本稿の結論は、李在一氏のケースは、きわめて極端な状況にあるものの、その本質において、在日韓朝鮮人一般にも敷衍できる,非常に一般性の高い問題点が顕在化したものである、ということです。
一つは、最頻値や中央値,平均値など、その事象が数的になにかを代表しているケースです。ある集団や社会の中でもっとも数が多いからこそ,その集団や社会の「典型」とみなされるというケースです。1960年代,この意味での典型的な日本人を表現する言葉に,「巨人,大鵬,たまごやき」という言葉がありました。
そしてもう一つは、いわゆる“極端”なケース。つまり、数的には必ずしも代表的とは言えないまでも――というより、多くの場合はむしろ少数事例ですが――、その性質の純粋さや特殊性によってある物事の本質をうまく代表しうるケースです。1970年代ごろまで,英語圏の諸外国において日本人の精神構造が論じられるとき,三島由紀夫が頻繁に言及されました。三島は,武士道的な日本の精神主義を代表する人物として,この意味での典型といえるでしょう。
前者が“多い”ケース、後者は“目立つ”ケースと言い換えてもかまいません。“一般的”とか“平凡”といわれるものは,たいていの場合,前者の量的典型にあたります。後者の質的典型について言えば、“理想的”とか、逆に“最悪の”と称されることが多くなります。
話は李在一裁判のことです。僕は、彼とその子どもをめぐる事情を、まさしく在日韓朝鮮人と日本人による民族間結婚の、ひいては現代の在日青年の「質的典型」だと考えています。
彼の問題状況の根幹にある出来事は、日本人配偶者の翻心、これにつきます。元妻がその両親の差別性に同化さえしなければ、すべての問題は曖昧なまま推移し、ここまで劣化することはなかったと想定されるためです。
さらに、この「元妻の翻心」を引き起こした要因として、少なくとも以下の2つのことが推定されます。つまり、1)自分や子どもが在日韓朝鮮人の家族の一員であること、あるいは家族の一員になることを、日本人配偶者が受容できなかったこと、2)日本人配偶者が、“在日韓朝鮮人としての存在意義”を理解しえなかったこと、そして在日韓朝鮮人側もそれを伝えられなかったこと、です。
僕が李在一氏のケースを「在日韓朝鮮人と日本人による民族間結婚」の典型事例だと考える理由は、この2点にあります。つまり、この2点は、在日韓朝鮮人と日本人による民族間結婚にほとんど例外なく課せられた問題点であり、李在一元夫妻はそれをついぞ解決できず、ついには極端なまでに劣化させてしまったケースだからです。
くり返します。1)日本人配偶者が、在日韓朝鮮人との結婚にともなって、自分もしくは子どもが在日韓朝鮮人のある種の一員であること、もしくは一員になることを受容できるかどうか、2)日本人配偶者が、配偶者、自分、子どもの“在日韓朝鮮人としての存在意義”を理解できるかどうか、逆に在日韓朝鮮人側がそれを伝えられるかどうか――この2点は、在日韓朝鮮人と日本人による民族間結婚にほとんど例外なく課せられた問題点です。
この2点をうまく解決している夫婦はたくさんいます。また、その2点を「問題」として浮上させず、曖昧なまま過ごしている夫婦もたくさんいます。しかし、程度の差こそあれ、そして自覚されているかはともあれ、上記の2点は、在日韓朝鮮人と日本人による民族間結婚にほとんど例外なく課せられた問題点なの です。
ここで、上記2点について、いくつか補足的な論点をあげながら、もう少し詳しく説明しましょう。
それでもなお,かなり多くの在日青年が,ある種の被差別体験を持っています。差別というものは,明確な行為という形をとって顕在化する場合にかぎらず,とりとめのない日常会話のなかや,なにげない態度やまなざしのなかに,漠然とはしていてもいやおうなく感得せざるをえないものとして存在することだって、あるわけです。何といっても,在日韓朝鮮人にたいする差別意識は,今も日本社会には根強く存在しているのですから。
