいかような意義を持っているのかよくよく考えてみる必要がある。

 仮に百歩譲って、抗告人が相手方との協議を経ないで未成年者の国籍離脱手続きを採ったことが信義に反するとしても、それは対相手方との間で信義に反していただけのことであり、これによって直ちに親権者を変更すべき事由に該当するとは言えない。子の福祉の観点から審査するなら、協議云々よりも目的(日本国籍離脱)が果たして不当といえるのかどうかこそがより重要である。

 それに、協議を尽くしたとしても、本件の場合合意に達する見込みは殆どなかったといってよい。しかも、協議ができなかった場合国籍の選択の問題を審判で決めてもらえるのかといえば、そのような制度があるわけはないのである。つまり、未成年者の国籍の帰趨、あるいは選択は国家の関与が働かない領域であり、当事者である未成年者の親に判断が委ねられている。

 そうした場合、二二歳まで二重国籍にしておいた方がよいのか、日本で暮らすから朝鮮籍を離脱して日本国籍に一本化しておいた方がよいのか、抗告人が考えたように日本国籍を離脱して朝鮮籍に一本化したほうが子の福祉の為になるのか三通りの考え方があるが、いずれが良いかは親が判断すればよいことであって国(裁判所)が決めるべきことではない。にもかかわらず、原審判は何を勘違いしたのか、抗告人が「未成年者の生活に重大な影響を及ぼす日本国籍離脱の措置を採り」等とまるで抗告人が「大罪」でも犯したごとく非難するのはお門違いも甚だしいと言わざるを得ない。少なくとも抗告人は未成年者の幸福と福祉を願って日本国籍を離脱したものであり、裁判所が是非を判断する事柄ではない。

 親権と監護権が分属していることと抗告人と相手方の「確執」との因果関係について

 原審判は抗告人と相手方との「確執」が未成年者の福祉にとって望ましくないとする一方、「確執」の原因として親権と監護権が分属していることを指摘している。

 これまた、確かに抗告人と相手方との間には未成年者の教育問題を巡って「確執」と言われれば「確執」があるのかもしれないが、それはあくまで両親間で存在しているだけであって、抗告人はこの「確執」を未成年者の生活にまで持ち込んだことは一度もない。抗告人は、裁判所での「争い」は争いとして未成年者には責任がないので、未成年者を前にして母親である相手方の悪口、非難をしたことは一度もないと断言できる。未成年者の通学する学校長にもその旨伝えているし、学校長からも評価を得ている。

 親権者を変更するか否かにおいて検討すべきことは、両親間の「確執」があるかどうかではなく、現状において未成年者の福祉、利益を害することになっているのかどうかまた両当事者が裁判所で決めた親権者を変更しなければならないような事情の変更があったのかどうかが問われなければならない。

 原審判は、子の福祉に悪影響を及ぼす原因が両親の確執にあること、その確執の原因が親権と監護権の分属にあると直截に結びつけているが、親権と監護権を一本化したら未成年者の教育方針についての「確執」が解けるという問題では決してない。なぜなら、もし本件の相手方の親権者変更の申し立てが認められれば、相手方は日本国籍の帰化申請をすることが確実(抗告人はそのように聞いている)であるが(帰化申請にあたっては相手方は抗告人と協議はしないであろう)、抗告人とすれば、民族差別的家庭環境下にある未成年者の日本国籍化には反対するであろうから、帰化申請はかえって子の幸福を損なうものであるとして父親としての意見書を法務大臣に提出することになろう。また、今回、相手方が申し立てたのと同じようにして、親権者変更の申し立てに及ぶことも考えられる。そして、抗告人がこのような行動を採ったとしても、日本人としてだけでなく朝鮮人としての誇りも持って育って欲しい、差別に負けない強い子であって欲しいと願う立場からすれば至極当然のことであり、誰も非難はできないはずである。

 結局、未成年者の氏名も含めた国籍問題や教育方針を巡る問題は当事者双方の子に対する教育的価値観の問題であり、裁判所が優劣をつけるべき問題ではなく、親権者を変更すべきか否かの問題とは次元を異にしている。仮に裁判所が「優劣」をつけるとすれば、未成年者に日本人のアイデンティティーのみを押しつけ、「朝鮮人」であることを恥ずべきものとする意識を注入しようとしている相手方の養育態度こそが非難されるべきである。

 未成年者が「李」姓を嫌がっているという相手方の主張について

 相手方は、1997年1月20日付陳述書2において、しきりに未成年者が「李」姓を嫌がっていること、そのため学校生活に支障が出ていることを指摘している。しかも未成年者本人に作文までさせている(C甲第七号証)。

