結婚と子育てにおける民族差別と
「在日」の親の新たな義務


李修二


(『ほるもん文化4--在日朝鮮人 揺れる家族模様』新幹社,1993年,より転載。但し,仮名等一部変更)


 まえがき

 三重県の津市と松阪市の中間に位置する一志郡に在住する李在一(リ ジェイル)氏(1959年生まれ)は、今、二つの裁判を闘っている。一つは、離婚した日本人元妻との間で、現在五歳になる息子の親権をめぐって争っている家事調停である。子どもは母親である元妻のところで暮らしているが、親権者は彼である。元妻は、子どもの親権者を自分に変えるようにと、津家庭裁判所へ家事調停を申し立てた。調停とはいえ、この場合、事実上裁判所の判断を問うものになっている。もう一つは、今年(一九九三年)一月に、津地方裁判所に提訴され、全国版の新聞でも報道された行政訴訟である。朝鮮籍の在日朝鮮人である彼が、子どもの外国人登録を代理申請したところ、不受理とされ、子どもが何ら住民登録されていない宙ぶらりんの状態におかれてしまった。彼は、不受理処分を不服として、子どもの住所のある津市を相手どり提訴した。

 この二つの裁判は、一見、別個の裁判のようにみえるが、実は、非常に密接に結びついた裁判なのである。李在一氏は、日本人の一女性と結婚し、子どもをもうけたのち、離婚せざるをえなくなった。彼は、わが子に対し、親としての自らの立場はどうあるべきかを、とことん考え抜いた。そして、彼なりに考えた理想の立場に少しでも近づこうとしてきた。二つの裁判は、こうした生き方を追求した彼の身にふりかかった一連の出来事の、それぞれ別の側面が原因となってはじめられ、人々の関心を引くようになったものなのである。

 李在一氏の事例を単に一個人の問題とかたづけることはできない。というのも、社会的になかなか表面化しにくいが、在日韓国朝鮮人が日本の社会の中でしばしば遭遇するような、地域社会の根底では今なお、根強くはびこっている問題を、彼の事例はくっきり浮き立たせているといえるからだ。と同時に、あるいは、在日韓国朝鮮人の三世、四世といった世代にとっては、今後ますます、つきつめて取り組まなければならないような問題にとっての先駆けとなるような典型的ケースなのかもしれない。今日、在日韓国朝鮮人青年の多数が、日本人とのいわゆる「国際結婚」をするようになったといわれる。こうした若い世代の結婚観を目のあたりにすれば、在日韓国朝鮮人と日本人との関係を、今後、「家族の問題」という側面からも、どのように改善し、深め、築いてゆくべきなのかという課題が、否応なく、私たちに投げかけられてくる。李在一氏の事例は、在日韓国朝鮮人と日本人との結婚とその後の家庭生活、子育て・教育をめぐる出来事のうち、現在衆目をあつめている実例としては、最も深刻で悲惨な例だといわれる。しかし、そうであるからこそ、問題の性格を曖昧にせず、直視することを可能にする事例だともいえる。ここでは、彼の裁判闘争を身近で観察し、支援してきた者の一人として、事実経過を出来るだけ客観的に紹介し、あわせて、彼の背負わされた問題が提起している普遍的な性格にせまってみたい。

 結婚と子どもの誕生−−噴き出る民族差別

 李在一氏は、そもそも元妻との間の離婚自体も裁判所を通じて決着がつけられねばならなかった。裁判所による離婚調停が、一九八九年にはじめられて以来、四年目の昨年三月末にやっと成立したのだった。やはり津地裁でなされたこの調停離婚の件も、全国紙で報道されているものだ。ところが、その後、三カ月あまりで、彼は再び裁判闘争へと引き戻されることになる。というより、彼の裁判闘争は、離婚をめぐる争いではじめられて以来、今なお終わることなく連続していると考える方が、むしろ適切なのである。つまり、この問題の全容と本質を理解しようとすれば、どうしても彼の結婚から離婚に至る経過を知っておく必要があるのだ。そこで、まず、彼の生いたちにも簡単にふれることからはじめたい。

 日本の学校へ通い、公立の工業高校を卒業した彼は、少年時代から体格も良く、腕力と度胸では目だつ子どもだった。それでも、根っからの本好きで、成長するにつれ、いつも鞄の中に小説などを入れて持ち歩き、だんだん文学青年風に憧れるようになっていった。

 名前は幼少の頃から大谷章雄(おおたにのりお)という通名を名のっていた。生まれ育った地域に、在日韓国朝鮮人はまるでおらず、友達は日本人の子ばかりだった。自分が朝鮮人だと自覚し、日本の社会でのその地位や境遇を理解するようになってからも、彼は、韓国や朝鮮という国に特別な愛着を感じるといった、いわゆる民族意識というものをどうしても身につけることはできなかったようだ。それは、在日朝鮮人一世で民族意識の旺盛な、厳しい父への反発がそうさせたのかもしれない。彼は、この頃を振り返って、離婚裁判時に津地裁へ提出した陳述書の中で述べている。

「自分はいったい何者であるのか、ということは、常に、李在一と大谷章雄というこの二つの名前の存在が意味するかのように、悩み苦しんできました。父のように朝鮮人対日本人という図式で生きることができなかった私は、日本人でもなく、朝鮮人でもないという観念から、自分は一個の人間であるというあいまいではあるが、それしかないという観点で、生きざるを得なかったし、また生きてきたつもりなのです。」(以下、引用箇所は、概ね李在一氏による離婚裁判時の『裁判資料、陳述書』より)

 そんな彼は、高校卒業後、東京へ出て専門学校へ通うかたわら、演劇などの舞台芸術というものの世界に興味を抱きはじめるようになる。専門学校卒業後、帰郷して設計会社に就職したが、そこで初めて、社会生活の中での韓国朝鮮人差別の風土を肌で感じるような体験をする。一年あまりでその会社をやめ、アルバイト生活を送っているうちに、地元の演劇グループや音楽バンドに参加するようになる。芝居や音楽という世界に集う人たちには、民族的な区別や差別といった観念にまるで縁がないかのように感じた彼は、その頃から、特に演劇活動にぐいぐい引き込まれていく。そうした創作活動に役立つかと思い、文科系の夜間短大に入学して勉強したり、他方で、劇団活動を続けるのに必要な金と時間をつくるため、いろいろな行商を覚えて稼いだりする生活をはじめた。そして、彼は、自分が中心になって、八四年に津市でアマチュア演劇グループを結成する。彼が結婚することになる日本人女性の昭子は、彼がつくった劇団に入団してきた女性だったのだ。

