平成8年(ラ)第66号即時抗告申立事件

上申書(アイデンティティ−の危機について)

名古屋高等裁判所民事1部  御中

1997年5月9日

住  所  三重県上野市下郡53番地の3
氏  名   竹本 昇
職  業   地方公務員
生年月日   1950年2月10日

 
 はじめに

 まず、はじめに、私と李在一君との関係について簡単に述べさせていただいてからみだしの本論に入らせていただきます。
 私は李在一君の裁判を、離婚訴訟の初めから支援をしてきた一人です。
 李在一君と出会ったのは、1989年の秋です。その頃、李在一君は、置野昭子さんから離婚訴訟を提起されていましたが、その内容が、どれほど事実を捏造した不当なものであるかを、話してくれました。
 当初、私としては、にわかに李在一君の話を信じ難かったし、夫婦のモメ事にヘタに関われば、面倒なことに巻き込まれるだけだ、という想いを持ちましたが、同時にこれはちょっと、変だぞという疑念も抱きました。
 と言いますのも、置野さんの訴訟内容の一から十まで、どの事例をとってみても、李在一君の言い分と、まったく異なったからです。これほど、両者の言い分が異なる事件が、世の中に存在することが、奇異に感じました。これはどちらかが、徹頭徹尾ウソをついていることになるが、あながち、李在一君がまるっきりウソをついているようにも思えなかった。そして、もし李在一君の話が事実なら、これは大きな民族差別事件だと思いました。
 そこで、真相を明らかにしたいと思い、年開けて1月2日、李在一君の母親と兄さんと弟さんに会って、離婚訴訟の提起を受けるに至る経緯を聞かせてもらいました。ここでも、置野さんの主張とは180度異なる事実を聞かされたわけですが、その時点では、まだまだ李在一君の一方的な主張の域は出ないと思っていました。争点となる民族差別的行為や言動があったことを、李在一君やその家族の人が、いくら力説してみても、当事者以外の人からの証言を得られないことには、第三者に、説得性がないと思ったからです。
 しかし、その後、置野さんやその家族の行為や対応を、時間の経過に即して辿ってみると、私なりに民族差別行為ということが、理解できました。差別言辞の有無は両者の水かけ論となって事実の証明は不可能でも、行為や対応の差別性は否定しようがない。この点については、離婚訴訟で反訴した李在一君の「陳述書4」に詳しく記されていますので重複を避けますが、結論から言えば、要は、養子縁組みによる帰化を企てた置野さんの側が、帰化しないという李在一君の意思を変えさせることができないと結論した結果、李在一君を放逐するため、離婚訴訟を提起したという事件です。
 特に、私がこの裁判の支援に意を固くした理由の一つは、裁判を受ける権利はだれもが認められていることではあるが、このような悪意を達成することを目的にして裁判を利用し、公的機関や市民を欺くことは、許されるものではないという気持ちが、強くありました。同時に、形としては離婚訴訟という個人間の争いの裁判であるが、本質は民族差別という重大な人権問題であるから、これは、広く社会に真相を訴え、多くの市民の皆さんに知ってもらうことが、相手方の悪意を阻止する道だと考えました。
 そこで、ちょうど同じような婚姻における朝鮮人に対する民族差別の裁判を支援され、勝利された経験を持っておられた、京都大学名誉教授の飯沼二郎先生を、ご講師としてお招きし、「結婚における民族差別と闘う会」を発足させ、以後この会は、今日の「結婚と教育における民族差別と闘う会」に引き継いでいますが、この間、私は数名の事務局を担当するメンバ−といっしょに、裁判の傍聴に参加したり、裁判会議に参加したりして、支援を続けてきています。
 以上が、私と李在一君との関係の簡単な紹介ですが、このような私たちの会の取り組みに対して、置野さんは、「名前入りのビラや写真を送りつけられ、精神的に苦痛を感じた。」と主張されていますが、私たちの会が、置野さんに名前入りのビラや写真を送りつけた事実はないことを申し添えさせていただきます。

