計量研究はいかにして社会的カテゴリーの生成に関与するか

『解放社会学研究』20

金明秀

 

1.はじめに

 

 人をとりまく環境は、人に与えられた認知能力をはるかに超えるほど、多様で複雑で膨大な情報量を持っている。そのため人は、単純化や分類などによって、環境の持つ複雑性を縮減して理解しようとする。つまり、知覚の対象を何らかのカテゴリーに当てはめることで、所与の能力の範囲内で経済的に情報処理を行う。これがカテゴリー化と呼ばれる心理過程であり、認知心理学で古くから明らかにされてきたように、人の認知全般に関わる重要な特徴である。

 ただし、カテゴリー化は、心理学のみでなく、社会学においても関心の対象となっている。というのも、人が知覚対象をカテゴリーに当てはめる心理過程は、何らかのメカニズムを通して、人々が何らかのカテゴリーに分類される社会過程を生み出すと想定されるためである。つまり、「カテゴリーとそれに結びついた特徴や活動」が恣意的かつ連鎖的に組織化されるプロセスが社会を形成したり[高山、一九九五]、カテゴリーが「文化的に形式化され、しかも同時にあらゆる相互作用的状況においてお互いに対して感受的に働く、文化的な装置」[山崎、二〇〇四、一一七頁]に昇華する、という考え方である。片桐雅隆が、「カテゴリー化の作用に焦点を当てて自己や社会の存立を問うという社会学」(=認知社会学)の重要性を提唱しているのも、カテゴリー化の社会過程に注目しているからだと言える[片桐、二〇〇六]。

 片桐は、自己や社会全般について認知社会学の有用性を主張しているが、カテゴリー化に注目する社会学的議論は、とりわけマイノリティ研究の分野に多くみられる★1。それはおそらく、マイノリティは常に自分たちを指す「カテゴリーが管理する見方を他者に強制」[Sacks, 1979=1987:26-30]されており、カテゴリーに付随する特徴とともに一方的に「語られる」側の立場に追いやられているとの認識によるものであろう。たとえば坂本は、「差別とは、成員のカテゴリー間の同一性にかかわる正当性の基準に基づいて告発された事象である」と定義し、差別への対応のためには、正当性を告発された差別的カテゴリーとして物象化された関係性を無効化することを主張する[坂本、二〇〇四]。カテゴリー化の物象性こそがマイノリティ抑圧の根本的な原因だとの理解があるためである。カテゴリー化の物象性とは、片桐によれば「自己を何らかの言葉でカテゴリー化するときに、そのカテゴリー化によってはとらえられない何かを感じるにもかかわらず、特定のカテゴリーを強制されることによって、特定の属性を付与されるというカテゴリー化の作用」[片桐、前掲書、二〇二頁]を指す。

 もっとも、片桐自身はそうしたマイノリティ論とはいささか異なる立場をとっている。彼はカテゴリー化の物象性にかかわる社会学的、実践的な重要性を強調しつつも、それを「認知社会学の限界」だと述べる[同書、二〇二〜二〇五頁]。つまり、物象性の問題は、カテゴリー化の作用に注目しながら自己や社会の形成を説明しようとする理論枠組みではうまく射程に含むことができない、いわば残余的な事象にすぎないというわけだ。

 多くのマイノリティ論がカテゴリー化の物象性を問題視する一方で、カテゴリーの社会学ともいえる学問を提唱する片桐がそれを理論の限界とみなしているというのは、興味深いネジレとはいえまいか。本論に入る前に、このネジレについてもう少し詳しく考察しておこう。

 片桐は、社会心理学の知見を取り込みながら、「虚偽のカテゴリー」と「本当のカテゴリー」の間に本質的な差異はないという論理的帰結に達している[同書、八五〜一〇八頁]。あらゆるカテゴリー化は物象性を必然的にともなうため、たとえば認知のバイアスを代表するステレオタイプですら、虚偽のカテゴリーとはいえないという。

 

ステレオタイプ自体が、現実を歪めるのではない。あくまで、ステレオタイプはカテゴリーの一種として、自他や状況の定義のための不可欠で不可避な認知枠組みである。虚偽としてのステレオタイプという言い方が可能だとするなら、それは、ステレオタイプ自体が現実を歪めることではなく、ステレオタイプを用いて特定の現実を構築する作用の中にその根拠が求められるべきである。それが認知社会学の観点から見たステレオタイプ論の帰結である。[同書、一〇四頁]

 

 筆者が読むかぎり、この点に関する彼の論考に論理的な破綻はなく、非常に説得的である★2。

 それに対して、カテゴリー化の物象性をマイノリティ抑圧の主犯とみなす研究は、「支配社会から強制されるカテゴリー」と「そのカテゴリー化によってはとらえられない何か」の齟齬を追究する問題設定に立脚する以上、必然的に、前者を「虚偽のカテゴリー」とみなさざるをえない。だが、カテゴリーは複雑な情報の経済的な単純化装置であるという本質からいって、日常の認知すべてにかかわるカテゴリーにおいて同様の齟齬が常に発生している。言い換えると、あらゆるカテゴリーは「虚偽のカテゴリー」なのである。マイノリティをめぐるカテゴリー化のみを罪悪視する根拠が明示されないかぎり、物象性に関する問題設定からナンセンスであるとの批判を受けることになろう。それどころか、もし「差別=悪者」という素朴な倫理観に端を発したものだとすれば、佐藤の「偏見理論批判」を丸ごと引き受けざるをえなくなる[佐藤、二〇〇五]。

