差別とエスニシティの潜在的因果構造
――在日韓国人青年を事例として――

金明秀
Myung-Soo KIM




1 はじめに

 1950年代までのエスニシティ研究(1)は,差別論の下位テーマでしかなかった。同化や人種融合を理想とする一部の“リベラル”な研究者たちによって,理想的な人種・民族関係の実現を阻む要因――たとえばホスト社会側の差別や偏見,民族的マイノリティ側の出自民族文化――を究明することがもっとも重要な課題とされていたにすぎず,エスニシティそれ自体が研究対象になることは皆無に等しかった。

 ところが,1960年代に入ると一転して,エスニシティ研究は多数の専門研究者を擁する研究市場へと急速に成熟するとともに,さまざまな議論と理論化の試みを産み出すまでになった。その理由は周知のとおり,移民後の世代交代がすすんでも「溶け合えない民族」の存在が明らかになり,「人種のるつぼ」が克服すべき幻想として論じられるようになったこと,そして,旧来の社会科学的な予想に反してエスニック・リバイバルという民族的現象の拡大趨勢が広範に観測されるようになったこと,などである。つまり,エスニシティ研究の動因,ないし根源的な問題関心は,マルクス主義的な予測も機能構造主義的な視角も越えて出現したエスニック・リバイバルという現実を説明することであったと言えよう。

 しかしながら,エスニシティの形成原理,つまり,エスニシティはなぜ予測に反して活性化しうるのかということについて,これまで十分に検討されているとは言いがたい。というより,多くの説明は,1950年代までの差別論的なエスニシティ研究の呪縛から逃れられていないように思われる。というのも,なにがエスニシティを形成し活性化させるかという議論において,もっとも古典的で,しかしいまなおもっとも一般的に信じられている主張は,差別や不平等をその最大の契機とするものだからである(以下,同化・反動理論とする)。ようするに,エスニシティにもとづく差別や不平等があるから人はエスニシティを意識せざるをえない,という発想である。

 こうした主張にたいして,これまでにもさまざまな批判が投げかけられてきたことも事実だが[e.g., Yancey et al. 1976],一方で,多くの論者の率直な共感をえて,姿形を変えながらくり返し根強く主張されてきたということも確かである。

 たとえば,近年においてこうした主張の代表として取り上げられてきた研究に,M.ヘクターによる一連の著述がある[Hechter 1974, 1975, 1978, 1987]。彼の主張の要諦は,産業化の進展にともない民族間の経済的・社会的支配関係が固定化されるが,その支配関係を認知することによって民族的マイノリティは相対的剥奪感を高め,結果として仲間意識や結束を強くするというものである。

 同様の論旨は,なにも欧米のエスニシティ研究に求めなくとも,在日朝鮮人社会においてエスニシティの活性化が議論される際,頻繁に語られている。たとえば,“いま以上に差別がなくなると,いっそう民族意識が希薄化する。したがって,在日青年の民族性を活性化させるためには,ある程度の差別は残っていたほうがよいのだ”というものである。最近の運動課題で言えば,地方自治体の参政権や公務員就任権を求める運動に反対する層に,比較的多く聞かれる。

 しかしながら,筆者らが実施した調査データは,こうした主張とは真っ向から対立する結果を示していた[金明秀 1995b]。すなわち,差別や不平等は,在日韓国人青年のエスニシティを形成するうえで,ほとんど影響をもたなかったのである(2)。いったいなぜ,今日にいたってもなお多くの支持者をもつ同化・反動理論の発想が,在日韓国人青年のデータに適合しなかったのであろうか。あるいはなぜ,同化・反動理論はこれまで在日朝鮮人を納得させてきたのであろうか。

 こうした疑問にこたえるため,本論文ではあらためて差別とエスニシティとの因果的関係を実証的かつ詳細に検証したい。そのために,(1) まず先行する理論研究を吟味することによって,差別とエスニシティ形成にかんする因果的モデルを再構築する。(2) ついで,その因果的モデルに調査データを適用することによって,被差別体験とエスニシティの間の潜在的因果関係を特定する。(3) そして最後に,在日韓国人青年のエスニシティ形成を論じるうえで,同化・反動理論がどれほどの相対的重要性をもちうるのかを再検討する。

2 差別とエスニシティの理論1――相対的剥奪感

 国内植民地論ないし文化的分業論として知られるヘクターの理論は,大きく3つの命題によって構成されている。それは,(1) 産業化の進展にともなう文化的分業(3)の固定化,(2) 文化的分業を認知することによる相対的剥奪感の高揚,(3) 相対的剥奪感の高揚に起因する民族的自覚の活性化,である。彼の一連の研究は,単なる理論的検討にとどまらず,歴史的,計量的データをつうじた広範な検証作業をともなっていることにより,高く評価されてきた。とりわけ,上記の命題1については,ヘクター自身の分析を含めて妥当する事例は多く,命題としての妥当性は広く確認されていると言える。