 本  論

 アイデンティティ−の危機について

  1  出自が否定されることの人間的苦悩

(1)出自が否定されることの意味

 人は、何人に生まれてくるか、どんな民族に生まれてくるか、どんな親のもとに生まれてくるかは選択できない。そこで、出自に関して憲法は第14条で、人は生まれによって差別されないと規定している。
 ところで、差別とは、出自を理由として、社会制度上、不利益な状況に追いやられることと理解されているが、差別の深刻さは、それだけに止まるものではない。社会制度上の差別を契機として、当事者が、出自を劣ったもの恥ずべきもの、といった価値観で自己認識することを強制され、死ぬまで自分が自分であることを否定されることに差別の深刻さがある。
 この苦悩は、部落民(同和地区出身者)、非嫡出子、障害者、在日朝鮮人として生まれた青少年が、その出自を負とする社会的価値観を、自意識として植えつけられたときに背負わさられ、当事者の人生は苦悩との葛藤の連続となる。
 部落出身者にしても、在日朝鮮人にしても、生まれたことを、社会的に存在してはならない出自として、マイナスイメ−ジで叩きこまれる教育環境で育てられた青少年は、日常の何気ない友達の会話の中で、部落のことや朝鮮のことが話題になっただけで、もうその場にはいられない不安と恐怖にさらされる。友達が、自分が部落出身、あるいは朝鮮人だということを知っているのではないだろうかと、いつも、ビクビクし、表面的には冷静を装ってはいるものの、内心では、心を凍らす日々を送ることを余儀なくされる。これがアイデンティティ−の危機といわれる状況である。
 そして、当事者にとって、その苦悩からの解決は生の否定。すなわち自殺以外にないところに追いやられ、現に出自による差別に打ちのめされて、自らの命を断っていった事実が少なからず存在することが報告されている(別添資料1「人間の自己定立の神学的課題」李仁夏著、参照)。

(2)朝鮮人であることの抹消は、出自の否定

 置野さんや原審判は、李在一君の子どもに、朝鮮人であるということを肯定的に自己認識させることを拒み、自己の出自を恨ませ、自分で自分を否定する教育環境に置くことを、子どもの幸福としているかのようである。
 李在一君の子どもは、朝鮮人でもあり日本人でもあるという出自は否定できない。これは、子どもに朝鮮人のみの人格を要求したところで、子どもの自己認識において日本人でもあることを打ち消すことができない。同様に、いくら、置野さんが日本人化のみを強制しても、子どものそれにおいて、朝鮮人でもあることを消し去ることはできない。そうであるから、朝鮮人であることの抹消は、出自を否定的に認識させ、隠して生きることを強いられることになり、その結果、アイデンティティ−の危機を招く。

(3)抗告人の出自における原体験と人生観(祖母との出会い)

 ところで、李在一君は、幼少時から祖母に可愛がられ、腎臓病を患ったとき深い愛情をもって看病してくれた祖母の生きざまと、自己の人間としての在り様を通して、人間の尊厳を侵すことが、いかに罪深いことかを、身を持って体験することとなる。
 廃品回収業で生活を営む祖母を、恥ずべきものとして、友達の前から祖母の存在を消し去ろうとした自己の人間的醜さと卑劣さを内省することにより、人はどう生きなければならないかを、祖母から学ぶことになる。
 李在一君は、自らの出自を否定する意識で、自己認識することの内面的苦悩を体験すると同時に、その質が、実は自分を愛してくれた人間を抹殺する行為であることを知るに至り、以来、日本社会に朝鮮人差別が存在しても、それは差別する日本人の方が、むしろ、人間として悲しむべきことであると考えるようになり、差別的偏見に惑わされることなく、朝鮮人をあるがままの姿で観て、生きることを、真実に一番近いものと考え、差別は、自他共に許されない絶対悪と考えて生きてきた。
 そういう生き方を通して、出自の否定については、被害者であっても、加害者であってもならない、というのが李在一君の一貫した主張である。

2 子どもの未来を保障する教育

(1)子どもはどんな社会で、どう生きるのか(差別に生きる主体について)