 八六年秋に、彼の父が癌で亡くなった頃から、彼と昭子は急速に親密になる。恋愛感情の表現という点では、最初から昭子の方が積極的だった。次々に贈り物をしたり、結婚を言い出したのも昭子の方だった。彼は、劇団などで自分が朝鮮人だということを隠したりはしなかったが、昭子に改めてそのことを告げ、昭子との結婚についての自分自身のためらいの気持ちを伝えた。それに対し、昭子は、以前からすでに承知しており、「そんなことは一切関係ないし、気にする方がおかしい」と、きっぱり言いきったという。

 八七年二月頃、昭子は、彼の子どもを身ごもった。そこで彼は、結婚を決意し、昭子の両親に二人の意志を伝え、承諾をもらいに行く。昭子の実家の置野家には、すでにそれまでも、二人が個人的に交際している間柄として招待されて挨拶に行ったことがあり、その際、彼は、自分が朝鮮人であることを昭子の両親にも告げている。その時、昭子の母親の和子は、「そんなことは一切気にしていない」と語ったという。ところが、それからわずか一カ月あまりして結婚を申し入れると、この和子の態度は、驚くほど豹変したのだ。

 和子は娘に対して、「こんなブタ朝鮮人のどこがいいの。すぐに子どもは始末しなさい。」などと怒鳴って逆上し、二人の結婚に猛烈に反対した。話は決裂したが、まもなく、昭子は家出し、彼のもとへ駆け込んでくる。彼のオモニは、「一緒になると、いばらの道を歩むことになる。後で別れるくらいなら一緒にならない方がいい」と諭したが、昭子は、「一緒にやっていきます。後悔しません」と、固い決意を示したという。他方、和子は、彼の家に電話をかけてきて、オモニに対しても、「朝鮮人!裁判でカタをつけてやる。私はヤクザにも負けない」などと暴言を吐いた。

 ひと月ほどして、昭子の父親の正彦が、李在一氏に、自分のいう条件をのんでくれれば結婚を許すといってきた。その条件とは、1)彼が置野家の養子になること、2)また彼が自分の会社を手伝うこと、3)結婚式はすべて正彦が取り仕切ること、だった。正彦は、こうした条件をのんでくれないと、どうしても和子が許さないし、今の状態では世間体が悪く、自分個人の信用にも関わり、下手をすれば自分の経営する会社が潰れるので、何とか条件をのんでほしいと彼に頭を下げて頼んだ。彼のオモニや兄弟は、養子になることには反対した。だが昭子は、条件をのんでほしいと本心をあかした。彼はこの時、家出し、勘当も覚悟でついてきた昭子に対する憐憫の情から、これらの条件に同意してしまう。ただ、養子に関しては朝鮮籍のままで帰化しないこと、仕事に関してはとりあえずやってみて結論を出すという条件で折り合った。

 結婚式の前後、和子は、李家の人々に、自分の手首の傷を見せつけた。昭子が家出したあと、自殺をはかったのだという。そして、「世が世なら、うちは子爵、男爵じゃけんのう」といった横柄な態度をとり続けた。その間、正彦は、李家の人々に土下座までして、自分の言うとおりにしてほしいと頼みつつ、李在一氏のオモニには、「生まれてくる子が朝鮮人だと言われたら、私はこの身が切られるようにつらい」ので、何としても彼を養子にしたいと語ったという。

 こうして李在一氏は、八七年五月、昭子と結婚し、置野家の婿養子になった。しかし、それが多難な日々のはじまりだった。新婚旅行から帰って初めて昭子の実家に行ったその時から、彼に対する和子の異常な差別言動がはじまる。それは、「あんたは犬や、人間やない、お父さんに拾われた野良犬や。」「三国人!半島人はすぐ半島に帰りなさい!ここは日本じゃけんのう。」「人間には、上下があるんです。あんたは下の人間だということをよく自覚しなさい!」といったものであった。彼が、「お母さん、同じ人間やないですか。子どもも生まれることですし、仲良くやっていきましょう。」というと、和子はさらに興奮して、彼の髪を掴んで引き回し、半狂乱になって泣き叫んだという。

「どうしてあんたみたいなクズといっしょになるのよ、クズが!すぐに離婚しなさい」

「あんたがクズなのはあんたのせいではありません。あんたの親がクズだから、あんたがクズなのです。いいですか、クズからはクズしか生まれません。」

 こうした常軌を逸した和子の言動は、李在一氏夫婦が、置野家に食事などで呼ばれた席でたびたびなされたのだが、その場に居あわせた誰もそれを本気で制止しようとはしなかったという。置野家の正彦も、昭子の弟たちも、そして、昭子自身も含めてである。むしろ、昭子は、この頃から黙り込んでしまうような態度をとることが多くなっていった。そのため、李在一氏と昭子は、夫婦らしい会話がほとんどできないような状態に陥ってゆく。

 この頃の自分の心境を、李在一氏は次のように述べている。

「私にとっては和子のそんな様子よりも、それに対してひたすら黙り込む昭子や正彦、昭子の弟の従順さが悲しかった。和子の態度に対して、当時出した結論として、私はそれを『のりこえるべき壁』あるいは『解決することの一つ』としてとらえる決心をしたのだ。和子の常軌を逸脱した行為がそれほど長く続くものではない・・・と考えたからだ。なんせ生まれてくる子どもからみれば祖母になるわけだし、昭子のためにも、できうるかぎりの努力はすべきだと思ったのだ。当時はむしろ、私のその決心に対して、私は自信すらあった。」

 高校時代、「チョーセンのくせに大きい顔しとる」と不良グループにからまれ、多勢に無勢で喧嘩するといった、いわば修羅場をくぐりぬけるような体験もした彼は、和子の半狂乱の言動にも、我を忘れることなく、義母への礼儀をつくす態度をとり続けた。