 この問題は、どう考えるべきだろうか。

 片桐が指摘する通り、心理過程に注目するかぎりにおいて、「虚偽のカテゴリー」と「本当のカテゴリー」の間に差異は存在しないというのが論理的に自然な解釈である。また、マイノリティをめぐるカテゴリー化のみが問題となるような「悪いカテゴリー」の存在を想定するのも幼稚な仮定である★3。ただし、カテゴリー化が物象性を得るのは心理過程ではなく社会過程である。おのずと、社会心理学とは異なる視点が必要となろう。もちろん、社会過程としても、あらゆるカテゴリー化が潜在的に何らかの物象化につながりうる以上、カテゴリー化の物象性自体を問題視することは不適切なアプローチであると言える。しかし、特定の条件化で、あるいは特定のカテゴリー化(たとえばマイノリティをめぐるカテゴリー化)について、告発の対象となりうるたちの悪さ≠ェ生じるというふうには考えられないだろうか。

 物象性といっても、容易に解消しうる類のものなら実質的には問題とならない。告発の対象となりうるのは、ミクロな次元では解消することが困難なほど剛直で頑迷な物象性にかぎられる。その剛直で頑迷な性質と、その性質を生じている要因こそ、たちの悪さ≠ナある。

 マイノリティに関するカテゴリー化の物象性を例に取れば、(一)刻々と変動するカテゴリー化の文脈が、ことマイノリティに関しては固定化しがちであること、(二)マイノリティは持てる資源の少なさゆえに、カテゴリーに物象化された様々な特性を修正するチャンスが極めて乏しいこと★4、(三)結果としてカテゴリーの妥当性が低くなる傾向があること★5、(四)にもかかわらず、そのカテゴリーが強制的に付与されること、といったことだ。

 本稿の主題を外れるためこれらの点について詳述する余裕はないが、代わりに、われわれ研究者が関与するカテゴリー化の物象性について、計量研究を例にとりながら具体的に論じていく。その過程でたちの悪さ≠ノついても補足的に言及していきたい。

 ただし、ここまでの議論との混同を避けるために、統計的厳密性から乖離した形での構成概念の物象化を、概念化一般と区別して《カテゴリー化》と呼ぶことにしたい★6。

 

2.計量研究における《カテゴリー化》の問題

2・1 問題の所在

 

 社会調査を実施するさい、研究者に課せられる最も重要なことは、収集した膨大な情報をできるかぎり正確に要約することであろう。膨大な情報を要約するためには、概念化はまず避けられない知的営為である。すべてのカテゴリー化が物象性の問題を免れえないとするなら、研究活動は必然的にカテゴリーの物象化を招き続けていることになる。

 が、そのこと自体を問題視するのは明らかにナンセンスである。問題は、あるカテゴリーの指示内容について、より正確だと判断される修正案に接したとき、元の指示内容が修正されえないほど頑迷な物象化を引き起こしているかどうかであろう。そして、そのようなたちの悪い♀譁タなカテゴリーの物象化は、研究活動の過程で無視しえないほど頻繁に起こっているというのが筆者の実感である。

 実際のところ、研究上の構成概念にすぎないものが実体化して一人歩きすることは少なくない。もちろん、意図しないまま、当該研究分野の慣習に従っているだけでそうしたプロセスに加担してしまうこともある。中には、自説に見合うようにカテゴリーの指示内容を歪め、そのカテゴリーが一人歩きすることを期待するかのように統計の誤読を誘導する研究群もあり、計量研究は理論に表現力を与えるためのレトリックにすぎないという極論[杉万・深尾、一九九九]に説得力を与えてしまっている。

 また、実在の人々を対象に調査をする以上、研究上の構成概念であっても日常用語に翻訳して研究成果を還元しなければならない[福岡、一九九七]。研究倫理上はその通りだが、翻訳にともなってカテゴリーとその指示内容の乖離は不可避的に増大し、しかも学術用語ではないため誤読のリスクをも引き上げることになってしまう。専門の論文に頻繁に接触する人々でないかぎり、誤読は放置され、歪められたカテゴリーはそのまま物象化を続けることになる。

 紹介すべき事例は数限りないが、ここでは(一)母集団の《カテゴリー化》、(二)構成概念による《カテゴリー化》、(三)関連性の《カテゴリー化》という三つの観点から、《カテゴリー化》の具体的な事例を紹介していくことにする。

 

2・2 母集団の《カテゴリー化》

 

