金明秀
Myung-Soo KIM
これまでにも、計量的な手法を用いることによって、エスニシティやエスニック・グループ間の関係を分析しようとした取り組みは数多く発表されてきた。
例えば、都市社会学的な分析枠組において、言語分布と居住形態を対比させたもの、教育社会学的な視点の元に、エスニック・マイノリティと教育程度の因果的関連を明らかにしようとしたもの、社会・経済的諸条件によって移民の動因を特定しようとしたもの、そして周知のように、社会学的な計量研究を支え、測定技術が発達する土台となった社会階層と社会移動に関する研究においても、民族的な出自が重要な説明変数の一つとして位置付けられてきた。加えて、特にアメリカにおいては、測定に不向きな一部のものを除く主要な社会学的エスニシティ理論のほとんどが、計量的な実証とともに発達してきたと言ってもよい。
こうした計量研究によって、有力な理論的洞察を経験的に検証するという貴重な作業が繰り返され、エスニシティ研究の中にも「理論」と呼びうる業績が誕生してきたことは事実と言えよう。しかしながらその一方で、エスニシティとは何か、またエスニック・アイデンティティはいかにして形成されるのかという、エスニシティ研究の発端となった根源的な問題に回答を用意することなく、安易にそれを所与の概念として分析に用いてきた点が指摘されなければならない。
社会学的な見地からエスニシティを測定する場合の典型的な質問形態は、アメリカのセンサスに含められているような、両親と本人の出生地を訊ねるものである。
この質問文により問える内容は、回答者の客観的な出自に限定されており、主観的な帰属意識は不明である。そもそも、エスニシティ ethnicity という用語が必要とされてきたのは、成員の柔軟な帰属意識を基調とする主観的な構成原理が出現してきたからにほかならない。このことに鑑みると、上記の質問文は現代の民族的存在を描出する目的を持つ指標として、はなはだ不十分なものだと言わざるをえない。
そのためにアメリカでも、当初より学術的な研究を目的として実施された調査では、これよりもやや出自に関する主観的意識を重視した質問形態に変化してきている(1)。特に八〇年代の半ばから盛んに見られるようになってきた、複数の民族的集団に対する帰属意識 multi-ethnics の研究などは、典型的にそういった志向性を内在しているように思われる。しかしその場合でさえも、「あなたの家族の起源はどこにあると思いますか」といった項目を併設しているにすぎないのである。
たしかに Multi-ethnics の研究は、単純ながらも新鮮で卓越した視点から、従来のエスニシティ研究に対して特有の問題提起を行なってきている。しかしながら、(従来のエスニシティ研究よりもさらに複雑な)民族的内実を測定するにあたって、あまりにも粗雑な設問形態を採っていることはやはり問題だと思われる。民族的内実を規定するにあたって、Van Den Berghe が、帰属意識のような主観的な構成原理を過度に拡張することに対して苦言を呈したことは有名であるが(2)、こうした安易な測定の試みは、彼の批判にたいして何ら解答するすべを備えてはいないのである。
この問題性を考えるにあたっては、N. Hutnik の研究が参考になるだろう(3)。彼は、非常に多彩で多角的な指標を導入しながら、インド系イギリス人の Multi-ethnics としての有り様と、その他の民族的な態度や行為との連関を調査する中で、非常に興味深い報告を行っている。
彼が分析に用いているのは、十組の「社会的適応」の度合を示す指標に、ナショナル・アイデンティティを問う「キー指標」を加えた、十一組の変数である(4)。社会的適応変数は、主にアジア系イギリス人に関する計量研究を参考にすることにより、@民族言語の使用状況、A映画の嗜好、B見合婚、C文化的選好、D友人の選択、E宗教という六つの指標を抽出した上で、Hutnik自身が若年世代を対象としたインタビューを実施することで、F恋愛の対象、G衣服の嗜好、H音楽の嗜好、I食事の嗜好、という四つの指標を付け加えたものである。
彼の議論は、三段階の分析によって進行する。まず、二本のナショナル・アイデンティティ尺度を交差させることによって、4つの象限を持つ類型を構成する。ついで、社会的適応変数にクラスター分析を適用することにより、四つの回答傾向を抽出する。そして最後に、ナショナル・アイデンティティと、社会的適応変数の関連を検討する、というものである。Hutnikによる分析では、ナショナル・アイデンティティから構成した類型と、社会的適応変数から構成した類型との間には、有意な関係が検出されていない。
彼はこうした分析結果を受けて、「…行為のレベルでは高度に文化統合的(あるいは同化的でさえ)な場合に、アイデンティティのレベルでは分離的になるということが可能だという、…民族的なアイデンティティと行為の間の、単純な仮説をわずかに支持した。…二世世代において、民族的アイデンティティは、日常の民族的行為から機能的に自立的なものになりうるのである」(5)と結論付けている。