在日韓朝鮮人としての人生経験が長くなると、こうした差別的な雰囲気にたいして免疫のようなものができてきます。“常に差別される危険性がある”という事実に、ちゃんと慣れることができるわけです。差別を認めるということではなく,社会そのものに差別的な部分が備わっているという事実を,冷静に見つめることができるようになるわけです。
でも、ある日とつぜん在日韓朝鮮人の配偶者になった者が、この免疫をすぐさま身につけるというのは容易なことではないでしょう。
“差別はいけない”――誰しも頭では知っている理念です。しかし,当事者として,しかもある日いきなり,差別されるものになったとき,そんな他人事の理念など意味を失います。差別されるものとしての行き場のない怒りや悲しみは,そんな奇麗ごとを言うだけではいっこうに解消されません。にもかかわらず,そのような感情に対処する方法を,何も知らないわけです。
ちょうど,小学校などで,イジメの形をとった民族差別をはじめて経験した在日韓朝鮮人の子どもが,それと同じ状態になります。まだ免疫ができる前の子どもが差別にあったとき,その子はどうなるか? 「どうしてチョウセンジンなんかに生んだんだ」と両親を責めるとか,「生まれなければよかったのに」と在日韓朝鮮人としての人格や生命そのものを否定するようになることがあります。
在日韓朝鮮人の配偶者も同じです。たんに知識としての在日韓朝鮮人像しかないときは,「国籍や民族なんて関係ないじゃない」と言っていても,“差別される存在”である実物の在日韓朝鮮人像として配偶者のことを実感するようになったとき,「在日韓朝鮮人と結婚したから差別されるようになった」「在日なんかと結婚するんじゃなかった」と考えてしまっても不思議ではありません。
例えば僕の妻もそうでした。彼女は看護婦ですが、僕と交際を始めてから、同僚(看護婦、医者、看護助手)や患者たちが、在日韓朝鮮人にたいして差別的な言動をすることに気づくようになりました。それも、“日常的に”です。
話を聞いてみると、僕にとっては「なーんだ、それぐらいのことか。その程度の差別なんてどこにでも転がってるよ」というものでも、彼女は非常に大きな苦痛に感じていたのです。僕にとって、「差別はどこにでも空気のように存在している」ということは当然の事実なのですが、彼女にしてみれば、人間社会にそんな醜悪な特性があることなど、にわかには認められないことだったようです。おそらく今でもまだ、慣れるにはいたっていないでしょう。ただ、「在日韓朝鮮人(の妻)だと差別される」という恐怖感は薄れ、「在日韓朝鮮人(の妻)だと人間社会の本質が見える」という実感が芽生えはじめているように思われます。
僕の妻の場合は,たまたまいくつかの条件が重なって、「1)日本人配偶者が、在日韓朝鮮人との結婚にともなって、自分もしくは子どもが在日韓朝鮮人のある種の一員であること、もしくはなることを受容できるかどうか」という課題に一定の折り合いをつけることができているように見えますが、これは、なかなか容易なことではなかろうと思われます。
李在一氏の元妻が、「在日韓朝鮮人のある種の一員であること,もしくはなること」を受容できず、子どもの出産を機に、両親の差別的態度に同一化することによって“すべてをなかったことにしよう”と考えた(かもしれない)ことはさほど驚くにはあたらないと思います。
そしてこの困難な受容過程は、くどいですが、在日韓朝鮮人と結婚したすべての日本人配偶者にほとんど例外なく課せられた問題点なのです。
そこで,いったん李在一氏の事例をはなれて,「ごく普通の在日」と「ごく普通の日本人」の結婚について,状況を単純化しながら論じてみましょう。
上記Cのとおり,ごく普通の日本人は,在日韓朝鮮人にかかわる問題について,たいした知識を持ちあわせていません。知識がないどころか,“民族”などというと,何か右翼的な主張に通じるウサン臭さを感じる人のほうが多いでしょう。そういう人が,好意や愛情を持った在日韓朝鮮人にたいして犯しがちなミスは,民族文化や民族差別までをいっしょくたにして,民族的なものすべてを「たいしたことじゃない」と考えることです。