 大規模な全数調査には様々な欠点があるため、ほとんどの計量研究は、母集団から一定の手続きを経て抽出した標本を対象に調査を行う。その際、分析するのは標本であるが、あえて極論すると標本がどういう集団であるかはどうでもよい。知りたいのは標本のことではなく、母集団のことだ。したがって、標本調査において重要なのは、母集団を明確に定義することと、明確に定義された母集団から適切にサンプリングする手続きなのである。そして、母集団を明確に定義するためには、@内容、A抽出単位、B範囲、C時間の四項目を定めなければならない。「一九九五年九月一日から九月十日までの間(C)に日本全国(B)の投票区(A)に住む二十歳から六十五歳までの男性(@)」といった具合である★7。

 しかし、母集団の定義は非常に多くの計量研究において軽視されているのが現実である。

 ひとつ例を挙げよう。調査対象は「関東の複数の大学で『社会学入門』を受講している学生約二百」だという。母集団についての記述はいっさいない。分析は相関係数を用いてあり、有意確率が記載されている。分析を踏まえた考察の項で「分析の結果から、現代の若者は……だと分かった」などと書かれてある、というものだ。

 あらためて指摘するまでもなく、「複数の授業の出席学生」の母集団を「現代の若者」とするなど、あきれ果てた暴論である。無意味な標本から「現代の若者」というカテゴリーの特性を捏造しようとしているにすぎない★8。

 これは実在する複数の非査読論文を合体して作ったものなので、まったくの架空例というわけではない。実際のところ、類例を目にしたことのある読者も少なくはあるまい。これほど噴飯モノの事例ではなくとも、母集団に関する厳密な定義のない論文はめずらしくない。それらの論文は、程度の差こそあれ、この事例と同様の《カテゴリー化》を行っているのである。

 

2・3 構成概念による《カテゴリー化》

 

 ある理論的モデルにもとづいて調査票を作成し、データを収集したところ、理論から想定される通りの結果が得られたとする。その場合、分析者は理論が検証されたものとみなし、そして測定されたデータを実在する理論の構成物として扱う傾向がある。まさしく物象化だ。

 しかし、得られたデータが理論の想定と矛盾しないということだけでは、測定された概念を「実体」とみなしうる根拠とはならない。なぜなら、他にも理論と矛盾しない結果は無数にありうるし、得られたデータも偶然によって理論と合致しているだけなのかもしれないからである。

 社会調査法では、このことを信頼妥当問題として議論してきた。信頼妥当が満たされていることが、測定概念実在するリアリティとして扱う最低条件であり、逆に信頼妥当が満たされていなければ、測定結果は単なる刺激に対する反応にすぎないものとして慎重解釈する必要がある。

 社会学的な調査では信頼性を満たすことは現実的に非常に困難なので、ここでは妥当性の問題に限って測定概念の安易な物象化について整理する(表1)。

 

1 さまざまな妥当性とその内容

妥当性の種類

妥当判断基準

内容妥当

指標内容が、その指標によって測定しようとしている構成概念を、どの程度適切代表しているか

基準関連妥当

指標測定が、その指標論理関連性の高い他の指標とどの程度関連しているか

構成概念妥当

収束妥当

同一構成概念複数指標測定している場合指標間の相関がどの程度高いか

弁別妥当

異なる構成概念測定している指標はどの程度相関が低いか

 

 以下、各種の測定水準ごとに、これらの妥当性を欠いた、ありがちな《カテゴリー化》の事例を紹介していく。なお、ここで「量的カテゴリー」は連続的変量によって測定された概念、「質的カテゴリー」は離散的変量によって測定された概念を指す。

 

2・3・1 単一指標による量的カテゴリーの構成

 

 測定しようとする構成概念抽象度にもよるが、単一指標による量的カテゴリを用いながら《カテゴリ化》の誤りを避けることはきわめて困難である。

 図1の問1の場合、「年齢」という概念の抽象度が著しく低いため妥当性は問題とならないが、問2の指標一つだけで「差別者への侮蔑」という概念を測定しようとしたら、多くの人が違和感を禁じえないだろう。内容的妥当性が満たされないためである。

 

 

 

1

あなたの年齢を教えてください

 

 

2

差別者は人間として最低だと思う

1 そう思う

2 どちらかといえばそう思う

3 どちらかといえばそう思わない

4 そう思わない

 

図1 単一指標による量的カテゴリーの例

 

図2 構成概念と測定指標の対応関係

 

 概念と指標の関係は、図2のように、いわば母集団たる構成概念から指標をサンプリングする操作にたとえられる。指標の数は十分に多いほど標本誤差は減り、代表性は高くなるが、指標の数が少ないほど標本誤差は大きくなり、代表性は低くなる。

 また、概念抽象度(一般)が高ければ高いほど灰色の円は大きくなり、したがって誤差の少ない測定のためにはより多くの指標必要とする。逆に、概念抽象度(一般)が低ければ個々の指標がカバーする測定範囲との差異が小さくなるため、指標は少なくてすむ。

 社会調査法の常識といえる基礎知識だが、実際には問2のような事例が少なくない。それには二つの理由があると思われる。第一に、単一指標であれば統計学的知識のない読者にも分かりやすくデータを提示できるというメリットがあること。第二に、指標の妥当性を検討するためのコストを切り捨てることができること。つまり、正確さよりも分かりやすさを重視するときや、手間と時間をかけずにてっとりばやく結論めいたものを示したいとき、故意に《カテゴリー化》を利用して説得力を演出するというわけだ★9。

