南北文化社『南北文化』創刊号,1995年
デューク大学は、カレッジ・バスケットボールで特に有名だが、南部 を代表する数少ない伝統校の一つである。前身から含めると創立一三〇年 ほどの歴史を持ち、現在の大学キャンパスが出来たのは一九二〇年代で、 広大な大学の敷地は、全体として樫の木の多い森で覆われており、キャン パス中心部にあるゴチック式建築の荘厳な教会チャペルをはじめ、主要な 校舎群がみな、ギリシア・ローマ風、あるいは、中世ヨーロッパ風の建築 物なのである。それらの校舎群や、あちこちに広がる広い芝生や色とりど りの花壇といったキャンパス空間が、大木の並木に沿った車道や林を抜け てつながる遊歩道で結ばれている。そして、期間の短い冬以外、木々に巣 をつくる何匹ものリスが、キャンパス内の木立の間を走り回っている。一 言で言えば、日本の大学などと大違いの、外観の極めて壮大かつ美しい大 学である。
私は、はじめての海外留学であるアメリカ生活を、妻と三人の子ども の家族連れで体験したのだが、私たち夫婦が、渡米してすぐ取りかからね ばならなかった重要事項は、言うまでもなく、子どもたちを学校に入れる ことだった。長女は小学校六年だったが、現地の学校制度では中学一年に 相当した。長女と小学校二年の長男は、それぞれ現地の公立の中学校、小 学校へ、そして、四歳の二男は私立の幼稚園へ入らせた。九月の新学期開 始の日に、私たち夫婦は子どもらをそれぞれ指定された学校のクラスへ連 れていったのだが、予想したこととはいえ、はじめて遭遇した光景に最初 は多少驚いた。生徒の半分近くは黒人の子どもたちであり、何人かはヒス パニック(中南米系)、それにアジア系もちらほらおり、あとは、白人の 子どもたちである。
ノース・キャロライナは、人口全体では、おおよそ白人三分の二、黒 人三分の一であり、南部に属する州だけあって、全米の黒人人口一割強と いう比率に比べ、黒人の比率は高い。また、デューク大学があるダラム市 は、すぐ隣の州都ローリー市などと共に、州内の行政、学術研究、ハイテ ク産業の中心地域を構成しており、様々な国からの留学生や企業研究員な どがそこに集まってきている。と同時に、比較的雇用機会が多いためか、 いろいろなマイノリティー人種の人々が多く住んでいる。そして、ダラム 市民の半分は黒人であり、州全体の比率より、さらに高い比率なのであ る。
私たちの二人の上の子どもは、学校へ通うようになって、すぐ何人も の友達ができ、アメリカの学校が大好きになったものだった。友達は、白 人、黒人、ヒスパニック、アジア系いろいろだったが、中学生の長女は、 英語補習クラスが同じだったメキシコ出身の子や中国人(大陸、台湾)の 子らとは特に仲良しになっていた。長男の方は、白人、黒人とも、クラス メートと毎日、学校でバスケットボールか何かをやって帰ってきていた。
そもそも、デューク大学という大学自体、一九世紀のこの地域の「タ バコ王」と呼ばれたデューク家が創立した大学だった。例の荘厳なチャペ ルの正面に創立者の銅像がたっていたが、その銅像の人物は手に葉巻タバ コを持っていた。かつて一九世紀には、この辺りの州の大西洋側の平地地 帯は、一帯がタバコ・プランテーションであった。それらはプランター、 つまり、白人の富裕な大農場主が経営したのだが、デューク家もそうした プランターの家系であり、しかも、最も富裕な大プランターだったと言 う。タバコ栽培で巨万の富を築いたデューク家は、この地域の名門として 大学を創立するが、一九世紀南部の富裕白人プランター(=奴隷主)らの 好みだったヨーロッパ貴族の生活様式を反映して、その大学は中世ヨー ロッパ風を基調とした壮麗なキャンパスに造り上げられたのだった。