 残念ながら、現実の日本社会では、在日朝鮮人に対する差別が存在し、李在一君の子どもも、そのような社会で生きなければならない。そのためには、差別に押しつぶされることのないよう、自己の出自を肯定的に自己認識する教育が保障され、両方の民族・国家を対等に評価できる人間として生きなければならない。
 差別社会を生きる子どもにとって、置野さんのように、朝鮮人であることを隠すことを強制し、コンプレックスを抱かせ、民族名の使用を嫌がる子に育てることは、自己の出自を、負のものとして認識させることであり、人生において、苦悩を強制させることとなる。
 ところで、置野さんは、民族名を使用することを可哀想として、そこから回避させることをもって、子どもの幸福と考えているようであるが、それは置野さんの差別性を明確に示してしている以外にない。
 例えば、最近、多発しているイジメによる自殺事件の悲惨さに、人は可哀想にと胸を痛める。この場合において、人はイジメにあって苦悩した当事者の人格に対して、存在してはならないとする価値観を持ち合わせてはいない。存在が否定されるべきはイジメをなす者たちの存在である。
 同じように、置野さんが子どもの名前のことを、本当に可哀想とするのなら、民族名を否定するのではなく、民族名を否定する認識こそ自他共に否定していくことでなければならず、それが子どもの人格を尊重することであり、監護養育にあたる者の責任である。このことは、既に公教育の中でも教育指導方針として明記されている(別添資料2「在日外国人の幼児・児童・生徒の教育指導資料」大阪市教育委員会指導部編、10頁下段)。
  また、置野さんは、李在一君や家族の通名使用を批判しているが、差別の痛さや深刻さを身をもって知りながら、そこで踏ん張って生きている人々が通名を使用しているのは、置野さんのように朝鮮民族を否定する差別的価値観を持って使用しているのではないから、この批判は当たらない。
 置野さんは、朝鮮民族であることを、肯定的にとらえるのではなく、存在させてはならないという価値意識を有し、子どもにその価値意識を持つことを求めている。
 一方、李在一君は、他者の偏見がどうであれ、劣っていないものは劣っていないという真実を自己に確信し、自己愛を育成することが、差別社会に生きる子どもの主体の確立にとって重要なことであるとし、日本人でもあり、朝鮮人でもあることを自然のこととして、自己認識する子どもに育てる必要があると考えている。置野さんのように、朝鮮人であることが恥ずかしいから日本人にという選択は、恥ずかしくないものを恥ずかしいとする意味において、真実に対して不誠実であるだけではなく、当事者に対しては、アイデンティティ−喪失の不幸に追い込むことであり、他者に対しても人間としての尊厳を侵すもの、といわなければならない。

(2)子どもには、どのような朝鮮観・日本観を育むことが必要か

 置野さんは、朝鮮民族は劣等で日本民族は優秀との価値観を一貫して持ち続け、そのために、婚姻時には、李在一君に帰化を迫り、帰化する意思がないことが判明すると朝鮮人の父親と子どもの断絶を図るために、子どもを隔離し離婚裁判を提起した。
 その差別の実態が明らかにされ、裁判に敗訴した置野さんは、民族差別を謝罪し、今後、朝鮮民族を尊重するとの調停条項を結びながら、調停成立後においても、李在一君のことを、子どもには父親と教えず、李在一君の家は人を殺して建てた家であるとか、李在一君は人間の顔をした獣と教え込み、氏(姓)の変更手続きの妨害をしてきた。
 このように、置野さんは、今日まで一貫して、朝鮮人であることや朝鮮民族であることについて、子どもにマイナスの価値観を持たすことを画策している。
 一方、李在一君は、いままで、子どもの口から漏れ聞いた李在一君に対する置野さんや家族の差別的言辞や誹謗を知っても、子どもに対しては母親の非難の言を一切慎み、両方の民族を尊重できる子どもにするため、「お母さんのことを大切にし、言うことを聞くように」と言って、民族に優劣を持たせる意識を醸成することはしていない。

(3)子どもの民族名の使用について

 姓(氏)は、その人の固有の人格であることは、NHK訴訟で認定されているとおりである。両方の民族を対等に評価できる人格を有するためには、どちらの名前であっても嫌がらない子どもに育てられなければならない。
 置野さんは、朝鮮名を嫌がる子どもに育てることに腐心している。子どもからの言として聞くところの、李姓を使用すると家から追い出すと脅迫を加えた状況で作成された子ども自筆の民族名の使用を嫌がる上申書は、その事実を示している。
 民族名を名乗ることを禁止し、民族名を嫌がる子どもに育てることは、朝鮮人であることを否定する価値観の注入となり、自らの生の存在を負のものと価値判断する人間に育てることとなり、幸福に導くものではないとして、今日では、多くの公教育の機関が本名での就学を勧めることを教育方針としている(別添資料3「人権尊重教育啓発資料1『共に生きよう』」荒川区教育委員会他編参照)。
 なお、話は別になるが、常識論として、5才の子どもが、「さいばんかんさまなまえ  かえないでね・・・」と、上申するはずがない。
 よしんば、子どもが既に5才の時に、名前について否定的価値判断を明確に示しているならば、誰かによって、名前に関する価値観が注入されたことを示しており、それは、監護者とその家族たちであることを証明している。