 このような《カテゴリー化》は、統計学的知識のない非専門家集団に漏出するに従ってますます修正可能性を失い、頑迷性の強い物象化を引き起こし、たちの悪さ≠強めていくことになるであろう。

 

2・3・2 多重指標による量的カテゴリーの構成

 

 量的カテゴリーを構成するときは、当該カテゴリーを複数の指標によって測定し、因子分析を適用するのがもっとも一般的な手法である。この手法には、各種の妥当性を確認しやすいという利点がある反面、誤った使用を招きやすいという欠点がある。

 たとえば、図3のように★10、問1a〜問1dおよび問2a〜問2dの計8問がすべて相互に強い相関関係を持ち、8問すべてを因子分析に投入しても妥当な因子は一本しか析出されないとしよう。ところが、分析者の想定で問1と問2がそれぞれ別々の概念であるとき(たとえば問1が権威主義的態度、問2が伝統主義的態度)、個々に因子分析が実施され、得られた因子得点に別々の名前をつけて分析が進められることが多い。

 

 

図3 偽の実在的因子と真の実在的因子

 

 この種の誤りは、弁別的妥当性を検討しないことによって発生する。別々の概念を操作化したつもりの場合、別々の因子になるはずだという予断があるだろうし、先行研究で別々の概念として取り扱っていれば、自ら妥当性を検証することなしに別々の因子だと思い込むこともあるだろう。

 加えて、この種の過ちを犯すもうひとつの理由は、析出された因子が実在性を表しているという誤解が広まっているせいではなかろうかと思われる。因子の析出自体は、因子の実在についてなんら保証するものではない。因子分析はあくまでモデルにすぎないので、どれほどナンセンスな因子であっても数学的には構成されることが多い★11。どれほどナンセンスな因子でも、ひとたび「○○志向」のように名前を与えられれば、まるでそれが人々の間に実在する志向性であるかのように見えてしまう。因子分析の典型的な弊害である。

 繰り返しになるが、析出された因子が一定の実在性を備えていると解釈するためには、各種の妥当性を精査しなければならない。そうした努力を怠ったり、そのために必要な知識を習得せずにお手軽にパッケージソフトを利用するだけで分析気分を味わおうというとき、誇張した《カテゴリー化》の説得力で不足を補おうとするのではなかろうか。

 

2・3・3 単一指標による質的カテゴリーの構成

 

 単一指標による質的カテゴリーの構成には二通りの手法がある。理論モデルから演繹的にカテゴリーを構成する手法と、発見的なカテゴリーを並列する帰納的手法である。

 図4の問3は演繹的な手法の例である。在日韓国・朝鮮人への態度について、左図のように二つの次元を交差させて四つのカテゴリーを構成し、それぞれに見合った質問文を筆者が作成したものだ。

 

テキスト ボックス: 受容テキスト ボックス: 排外3 在日韓国朝鮮将来について、あなたはどう思いますか。次のうちから、もっとも近いものを一つ選んでください。

1.        もっと日本らしくなって日本社会同化しなければ、日本にいる資格はないと思う。

2.        同じ日本社会一員なのだから、もっと日本になじんで、将来的には完全日本になってほしい。

3.        朝鮮民族としての民族や誇りを持ったまま、日本共生していってほしい。

4.        異質な人たちは日本社会になじまないので、できれば日本から出ていってほしい。

 

4 毎年のように△市内で、部落差別に関係した落書きが発見されます。昨年度も特定の個人に対して「○○は、部落だ。」といった落書きがされました。あなたは、こうした落書きについて、どう思いますか。

1.        許せない差別落書きだと思う

2.        落書きはいけないが、この言葉が差別だとはいいきれない

3.        消せばすむことで、このようなことを問題にすること自体がおかしい

図4 単一指標による質的カテゴリーの例

 

 演繹的な質的カテゴリーは、理論モデルと質問文がスマートな対応関係にあるため、両者を照らし合わせて内容的妥当性を判断しやすいメリットがある。また、理論上のカテゴリーと選択肢が一対一で対応しているため、分かりやすく結果を提示できることも大きな利点である。しかし、理念型を実測値に当てはめようとする愚かさに、社会学者であれば気づかなければならない。

 たとえば、この設問を在日韓国・朝鮮人のことなど一度も考えたことのない集団に聞いた場合、得られた回答は質問という刺激に対する単純な反応にすぎないものであって、「在日韓国・朝鮮人への態度」を測定した結果であるとは言いがたい。にもかかわらず、1「同化強要グループ」、2「温情的同化グループ」、3「共生グループ」、4「排除グループ」とでも名づけて、それぞれの特徴を他の変数との関連によって記述していくようなやり方をとってしまえば、あたかもそれらのカテゴリーが実在するかのような印象を与えてしまうことになる。

 同種の分析は非常にポピュラーなものであるが、各設問と各カテゴリーとの対応関係を慎重に検討した論文は非常に少ない。分かりやすい分析手法であるだけ、データを離れて理論モデルが一人歩きしてしまう危険性が余計に高いと言える。