 しかし一方で,3つめの命題についてはヘクターの実証性に疑問を投げかける論者も多い[Ragin 1977, 1979, 1987; Nielsen 1980, 1985; Olzak 1982, 1992; Portes 1984]。たとえば,これまでもっとも強硬に批判を続けているS.オルザックは,アメリカの時系列データ(4)を用いたイベント・ヒストリー分析によって,「不平等が縮小する時期にこそエスニック・ムーヴメントは活性化する」という命題を実証している。また,C.C.レイガンは,ヘクターと同一のセンサスデータを用いながら正反対の結論を導出し,ヘクターの分析の不備を指摘している。とはいえ,これらの批判が,理論の本質を揺るがすような決定的なものであるとも思われない。それは,ヘクターが近年の著書において,一定の欠点は認めつつも全体的には彼の理論が妥当なものだと主張する余裕があることからも理解できよう[Hechter 1987]。最大の批判者のひとりであるレイガンも,文化的分業とエスニック・ムーヴメントの関係が確認される時期ないし事例を確認しており,一定の制約のもとで説得力をもちうる可能性は否定されていないのである。

 このような水掛け論に似た事態が生じた理由は,一般に,各民族集団の相違に求められることが多いようである。つまり,「現実の人種・民族・エスニシティ現象−−第3世界から先進国を含めて−−そのものが極めて複雑で多様性に富むという事実を反映している」[関根 1994:172]という論拠である。しかし,理論の有効性が不明瞭だからといって,その原因を安易にサンプルの問題に帰すのは,やや拙速にすぎよう。エスニシティの多様性自体を否定するつもりはないが,第2の命題にあるとおりヘクターの理論においては相対的剥奪感の高揚が不平等とエスニシティを連結する重要な要素であるにもかかわらず,それをモデルに含んだ実証的研究は,筆者の知るかぎりこれまで一編も提出されてはいないのである(5)。相対的剥奪感の効果が実証面で確認されていない以上,かりに文化的分業とエスニシティの関連が観察されたとしても,逆に観察されなかったとしても,両者のあいだの因果関係は推定するしかなく,いわば相関関係の有無が特定されるにすぎない。ヘクターの理論にはマクロ・データを用いた傍証しかなく,ヘクター自身によって検証されてもいないし,彼の批判者によって反証されてもいない段階にあると言うべきである。

 したがって,いま差別や不平等とエスニシティの関係を考えるにあたって必要な作業は,相対的剥奪感を実証的モデルに組み込み,その媒介効果を特定することにある。かりにそれが確認されるならば,在日韓国人青年のエスニシティ形成を説明するうえで,同化・反動理論が一定の有効性をもつということになる。逆に,それが確認されないならば,在日朝鮮人社会に流布する同化・反動理論的な解釈は,やはり神話にすぎないということを意味する。

3 差別とエスニシティの理論2――民族的劣等感

 差別とエスニシティの関係を考えるにあたって,同化・反動理論の射程には含まれない論点がひとつある。それは,古くから社会心理学的なマイノリティ研究で論じられてきた,自尊心 self-esteem というテーマである[Rosenthal 1987; Hutnik 1991]。

 たとえば,G.M.ブレイクウェルは,「脅迫」という概念をベースとしたアイデンティティ論の新たなアプローチのなかで,自尊心とエスニシティの関連について議論を試みている[Breakwell 1983]。

 「脅迫」とは,「ある人の個人的ないし社会的アイデンティティを攻撃するあらゆる考え,感情,行動,経験」のことであり,その種類には「個人への打撃」「集団への所属についての打撃」「所属集団への打撃」の3通りがあるという。個人への打撃とは,個々人の有する資質に劣等的な価値を付与するものであり,たとえば身体障害者は典型的な標的になりやすい。一方,民族的マイノリティ−−とりわけ在日朝鮮人のように不可視的な民族的集団の場合−−が直面しうるのは残る2つ,とりわけ出自集団への所属が劣等視されることによって,自尊心になんらかの傷を受けるというパターンである6)。すなわち,民族的差別や偏見などが,在日韓国人青年にとって典型的なアイデンティティへの脅迫となる。

 そして,アイデンティティへの脅迫を受けた者が示す反応として,ブレイクウェルは,「再解釈 reconstrual」「移動と変革 mobility and change」「慣れ inertia」という3通りの可能性を論じている。