他 方、プランテーションで労働力としてタバコ栽培を支えたのは、言うまで もなく、一九世紀中葉までは黒人奴隷であり、それ以後は、黒人の小作人 や黒人農場労働者たちだった。こうした歴史的背景があって、この州は黒 人人口の比率が比較的高いのである。つまり、現在のあの美しいデューク 大学のキャンパスは、もとはと言えば、黒人たちの汗と涙の結晶だったの である。学生たちの話や、学生新聞の記事などで知ったのだが、この大学 の学風の中に今も一部残る権威主義、エリート主義といった側面を揶揄し て、世間では、この大学のことを今でも「デューク・プランテーション」 と呼ぶこともあるそうだ。
この大学は、土地柄から、その後、黒人公民権運動の歴史に興味深い 関わりを持つことになる。現地へ行って初めて知ったことだが、ノース・ キャロライナは、一九六〇年代初頭、全米に広がった公民権運動の歴史の 中で、特に黒人学生運動発祥の地だったのである。それは、私たちが滞在 したダラム市から数十キロ西のグリーンズボロ市という所から始まったと 言う。一九六四年に公民権法が成立する以前、アメリカでは、国家レベル では合衆国憲法が国民の権利平等を謳いながらも、南部を中心に各州独自 の種々の「人種隔離法」が生きており、かつてのアパルトヘイト下の南ア フリカと同様、黒人は事実上、参政権から排除されていたり、居住地域や 学校なども白人とは別に定められて、隔離されていた。多くの州で、鉄道 やバスでは黒人は白人とは別の場所に乗らねばならず、街では習慣的に、 白人専用の飲食店などに黒人は入れないことになっていた。そうした状況 下、一九六〇年、グリーンズボロ市の四人の黒人大学生が、毎日、白人専 用のレストランへ通い、座り込みの抗議行動を始めたのだった。この座り こみ運動をきっかけに、人種差別撤廃を求める黒人学生たちの運動は、瞬 く間にノース・キャロライナ全体に広がったと言う。近年、アメリカ民主 党の大統領候補選出レースに名前が挙がったことのあるジェシー・ジャク ソンが、当時、この州の学生運動のリーダーだったと言う。彼は、次々と 成功させた集団抗議行動で、一躍、全米黒人学生運動のカリスマ的な存在 になってゆく。だが、彼のブレーン役は、当時のデューク大学の数少ない 黒人学生の一人だったのである。他方、彼らその当時の黒人学生たちが抗 議の的にした多くの人種差別的な企業のうち、最も有力なチェーン・スト アの白人責任者も、やはりデューク大学のOBだったと言う。この大学 は、公民権運動前後から今日に至るまで、白人エリート層と黒人指導者層 の双方を社会に送り出してきたのである。
けれども、そうであるからこそなのか、今日、アメリカの人種問題に おける取り組みは、概して、非常に熱心で本物のように感じたのである。 行政機関で多くの黒人が働いているのはもちろんだが、テレビの公共放送 などでは、公民権運動に関わるような啓蒙的なドラマや番組を次々と放映 している。また、ノース・キャロライナ近辺の知識と教養の象徴となって きたデューク大学自体もそうである。私が読んだ黒人学生運動の歴史の本 は、デューク大学の白人教授が事実関係を丹念に調べてまとめた詳細なも のだったが、その教授は、その本の中で、かつての地元政治家や企業経営 者など白人指導層の陰険さや理不尽さをとことん描き出している。そし て、その本は、今なお白人学生の方が断然多いデューク大学のテキストと して、かなり広く学生らに読ませる本になっているのである。