 問4は帰納的な手法の例である。ある自治体の人権意識調査に実際に使用される予定で作成された設問であるが、「差別落書きへの敏感さ」という次元と、「落書きへの敏感さ」の次元とが選択肢に混在しているため、相互に排他的な関係になっていない。また、それぞれの次元について網羅的な選択肢にもなっていない。典型的な悪問である。

 帰納的な手法は、未発見の事実を取りこぼしている可能性を原理的に抱えているため、選択肢の網羅性を確保することが難しい。また、発見的な選択肢を列挙していくやり方では、どうしても複数の次元が混在してしまい、選択肢の相互排他性を乱してしまう。網羅性と相互排他性は、単一選択の設問を作成する上で不可欠の要件であり、それを満たすことが難しいということは、この種の設問は常に悪問となる危険性をはらんでいるといえる★12。周到な事前調査をもとに選択肢の妥当性が検討されている場合を除けば、帰納的に質的カテゴリーを構成する手法は避けたほうがよいのである。

 ところが、素人目には思いつきで選択肢を作れてしまうため――というより、思いつきで選択肢を作ってしまえば自然とこの手法になるのだが――、実際の使用頻度は高く、そしてその多くがやはり問4と同様の悪問である。一応の回答を得ることはできても、実質的にはほとんど意味のない数値情報にしかならない。

 問題は、たとえ意味のない数値情報であっても、ひとたび《カテゴリー化》されれば物象化して実体をともなった概念として一人歩きすることを避けられないということである。たとえば、問4の選択肢は、3から1の順に「差別落書きへの批判的態度」を測定する順序尺度として作成したつもりだったのだと思われる。この設問が実際に用いられていれば、「差別落書きへの批判的態度」と概念化され、他の変数群との関連が議論されていたことだろう。そして、「自治体が公表した信頼できる調査結果」として何百部もの報告書が流布したことだろう。それは、たとえ無知によるものだとしても、許されるものではない。

 

2・3・4 多重指標による質的カテゴリーの構成

 

 クラスター分析、林の数量化V類、多次元尺度構成法、コレスポンダンス分析など、多重指標によって質的カテゴリーを構成する解析手法は少なくない。これらは多変量解析であるにもかかわらず、視覚的に分かりやすく、しかも妥当性を統計的に検討することができるという利点がある。しかし、こうした手法を適切に利用した研究は案外少ないように思われる。むしろ、この分野では解析手法の誤用による《カテゴリー化》が多いのではないだろうか。

 典型的な誤りは、前述の手法を用いず、代わりに複数の因子得点を組み合わせて質的カテゴリーを構成する方法である。たとえば、図5のように「被差別部落に対する差別性」をあらわしていると解釈できる因子と、「被差別部落に関する知識量」と思われる因子があるとき、それぞれ因子得点ゼロを基点にサンプルを二つに分類し、四つのカテゴリーを再構成した場合を考えてみよう。

 

テキスト ボックス: 少テキスト ボックス: 多テキスト ボックス: 差別対象への知識の因子

図5 因子分析で質的カテゴリーを構成する誤用

 

 この分析方法には少なくとも三つの問題が指摘される。(一)連続的変量が持つ分布に関する豊富な情報量が、「多・少」「強・弱」という乱暴な二分法によって消失してしまうこと、(二)実際の分布と読者に与える印象とが悲劇的に乖離してしまう場合があること、(三)相対的な分布にすぎないものを絶対的なカテゴリーであると誤解させてしまうこと、である。分布の消失は技術的な問題なので、ここでは(二)と(三)について補足説明する。

 因子得点の分布は正規化されているためほぼ図6左のように左右対称のベル状となっているが、中央で分割されて二値変数に加工されると、読者が受けるイメージは図6右のように誇張される形で歪められてしまう。これが(二)の問題である。

 

 

図6 実際の分布とイメージの分布の乖離

 

 さらに、各カテゴリーに「確信犯的差別者」のような名前がつけられたとき、もとは「どちらかといえば被差別部落に冷淡な傾向」のような相対的な分布にすぎないものが、絶対的な悪者たちが実在するかのような印象に変化してしまう。これが(三)の問題である。

 このどちらも《カテゴリー化》にともなう不可避な情報伝達の歪みであり、多かれ少なかれ、この種の分析スタイルではほぼ確実に発生する。にもかかわらず、なぜこのような分析が行われるのかというと、実のところ、この種の分析の主眼は、データを正確に要約して読者に伝えることでなく、データから分析者が理解したことを《カテゴリー化》によって効果的に演出することだからである。つまり、読者の認知上のカテゴリーに合致しやすいように故意にデータを誇張して提示することが、そもそもの目的なのである。「分析」というよりは「プレゼンテーションの技法」と呼ぶべきものであり、また、分析の誤用というより、それこそ確信犯と言うべきものである★13。

 だが、統計的リテラシーのない読者にも効果的に分析結果を訴えたいだけならば、分析は分析としてたとえばクラスター分析を用いた上で、その結果を理論モデルに整理して提示すればいいだけのことである。数値を併記して客観性を装いながら、誇張した結果を見せるなど、悪質な詐欺的行為に近いと言わざるをえない。