 ここではっきりしていることは、相手方が親権者を変更して欲しい理由は未成年者に「李」姓を名乗らせたくないということである(更に言えば、未成年者の朝鮮人性を打ち消すことに躍起になっていること)。

 しかし、未成年者に「李」姓を名乗らせないことが親権者変更の理由となるのであろうか。

 相手方は、1997年1月20日付陳述書1及び2で執拗に未成年者が李姓であることを苦痛に感じていると訴えているが、小学校四年生になる前の未成年者が李姓を苦痛に感ずることなどありえない。学校でいじめにあっていることもない。抗告人は学校の教師や学校長に未成年者の様子を確かめているが、未成年者は明朗活発に元気な学校生活を営んでおり、いかなる問題も発生していないのが実際である。3学期の通知表欄にも明るく素直に伸び伸び生活する、相手のことを思いやり、親切にすると評価されており、暗さや登校拒否的態度など微塵も見られない。

 相手方は陳述書で縷々未成年者の「苦痛」なるものを書いているが、これは未成年者の実体として理解すべきではなく、相手方の心情としてのみ理解すべきである。なぜなら、抗告人が未成年者本人との面接交渉を通じて理解している未成年者の心情(未成年者は李姓にこだわりなど全くない)、あるいは教師、学校長から聞いた未成年者の様子、通知表の記載を見ると、相手方の陳述内容は相手方自身の願望(未成年者に李姓を嫌ってもらいたい)である。苦痛を感じているのは相手方であって、未成年者本人ではないのである。

 しかも、一番問題なのは、相手方が李姓という朝鮮名に否定的評価を加えていることである。朝鮮名を嫌悪する日本人の恥ずべき民族差別感情を公言しているに等しく、在日韓国朝鮮人の人達に対する最高の侮辱ではないだろうか。いくら口では差別意識などないと言ってみても、在日韓国朝鮮人の気持ちを逆撫でするようなことを平気で文書化し裁判所に提出する相手方の態度こそが改められなければならない。

 もとより抗告人は相手方の差別的態度に対する責任を追求するために本件審判に臨んでいるわけではない。未成年者が日本人であるとともに朝鮮人でもあるのに相手方が未成年者の朝鮮人性を否定することのみに躍起になることはかえって未成年者のアイデンティティーの確立に障害になると考え、未成年者の幸福をより確かなものとするために単国籍化に踏み切ったこと(抗告人が未成年者の単国籍化に踏み切った理由は抗告理由補充書に詳述しているところである。)がどうして親権者の変更の理由となるのかを問いたいのである。

 以上によれば、未成年者の生活や環境に変化がなく、極めて良好な学校生活を営んでいるのに、また抗告人も未成年者との面接交渉を円滑に続け、父子のふれあいも順調であるのに、未成年者の国籍の帰趨について親同士に考え方の違いがあるからといって、本来介入すべき権限がない領域に踏み込んで一方の親の態度を非難する原審判には親権者の変更事由に関する解釈上の誤解があり、看過できない違法がある。



第2 相手方の主張に対する反論

 ここでは、相手方の1997年2月17日付準備書面に対する反論を述べる。

 未成年者、監護者の意思も確認せず、一方的に自己の考え方を押しつけることは子の福祉の観点から大問題であるとしていることについて(一、(四))

 第1項で詳述したように、国籍の帰趨は両親の問題であり、いずれの考えを是とすべきかは裁判所が親権者を変更すべきかどうかの考慮要素たりえない。

 また、未成年者の意思を尊重しなかったことは子供の権利条約に照らしても許されないというが、抗告人が未成年者の国籍離脱をした時未成年者は三歳であった。抗告人は未成年者の幸福を願って手続きをなしたものであり、相手方が気に入らなかったとしてもそのこと自体が親権者を変更しなければならない理由とはならない。子供の権利条約は子の意思、意見を尊重することを求めているが、発達段階を考慮する必要があるものとされている。むしろ、子供の権利条約は判断能力が未だ不十分な発達段階では親が子の福祉のために最善を尽くすことを求めているのである。

 それに、未成年者は「李は嫌だ」と思っていないので、前提に誤りがある。むしろ、李聖徳という名の自己の子に「李は嫌だ」と作文させる相手方の養育態度はかえって子の福祉を害する結果となるので、今後本件で子供を「利用」することは控えるべきである。