 結婚生活は、彼の実家での暮らしではじまったが、身重になった昭子は、八月に置野家へ里帰りする。その間、置野家は、彼に相談なく、二人のアパートを探す。また、正彦が、この頃から執拗に、彼に帰化を勧める。だが、この点では、彼はきっぱり断り続けた。するとやがて、結婚前に、正彦が、儀礼的なものなので黙って受け取ってほしいと李家によこした結納金の五〇万円を、正彦と和子は、倍の百万円にして払えと請求しはじめた。李在一氏のオモニは、彼と昭子のために五〇万円以上の家財道具などを揃えてやっていたが、正彦と和子の執拗な請求と、出産前に置野家ともめたくはないという考えから、結局李家の人々は五〇万円を返すに至る。

 八七年秋、昭子は子どもを出産する。李在一氏は病院に付き添い、子どもの誕生を見まもった。ところが、和子は、こともあろうに病院まで来て騒ぎを起こし、医師や看護婦らを驚かせている。和子は、子どもの誕生後、病院で李在一氏を見るなり、いきなり彼の頬を殴った。

 昭子の出産前後、彼は、子どもの誕生に立ち会ったとき以外ずっと、昭子との別居生活を強いられた。昼は正彦の会社で働いた。彼が置野家を訪ねても、和子は、「昭子は産後のひだちが悪いため今寝ている」と、玄関払いをした。電話をしても、「男は育児に必要ありません」といって、一切昭子に取り次ごうとしなかった。そのうえ、昭子自身も、自分の方から何の連絡もとってこない。この頃、昭子は友人に宛てた手紙の中で、次のように書いている。「ふつうの育て方さえもしないと章雄のような原始人になってしまいます・・・子供の教育に関しては、もちろん章雄は除外し、置野家でやることになります。」そんなこととは知らず、李在一氏は、正彦の会社で義理の息子として働いていたが、正彦は給料を彼に渡さず、勝手に昭子にだけ渡していた。そのことを抗議すると、正彦はその場逃れの言い訳をするばかりだった。

 半年にも及ぶ別居生活に業を煮やした李在一氏が、置野家に談判し、どうにか、八八年三月からアパートで、昭子と子どもと三人で暮らせるようになった。だが、それも束の間、和子が、またもや手首を切って二度目の自殺をはかったという。昭子が言うには、母親の和子は昔からたびたび、狂言で手首を切ったりしたという。そのうち、和子は、李在一氏夫婦が、子どもを彼のオモニに見せにゆくのを猛烈に反対しだし、大声で「豚、朝鮮、半島人、三国人!」などと繰り返す電話を何度もかけてくるようになった。そんな和子に対して、だんだん昭子は、「ママには逆らえない」と、彼の実家へ行くのを拒むようになる。二人の間で話し合い、「結婚前と今とで俺が変わったかい」と彼が問うと、「変わったのは私よ。私は私の心の中にひどい部分があるって自分でも気付いてびっくりしている」と答えたそうである。

 アパートで同居をはじめて数カ月たったある夜、「俺にできることがあったらなんでも言ってくれ」と問う彼に、昭子は、「実は一つだけあなたにやって欲しいことがあるの・・・お願い、あなたに自殺して欲しいの。そうしたら全部うまくいくのよ」と語ったという。その深夜、彼が昭子のすすり泣く声で目をさますと、昭子が包丁を握りしめ泣いていた。声をかけると、昭子は驚いて持っていた包丁を落とした。「一体なぜここまで、こんな状況になってしまったのか。」彼はその後、何日か自問自答したという。

 その件があってから、彼は初めて、在日朝鮮人であることから生じる様々な問題を、自分から考えはじめるようになった。そして、それまでの自分が、自分も在日朝鮮人だということは事実であり否定できないが、朝鮮人差別という問題など考えたくないと、心のどこかで無意識のうちに避けていたことに気づいた。この頃から、とりあえず、在日韓国朝鮮人関係の本を図書館で借りてきては読むようになった。そんなある日、その種の本に子どもが触ろうとした時、突然昭子が、「そんな汚い本、触っちゃだめ!」と叫んで、子どもを抱きあげ、興奮して彼をにらみつけた。「この子にも朝鮮の血が入っているんだぞ」という彼に、昭子は、「この子は日本人よ、置野家の人間です」と、いきり立って言い返したという。

 そうした異常な空気の中での生活が続き、ある日、彼が、「君は俺と離婚したいのと違うか」と尋ねた。すると昭子は、「今は無理なのよ。私は今すぐにでも離婚したいと思っているけど、パパが子供が五歳になるまで我慢しろというので、そうするつもり」といった。彼が、「そんなのはお互い不幸だから、すぐ離婚するべきじゃないのか」と憤ると、昭子は、彼への愛情が無くなったわけではない、などと口を濁したという。しかし、まもなく、彼は、昭子が自分に対して完全に愛情が失せていると実感するようになる。それにつれて、彼自身もだんだん離婚を意識しはじめた。だが同時に、深い絶望感にもとらわれるようになった。それは子どもに関してだった。彼は、離婚裁判中に述べている。

「私にとって子どもの存在は大きく、今でも、何も考えていないとき、自動的に私の頭の中に子どもの存在が浮かんでいる。・・・私は必死で子どもにとっていい材料を置野家で育てられることに関して考えようとするのだが、時間が経つにつれ、ますます良い材料を発見できずにいる。」

そこで、彼は、子どものことを考え、再度やり直ししようと何度も昭子に語りかけたという。しかし、昭子は、「いずれ離婚するという決心は変わらない」、そして、これは「私の決心だから、あなたには関係ない」といった言い方をしたという。

 八八年九月、昭子は再度実家へ戻ってしまい、また別居生活になった。そんなおり、置野家の者たちが皆揃った会食の場に、彼も呼び出された。そこで、それまで事あるごとに和子が言葉に出して彼にせっついていた、昭子との離婚ということに、彼は、とうとう、自分から同意するといい出してみた。すると、和子は、「あなた、まだ、自分のことを人間だと思っていたのね。あなたは犬よ、犬なのよ。だから、あなたにそんなことを決める資格があるわけないじゃないの」と息まいた。正彦が、「そのことは、私があずかる」と口をはさみ、昭子は「考えさせてもらいます」と、しらじらしく言った。こうして、彼は、自分からは離婚も同居もできないような状態での生活を強いられるはめになった。