 

2・4 関係性の《カテゴリー化》

 

 カテゴリー間の関連性についても《カテゴリー化》は生じうる。その代表は因果関係である。時間的、論理的に因果関係が自動的に確定する希少なケースを除いて、人文・社会科学におけるデータは因果関係について何も語らない。重回帰分析のように因果関係を前提とする分析は、因果関係が実在することを保証するものではなく、分析者が仮定する因果モデルがデータとどれくらい矛盾しないかを示すにすぎない。

 たとえば、「地域満足度」と「地域活動参加率」という二つの変数があるとしよう。心理学者は前者を、逆に、社会学者は後者を被説明変数にしようとする傾向があるが、どちらが正しいとも言えない。なぜなら、地域に満足している人ほどその地域をよりよくするための諸活動に参加しようとすることはありうることだし、逆に、地域の諸活動に参加するようになって愛着や満足度が高まるということも考えられる。論理的には因果関係が確定されないため、たんに、「いかに地域活動への参加を高めるか」という関心を持つ者が地域参加率を被説明変数に設定し、「いかに地域満足度を高めるか」という関心を持つ者が地域満足度を被説明変数に設定するだけのことである。

 これは、統計的因果推論の前提となる古典的で基本的な問題であり、重回帰分析を用いる者にとっては常識と言える知識である。常識であるだけに、論文中であえて説明されることはほとんどない。たとえ説明したくとも、「え、君にとっては自明のことではないの?」と嘲笑される危惧があって書けないということもある。しかし、明示的に説明されないかぎり、統計的リテラシーのない読者は、分析者が設定した因果モデルにすぎないものを実在の関係だと誤解してしまうことになろう。現に、新聞記者が調査結果を読んで執筆した記事には、その種の誤解は非常に高い割合で発生している。

 学会誌に投稿するときはともかく、分析結果を一般の読者に還元しようとするとき、この点に慎重でなければ、仮定された因果関係にすぎないものを物象化してしまうことになる。

 また、関係の有無だけでなく、関連の強さについても《カテゴリー化》は生じうる。

 再び重回帰分析を例に取ろう。分析結果のうち、ベータ係数の大きさについては専門の論文でも丁寧に説明される。なぜなら、それらの係数はデータの性質によって変動の幅がまったく異なるため、当該研究分野における値の解釈を説明されないかぎり、たとえ統計的リテラシーの高い読者であっても十分な理解に到達することが困難なためである。

 しかし、重回帰分析は因果モデルである以上、個々のベータ係数を吟味するより先に、そのモデルと実測値の適合度、すなわち決定係数について説明がなされなければならないはずである。ところが、人文・社会科学においては、決定係数の大きさが議論の対象になることは少ない。

 社会学的な分析の場合、決定係数は〇・一から〇・三までの値を取ることが多い。すなわち、被説明変数の全変動のうち、説明変数すべてを使って十%から三〇%を説明できるという意味である。経験的に言って、社会学的なデータでこの程度の説明率があれば決して低い値ではないのだが、その経験を数値化する手法は考案されていない。できることはせいぜい先行研究の決定係数との比較であるが、異なるデータの比較に耐えられるほど社会学分野のデータはロバストではないため、それもほとんど行われない。結局、当該研究分野の読者にだけ分かってもらえればいいと言わんばかりに、分析結果を示す表中にさりげなく記述されるだけにとどまっている。実際のところ、分かる人にはそれだけでも分かるし、分からない人には膨大な説明が必要となるわけで、決定係数が経験的な許容範囲に収まっているかぎりは現行の慣習が合理的であると考えてよかろう。

 しかし、決定係数が経験的な許容範囲を下回っているような場合は別である。具体的には、決定係数が〇・一に満たないような分析結果は、大方の社会学者の経験に照らしても適合度が低すぎる。たとえ当該研究分野では妥当な値であっても、何の弁明も記述されないのは適切でない★14。ところが、決定係数が低い研究ほど、統計的に有意なベータ係数をさも重要な発見であるかのように誇張する傾向がある――というのは筆者の気のせいだろうか?

 いくら当該研究分野において重要な研究成果であっても、それが小さな一歩にすぎない場合、やはり明記すべきであろう。特に、統計的リテラシーのない読者に分析結果が還元されるような場合、決定係数の小ささが意味することをきちんと説明しなければ、それは学問の名を借りてウソを撒き散らすようなものである。

 数年ほど前、免疫研究の分野で特定の血液型抗体と気質の間に相関関係が発見され、話題を呼んだ。血液型による性格診断を信奉する者は、それ見たことかと吹聴しまわったものである。筆者も話のネタにとその論文に目を通してみたが、たしかに相関係数は有意であったものの、サンプル数は膨大で(たしか十万名ほどでなかったか)、どんなに些細な関連であっても有意となる条件であった。事実、相関係数は〇・一を大きく下回っており、「統計的には意味があっても、実質的には関係がない」と結論付けるべき結果であった。研究そのものは不適切でなくとも、分析結果を誇張した結果、ほとんどトンデモ科学と言わざるをえないものに変貌してしまった好例である。