 再解釈とは,アイデンティティに加えられる脅迫を“意味のないものだ”と思いこむことにより無害化する,あるいは自己概念のほうを変化させる――たとえば,防衛的に自尊心を強化させたり,在日朝鮮人であることは恥ずかしいことなのではなくむしろ誇るべきことだと自覚したりする――ことによって脅迫を無価値化する心理的プロセスである(7)。移動と変革とは,居住地や社会的地位を移動することによって脅迫を受けにくくしたり,あるいは脅迫のソースが特定個人の場合には説得を,集団の場合には対抗的な集団行動を起こすことによって影響力を除去しようとする社会的プロセスである。

 そして,物理的ないし社会的な移動が困難であり,かつ再解釈も困難な場合,とりあえず現状に慣れようとする,あるいは状況が改善されるまで我慢しようとするということも十分にありうることである。これが慣れの状態である。

 さて,この3つのプロセスないし状態を,エスニシティの形成という視点で実証可能な命題へと読みかえるならば,どのようになるであろうか。まず再解釈のプロセスは,アイデンティティに脅迫を受けることによって生じた民族的劣等感が,結果としてエスニシティを高揚させる,という可能性を論じたものである。また,変革のプロセスについても基本的に再解釈と同じく,民族的劣等感を経てエスニシティの高揚に帰結するという命題を導出できる。両者の違いは,再解釈がおもにエスニシティの心理的な側面にかかわる過程であるのにたいして,変革はおもに行為の発現にかかわる過程であるということである。それにたいして,慣れの状態にあっては,アイデンティティへの脅迫および民族的劣等感が持続するため,エスニシティからの忌避ないしマージナル・パーソン化を意味する(8)

 つまり,ブレイクウェルの議論を検証するには,被差別体験によって生じた民族的劣等感が,エスニシティの形成に正ないし負の影響をおよぼすことを確認する必要がある。かりに正の影響が確認されれば,在日韓国人全体として再解釈ないし変革のプロセスが支配的であり,負の影響が確認されれば,慣れの状態が一般的だということである。そして,どちらの影響も確認されなければ,正負の影響が同程度に混在しているか,そもそも民族的劣等感によってエスニシティは左右されるものではないということを意味する。

4 データ

 本論文で用いるデータは,「1993年在日韓国人青年意識調査」である。調査の概要および分析に用いる変数については,調査報告書[福岡・金ほか 1994]および拙稿[金明秀 1995a, 1995b]を参照していただくとして,ここでは新たに導入する2つの概念,すなわち「相対的剥奪感」と「民族的劣等感」の測定内容を論じておく。

 まず,相対的剥奪感を代表する指標は,以下に述べる5つの設問であり,それぞれ「そう思う」から「そう思わない」までの5点尺度によって構成されている(9)

 これらの指標が単一の概念を代表するものとして妥当であるかを確認するため,主成分分析をおこなった。結果は表1に示したが,(1) いずれの指標も0.7前後の負荷でバランスよく概念を代表していること,さらに (2) 第1主成分によって全分散の51.8%が説明されており,5変数から単一の尺度を構成することが妥当であること,という2点が確認された。以後,相対的剥奪感とはこの5変数によって構成された概念のことを指す。

表1 相対的剥奪感の主成分分析
変数負荷量主成分固有値寄与率
暮らし向き0.65612.59151.8
社会の仕組み0.72720.7615.2
固有の文化0.72130.69413.9
社会保障0.77040.54911.0
教育0.72050.4078.1

 一方,民族的劣等感のほうは単一の指標によって測定されている。具体的な質問文は,「あなたはこれまでに,在日韓国・朝鮮人である自分をいやだと思ったことがありましたか」というものであり,「とてもよくあった」から「まったくなかった」までの5点尺度によって構成されている(10)

5 分析1――エスニシティ形成のパスモデル

 被差別体験とエスニシティ(11)の形成過程のあいだに相対的剥奪感と民族的劣等感を媒介させた構造方程式モデル(12)を表2のとおり構成した。表下部に示した適合度の各指標は,AGFIがやや低めに出ているほかはいずれも経験的基準を満たしており,このモデルが実測値にたいして無理のないものであることが確認される。そこで次に,推定値の具体的な内容を検討していくことにする。

