<書評> 福岡安則著『在日韓国・朝鮮人』中公新書,1993年
金明秀
本書は、『異化と同化のはざまで』、『ほんとうの私を求めて』に続く、「在日聞き取りモノ」三部作の総括編である。社会学的関心から本書にあたる場合、前二作との関連で目を引くのは、やはりアイデンティティ論の展開であろう。
著者は、在日朝鮮人の青年層を対象とした聞き取り調査に着手して以来、これまで実に四通りものアイデンティティ論を提示してきている。そのうち三つについては、名称に若干の変遷はあるものの、当初より発想自体は一貫しており、大きな変化はないといってよいだろう。一つは、初作のタイトルにも見られるように、「異化/同化志向」である(以後T1と称する)。そして次に、「無葛藤/葛藤/脱葛藤型」というモデル(T2)があり、さらに脱葛藤型から発見的に抽出される類型として、「祖国/共生/個人/帰化志向」の四タイプ(T3)を取り上げている(本書ではこれに「同胞志向」が加わる)。これらに加えて、本書では新たに日本社会への「同化意識」の強弱という尺度(T4)が導入されている。はたして、これら四つのアイデンティティ論は、それぞれどのように関連するのだろうか。また、「若い世代のアイデンティティ」を論じるにあたって、本当に四通りもの議論が必要なのであろうか。
これら四つのアイデンティティ論のうち、T1とT3については、『解放社会学研究6』の書評欄で石川准氏が関連を質問したことをうけて、筆者のリプライがあった。リプライの内容を要約すると、T1でいう「同化志向」は、T3の「帰化志向」に相当し、T1の「異化志向」は、T3の「祖国/共生/個人志向」すべてを包摂するものだということであった。だとすれば、このリプライは二つの意味で問題点を孕んでいると言わざるをえない。まず一つには、T3はT1をさらに精緻化したモデルだということになり、T1の必要性はなくなる。つまり、二通りのアイデンティティ論が存立する正当性に、筆者自ら矛盾を持ち込んでいるわけである。そして第二に、そもそもT3は、「朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度」と「日本における自己の生育地への愛着度」という二本の軸によって構成されたアイデンティティ類型であるにもかかわらず、これらとT1の「異化/同化志向」という概念軸との整合性が、まったく語られていないということである。
これに対して本書では、この二つのアイデンティティ論は「議論の水準が異なる」(p.105)と言い直されており、また、この矛盾点を回避するために新たな方策が採られている。それがT4、すなわち日本社会への「同化意識」の強弱という尺度の導入である。
T4は、T3のタイポロジーの中に、“日本人”“本国の韓国人・朝鮮人”を両極とする直線を引くことによってつくられるが、これに各志向性から垂線をおろすことによって、それぞの志向性をこの一次元の尺度に還元することが可能だとしている。そしてこの尺度の強弱は、T1の強弱とほぼ同等に想定できると説明している。しかしここでもやはり、「朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度」と「日本における自己の生育地への愛着度」という二本の軸によって構成されたT3を、いったいなぜ、また別のアイデンティティ論に還元しなければならないのかということについて、一切の合理的な説明がなされていない。間接的には、<「在日」という磁場>の存在を強調するためとも取れるが、ここでは「カテゴリー」論から「尺度」論へという、非常に大きな次元の転換を伴っていることを考えると、いっそう積極的な議論が必要だったと思われる。
しかし今回、このような尺度が導入されたことにより、ここまでに述べてきたようなアイデンティティ論の混乱が、何に由来するものだったのかは明確になったように思われる。それは、筆者による「カテゴリー」と「尺度」の混乱である。