 

3. 議論

 

 ここまで計量研究を例に取りながら、研究者がいかにしてカテゴリーの物象化に寄与するかを論じてきた。そして、その物象性は学問の権威を背景にしたものだけに、マイノリティのカテゴリーが物象化する際と同様のたちの悪さ≠伴う可能性があることを示唆してきた。事例を網羅したという自覚はないが、《カテゴリー化》の問題が特徴的な事例については効率よく拾い上げることができたのではないかと思う。

 さて、註1に述べたとおり、本稿は二〇〇五年の日本解放社会学会大会におけるテーマ部会での報告を土台にしたものである。筆者の報告は、部会に期待されたテーマ(マイノリティのカテゴリー化の物象性)を逸脱する内容であったため、司会とコメンテーター諸氏にはたいへんな苦労をかけたが、別の報告者であった三浦耕吉郎氏から興味深いコメントをいただくことができた。いわく、本稿2・3節に述べてある諸事例は、偏見による古典的な差別と心的メカニズムが酷似しているのではないか、と。

 筆者としては、「《カテゴリー化》の背景には誠意の欠如という悪意≠想定できる」と考えていたため、三浦氏のコメントに対して「ご指摘の通りだと思う」と回答した。そして、本稿の執筆にあたって、いざ三浦氏のコメントとその回答を本分に織り込もうと考えた。ところが、これが何とも難しい。

 偏見による差別と、カテゴリー化の物象性の共通点??

 そもそも、心理過程におけるカテゴリー化は自動的で瞬間的なものであるため、「偏見」のような否定的態度を必要としない。また、社会過程におけるカテゴリー化についても、当事者にいっさいの悪意がなくても創発的にたちの悪さ≠ェ発生しうる、というのが筆者の問題意識である。論理展開の中に「悪意」を組み込む余地がないのだ。

 もしかして、計量研究における《カテゴリー化》は、カテゴリー化の物象性の例として不適切だったのではないかという根源的な問いから始まって、誠意の欠如を悪意≠ニみなすのはさすがに行きすぎだろうという弁明を経て、結局、本稿の中でこの疑問に対する答えを見つけることはできなかった。何か簡単なピースの存在を度忘れしているような落ち着かなさを感じている。聡明な諸氏のご指摘をお待ちしている。

 

 

文献

Gaertner, S. L., and J. F. Dovidio, 1986, {Prejudice, Discrimination, and Racism.} Academic Press.

Hogg, M. A. and D. Abrams, 1988, {Social identifications: A social psychology of intergroup relations and group processes.}(=一九九五年、吉森護・野村泰代訳『社会的アイデンティティ理論 新しい社会心理学体系化のための一般理論』北大路書房)

片桐雅隆、二〇〇六、『認知社会学の構想』世界思想社

Sacks, H., 1979, “Hotrodder: A Revolutionary Category” in G. Psathas (ed.) {Everyday Language: Studies in Ethnomethodology.}(=一九八七年、ハーヴェイ・サックス「ホットロッダー ――革命的カテゴリー」山田富秋、好井裕明、山崎敬一編訳『エスノメソドロジー 社会学的思考の解体』せりか書房)

坂本佳鶴恵、二〇〇五、『アイデンティティの権力 差別を語る主体は成立するか』新曜社

杉万俊夫・深尾誠、一九九九、「実証から実践へ――ガーゲンの社会心理学」小森康永・野口裕二・野村直樹編『ナラティブ・セラピーの世界』日本評論社

Stroebe, W. and C. A. Insko, 1989, Stereotype, Prejudice, and Discrimination: Changing Conceptions in Theory and Research, D. Bar-Tal, C. F. Graumann, A. W. Kruglanski, and W. Stroebe (Eds.). {Stereotyping and prejudice: Changing conceptions.} : 3-34

佐藤裕、二〇〇五、『差別論 偏見理論批判』明石書店

高山啓子、一九九五、「メディアにおける日常的知識の使用 カテゴリー化の実践」宮島喬編『文化の社会学 実践と再生産のメカニズム』有信堂

山崎敬一、二〇〇四、『社会理論としてのエスノメソドロジー』ハーベスト社

 

 

キーワード: カテゴリー化、社会調査、計量研究

Keywords: categorization, social research, quantitative approach

 

★1 たとえば、近年の日本解放社会学会大会では、常にカテゴリー化が主要な争点のひとつとして注目されてきた。とりわけ一九九九年以降の大会にその傾向が強く、中には、社会的カテゴリーが生成され実体化されるプロセスを解明することこそ、差別論の主要な課題であるとの主張すらあった。そして、二〇〇五年の学会大会では、過去数年来の議論を踏まえて、「差別研究とカテゴリー化」と題したテーマ部会までが開催されるに至っている。なお、本稿は同テーマ部会での報告を土台に加筆と修正を施したものである。