他方、私の長男が通っていた小学校では、九三年が「国際先住民年」 ということから、秋の一時期、ネイティブ・アメリカン(=アメリカ・イ ンディアン)について、子どもたちに徹底的に教え込んでいたようだっ た。図工でインディアンの羽飾りや盾を作らせたり絵を描かせたり、イン ディアンが出てくる歌を覚えさせたり、また、言語(つまり英語)の時間 には、山や川や雲や雨など自然現象に関する言葉をインディアンにまつわ る単語と一緒に覚えさせたり、とにかく、一ヶ月ほど、子どもたちを「イ ンディアンづけ」にしていたようである。私の長男もすっかりインディア ンが気に入ってしまい、家へ帰っても「インディアンごっこ」で遊んでい たものである。マイノリティーの文化に対する理解を小学生の子どものう ちに、はぐくんでおこうという学校側の教育意図がよく伝わってきた。
やはり同じ小学校で、翌年一月の「マーティン・ルーサー・キング・ デー」の祝日前後に、「アフリカン・アメリカン(=黒人)月間」の学校 行事として、生徒らが演じる劇の親子鑑賞会があった。その演劇は、公民 権運動の全米的なきっかけとなった出来事で、人種別のバス座席に抗議す るアラバマ州でのバス・ボイコット運動を再現する内容だった。そして、 劇を上級生が演じ、それを下級生や父母らが鑑賞するというものだった。 アメリカでは、かつての人種差別を包み隠したりせず、小学生のうちから 何度も何度も真実の歴史を子どもたちに教えているのである。ちょうど同 じ頃、長男が日本で通っていた小学校の日本人の友達からハガキが来て、 「算数の九九はもう全部覚えたよ」と書いてよこしていたのだが、アメリ カの小学校では「九九」に当たる計算は三年生の後半ぐらいからで、算数 に関しては日本より一年くらい遅れている。だが、はたして今の日本で、 小学校低学年に少数民族や人種差別の問題について教えるだろうか。本 来、今日のアメリカの初等教育のように、計算能力よりも人権教育の方が 先でなければならないはずである。
また、私たち夫婦は、ある時、長女が通う中学校の父母懇親会のた め、学校をじっくり訪問する機会を持った。その学校で、校舎群のメイン ホールにあたる生徒食堂の高い天井を見上げると、そこには、アメリカ国 旗と共に、その学校に通っている外国人生徒の出身国の国旗が、合わせて 二〇枚も、三〇枚も垂れ下げて飾ってあった。さすがに中南米の近隣諸国 の国旗が目についたが、韓国のも、日本のもあった。アメリカの「国際 化」の程度の違いを見せつけられる思いがしたのと同時に、他国からの子 どもらに対して教育上配慮している姿勢が感じられたものだった。
デューク大学に来ているアジア系留学生では、大陸からの中国人がい ちばん数が多い。日本人もかなりいるが、私などに言わせると、これらの 日本人学生は本来の意味で留学生ではない。というのは、日本人留学生は 大学院ビジネス・スクールに集中しているのだが、彼らは皆、日本の大企 業から「派遣」された将来の国際業務向けの幹部社員候補なのである。し たがって、彼らの「学生生活」は、おのずと他国からの留学生やアメリカ 人学生とは違って、かなりリッチである。アメリカの私立大学にとって は、高額の授業料を負担する日本の大企業は「お得意様」なのであろう。
他方、普通の現地学生の中に、日系アメリカ人学生はほとんど見出せ なかった。アジア系で最も数が多いのは、コメリカン学生なのである。そ して、白人学生以外のマイノリティー学生では、黒人学生に次いで二番目 にコメリカン学生が多いと言う。日系アメリカ人社会については、本国で と同様、高齢化が進んでいるのかも知れない。対して、コメリカンに関し ては、今日、上昇志向の強い若い二世らが力強く生き抜いており、優秀な 若者たちは有名大学にどんどん入学しているようである。