 ところが、翌八九年一月、昭子は、今度は離婚を一方的に宣言した手紙を留守のアパートに置いていった。その手紙には、「・・・貴方との結婚生活を全面的に拒否・否定します。・・・なぜなら貴方という『個』を否定しているからです。私には必要のない存在です。・・・」とあった。その後、彼は、何度か子どもに会おうと、置野家に出向いた。しかし、そのたびに、昭子と和子、それに弟が、興奮して殴る蹴るの暴行を彼に加えてくるようになったので、引き下がらずをえなかった。まもなく、正彦から、昭子が子どもを連れて行方不明になったと告げられた。彼は警察に捜索願いを出した。二月になると、正彦は彼に、会社へ出ず自宅待機するよう命じた。三月、彼のもとに、裁判所からの離婚調停の通知が届いた。驚いた彼が正彦に電話すると、「一切私は関知しない」という無責任な対応で、正彦は一方的に電話を切った。

 昭子との直接の話し合いは一切できない裁判所での離婚調停が決裂したのち、八月に、昭子側の訴えによる離婚裁判の訴状が彼のもとに届いた。その内容によれば、被告(李在一)は、浪費ぐせがあり、定職に就きたがらず、子どもが生まれても顔も見に来ず、育児にまったく協力せず、酒を飲んでは昭子や置野家の者らに暴行をはたらき、こうした被告の一連の身勝手な行動、脅迫行為、暴行傷害行為によって婚姻生活が破綻したとされ、置野家の割れた玄関ガラスの写真や、置野家の者らのケガの診断書が証拠として添えられている、というものだった。この訴状は、何から何まで、驚くほど真っ赤な嘘でつくられていたのだった。その後、彼は、一九九〇年六月になって、支援者に支えられ、ようやく反訴にこぎつけた。

 離婚裁判−−「個人的な問題? それとも・・・」

 李在一氏の結婚から離婚裁判に至る事実経過について、主に、彼の裁判陳述書の記載内容にもとづいて述べてきた。相手側は、彼の主張に対しては、その後も全面否定の主張を書面で繰り返した。昭子の両親の和子と正彦は、裁判の場には一切顔を見せなかった。ゆえに、私たちは、彼らのなまの声を聞くことはなかった。しかし、裁判の途中で、李在一氏がたまたま昭子の荷物から発見し、追加で提出した手紙などの物的証拠に照らしても、どちらが真実を述べているか、どちらの主張が矛盾なく、つじつまが合っているかを、第三者が判断するのはそれほど困難ではないように思われる。たとえば、八八年三月からのアパート暮らしの開始に際して、昭子が友人に宛てた手紙の中では、

「毎日ママは彼の悪口を言い、パパは愚痴をこぼす。この七カ月で私の中での『大谷章雄像』が、かなりゆがんでしまっていたのです。・・・仕事に対する考えだってパパが言うほど、問題を感じないのです。家の中のことも適当に動いてくれるし、聖徳(しょうとく=子どもの名)もベロベロに可愛がっています。」

 などと書いていた。こうした昭子本人の当時の記述からみても、離婚裁判での昭子側の主張が真実にもとづいておらず、昭子や置野家の人々の態度や行動が、李在一氏の述べた通りのものだったとみなしてさしつかえないと思われる。そして、実際、離婚裁判において、九一年十二月に、裁判官が最終的に提示した和解条項案は、誰の目からみても、李在一氏の言い分がほぼ真実だと認められたということを示している。すなわち、それは、

  1. 離婚・離縁すること。

  2. 差別的言動について昭子とその家族は李在一に謝罪すること。
  3. 昭子側は、慰謝料として李在一に五百万円支払うこと。
  4. 子どもの親権者は李在一に、監護者は昭子とすること。
というものだった。そして、最終的には、李在一氏の要求で、子どもとの面接交渉を毎月二回保証することや2)項に付け加え、今後、差別的言動のないこと、および、朝鮮民族を尊重すること、他方、主に昭子側の要求で、面接交渉の履行状況をみて一年後に親権・監護権の帰属について協議すること、といった項目を加えて、九二年三月、調停離婚・離縁が成立した。この調停結果は法的拘束力をもち、事実上、李在一氏の裁判勝訴といえることは明らかだろう。

 ここで、この離婚裁判に関して特に注目したい点がある。置野家の李在一氏に対する差別行為は、常軌を逸しており、凄まじいものだった。と同時に、時代錯誤的で、むしろ幼稚にさえみえるのである。にもかかわらず、昭子や置野家は、離婚裁判に持ち込んだ。つまり、こうした事実は、見方によっては、彼らにそうした行動をとらせる彼らの意識の奥底には、在日韓国朝鮮人を暴力的で非道な人間に仕立てることが、間違いなく世間の人々に受け入れられ、共感され、自分たちの言い分が通るはずだと信じて疑わなかった、根深い差別意識が潜んでいることを浮かび上がらせているといえる。和子をはじめとし、それに感化された昭子本人、さらにこの二人に同調した置野家の他の者らの差別行為は、いまどき、こんな露骨でひどい差別をする人が本当にいるのだろうか、と思わせるくらいである。かりに、本音では在日韓国朝鮮人に対し差別意識があっても、少なくとも面と向かって言葉に出したりしないのが「普通」だと思えるだろう。だから、特に和子などは人格的にも異常でさえあるのではないかと考えられるかもしれない。

 しかし、この和子は、「絵本作家」、「人形劇団協会長」、「日中友好協会役員」などといった地域の「文化人」の一人として、当時、地元の教育委員会などから依頼を受けて講演したり、市の広報で紹介されたりもしている。しかも、それはまさに、李在一氏に露骨な差別言動を行なったり、暴力をふるったりしたのと同時並行でなされていたのである。また、正彦は、零細企業とはいえ、家電大手メーカーである「ナショナル」の系列の下請け会社を経営している。つまり、はた目には、置野家は一見、地域社会の中で、問題のない、むしろ比較的立派で模範的な家族ないし住民とみられがちな人々だったのである。したがって、その外見と中味とのギャップ、あるいは、外見の欺瞞性に唖然とさせられるものがある。しかし、同時に、置野家のような人々は、けっして希な例などではなく、むしろ、これまでの日本の地域社会の根幹を形づくってきた日本人の中には、こうしたタイプの人々も多いのではないかと懸念を抱かせるのである。