 相手方の母親は民族的差別発言をしなかったということについて

 この問題は既に決着済である。今更蒸し返すことは本件離婚調停の精神に反することになり、信義に反する。

 それに、もし差別発言をしなかったのなら離婚訴訟で母親を証人尋問すればよかったのである。離婚訴訟で和解になっていったのは相手方の事実に反する供述が明らかになったからであり、田宮裁判官の和解提案が抗告人に有利に展開したのも相手方の供述に不信感を抱いた結果によるものである。

 田宮裁判官がきちんと面接が行われれば一年後に親権を渡してもよいと言ったということについて

 そういう説明がなされるはずがない。一年後の協議条項は、面接交渉の履行が円滑にいかないときは親権あるいは監護権の移動もありうることをうたったものである。そうでなければ、一年限りの親権を抗告人が認めるはずはなく、また子の福祉の上からも好ましくはないのであるから、時限的親権を裁判官が指導するはずがない。

 ヤマギシズムの審判との比較について

 相手方の1997年2月17日付準備書面五では、ヤマギシ会に子供を預けた母親に対して親権者変更を求めた父親の申立てを札幌家庭裁判所が認めた例を引き合いに出しているが、本件とは関連性のない例示である。

 まず、この事案は未成年の子供をヤマギシ会から奪回させるために申立てられたものである。従って、ヤマギシ会での生活、教育の実態を知る必要がある。争点ではないので、簡略化して問題点を拾うとつぎのとおりである(公刊されている書籍等に基づく)。

(1) ヤマギシでは子供達の自主性が禁止されているが、学校では自主性が求められ精神的分裂症状を日々強要されている。

(2) 学校の行事に参加できないし、学校の友達とも農作業があるので遊べず、部活動もできない。

(3) 食事は一日2食であるため(朝食がない)、空腹の子供は学校での給食時に他の生徒の分まで横取りしたり、他の生徒のおやつを取り上げたりするので度々トラブルが発生する。

(4) ヤマギシの行事が優先するので度々学校を休まされる。  審判の事案のように、親、祖父母等外部との連絡を拒否される(祖父母が子供に宛てた手紙もヤマギシが子供に渡さない)。

(5) 規則に従わないと、食事の禁止、正座、通学禁止、体罰が加えられる。

(6) 高校進学が認められない(学歴社会を批判するとともに、教育は義務教育で十分だとしている)。

(7) 学校の教師は家庭訪問できず、子供の様子を見て指導に反映させることは不可能である。

等々人権侵害事例は枚挙にいとまがない。

 先の審判は、未成年者をこのような生活環境から離脱させ、親権者を父親に変更することによって子の福祉に叶った環境を用意してやるためになされた極めて適切妥当な判断である。

 もっとも、審判が「特定思想を信奉する団体」であるとヤマギシ会の思想をあたかも批判するかの如く表現しているのは言葉不足である。ヤマギシ会で生活する子供達を救おうとしている親族、支援する市民グループや弁護士はヤマギシの「思想」自体を批判しているわけではない。話は変わるが、統一協会その他のカルト教団と闘っている被害者や弁護士達も、批判の対象は思想ではなく、宗教に名を借りた違法な資金集めやマインドコントロールを手段にした人格破壊を問題としているのである(この宗教はよい、この宗教は悪いと決めつけることは誰もできないし、マインドコントロール自体もそれ自体が悪いということではない。宗教はもともとマインドコントロールであるし、教育だって同じことである)。

 ところが、相手方はヤマギシ会の審判例を出して何を説明したいのか判然としない。引用した審判文から想像すると、(1) 未成年者が李姓を嫌がっているので、その意思を尊重すべきだ、(2) 抗告人は特定思想を未成年者に注入しようとしているということになろうか。

 しかし、李姓を嫌がっているのは未成年者ではなく相手方であり、また、抗告人は批判されるような未成年者の福祉を害するような「特定思想」も持っていない。むしろ、相手方の方で抗告人のいかなる「思想」がいけないのかはっきり述べるべきである。



第3 結語

 原審判が、未成年者の国籍の帰趨問題、選択問題というおよそ裁判所が関与すべきでない領域に踏み込んで独自の価値観で抗告人のなした未成年者の単国籍化を非難するのは不当である。

 当事者間の「確執」も未成年者の教育のあり方を巡るものであり、親権者を変更することによって解消できるという問題ではない。

 他方、抗告人が未成年者を単国籍化したのは抗告人が未成年者の健やかな成長を願ってのものである。その行動を教育方針が異なる相手方が非難するのは格別、第三者が非難するのはお門違いである。

 よって、原審判が親権者を変更すべき事情がないのに独自の価値観で抗告人の行動を非難し、いわば「制裁的」に抗告人の親権を剥奪することは許されるべきことではなく、速やかに原審判を取消されるよう補充意見を述べる次第である。 以上


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