 まず,表2のタテに配置した変数群,すなわちモデルの外生変数が,本論文で導入した媒介変数である相対的剥奪感と民族的劣等感にどのような影響を及ぼしているかについて確認しておこう。相対的剥奪感の形成にもっとも大きな効果を示しているのは,被差別体験(γ=.314)である。他のさまざまな要因をコントロールしてもなお,在日韓国人青年が日本社会にたいして抱く相対的な不満や怒りは,被差別体験の多寡によって規定されているということである(13)。同化・反動理論の命題の一部については,ここで在日韓国人青年のデータにも妥当することが確認されたと言えよう。

表2 心理的媒介変数を導入したエスニシティ形成のパスモデル
相対的剥奪感 民族的劣等感 関係志向 主体志向
年齢 .054 .001 -.083* .089*
性別 .033 .002 -.011 .016
成育地域同胞数 .003 -.039 -.001 -.002
出身社会階層 -.043 -.018 .084* .034
家庭内伝統性 .191* -.231* .479* .131
教育年数 .103* -.003 .040 .214*
民族教育 .020 -.159* -.009 .420*
民族団体参加 .052 -.001 .248* .252*
被差別体験 .314* .323* .085* .067
相対的剥奪感 .178* .134*
民族的劣等感 -.289* -.093*
相関係数を入力した最尤法による構造方程式モデル。*は統計水準5%で有意。
N=540 χ2 / d. f. = 655.63 / 305=2.15 GFI= .924 AGFI= .891 RMR= .040
関係志向の決定係数R2= .672  主体志向の決定係数R2= .696

figure1
図1 エスニシティ形成のパスダイアグラム

 民族的劣等感にたいするγ係数も,相対的剥奪感と同じく絶対値のもっとも大きなものは被差別体験(γ=.323)である。まずこのことから,在日韓国人青年にとって,被差別体験がアイデンティティへの脅迫として機能しているということが確認できる。他に民族的劣等感を規定する力の大きなものとして,家庭内民族的伝統性(γ=-.231)と受けた民族教育の程度(γ=-.159)が続いている。これらの符号はマイナスを示しており,民族的劣等感を抑制・軽減する方向で機能することを意味する。同程度に被差別体験をもつ場合でも,家庭内で民族的な文化と接触しつつ成育したり,民族教育を受ける機会に恵まれているほど,アイデンティティに打撃を被る度合は少なくてすむということである。若い世代の在日朝鮮人を対象とした民族教育は,自尊心の確立を主目的としており(14),その効果の一端があらわれた結果であると見ることもできよう。

 以上の結果をとおして,被差別体験がホスト社会への相対的剥奪感を高揚させる働きをもつということ,そしてアイデンティティへの脅迫として機能するということが確認された。そこで次に,モデルの内生変数の因果関係,つまり,相対的剥奪感や民族的劣等感がエスニシティを形成するうえでどのような効果をもつのか,を確認することにしよう。

 まず,相対的剥奪感が,関係志向的エスニシティと主体志向的エスニシティ双方にたいして一定の正の影響力(β=.178, .134)をもっていることが確認できる。在日韓国人青年のデータにおいても,同化・反動理論が主張するように,相対的剥奪感の強さがエスニシティの形成を左右するという側面が認められる。

 そして,民族的劣等感は,関係志向にたいして強めの負の影響力(β=-.289)をおよぼしていることが示されている。ブレイクウェルは,脅迫への対応のありかたとして,再解釈,移動と変革,慣れという3つの可能性を論じたが,在日韓国人青年全体としては,慣れによる対応が支配的であるということになる(15)。図1は,以上の因果関係のイメージを模式的にあらわしたものである。

 ここまでの分析により明らかになったことを,あらためて整理して示すと以下のようになる。(1) 被差別体験は,在日韓国人青年のエスニシティ形成にたいして,相対的剥奪感を媒介とする間接的な因果的影響力をもつ,(2) 被差別体験は,在日韓国人青年のエスニシティ形成にたいして,民族的劣等感を媒介とする間接的な因果的影響力をもつ,(3) 被差別体験から在日韓国人青年のエスニシティにたいして明確な直接の影響力を確認できなかったのは,相対的剥奪感と民族的劣等感を媒介とした正負の影響力が,たがいに相殺しあっていたためである。

 そして以上の結果は,(1') 在日韓国人青年のエスニシティ形成を論じるうえで,同化・反動理論的な発想が一定の説明力をもっている,(2') 在日韓国人青年はアイデンティティへの脅迫にたいして,慣れによって対応する状態が一般的である,(3') 1'と2'のいずれも,事実的側面の一端しか説明していない,という3つの含意を導くことになる。

6 分析2――各形成要因のマグニチュード

 以上のように,相対的剥奪感と民族的劣等感という2つの心理的媒介変数を導入することにより,被差別体験とエスニシティのあいだに潜在していた因果的関連を発見することが可能となり,さらにはなぜ両者の因果的関連が潜在していたかが判明した。言い換えると,在日韓国人青年のエスニシティ形成を論じるうえで,被差別体験が一定の有効性をもつことが明らかになったわけである。