 ところで、昭子が、結婚生活の途中で心変わりしてしまったことはすでにみたとおりだが、一見ピンとこないのが、この昭子の心理であろう。そもそも、二人の結婚は、昭子の李在一氏への恋情がなければありえなかった。それが、いくら両親の猛烈な反対に合ったとはいえ、あれほど、いとも簡単に、正反対へと変心できるものだろうか。この点は、支援者の間でも問題にされ論議し合った点だった。真実のところは、本人以外誰も知りえないが、この点で、京都市在住の朴実(パク シル)氏が、「民族名をとりもどす会」の会報『ウリイルム』第28号(九二年十一月)に載せられた一文の中で、李在一氏自身の文章を引きながら、簡潔な説明を試みているので引用させていただく。

「ところで、李君を朝鮮人と知りながら、好きになり、押しかけて結婚した昭子が、なぜ結果的に母親と同じ行動をとったのか、・・・不思議だと思われるだろう。このことについて、李君は裁判報告集会の資料で、長文を載せている・・・『彼女の心が硬直したのは、和子の凄まじい差別言動だけによるものではなかったのです。ここにきて初めて彼女は、<民族差別>というものを知ったのです。体験したのです。それは、日本人がよく使う『私には関係ないけれど』と言う前提で知っていた<民族差別>ではなく、むしろ在日の側が<民族差別>を口にする内容と、ほとんど近いものとしての<民族差別>の実態を初めて理解したのでした。そして彼女が(心が)硬直したのは、それだけではすまなかったのです。恋愛時に語った在日朝鮮人としての私が、初めて、リアルな実像として感知できたのです。』 少し分かりにくい文章だが、私流に理解すれば、一般概念としての<民族差別>ではなく、当事者としての<民族差別>に出会った時、その絶望的な問題の深さに、思わず身をすくめ、たじろぎ、やがて逃避をはかり、差別者へと転落していった、ということだろう。」

 こうした理解にあえて付け足すとすれば、昭子にとっては、子どもの出産が大きな契機になったのではないだろうか。確かに、昭子の心変わりにとって、昭子自身の生来の性格や、二人の人生観の違いの顕在化といった要素なども原因の一部となったかもしれない。たとえば、金銭について、「人間には金で買えない大事なものがたくさんある」などと考える文学青年肌の李在一氏と、「私には(親の)会社があるから、経済的に充分生活していけると思うから、もうパパとママには逆らわないことに決めたの」という、昭子との価値観の相違は歴然だ。しかし、そうした要素は、やはり二次的なものだろう。何よりも、昭子にとっては、今やはっきりと当事者の立場でその意味を理解するようになった韓国朝鮮人差別が、夫を犠牲にしてでも、自分が生んだわが子にだけは及ばないようにと考えるようになってしまったのではないだろうか。それは、李在一氏が、不幸な結婚生活を契機に、ある意味で変わっていったのとちょうど対照をなしている。彼の場合、在日韓国朝鮮人問題をそれ以前の彼とは違って、より正面から、現実の社会の中の一個人である自らのこととして、あるいはそれ以上にわが子のこととして捉え、学習し、それに対処する方法を模索しようと努力しはじめる。昭子と彼の思考は、まったく逆方向を向いてしまった。けれども、昭子の思考の方向が、破滅的で未来のないものであることは明白だろう。

 子どもの「氏の変更」と「国籍離脱」、そして「外登法」

 離婚裁判の結果、李在一氏の闘いは一応勝利したことになった。だが、彼の希望がかなったかというと、必ずしもそうではない。子どもとの面接交渉は、調停成立の翌月、九二年四月からはじまった。昭子は八八年の秋以後、ずっと、子どもと李在一氏とを一切会わせないようにと隔離し続けてきた。ゆえに、その隔離の壁を取り払わせたという点では、彼にとって、とにかく一歩前進だった。ところが、ある程度予想されたことだったが、面接交渉の際の昭子の態度は、ものすごく異常なものだったようだ。彼が、子どもを連れて立ち去ろうとすると、車のフロントガラスにへばりつき、絶叫して泣き叫んだり、子どもの眼前では終始、ヒステリックな態度をとり続けたりもした。また、彼が、昭子に連絡先や子どもの日常生活を尋ねたり、子どもに関して話し合うよう求めても、面接日時の取り決め以外、一切何も答えず、対話を拒否する態度を示し続けた。さらに、昭子は、子どもが彼を嫌うようにと、馬鹿げた、子どもだましの嘘を精一杯、子どもに吹き込もうとしてきたようである。というのも、そうした言葉が、面接交渉のはじまった当初から、子どもの口から次々と漏れ出てきたのだ。

「お父さんて呼んだら、ママに怒られる。お父さんは他にいるってゆうとった。」

「お父さんはママのお金を取ったドロボウやて、ママがゆうとった。」

「あの男(李在一)の家は、人をデバ包丁で刺し殺して建てた家だから行けば殺される。」

「あの家は、汚いので、刺されたら死んでしまう恐い虫がいる。」

「あそこの家の人間と一緒にご飯を食べてはいけない。絶対に一緒に風呂に入ってはいけない。」

 などである。また、子どもにとっては祖母となる和子は、初めての面接時に彼が買い与えたオモチャを、子どもの眼前で叩き壊したりしたという。さらに、ある時、子どもが、「お父さんは、本当に人間とはちがうんか?」と尋ねた。「なにっ?誰がそんなことゆうたんや」と聞き返す彼に、「ばっちゃんがゆうとった。あの男は人間の形しとるだけで、ほんとはケダモノやってゆうとったもん」と答えたという。昭子や和子らは、離婚裁判で実質敗訴となり、高額の慰謝料支払いも命じられた。彼女らが内心、腹立たしい思いを抱いているだろうことは想像に難くない。しかし、子どもにとっては、互いに、本当の父であり、母である。調停成立直後であれば、たとえうわべだけでも、父親の法的立場を尊重するのが常識だろう。つまり、昭子らの意識は、以前となんら変わっていないのである。