「あなたが在日韓朝鮮人であることなんて,気にしない。国籍や民族が違うなんて,何の問題でもない。そんなの気にするほうがおかしい。」ある意味で人道主義的なこの意見も,在日韓朝鮮人とのつきあいにおいて,じつは勘違い以外の何物でもありません。結婚相手が大切にしている民族的なものさえ「気にするほうがおかしい」わけですから,理解しようなどと考えも及ばない。差別をはじめとする民族的な問題だって「たいしたことじゃない」わけですから,学ぼうという意欲につながらない。
この,ごく普通の日本人にとっての,ごく普通の考え方をしているかぎり,この人が結婚相手である在日韓朝鮮人のことを理解することは,ないでしょう。
一方,ごく普通の在日韓朝鮮人のほうはどうか。
多くの在日韓朝鮮人は,学校や民族団体などでまとまった民族教育を受けたことがありません。したがって,(ごく普通の日本人と同じく)在日問題一般についてのまとまった知識をえていないため,在日でありながら当事者としての実感しかなく,当事者以外にその実感を伝えるすべを持ちません。
だから,自分がどれだけ在日韓朝鮮人としての人生,在日韓朝鮮人としての想い,文化,民族性,アイデンティティ――そういったものを大切に思っていたとしても,それを日本人の配偶者にうまく伝えることはできません。ましてや,相手が民族的なものすべてを「たいしたことじゃない」「気にするほうがおかしい」と考えている場合は,なおさらです。
加えて,まことに身勝手なことではありますが,相手が大切な人であればあるほど,自分が民族的なものを大切に思っていればいるほど,「説明しなくても理解してほしい」と思うものです。説明しなくても,大切な人とは,大切なものを大切に思う心を共有できる仲であってほしい,そう思うものです。それがまた意思疎通を難しくする。
「この人は私の大切な民族性を理解してくれない。」結果として,自分の民族性,在日韓朝鮮人としての想い,そういったさまざまなとても複雑なことを,あまり上手くもない説明しかできなかったあげく,こう決め付けてしまいがちです。
ところで,そもそも,在日韓朝鮮人としての思いとは何でしょうか。言い換えると,“在日としての存在意義”とは何でしょうか。ここでは,結婚適齢期に近い青年層について説明しましょう。
僕はこれまでに在日韓朝鮮人を対象とした調査を3つ実施しましたが,そのプロセスで以下の2点を確信するようになりました。それは;
この2つの“民族性”の存在は,意外と分かりづらいようなんですね。「在日韓朝鮮人といっても,もう若い人は日本人とまったく同じじゃないか。違うといえば国籍ぐらいなものだろ」という意見が,在日韓朝鮮人社会の中でも頻繁に語られるぐらいです。
現に存在するものが,なぜそうまで認知されにくいのか? 僕が考えるところ,理由は大きく分けて2つあるようです。
一つは,在日韓朝鮮人の青年たちがもっている“民族性”は,在日一世たちが持っている(た)それとは違って,言語などの顕在的な特徴が少ないため,なかなか認知されにくいということ。さらに,一世たちの典型的な「民族性」とは強度も内容も異なっていますので,なおのこと分かりづらいわけですね。
つまり,四六時中,韓朝鮮語をしゃべっているわけじゃない。毎食毎食,韓朝鮮料理を食べているわけでもない。いつも民族衣装を着ているわけでもない。
ただ,単語や挨拶レベルでは韓朝鮮語が生活の中に生きていたり,ちゃんと韓朝鮮語を話せるようになりたいという思いを持っていたりする。食事の味付け全体がなんとなく韓朝鮮風だったり,毎日一度はキムチを食べたりする。いつも着ているのはもちろん洋服だが,成人式にはチョゴリを着たい/着せたいと思っていたりする。家庭内の民族的な行事は,自分も受け継いでいきたいと考えている。そういう,ささやかだけれども,力強い思いや願い,そういったものなのですね,若い在日韓朝鮮人の“民族性”というのは。