 しかしながら,これはあくまで一定の「有効性」を確認できただけであって,どれだけの「重要性」をもつかということを意味するものではない。形成要因としての重要性を確認するためには,他の説明変数との間で,影響力の総合的な大きさを比較する必要がある。はたして,被差別体験がエスニシティ形成におよぼす相対的な影響力の大きさは,どの程度のものなのであろうか。

 一般に,パス解析においてこうした影響力総体の大きさを判断するとき,直接効果と間接効果の総和である「総効果」が求められる。しかし,正負の符号をもつ直接効果が混在する場合,値を加算する過程でそれらが相殺しあうため,因果的影響力の総合的な大きさとして「総効果」を判断の材料に用いることは困難となる。そこで,今回のデータについては,間接効果を算出する際に直接効果の絶対値を用いることにした。表3が,そのようにして算出した因果的効果のマグニチュードである(16)

 まず,被差別体験は主体志向的エスニシティよりも関係志向的エスニシティにたいして大きな因果的マグニチュード(.234)をもっている。しかし,その関係志向的エスニシティにたいしてさえ,家庭内の民族的伝統性のマグニチュード(.580)に遠くおよばず,また,民族団体への参加・接触経験(.258)に比べてもなお小さな値である。さらに主体志向的エスニシティへの因果的マグニチュード(.139)では,受けた民族教育の影響力(.437)にはるかおよばず,また,民族団体への参加・接触経験(.259)や教育年数(.228)をも大きく下回っている。

表3 各形成要因の因果的マグニチュード
関係志向的エスニシティ主体志向的エスニシティ
年齢0.0930.096
性別0.0170.021
成育地域内同胞数0.0130.006
出身社会階層0.0970.041
家庭内伝統性0.580.178
教育年数0.0590.228
民族教育0.0590.467
民族団体参加0.2580.259
被差別体験0.2340.139

 この結果を踏まえるならば,被差別体験による因果的効果を最大限に導きうる相対的剥奪感や民族的劣等感といった媒介変数を導入してもなお,結局のところ,被差別体験の因果的影響力は,他の要因に比較してその重要性は低いと結論づけざるをえない。

 もっとも,関係志向に対する総効果についてはさほど低い値ではないため,一概にその重要性を否定することは困難である。しかし,差別や不平等のみをエスニシティ形成の要因とする理論構成は,こと在日韓国人青年のケースにおいては,きわめて妥当性が低いということも容易に理解されよう。

7 議論

 本論文では,今日まで多くの人びとを惹きつけてきた同化・反動理論の発想が,なぜ,在日韓国人青年のデータに適合しなかったのかを確認するため,より詳細な理論的,実証的検討をおこなってきた。結果として,たしかに同化・反動理論の主張を裏付ける潜在的因果関係は確認されたものの,それは,被差別体験がエスニシティ形成におよぼす効果の一部でしかなく,しかも被差別体験の効果自体,相対的重要性は低いということが明らかになった。この分析結果をふまえて,ふたたび理論研究に議論をフィードバックするならば,どのようなことが言えるだろう か。

7-1 差別研究とエスニシティ研究

 第1に指摘しなければならないことは,エスニシティ研究と差別研究との基本的な論点ないし射程の違いである。従来の在日朝鮮人研究は,差別研究とエスニシティ研究とを,安易に混同してきた経緯があったとは言えないだろうか。

 この問題に関連する興味深い議論が『解放社会学研究』8に掲載されているため,まずはそれを紹介しよう。福岡安則[1993]にかんする「書評×リプライ」である[中根 1994; 福岡 1994]。

 中根光敏による書評の主要な論点は,「どうして私たち社会学者は〈在日韓国・朝鮮人のアイデンティティ〉に対して,恥じらうことも倦むこともない強烈な関心を抱き続けるのだろうか?」という言明に集約される。つまり,そうした問題構成の妥当性を前提なしに受け入れてきた氏みずからを自問しているとともに,福岡がその点についていっさい論及していないことを批判しているわけである。それにたいする福岡のリプライは,「在日韓国・朝鮮人の若者たちを対象とした調査を実施しようとするかぎり,アイデンティティの問題は,理屈ぬきで調査するにあたいする〈与件〉なのだ」というものであった。

 両氏による素朴な問題関心の応酬を字義通りにとらえるならば,これで議論はいちおうの対応と終息をみたと言えるかもしれない。だが,差別研究とエスニシティ研究との関連という視点から読むかぎり,両者の議論は一度もかみ合うことなく終わってしまっているだけでなく,ある重要な問題を喚起している。