 それでも、李在一氏の幼い息子は、やはりこの人が自分にとって本当の父親だということを理解しているようである。面接のたびに、母親に何か言いふくめられてくるのか、彼の息子は、最初かたくなな態度を示すらしい。だが、父親と二人きりになってしばらくすると、子どもらしくなついてくるという。ある面接の日、寺院かどこかを父子で訪ねた時、「何をお祈りすればいいの」という息子に、「ウーム・・・お前のお母さんが幸せになるようにお祈りしなさい」という彼に対して、幼いながらも父親を信頼こそすれ、嫌うなどということは、これからもきっとありえないだろう。

 こうして、李在一氏は、調停成立の際の昭子側の謝罪という条項が、いかに字面だけのことであり、昭子らによる彼への差別が依然として、連綿と続いているかを、いまさらながら確信した。そして、彼は、入念な準備のもとに、しかし、決然とある行動をとった。それは、それまで置野姓の名前だけを持ち、二重国籍者であった彼の息子について、その李姓への「氏の変更」と、「日本国籍離脱」による単国籍としての朝鮮籍への変更という、法定代理人の親権者にだけ認められた法手続きをすることだった。すなわち、九二年五月、彼は津家裁に「氏の変更」を申請。しかし、これは、日本人親権者であれば、通常簡単に認められる変更であるのに、彼の場合、裁判官の職権による家事審判扱いになり、調査命令にまわされてしまった。翌六月、彼は津法務局に、子どもの「国籍離脱届」を提出。今度は一週間ほどで、それは受理された。その際、子どもの外国人登録をしかとなすよう指示される。そこで彼は、子どもの住所のある津市役所へ外国人登録の代理申請をする。ところが、津市は、彼が子どもと同居していないとの理由で、申請受理に難色を示した。外国人登録法では、一六歳未満の者の場合、代理申請を規定しているが、代理人は本人と同居している者とされているのだ。

 一方、「氏の変更」の方は、その後、実質的に達成される。「国籍離脱」により、韓国法に準拠する法解釈で、子は自動的に父の姓を名のるとされ、申請そのものが「却下」となったのである。ところが、外国人登録に関しては、代理義務者である昭子が登録を拒否したにもかかわらず、津市は、最終的に十月になって、法務省の指示にもとづき、李在一氏の代理申請を認めないと通告してきた。その結果、彼の息子は、外国籍の定住民なのに外国人登録がなされないという状態になってしまった。

 他方、その間、七月に、昭子は、子どもの親権者を自分に変更するようにと、津家裁に申し立てた。その申し立て書では、李在一氏が「無断で国籍変更したことは、信義則に反する」と主張している。また、かつての離婚調停の際、彼が「一年間だけ親権が欲しいと要求した」とも述べている。この「一年間だけ」というのは、たちどころに判明するようなデタラメである。また、「無断」というのも、はたして、まったくの話し合い拒否という態度を貫いている昭子が、そう主張できる事柄なのだろうか。この申し立て書は、実際のところ、新たに昭子側についたN弁護士が作成したという。李在一氏がこの弁護士に面談したおり、この弁護士は、「まともな親なら、子どもが朝鮮人や部落民と結婚するのを反対するのは当たり前だ」とさえ、言ってのけたという。

 子どもの民族名への変更と日本国籍離脱という李在一氏の行為に対して、疑問をもつ人がいるかもしれない。実際、離婚裁判を見まもった支援者らの中にも、彼の行動は性急ではないのか、あるいは、名前や国籍は、成長してから本人が選ぶべきではないのか、といった意見を表明する人がいた。はっきり批判しないまでも、支援活動から遠ざかってゆく人もいた。何年も中心的な支援者の一人だった大学教員のS氏は、昭子による親権変更申し立てが出てきたのを境に、李在一氏の行動は慎重さを欠き、ついて行けないと、支援の輪から離れていった。また、その後、津市に対する外登法訴訟を起こすべく、弁護を依頼したある弁護士からも、「氏の変更」、「国籍離脱」という行為には疑問があるので、それに起因する裁判への助力はできないと断られてしまう。けれども、こうした沈滞ムードの中でも、李在一氏の考えはいささかも揺るがないかのようだった。支援者の多くが、はたして彼は何を考え、何をめざしているのだろうか、といった疑問を感じながら、じっと彼の言葉に耳を傾けるような場面が多くなった。彼は、何とか自分の内面を表現しようと、たくさんの言葉を発した。彼が、昭子や置野家へのつらあて、といった情念で発想しているのでないことだけは、誰の目にも明らかだったが、彼の真意は容易に理解されにくいものだった。

 彼は、子どもの外国人登録の不受理処分に対して、三カ月以内に不服の提訴を行なうため、準備をはじめた。その過程で、様々な人に新たな支援を求めて、訪ね歩いた。その中で、特に、現一橋大学教授の田中宏氏の助言は、実際に行政訴訟に持ち込むうえで大きな支えとなっていく。田中氏の助言は、「氏の変更」、「国籍離脱」、それに外登法に関わる問題も、離婚裁判以来の連続した差別との闘いだと訴える李在一氏の考え方に、共鳴するような観点からのものだったといえる。

 つまり、彼の闘いは終わっていない。やっと、第二段階にはいったところなのである。やがて、九三年にはいってまもなく、離婚裁判以来のI弁護士や、新たにU弁護士、それに同胞のP弁護士といった人々の助力も得られるようになった。そして、一月、津市を相手取って行政訴訟を起こした。彼の訴状は、

 1)外登法第十五条二項の「外国人と同居する者」という規定は、親権者を排除するものではなく、処分は同法の解釈の誤りによる。

 2)この処分によって外国人登録ができないため、子どもが法律上存在せず、その生存が法律で保障されないような状況にさらされ、住民としての権利を侵害されている。

 3)この処分は、日本国憲法第二十二条「国籍離脱 の自由」の精神を尊重せず、難民条約の「内外人平等の原則」に反し、また、国際人権規約B規約第二十四条の「児童の保護の措置」、「登録される権利」の規定に反する。

などと主張している。特に、1)項については、現に定期的に面接交渉を重ね、子どもの現況を把握している親権者としての李在一氏を、申請代理人から排除する合理的な根拠は何もないはずだ、という考えにもとづいている。これに対して、行政側は、答弁書で事実上、法務省が相手となり、この裁判を全面的に争うと表明してきた。