もう一つの理由というのは,「愛着」や「誇り」といったものは,一般に,しょっちゅう他者に表明するたぐいのものではないため,その存在が表面化しにくい,ということです。もちろん,差別を恐れて秘匿しているケースもあるでしょう。加えて,ふだん口にしないで心に秘めておくようなものだけに,在日青年にそれを言語化する能力そのものが備わっていない場合も多いと思われます。
つまり,ただでさえ見えにくいものが,さらに心の中にしまい込まれていることが多いわけですから,在日青年の“民族性”が当事者以外にわかりにくいというのは当然と言っていいでしょう。
さて,在日韓朝鮮人と日本人との結婚に際して問題となりうるのは,そのわかりにくい“民族性”を日本人配偶者がどこまで理解できるか,逆に,在日韓朝鮮人配偶者が日本人配偶者にどこまで分からせることができるか,ということでしょう。
この“民族性”とは,韓朝鮮民族に対する何らかのポジティブな評価,と言い換えてもかまいません。しかし,日本人は在日韓朝鮮人をみるとき,被差別性から認識しがちです。いや,かりにそうではなくとも,いざ当事者として在日韓朝鮮人の配偶者になったとき,被差別の現実に直面するわけです。これは,上で述べた部分なのでこれ以上くり返しませんが,ようするに,日本人配偶者は在日韓朝鮮人のことを“差別される人々”という認識からスタートすることになるのではないでしょうか。これはポジティブな評価どころか,完全にネガティブな評価です。
そのネガティブな評価を払拭し,なおかつ,分かりづらい在日韓朝鮮人配偶者の“民族性”をある程度理解してはじめて,在日韓朝鮮人と日本人の夫婦は,お互いの違いを認めあった関係になりえます。
…改めて言うならば、私は日本人である相手方との結婚に際して自己が在日韓朝鮮人であることを隠したりしていません。…李在一氏は,みずからの生活体験にもとづいて,「生身で等身大である私自身の人としての民族意識」を語り聞かせようと努力しているのです。それでもなお,在日というハンデのために結婚についてためらいがあることを告げると,もと妻は「そんなことは一切関係ないし,気にするほうがおかしい」ときっぱり言い切ったといいます。つまり,李在一氏は,“在日韓朝鮮人としての存在意義”を理解させる応分の努力をしており,いったんは相手もそれに理解を示していたようなのです。
…少なくとも私は相手方に対しては恋愛期間を通じて在日韓朝鮮人であることの意義を自分なりに精一杯説明してきたつもりです。そのことに相手方はたいへん積極的な理解を示していたからこそ私とは恋愛から結婚に進展したのです。…[李在一氏の抗告人陳述書より]
しかし,それは民族的なことを「気にするほうがおかしい」と考える元妻には,実のところ,うまく届いてはいなかったのでしょうか。さらにその後は,異様な差別的態度に終始する相手方家族とそれに同化した元妻にはばまれて,もはやそれ以上の説明をするチャンスさえなかった。
李在一氏とその子どもの不幸は,元妻とその家族の差別的態度が尋常の努力では解消することのできないほどのものだった点にあると言えるでしょう。しかし,在日の思いが通じないという意味では,「ごく普通の在日」と「ごく普通の日本人」の結婚も,まったく同じ問題を抱えています。いま日本人と結婚したり,しようとしている在日韓朝鮮人のうち,はたしてどれぐらいの者が,“民族性”の重要性を理解してもらう努力をしているでしょうか。また,結婚相手となる日本人はどれぐらいそれを理解することができるでしょうか。「ごく普通の在日」の場合,自分にとっての“民族性”の重要性さえ,ハッキリと認識できていないケースさえあるわけですから,潜在的には事態がより深刻だと考えることもできます。
繰り返します。李在一氏は,可能な限りの努力をしたにもかかわらず,相手方の差別性のゆえに,在日としての思いは通じなかった。それは,この事件の特殊性であり,不幸な点です。しかし,「ごく普通の」夫婦たちは,そういった努力さえしていないように思われます。“在日としての存在意義”を共有しそこなった「ごく普通の」夫婦たちのなかから,今後,李在一氏に近似した事例が発生したとしても,なんら不自然とは思われません。