私は、黒人問題との関連で、九二年のロサンゼルス暴動の時の黒人に よるコメリカン商店の襲撃という事件のことが、以前から気に懸かってい た。そのため、友達になった黒人学生とコメリカン学生の両方と一緒に食 事をしながら話を聞く機会があったので、その時、ロサンゼルス暴動につ いて話題にしてみた。すると、彼らの話では、黒人の側から見て、確か に、後からアメリカにやってきたコメリカンがグローサリー・ショップ (食料雑貨店)などで成功し、急速に経済力を高めていることをやっかん でいる黒人たちもいると言う。しかし、多くの黒人とコメリカンなどアジ ア系とが対立しているということはないと言う。ロサンゼルス暴動での出 来事については、事件の初期の状況のマスコミ報道の仕方が、コメリカン 商店街は警察の警備がほとんどないことを見せつけてしまったために、む しろ黒人暴徒の略奪を煽ってしまった節がある、とアメリカ国内では分析 されているようである。私は友人の学生らに「漁夫の利」ということわざ を紹介し、「白人保守派に利用されないようにしなければね」と自分の意 見を述べたが、彼らはその意見に共鳴してくれたようだった。
私の妻は、家から遠くないところにあったコメリカンが経営するグ ローサリー・ショップでよく食料品を買ってきた。そこの店は、韓国、日 本、中国など東アジアの食材なら大抵の物が揃っていた。何より美味しい 米が売っているのだ。それは日本でいちばん美味しい米と比べても遜色な いものだった。しかも、値段は日本の五分の一くらいだ。コリアン料理の 食材はいちばん豊富だった。私たち家族は、日本では、近所でコリアン料 理の食材が手に入らなかったので、アメリカ生活の間、日本にいた時以上 に、コリアン料理を食べることが出来たのだった。
そのグローサリー・ショップの私より年輩のコメリカン二世の経営者 が、私たち家族にいろいろと親切にしてくれて、アメリカ生活の上での 様々な情報やアドバイスを与えてくれた。私たち夫婦は、その経営者の勧 めで私たちの子どもを現地の「コリアン・スクール」へ連れて行ってみる ことにした。それは、学校のない土曜日に、教会の研修室などを借りて父 母らが運営している、ウリマルの勉強を中心とした民族教育である。私た ちの子どもは、学期の終わり頃、二ヶ月ほどしか通えなかった。授業は英 語でするし、長女以外、日本でウリマルを習ったことはなかったし、特に いちばん下の二男はチンプンカンプンで、ウリマルの勉強をしたと言うよ り、歌を歌ったり、絵を描いたり、アメリカで同じ民族の子どもらと遊ん だという印象だけが残っているようだ。
現地のコメリカンの多くは、クリスチャンのようだった。ローリー市 には、コリアン教会もあって、宗教を一つの絆にもし、コメリカン同士の 地域社会を築いているようだった。こうしたネットワークが、子どもたち への民族教育を支えているとはいえ、また、今日のアメリカにはマイノリ ティー文化を尊重しようというコンセンサスがあるとはいえ、それぞれの 父母が費用を負担し、順番に子どもらの世話を受け持ち、毎週、熱心にわ が子を送り迎えしている。私は、私たち在日韓国・朝鮮人の多くが等閑に してきてしまったようなモラルを、コメリカンらは備えているように感じ たのものである。
また、私たちが滞在した地域では、コメリカンが中心となって、アジ ア系向けのローカル・ミニ新聞も発行されていた。コメリカンは、志気の 高い二世らの活発な活動もあってか、現在のアメリカ社会にあっては、日 系を除くアジア系のリーダー的存在になっているようにさえ見えた。
そんなことから、もし、私たち在日韓国・朝鮮人とコメリカンとの相 互交流が生まれれば、近年ややもすると失いがちになってきたと言われる 要素、つまり、ハングリーでエネルギッシュな誇りと自信という要素が、 在日韓国・朝鮮人社会に新しい観点から再生するのではないだろうかと、 アメリカの地で、私は思い巡らしたものだった。