 真の「勝利」をめざして

 子どもの「氏の変更」や「国籍離脱」という彼の行為の是非については、彼と支援者らの間で何度も論議が続いた。なぜ、民族名を名のらせるのか。名前はまだしも、これからも日本で暮らしてゆくのに、なぜ、わざわざ日本国籍を放棄させるのか。また、彼にそうした行動をとるに至らせた動機は、四月に面接交渉がはじまって、昭子の姿勢がまったく変わっていないことだったのか。

 この最後の点については、必ずしもそうではない。彼は、離婚裁判の最中から、子どもに民族名を名のらせ、民族教育をほどこし、単国籍の朝鮮籍にする必要性を支援者らに語っていたし、そのため何よりも親権の確保を重視したいと表明していた。また、裁判所に提出した「陳述書その三」において、彼は日本の二重国籍制度の手続きを批判するとともに、わが子に一種の民族教育としての家庭教育をほどこす必要性を強く訴えて親権を要求したのだった。だとすれば、離婚裁判における裁判官は、こうした彼の希望をも見越して、彼を親権者とするよう、うながしたわけであろう。それはさておき、面接交渉がはじまってからの昭子の態度も、もちろん影響を与えただろう。しかし、それは彼にとって、それ以前から抱いていた考え、つまり、民族名を名のらせ、日本国籍を放棄させようという、自らの考えの正しさを再確認させるだけのものだったのだ。

 劇作家のつかこうへいは、『娘に語る祖国』という本の中で、在日韓国人の自分と日本人の妻との間に生まれた娘を日本国籍にしたという、自らの選択について述べている。けれども、つかこうへいの選択は、その問題では妻が夫の立場を尊重し、全面的に夫の選択にまかせたという人間関係でのことなのである。それは、民族に優劣の価値観を持ち込まず、むしろ現実にハンディを負いやすい側の立場を優先しようとする人間関係でのことなのである。李在一氏も、昭子が彼の立場を尊重していたなら、子どもの「氏の変更」や「国籍離脱」をしなかったかもしれない。つまり、名前や国籍が何であれ、そうした人間関係の中では、日本人と韓国朝鮮人の関係について、事実に基づいた正しい家庭教育をほどこしうるからである。

 昭子から出されていた「親権者変更申し立て」にもとづく新たな家事調停に関しては、昭子側の主張を見きわめたうえで、九三年二月、逆に、李在一氏から「監護者変更申し立て」で対抗することとなった。それは、調停離婚成立直後から、子どもに彼のことを、「父親ではない」、「ドロボウだ」などと教えるような、昭子の監護者としての、はなはだしい適格性の欠如と、それに、彼が自分自身で子どもを養育する監護環境を充分確保できる、という理由によっている。この監護者変更の申し立て、つまり、子どもを彼が引き取り育てるという申し立ては正当なものだろう。しかし、彼は、それによって、子どもと母親である昭子との絆を断ち切ろうと意図しているのではない。「そんなことは、誰もできない」と彼は言う。彼の息子を生んだ母親は昭子以外存在しない。つまり、どんな差別をもってしても、どんな法律をもってしても、母子の絆も、父子の絆も断ち切ることはできないというのが、彼の考え方である。これまでの昭子側のように、相手を否定し、排除するというのは、けっして彼の考え方ではないのだ。それでは、現実に、彼の息子はどのように育てられるべきなのだろうか。実は、彼がなした、子どもの「氏の変更」や「国籍離脱」という行為は、すべてこの一点に向けられてなしたことだといえるのだ。

 彼の息子は、かりに監護者変更が認められなければ、今後も何年かは、昭子に養育されることになる。だが、昭子や置野家の者は、これまでのいきさつから、今のところ、これからも朝鮮民族への差別意識をもって子どもを教育しようとすることは、火を見るより明かだ。彼が、何としても許せないのはそのことなのである。いくら昭子が、子どもの父親の人格や存在を主観的には認めたくないと思っても、子どもにとって、そんなことは絶対に可能ではありえない。彼の息子は終生、自分が朝鮮人を父として生まれたという自身のルーツを否定することはできない。それをむりやり否定させられたり、偽りを教えられたりすることは、子どもの人格形成にとって、とてつもない不幸だといわざるをえない。彼の息子がそうした不幸には陥らないようにと、何よりも息子のために、彼はなおも闘っているのである。

 では、何と闘っているのか。昭子や置野家と闘っているのだろうか。確かに、形のうえではそうである。しかし、昭子らの非を明らかにし、社会的な制裁を加えさせ、子どもを引き取れば、最終的な勝利なのだろうか。そうではない。彼にとっての最終的な勝利とは、昭子らの民族差別をやめさせることなのだ。昭子や置野家の者たちの意識の中の民族差別を根絶することなのだ。そして、もはや夫婦ではない他人どうしではあるが、一人の人間のまぎれもない父と母として、対等な人間関係のもとで、真に和解し、子育てと教育で協力し合うことが、彼にとっての真の勝利なのである。

 アメリカのフロリダ州では、近年、子どもをもつ夫婦が離婚する場合、離婚後、子育てのうえで二人の親がお互いに守らねばならない約束ごとをその夫婦に理解させ、実行させるために、何時間ものセミナーを受けなければならないと法律で定められ、実施されているという。その結果、そうした子どもたちの人格形成にとって、きわめて良好な成果が観察されているという。李在一氏がめざすものは、こうした状況なのである。それは、決して絵に書いた餅のような空論ではない。

 現在までの昭子や置野家の者らの子どもに対する監護姿勢は、余りにも、朝鮮民族差別と、それと表裏一体の前時代的な「日本人一等国民意識」を背景としたものに傾きすぎているのである。だが、そうではなく、李在一氏の子どもにとっては、朝鮮人を父とし、日本人を母とする子であることを素直に、人間として自然でもあり、また、肯定もできるような育てられ方をすることこそ、いちばん幸福なのではないのか。そして、おとなになって、日本と韓国朝鮮の両方の文化と社会を愛するような、広く豊かな人格をもちうるような生き方をすることこそ、正しい、未来を約束された生き方ではないのか。こうした方向に向けられた監護環境、あるいは、家庭教育を子どもに与えることが、李在一氏のわが子に対する父親としての最も大切な責任と考えているのである。その責任をはたすため、彼は、傾きすぎている「天秤」の一方に「重り」をのせようとしているかのようである。それは、「氏の変更」と「国籍離脱」によって、昭子らに、そして、やがてわが子に、人権と民族間の友愛という思想の大切さ正しさを伝えようとしているのである。昭子らに対しては、「あなたたちの最愛の子は、そして孫は、ただ日本人なのではない、朝鮮人でもあるのだ。なぜ、その事実がわからないのだ。なぜ、それを肯定的に受けとめようとしないのだ。はやく目を覚ましてほしい」ということなのだ。