 いま一度,中根がどうして「アイデンティティという問題構成」に疑問とこだわりをもったのかを考えてみよう。彼は,自分の〈日本人としてのアイデンティティ〉を疑ったことがないという論拠で,〈在日韓国・朝鮮人のアイデンティティ〉という問題構成の唐突さに違和感を表明している。だが,わずかでもアイデンティティ論を学んだことのある者なら,そのような論点を本気で提示するはずもなく,おそらくは議論の異化効果をねらったにすぎないと考えられる。むしろ,中根が一貫して差別論との関連でこのことを論じていることからすると,「アイデンティティという問題構成」をとおして,差別研究の枠を逸脱してしまっていることを感じ取っていたのだと推察すべきであろう。図2に記した直線矢印がそれである。つまり,被差別体験と民族的劣等感の関連に研究テーマを限定するかぎり,それは差別研究の範囲(A)におさまっているものの,民族的アイデンティティ一般を射程内にとらえた途端,差別研究の枠を越えてエスニシティ研究の一部(a∩B∩C)を内包することになるという問題である。

figure2
図2 差別研究とエスニシティ研究の射程

 しかしながら,中根は自分自身が感じたであろう違和感の所在を,どうやら自覚していなかったように思われる。というのも,彼は「『在日』の特に若い世代のアイデンティティの状況を把握したい」という認識を提示しておきながら,一方で,「差別問題研究の視点から在日韓国・朝鮮人問題を取り上げる」ということを議論の出発点に据えているのである。いったいなぜ彼は,被差別性に限定されない民族的アイデンティティのありように思いが及ばなかったのであろうか。なぜ,アイデンティティという問題構成の問題には気づいても,差別研究という問題構成の問題に気づくことがなかったのであろうか。

 同じことが,福岡のリプライにも指摘できる。福岡は,在日朝鮮人を研究するにあたって,民族的アイデンティティを中心的な課題とすることを「与件」としているわけだから,スタート時点から差別研究ではなくエスニシティ研究のはずである。また,理論研究にとっては,“なぜアイデンティティを論じるのか”という問いが重要であるとの認識を提示していることをみると,差別研究とエスニシティ研究の射程の違いについて,どこかで気づいていると思われる。にもかかわらず,彼は,差別研究から出発するという中根の第1の認識に一定の同意を表明しており,さらには,「同化と異化のはざまで」や「『在日』という磁場」という概念は,在日朝鮮人のマイノリティ性やマージナル性を説明するために提示したものだと言及している。こうした言明から推察するかぎり,福岡もまた,エスニシティを論じるときに差別研究というスタンスを大前提とすることの矛盾を自覚していないと思わざるをえない。

 両者の議論の空回りは,エスニシティを論じるときに,差別研究からスタートするという前提をおくことの危険性を示唆している。もちろん,被差別体験などの脅迫によって,在日韓国人青年がアイデンティティに打撃を被っているという結果が示されている以上,この領域で差別研究が必要であるということは論をまたない。とはいえ,それをエスニシティと関連づける視点は,かならずしも中心的なテーマとはなりえないことを,データは示していたのである。同化・反動理論的な発想は,ひとつの有効な視点ではあっても,それのみによって在日韓国人青年のエスニシティ形成を説明することはできないということを,ここで強調しておきたい。在日朝鮮人のエスニシティを十全に論じるためには,差別もひとつの体験にすぎないということを,はじめに自覚しておく必要があると言えよう(17)

7-2 エスニシティ形成とエスニック・リバイバル

 本論文の分析結果を受けて,第2に指摘すべき点は,従来の社会学的エスニシティ研究においては,民族的劣等感を経由してエスニシティを忌避する側面ないしプロセスが無視されてきたのではないか,ということである。

 同化・反動理論も,その対抗として登場してきた民族的競合理論(18)も,差別や不平等とエスニシティの因果的関連について論じてはいるが,社会心理学的なマイノリティ研究が議論してきたように,自尊心に打撃を被ることによってエスニシティを忌避するというプロセスを視野に含んではこなかった。

 本論文における在日韓国人青年のデータは,差別とエスニシティをむすぶ2つの潜在的因果関係を浮き彫りにした。すなわち,相対的剥奪感の高揚をつうじてエスニシティを活性化させるプロセスと,民族的劣等感の形成をつうじてエスニシティを抑制させるプロセスである。在日韓国人青年の調査データをどこまで一般化できるかはまだ未確定なところもあるが,今後のエスニシティ研究においては,この両プロセスを視野に含むことが望まれよう。