★2 ただし、網羅的というわけではない。ストレーベとインスコウは、カテゴリー化に関する社会心理学の研究群を二つの次元で整理している(Stroebe & Insko 1989)。ひとつは、カテゴリー化を社会的葛藤や社会化の帰結とみなすか、個人の動機やパーソナリティ特性によるものとみなすかという次元。もうひとつは、マイノリティを侮辱しようという悪意を理論の前提に含むか含まないかという次元。二つの次元を組み合わせると4つの象限が得られるが、片桐の主張は、「社会的」で「悪意を前提に含まない」象限に典型的に位置づけられ、残る三つの象限は彼の理論的射程から外れている。しかし、「心理的」次元に位置する二つの象限はともかく、「社会的」で「悪意を前提に含む」象限を片桐の理論に組み込むことは不可能でないと思われる。そもそも片桐が依拠している社会心理学者ターナーの研究群は、ストレーベとインスコウによれば「社会的」で「悪意を前提に含む」象限の代表格とされている。

★3 社会心理学者ドビディオとガートナーは一九八六年の論文で「認知バイアスの研究で、この十年間でまぎれもなく最も大きなニュースは、それがいかに意識化で行われうるかということだ」と述べている(Dovidio & Gaertner 1986)。ステレオタイプを含めた認知上のカテゴリーは、自動的で、瞬間的で、無意識的に形成されるということだ。その後の研究で、どのカテゴリーを動員するかについて文化的背景や前提となる知識、政治的スタンス等が影響することもわかってきているが、カテゴリー化の自動性そのものを疑う結果ではない。

4 一〜二に述べた頑迷性を「カテゴリー化の物象性」の定義に含むのであれば、カテゴリー化に注目するマイノリティ研究への本稿の批判は当たらないことになる。しかし、その場合でも、きちんと問題を切り分けて、カテゴリー化の物象性自体が問題なのではなく、それが問題になる特定の条件があるのだと自覚的である必要はある。
 なお、「たちの悪いカテゴリー」の条件については、シミュレーションによってモデル化を試みているところである。その結果は別の機会に公表したい

5 タジフェルとターナーらによる「社会的アイデンティティ理論」によれば、外集団は自動的にネガティブな評価を受ける傾向がある(cf. Hogg and Abrams, 1988=1995)。数の上でも少数のマイノリティの場合、「外集団」となる蓋然性が高いため、それだけで認知が否定的なバイアスを受けることになる。

6 つまり、《カテゴリー化》とは、「たちの悪いカテゴリー化の物象性」を潜在的に招来しやすいカテゴリー化のことである。《カテゴリー化》が「たちの悪いカテゴリーの物象化」につながるかどうかは、どれだけ実質的な反証可能性が確保されているかにかかっている。

7 この例は『新社会学辞典』(有斐閣)の白倉幸男「母集団」からの引用である。ただし、論文中では、母集団として定義されるのは@のみで、A〜Cは調査設計の中で述べられることが多い。ところで、母集団には「目標母集団target population」と「調査母集団survey population」の二つの区分がある。目標母集団は、研究目的に見合う特性を持ったすべての人口集団を指す。いわば、「本来調査したい母集団」だ。それに対して、調査母集団は、調査によってデータを得ることのできる集団である。「実際に調査できる母集団」と言える。両者は一致することが理想的だが、現実には、サンプリング台帳(調査母集団)が目標母集団をカバーできないことが多い。たとえうまくカバーできている場合でも、無回答(回答拒否)やサンプリング台帳の不備があるため、両者はむしろ一致することのほうがめずらしい。両者の乖離を許容範囲に収めるためには、本文に述べた四項目による定義は不可欠である。

8 心理学分野における計量研究では、標本調査においても実験の手続きを流用して、母集団を定義しなかったり、標本抽出がデタラメだったりする研究がきわめて多い。しかし、結果の考察で、「現代の若者は」のように誇張された母集団に安易に結果を一般化することはほとんどないように思われる。どちらが優れているという話ではないが、参考までに。

9 抽象度が高くとも、内容的妥当性と基準関連妥当性をともに満たす場合、単一指標による量的カテゴリーの構成は許容されるが、指標ひとつだけで内容的妥当性と基準関連妥当性をともに満たすことは事実上困難である。

★10 図は共通因子と変数の内包関係をイメージした弁図であり、それぞれの重複が共分散を意味するものではない。

11 もちろん、因子分析を用いるのが不適切な変数群の場合、共通性と因子寄与の低さ、KMOの標本妥当性の測度、Bartlettの球面性検定、反イメージ、再生相関など様々な情報がその事実を示唆する。しかし、共通性と因子寄与を除けば、これらの情報は論文に明記する慣習がないため、どれだけ不適切な用法であっても読者はそれを推察することしかできない。

★12 社会調査法の授業では、「もっとも作成が難しい選択肢であり、調査対象に関して相当に詳しい知識をすでに得ている場合を除いて、卒論で実施することは勧めない」と指導している。

★13 初学者がそのような「確信犯」を模倣するケースも少なくないと思われる。その意味でもこの種の分析の罪は大きいと思う。

★14 誤解を避けるために付言すると、決定係数の低さが、即、その研究の重要性の低さを意味するわけではない。それが真なら、自然科学的データを扱う分析者にとって、ほとんどすべての社会学的分析は重要でないということになる。