1)日本人配偶者が、在日韓朝鮮人との結婚にともなって、自分もしくは子どもが在日韓朝鮮人のある種の一員であること、もしくは一員になることを受容できるかどうか、2)日本人配偶者が、配偶者、自分、子どもの“在日韓朝鮮人としての存在意義”を理解できるかどうか、逆に在日韓朝鮮人側がそれを伝えられるかどうか――冒頭で提起したこの2点において,李在一氏のケースは,やはりきわめて典型的な事例であると言えるでしょう。
<在日韓朝鮮人側の課題>
在日韓朝鮮人側の課題は,日本人配偶者側が在日韓朝鮮人としての存在意義を,頭だけでなく感情の底で実感するまでさまざまな努力をしなければならない,ということではないでしょうか。
やや遠回りですが,智・情・意の三元論で説明してみましょう。
他者にたいする「智・意をともなわない情」とは,「同情」にほかなりません。同情の一形態である「かわいそう」という情緒は,容易に差別に転化します。また,かりに智と情だけあっても意をともなわなければ,それはたんなる「共感」にとどまります。しかもそれは,持続性のない情緒であり,容易に他の種類の共感に転化します。
他者にたいする「智・情をともなわない意」は,それがどういう種類のものであれ,「独善」でしかありません。独善と差別は表裏一体です。また,かりに情と意だけあっても智をともなわなければ,それはえてして「ヒロイニズム」におわります。ヒロイニズムは情報にたいして盲目ですから,別の情報にたいするヒロイニズムに接したとき,もろく崩れます。
ようするに,同情を惹きつけるだけではダメで,共感だけでも十分ではなく,独善的な協調はむしろ害があり,たんなるヒロイニズムでみてもらっても困る,ということです。
もっと現実に即したことを言うと,いっぱんに,友情や恋愛感情が成立しているときには,情は当然のように惹きつけられるものです。こちら側の困難を聞かせてやれば,意だってついてきます。したがって,最後に来るのは智ということになります。
ここに時間的順序が成立します。情→意→智です。これを単純化して展開すると,日本人が在日韓朝鮮人の友人や恋人にいだく心的機能は,<同情→ヒロイニズム→共感→理想状態>という段階をとりやすい,ということになります。
相手によっては,同情などない場合もあるでしょう。僕の妻は僕を同情したことはおそらく一度もないと思います。ただし,彼女が自分自身を同情したことはあるかもしれません。それは亜種のヒロイニズムですね。また,ヒロイニズムと共感の順序が逆になることだってあるでしょう。あるいは,両者の違いはあいまいですから,頻繁に入れ替わることも考えられます。現実には,<同情→ヒロイニズム→共感→理想状態>のような直線的な発達段階は踏まないことも多いでしょう。が,理念型としては,こういう変化のプロセスがいちばんもっともらしいということです。
したがって,在日韓朝鮮人配偶者側に必要な努力とは,安易に「どうせ民族性なんて分かってもらえない」などと決め付けず,日本人配偶者が,同情でもヒロイニズムでも単なる共感でもなく,“在日韓朝鮮人の歴史を知り,その存在意義を心の底から実感する状態”になるまで,さまざまな努力をするということだと,思います。
より具体的には,マスコミの情報に注目させたり,関連の書物を買い与えるだけでは,情も意も惹きつけることは難しいでしょう。逆に,自分自身の体験を聞かせるだけでは,智を身につけてもらいにくい。ですから,書籍のような何か体系的な情報源に接してもらうと同時に,自分や親族,友人,知人などの日常会話に触れてもらう,というのが重要ではないでしょうか。
<日本人側の課題>
とても分かりにくい“在日韓朝鮮人の存在意義”というものを考えるにあたって,ひとつのたとえ話が発想のきっかけになるんじゃないかと思います。