7-3 媒介変数に関するその他の論点

 媒介変数自体の因果的影響力について,ここまで積極的に論じてこなかったが,いくつか興味深い点がある。まず,ヘクターの理論は,エスニシティの内実として主体志向的側面に注目しており[関根 1994:133-4],それが相対的剥奪感によって高揚すると主張する。ある種の“不満”や“怒り”をもつ者が,手段的な志向性を強めるという発想は,地位の非一貫性と革新政党支持の議論を持ち出すまでもなく,いわば常識的に理解されることであろう。にもかかわらず,相対的剥奪感の影響力は,主体志向よりもむしろ関係志向にたいするほうが強かった。言い換えると,在日韓国人青年の場合,日本社会に対する“不満”や“怒り”は,手段的な志向性よりも,民族的な愛着(関係志向)への回帰という形態でより強く顕在化するのである。本論文の分析結果によると,ヘ クターの理論的含意は一面の真理を説明しうるものではあったが,相対的剥奪感による媒介効果は,ヘクターの議論に還元されない説明を必要としている。在日韓国・朝鮮人のエスニシティ形成を理論化するにあたって,将来的な課題として認識しておく必要がある。

 また,民族的劣等感は,関係志向の形成を抑制するかたちで影響しているが,主体志向の形成にはほとんど影響していない。民族的な劣等感の強い人も弱い人も,さほど変わりなく主体志向を獲得することができているのである。このことの潜在的ダイナミズム――たとえば,劣等感からフリーに民族運動に参加している人と,強く劣等感を内面化しつつ運動に参加している人では,運動参加の契機や形態にどのような差異があるか――を実証的に描出するといったことも,今後の課題として検討する必要がある。



《註》

  1. エスニシティ形成の重回帰型モデル[金明秀 1995b]
      関係志向    主体志向  
    成育地域内同胞数 .010 .006
    出身社会階層 .077 .026
    成育家庭の伝統性 .582* .165*
    年齢 -.077 .096*
    性別 - .024
    本人学歴 .058 .231*
    民族教育の程度 .038 .443*
    被差別体験 .048 .076*
    民族団体への参加経験 .259* .262*
    相関係数を入力した最尤法による構造方程式モデル
    *は統計水準5%で有意  N=544  χ2/d. f. =2.37
    GFI=.937   AGFI=.904   RMR= .040
    関係志向のR2= .589  主体志向のR2= .675

  2. 人種や民族を代表とする文化的集団の境界に沿って経済的格差が生じること。
  3. いわゆる民族的競合論の実証研究としてはもっとも理論との整合性が高く,重要な業績であるが,データの収集に一定の制約がある。つまり,被説明変数であるエスニック・ムーブメントの生起数を報道記事などから抜粋しているため,母集団が未確定であり,運動参加者のみを対象としていると解釈することもできる。たとえば,喫煙と肺癌の因果関係を研究するにあたってサンプルを癌患者のみに限定するようなものであり,結果の解釈にあたって慎重さが要請される。マクロ・データを活用した研究の好例とはいえ,その弊害を代表するものでもあると言えよう。
  4. ヘクターの批判者の一人であるポルテスは,相対的剥奪感と解釈すべき指標を用いている唯一の実証研究者であるが,彼はそれを相対的剥奪感であるとは認識せず,「民族的な自覚」を代表する指標として用いている[Portes 1984]。
  5. ところで自尊心といっても,ここで関心の対象になるのは,「集団への所属についての打撃」を受けた集団的アイデンティティにかかわる部分である。より具体的には,在日朝鮮人であることについての自尊心ないし劣等感である。本論文では,民族集団への所属に限定された自尊心のことを,誤解を避けるため「民族的劣等感」と呼ぶことにする。
  6. ブレイクウェルは,自己概念の再解釈は非常に困難なプロセスであると言及しているが,彼の編著には,自己概念を再解釈することによってエスニシティを高揚させる事例について,論文が2本所収されている。
  7. ブレイクウェルの編著に,慣れの状態とエスニシティの関連を直接論じた論文は含まれていないが,異人種間の通婚により生まれた子どものマージナル・マンとしての性格を論じた論文が,比較的この視点に近いと言えよう。なお,inertiaという言葉は,精神医学の領域において無力症のことを指す。
  8. 分析に用いる全変数の欠損値処理をおこなった後の各変数の記述統計量は以下の通り。

    相対的剥奪感の記述統計量
    変数平均値標準偏差
    暮らし向き3.4761.145
    社会の仕組み2.381.086
    固有の文化3.5041.017
    社会保障2.5351.181
    教育3.6351.208