3 国籍離脱の必然性

(1)親権者及び監護者の教育の責務

 李在一君は、子どもの人格を尊重し豊かな人生を送ることを実現するため、子どもに自らの民族を自然なもので恥ずべきものではないという自己認識を幼少時より形成する教育を保障することを親権者、監護者の責任としてきた。これは、李在一君の子どもだけの問題ではなく、国際結婚した子どもたちや、差別が存在する社会に生きる子どもたちの親にとって共通の課題である。こうした教育の必要性と有効性は、被差別の体験や意識調査による客観的なデ−タの上からも示されている(別添資料4「在日韓国人青年の生活と意識  第4章  アイデンティティへの脅迫」福岡安則・金明秀共著参照)。
 しかし、置野さんは、出自に関わる教育について、大いに協議し共通認識を得る場を持とうとする李在一君の申し出を、無視し続けてきた。

(2)二重国籍制度の悪用による出自の否定

 本来、二重国籍制度とは、子どもが20才になるまでに、両方の国籍を対等に評価する価値認識を養い、その結果、子どもに自由に国籍を選択させることを保障した制度でなければならない。
 しかし、置野さんは、日本の二重国籍制度が公称的には日本人としてしか証明されないという機能を悪用することによって、子どもに両民族を対等に評価させる機会を奪い、朝鮮民族を劣等視する監護者の価値観を、子どもに強制し、出自の否定をせまり、民族名を嫌がるように養育している。
 現に、夫婦関係であった時期においてさえ、置野さんは保育園の保母さんに制度上そうなっている日本人のみ表記された住民票を提出して、朝鮮人である父親を保育園から抹消した。制度を悪用して母子家庭と偽って保育園に入所させ、父親から子どもを隔離するという、差別的な行為を繰り返してきたわけである。そのような経過を踏まえたとき、またぞろ、二重国籍制度を悪用し、家庭教育の場からも学校教育の場からも、朝鮮人である父親を抹消し、朝鮮人としての出自を否定することは明白であった。

(3)出自の肯定を可能にする子どもの教育環境の整備と国籍離脱の必然性

 このような置野さんの朝鮮人としての人格の抹消をもくろみ、アイデンティティ−の危機を招く教育環境においては、就学前の保育園児のときから、朝鮮籍であることを確かなものにしておかないと、日本名の使用を既成の事実にしてしまい、小学校に就学しても自動的に日本名で通され、差別教育環境を確固なものにされてしまう危険性が大いにあった。このような状況において、公称的に朝鮮人であることが認知されるときだけ、はじめて子どもが朝鮮人であることを自己認識できる可能性が保障されるのであり、単国籍の取得は、唯一その保障を実現するものとして、その時期は早ければ早いほどよいと考えられた。

(4)将来に生きる子どもの国籍の選択の保障は、両方の民族を対等に評価のうえ

 国籍の選択については、朝鮮人であることを負のものとして、日本国籍を取得させるのではなく、その両方の良さも悪さも対等に評価でき、かつ本人がどう生きていくかを重ねて合わせて、選択すべきである。
 そのためには、置野さんのように民族名の使用を嫌がる子どもに養育するのではなく、名前は、民族と人格の尊重にとって欠かせないものであることを教え、両方の民族、国家を正しく対等に判断できるように養育し、その結果、子どもが日本国籍を選択するならば、その意思に委ねることが、真に国籍選択の自由を保障することであり、それは、帰化により可能で容易なことである。

4 結 論

 以上、述べてきたとおり、李在一君の国籍離脱に至る一連の行為は、個人の尊厳が認められ、アイデンティティ−の危機に苛まれることなく、子どもが人として生きるために必要な自由の獲得のための行為であり、それは、一般に聞かれる「日本で住んで、これからも日本で住むことが歴然としているのに、なぜ朝鮮籍にしたのだ。」とか、「日本人としてのアイデンティティ−を無視している。」と、いうような意見に代表される、無理解で功利的、表層的な価値観を上回って余りある人間の根本的な存在のあり様を求めるものである。
 にもかかわらず、今回の審判では、李在一君を偏狭な考えの人物と断定し、トラブルメ−カ−に仕立て上げ、国籍離脱を理由にして親権を変更された。この点については、訴訟代理人の抗告理由書で、「関係書類が精査されていない。」と指摘しているとおりでもあるが、李在一君に対する過った人物評価そのものが朝鮮人に対する差別的偏見である。脱亜入欧の思想の色濃い日本人社会において、仮に今回のケ−スで李在一君が欧米人であったら、果たして国籍離脱という行為に非難を加えるだろうか。
 審判は、「せっかく優れた日本人である子どもを、わざわざ劣った朝鮮人にするというような常識を解せぬ人間には、子どもの親になる資格がない。」と結論したかのようであり、かつての創氏改名と同質の朝鮮人蔑視の差別的価値観に満ち溢れている。

                                                                以 上


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