たとえ話というのは,障害児を産む,ということについてです。出産間近になって,こどもに重大な身体障害が発見されることが,いまでも時々あります。こういうとき,当然,産んで育てるというのが一般的なやり方だと信じていますが,実は別のオプションもあるようです。
それは,「産まれなかったことにする」です。つまり,死産だったことにして障害のことは母親には内緒にしておき,あとは病院が引き取る,というケースです。病院が引き取った後どうなったかは知りませんが,看護婦である僕の妻に聞いたところ,看護学生のころ,そういう障害児を集めた施設に行ったことがあるということでしたので,かならずしも珍しいことではないのかもしれません。
この行為についてどう思うか。
法的には,完全に間違ったことだと,僕は信じます。しかしながら,法の網のもとで,事実,戸籍にさえ登録されていない障害児を保護している施設が存在しているのです。つまり,この脱法行為を下支えする一般的な意識が,日本社会には存在するわけです。その意識とは何か? 一言でいうと,もちろん,障害者差別です。障害者など足手まといなだけで,この世に存在しないほうがよい,という意識です。障害者の人間としての存在意義を全否定する意識です。
この事実にたいして,「そんな理不尽なことは許されない」と憤る人も多いでしょう。逆に,「自分が当事者なら,そういうオプションを選ぶかもしれない」と思う人も少なくないかもしれません。自己嫌悪しながら――あるいはホッとしながら?
いずれにしても,かなりの人が,子どもに「五体満足」で産まれてほしいという希望を自然に持っているものです。子どもを丈夫に産むために喫煙をやめたり,妊娠後は酒を控えたりすることは多いですね。障害者の人間としての存在意義を全否定するほどではないにしても,障害者差別の根幹となる意識を,誰しも持っているのです。
こういう差別意識が少しなりとも浄化される瞬間というのは,現実の障害者のなかに,ひとつの人格の存在を認めたときでしょう。「あ,人として生きてる!」と実感したときでしょう。
ここで,話を在日韓朝鮮人の問題に引き戻したいと思います。在日韓朝鮮人を差別するとはどういうことかを考えてみましょう。
在日韓朝鮮人を差別するというのは,在日韓朝鮮人の存在意義を認めない,ということと同義なのです。そして,在日韓朝鮮人の存在意義を認めないというのは,「在日韓朝鮮人など,生まれなければよかったのに」ということなのです。
在日韓朝鮮人と日本人が結婚して生まれた子どもであれば,韓朝鮮人とのダブルとして民族教育を施すのが当然ですが,もし日本人の親がそれを望まなければ,それは自分の子どもが,「在日韓朝鮮人(とのダブル)としては生まれてこなければよかった」と考えているのと同じ事なのです。
日本人側の課題としては,まず,結婚相手とその間の子どもが,「在日韓朝鮮人として生まれてきてくれてよかった」と実感できるようになることでしょう。
結婚相手が「(ひととして)この世に生まれてきてくれてよかった」と感じるのは自然なことです。そういう考えがなければ,そもそも恋愛結婚にはならないでしょう。でも,そこから一歩進んで,「在日韓朝鮮人として生まれてきてくれてよかった」とも,考えるようになることが重要ではないかと思います。
そのような実感にいたるには,結婚相手について,「在日韓朝鮮人として生きてる!」という実感を大切にすることだと思います。
たとえ口には出さなくても,時には自覚さえしていなくても,多くの在日韓朝鮮人が,心の中では「在日韓朝鮮人としての自分」を大事に思っています。そういう意識は,態度の端々ににじみ出るものです。そういうわずかなことから,まずは結婚相手の「想い」を想像してみることでしょう。
そして,さりげなく,かつ,飽きずに,韓国や朝鮮,在日について話題にしてみることです。そうした微妙で繊細なやり取りの中から,きっと貴重な関係が生まれてくると,僕は考えます。
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