  9. 平均値は3.08,標準偏差は1.18である。
  10. 本論文において,在日韓国人青年のエスニシティとは,関係志向と主体志向という2つの因子を意味する。関係志向は,「チェサを継承する意志」「同胞の友人との交友願望」「同胞との結婚志向」「同胞社会への愛着度」「国籍を保持する意志」「祖国統一問題への関心度」によって構成される「情緒的に民族的なものとの紐帯を求めようとする関係的な志向性」である。主体志向は,「民族関連書籍の参照度」「民族関連知識の獲得度」「母国語力(読解)」「母国語力(会話)」「本名の使用度」「祖国統一問題への関心度」によって構成される「民族的な問題を意識し、それを解決していこうとする主体的な志向性」である。詳細は金明秀[1995b]を参照のこと。
  11. 分析に用いたのはSPSSのLISREL 7オプションである。なお,相対的剥奪感と民族的劣等感の相関係数は,.111である。
  12. 家庭内民族的伝統性や教育年数が相対的剥奪感の形成に少なからぬ影響を及ぼすということの意味についても,さまざまな可能性が論じられてしかるべきだが,本論文の主題を逸脱することになるため,機会を改めて論じることにしたい。
  13. 金明石によると,若い世代の在日朝鮮人にとっての民族教育の目的は,「自分らしさ(アイデンティティ)の基礎を築く」ことと「差別に打ち克ち,差別のない社会を目指す」ことであるという[金明石 1995]。また,姜永祐は「民族教育問題とは『いかに』生きるかの問題」であると述べ,実践すべき課題として,国語や歴史の学習に先立ち「本名を名のらせる」ことをあげている[姜 1987]。同様の論旨は他にも広く見られるが[小沢 1973; 梁泰昊 1984; 李月順 1995a, 1995b],民族言語や文化を習得することを通じて,民族的アイデンティティを育成し自尊心を涵養する必要があることを指摘している点で,いずれの論者も共通した見解を示している。
  14. もちろん,在日韓国人青年全体として慣れの対応が一般的であるといっても,個別事例を取り上げれば再解釈や変革のプロセスが広く観察されることも予想に難くない。たとえば,福岡を中心とする一連の聞き取り調査結果は,こうしたプロセスの複合性を描き出している[福岡ほか 1991; 福岡・辻山 1991a, 1991b; 福岡 1993]。だがそれだけではなく,本調査のデータには,在日韓国人青年全体として,再解釈や変革のプロセスをうかがわせる分析結果もある[福岡・金ほか 1994: 32-34]。この点について,簡単に触れておこう。
     本論文では,脅迫によって集団的アイデンティティが被った傷害を,理論上,「過去の民族的劣等感」で代表させているが,調査票には「現在の民族的劣等感」も含まれている。現在の民族的劣等感は,過去のそれよりも分散が小さくなっており,かつ劣等感を持たない方向に分布の比重が移動している。さらに,それぞれの形成要因を比較したとき,過去の民族的劣等感を形成するうえでもっとも強い影響力を持つ被差別体験は,現在の民族的劣等感にたいしてさほど強い影響力を持たなくなっている。逆に,過去の民族的劣等感を形成するうえでほとんど影響力を持たなかった民族団体への参加経験が,現在の民族的劣等感を強く軽減する効果を持っている。
     こうした結果は,在日韓国人青年が,成育プロセスにおいて,アイデンティティに受けた脅迫を再解釈,変革によって克服する傾向にあることを示唆していると言えよう。ブレイクウェルの議論をデータから十分に検証するためには,本調査のような設計ではなく,同一調査対象者を系時的に追跡するモニター調査が必要である。今後の課題として認識しておきたい。
  15. 直接効果を絶対値化するということは,「相関係数の分割」にかかわるパス解析の基本定理から逸脱することを意味している。くり返すが,表3の数値をパス解析の用語である「総効果」として読むことはできない。
  16. 中根と福岡が差別研究にこだわったのは,たまたまふたりとも差別研究を専門にしているからではないか,という批判もあるかもしれない。だが,欧米のエスニシティ研究として,同化・反動理論の存在は本文で述べたとおりである。また,日本でもたとえば山本泰は,差別を人種関係の本質として論じている[山本 1993]。
  17. 民族的競合理論の詳細については,関根[1994: 134-145]に詳しい。


《文献》

きむ・みょんす・大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程・日本学術振興会特別研究員)


本稿は『解放社会学研究』第10号(1996年)に掲載されたものです。本稿の全文を著者に無断で転載または引用することを禁じます。