 そうは言っても、相手が極端すぎる。理想はわかるが、これほど反目し合っているケースでは、どだい無理ではないのか、と考える人も多いかもしれない。しかし、彼はあきらめない。なぜなら、彼の子どものために、自分の人生をかけて闘う者は、彼以外に誰もいない。たとえ相手がどんな相手であれ、彼は運命づけられた自分の立場を投げ出すことも、避けることもできないのである。

 彼は、自分自身の生いたちと結婚生活での経験から、心の中の「天秤」がバランスを失った時、心の拠り所を失い、絶望にすら追い込まれるということを感性の一部として身につけたのかもしれない。というのは、置野家のあれほどの差別に耐え、踏みとどまることができたのも、子どもの頃あれほど反発を感じた彼のアボジの影響があったからだったともいえる。日本で生まれ育った彼には反発さえ感じさせたアボジの朝鮮人としての誇りという、彼にとって重みのあるアボジの記憶がなければ、彼の生命力はどこかで萎えてしまっていたかもしれない。あるいは、自暴自棄になって、見境のつかない行動にはしってしまっていたかもしれない。それを踏みとどまらせ、彼の心の中の「天秤」を真実と正義を信じる方向へ傾けさせたのが、彼もそれまで意識したことのなかった、アボジから受け継いだ精神だったのだろう。

 日本名を名のっても、あるいは、国籍が日本であっても、自分の本当のルーツを否定する差別思想の中で育ち、生活すれば、卑屈な精神しかもてないだろう。差別的な雰囲気に押しつぶされそうになってしまうだろう。それゆえ、彼は自分の息子に、将来どんなことがあっても心の「天秤」がどちらか一方へ、しかも、悪い方の一方へ傾ききってしまうことがないようにと、その精神を伝える準備をはじめたのである。それが、彼の子どもにとっての「氏の変更」と「国籍離脱」の意味なのである。彼の息子は、今後も日本民族の子でもあり、日本の社会で成長していくだろう。そのとき、日本という国に誇りも感じるだろう。将来、ひょっとすると、何らかの判断で法的には日本国籍を再取得するという選択をするかもしれない。しかし、それと同時に、彼の息子は朝鮮民族の子でもあり、そのことに、やはり同じように誇りと自信を感じる精神をもち合わせるべきなのである。

「在日」の親の新たな義務

 すでに述べたように、李在一氏は、不幸な結婚生活と離婚裁判を通じて、彼自身内面的な変化を経験してきた。あるいは、精神的に成長してきたというべきかもしれない。彼は今や「民族意識」をもつようになった。とはいっても、彼は今のところ、ハングルを本格的に習おうというのでもない。朝鮮の歴史をより深く学ぼうというのでもない。チャングや仮面劇などの民族文化に日々なじもうというのでもない。彼の「民族意識」とは、いわば「人権としての民族意識」なのである。それは、世界中のどんな人種や民族にも等しく認められねばならないものであり、人種や民族に関して、その優劣を云々するいかなる基準もありえず、誰もが自らの「人種」を、自らの「民族」を、そして自らの「生」を喜び、感謝することができる神聖不可侵の「人権」をそなえているという意味での「民族意識」である。

 一九七〇年代頃から広がりだした、私たち在日韓国朝鮮人の様々な形の「国籍条項撤廃運動」とは、日本の社会は、在日韓国朝鮮人を排除するか、さもなくば、日本国籍に帰化させ、法的にも実質的にも同化させようとするのではなく、私たちを、真実のありのままの姿で、同じ日本に生きる住民として受け入れよ、という考え方にもとづいて展開されてきた運動だといえるだろう。それは「共に生きる」、「共生・共存」の思想を支えとしてきたといえるだろう。まさに、李在一氏の行動も、それとまったく同じ次元の信念にもとづいたものといえる。

「一方の親が日本人なのだから、もともと日本国籍をもっているのだから、子どもをあえて『制約』のある『不利』な地位におくことはない。それは、子どもの『利益』にならない」という考え方に対しては、「朝鮮籍のそのままの地位で、その『制約』と『不利』を撤廃せよ」、そして「この子に、次の世代を担う人間として、明るい未来と真の国際社会を築く精神と能力を、より多く養いうる『利益』に浴させよ」という考え方を対置させることができるだろう。

 この何年かを通じて李在一氏は変わり、より強靭になってきた。徐々に力をえてきた。その力の源は、彼が、わが子のために最も大切と考える「在日」の親の新たな義務をはたそうとする精神力から発しているように思えてならない。「在日一世世代」は、屈辱にまみれながら、「誇り」と「生」の大切さを伝えることに全身全霊を打ち込んだ。「二世世代」は、私たち「在日」が成長し、力をつけるための社会的、経済的土台を築く役割をはたしてきた。そして、「三世世代」が中心となりつつある今日、次の世代に対しての「在日」の親の新たな義務は、この日本社会から、韓国朝鮮人差別を一掃することだろう。私たち在日韓国朝鮮人が、誰もが本来の名をなのり、真実のありのままの姿で、自然に、日本人と対等な人間関係を築いていけるような日本社会に変えてゆくことだろう。何世代にもわたって、同じことを繰り返させてはならない。これからの「在日」の親は、これまでの世代の努力に負いながらも、また、それに報いるためにも、新たなステップを踏み出さねばならない。次の世代を担う私たちの子どもたちに、のびのびと、自由に人生を謳歌できる社会環境を残すため、さらに踏み出さねばならない。今、そのために努力しなければならない。しかも、そうした私たちの努力に、手を貸してくれる日本人もたくさんいるのだ。李在一氏の生き方とその闘いからは、こうした思いを強くさせるメッセージが伝わってくるのである。


【李在一さん親子にひきつづく支援を!結婚と教育における民族差別と闘う会】

連絡先 三重県上野市下郡五三の三   竹本 昇

郵便振替 名古屋三の一二六二六四