社会心理学の常識から言えば、人間の潜在/顕在的な態度の「尺度」とは、正規分布に代表されるような、中心に山を形成する分布をとる。いわば求心的な分布である。それに対して、「カテゴリー」が読者の認知にプレゼンテーションするのは、各軸あるいは各セルの極に山を形成するような、いわば遠心的な分布である。現実の分布の在り方と、分析者のプレゼンテーションのやり方との間で「議論の水準が違う」のは、当然のことである。しかし筆者は、T1を尺度としての性質を持つ概念であると想定すると同時に、これを遠心的に二極分解するものとしても考えてはいなかっただろうか。このように考えると、『解放社会学研究6』ではT1をカテゴリー論の中で論じながら、一方で本書では尺度と同等に想定できると説明されたことにも納得がいく。加えて言うならば、最初からT1が本書で論じられたように、尺度として想定されるものであるならば、T4などという新たな混乱材料を導入する必要は、全くなかったと言えるのではないだろうか。
さて、ここで筆者がこれまでに提出してきた多様なアイデンティティ論全体の関係を考えてみよう。まずT2だが、「無葛藤/葛藤/脱葛藤」という概念軸は、環境の複雑性に対処する上での心理学的な機能とでも言うべきものであろうか。仮にそうならば、いくつかのアイデンティティ論の中でも、もっとも基盤を形成するものだと言えよう。次に、マジョリティという準拠集団を導入することによって、T1つまり「異化/同化志向」という社会学的概念が構成される。これは、マジョリティに対処する上での、文字どおり「志向性」であるため、過程を記述するのに有効な「尺度」になっている。そして、この概念を「尺度」だと想定する限りにおいて、T4は不要である。最後にT3の「祖国/(同胞/)共生/個人/帰化志向」という各類型は、エスニック・アイデンティティのある程度安定した顕在形態を抽出したものだと考えられる。したがって、構造をプレゼンテーションするのに有効な「カテゴリー」になっている、という感じであろうか。
筆者が提出してきたアイデンティティ論を、私が勝手に整理しても仕方がないし、第一、失礼なことは承知しているが、少なくとも以上のように考えると、T1〜T3のアイデンティティ論については存立の正当性を確認できるように思われる。以上の議論について、筆者のリプライを期待したい。
さて次に、三部作のサブタイトルに冠せられている「若者世代」と「二世三世」という表現について、若干の疑念を呈しておきたい。そもそも筆者は、「若者世代」の年齢分布をどのように認識しておられるのだろうか。
例えば、民闘連の結成メンバーである李敬宰氏(Pp.108-119)などは、典型的な二世コーホートに属する方である。本書が出版された時点で、39歳と10ヶ月、確かに、民闘連が結成された70年代には、「若者」だったであろう。筆者の福岡安則氏が、一世達と同世代に属するということならば、彼を「若者」と表現することもなんとか理解できないことはない。しかし、一般的な若者像に照らしてみるならば、もはや二世世代を「若者」と呼ぶことは、妥当だと言えないだろう。
この点で、一世に主導される形で「在日」社会につくられてきた民族的価値観の呪縛に、観察者である筆者自身が、囚われているのではないだろうかという疑念を、拭いさることができないのである。
最後に、社会学徒としての立場をやや離れて、コメントを申し上げたい。私が理解した限りでは、終章(「共生社会の実現のために」)の論調に、在日朝鮮人社会にたいする遠慮のようなものが感じられた。例えば、筆者が終章で提言していることは、1)戦後補償と人権補償の抜本的実施、2)ちがいを認めあうこと、の二点であり、これらが日本人にたいして(のみ)述べられたものであることは明白である。しかし、ちがいを認め「あう」ことによって、「共」生社会を実現するためには、日本人側だけでなく、朝鮮人側の努力が必要なはずである。つまり、朝鮮人の側に、民族的な主体性あるいは自尊心が必要なはずである。なのになぜ、日本人のみにたいしての提言というスタイルをお取りになったのだろうか。
あくまで私個人の見解であるが、日本人と朝鮮人が「ちがいを認めあう」には、単なる理念の提示に留まらず、双方を視野に含めた、具体的な「多民族教育」「多文化教育」の実践が必要であろう。
(金明秀/大阪大学大学院・日本学術振興会特別研究員)
本稿は『解放社会学研究』第8号(1994年)に掲載されたものです。本稿の全文を著者に無断で転載または引用することを禁じます。