彼の研究は、民族的出自にたいする単純なイメージを求めるだけでは、現状のダイナミックな民族的内実の全体を測定するものとはなりえないということを、十分に示唆していると言えるだろう。それと同時に、民族的な態度や行為すなわち民族的求心力が、民族的な帰属意識によって説明されないとすれば、それがいかなる形成要因を持つものであるのかを特定する必要があるという問題意識をも喚起してくれている。
実は、こうした問題意識は E. Obdinski がすでに一九七四年の時点で指摘していることでもある(6)。彼はまず、いまだその実態が明確になっていないものを安易に分析に用いるべきではないという論拠で、民族的出自を単純に独立変数として用いる計量研究を批判する。そして、エスニシティ自体についての綿密な測定論を構築すべきこと、その上でエスニシティを被説明変数とすることにより、その形成過程を特定すべきだということを提言している。
残念ながらその後、彼の問題意識を直接受け継いだ研究が興隆したようには思われない。Obidinski の問題意識が、なぜ当時のエスニシティ研究者に共有されなかったのかということ自体が興味深い考察の対象となるだろうが、この論文では、具体的に筆者の調査データを用いながら民族的求心力の測定論を構成し、その形成過程の特定化を試みることにより、Obidinski の問題意識を実証的かつ実践的に具体化しようと思う。
2 データ
調査の対象となったのは、在日本朝鮮人総聯合会(総聯)の傘下団体である在日本朝鮮留学生同盟(留学同)である。留学同自体に関する調査はこれまでにほとんど提出されたことがないため、同団体の特質、すなわちサンプルの制約について、簡単に説明しておかなければならないだろう。
留学同の前身となった在日本朝鮮学生同盟(朝学同)は、当時日本の大学に在学中の在日朝鮮人を中心に、一九四五年九月に結成されている。しかしその後の一九五五年に、在日朝鮮人は日本におけるマイノリティではなく、朝鮮民主主義人民共和国のもとに結集した在外公民であるという立場を強調するため、朝学同は在日本朝鮮留学生同盟と名称を変更し、在日本朝鮮人総聯合会の傘下団体となった(7)。
名称の変更や組織目標の変遷などはあったが、同団体は、発足当初より朝鮮・韓国の国籍を問わず、全国の大学・短大・専門学校に通う在日朝鮮人学生を盟員として、相互の親睦と啓蒙などを目的とした活動を行っている。そしてそのもっとも主要な活動は、各大学を拠点にして毎週開催される定例会である。
定例会の内容は各大学や地方によって特色が異なるが、民族史や民族言語の学習、主体思想の紹介、朝鮮半島や在日朝鮮人をめぐる社会情勢の討論、サムルノリや歌謡など民族芸能の習得、というように非常に多岐にわたっている。しかしその中でも、こうした活動の特色をもっとも典型的に示唆するものは、「談話(タムァ)」と呼ばれる議論のスタイルであろう(8)。
「談話」とは、年齢もしくは学年をもとにした序列が厳しい組織にありがちな形態ではあるが、活動の盛んな高学年の学生が、下級生と一対一で会談する場所を設け、日常的な場面における民族的な主体性の在り方を問いかけていくというものである。したがって対話のテーマは、日本人の友人への出自の宣言や、本名の日常提示の必要性などが中心となる(9)。
同様の主旨を持った学生組織も少なくないが、その多くが単なる親睦を目的としたものであったり、書籍上の学習を主眼とするものである中、留学同に固有の特徴は、民族的な主体性を強く志向するのみでなく、それを日常的な場面において発露させるための活発な行動をともなうところであるといえよう。
本名の提示度を例にとると、神奈川県の実施した調査では、在日朝鮮人全体の中で本名の使用の方が多いという人の比率が約一二%であるのに対し(10)、本調査データでは約六九%となっている。この数値だけを見ても、同団体の際立った民族主義的特性は明らかであろう。
留学同は、その活動の一貫として、毎年八月初旬に懇親と学習のための合宿を実施しているが、本調査は一九八九年度の合宿において、集合調査法により実施したものである。
同団体は、全国規模での行事を毎年四回実施しているが、この合宿はやや親睦の色彩の強い催しであり、積極的でない構成員や低学年の参加が多くなっているものの、参加人数としては四回のうちでも最大規模のものである。調査当時、留学同の盟員は約六百名であったが、調査当日の参加者は二一六名であり、その全員を調査対象者としている。
回答者の男女構成と国籍を表一〜二に示した。いずれも欠損値は表記を省略してある。
表1 性別分布
| 性別 | 人数(%) |
|---|---|
| 男性 | 112(53.3) |
| 女性 | 98(46.7) |
表2 国籍分布
| 性別 | 人数(%) |
|---|---|
| 朝鮮 | 141(67.1) |
| 韓国 | 68(32.4) |
表一を見ると、男女数はほぼ同数であり、この点ではデータに偏りはないといえる。数ある民族団体の中には、参加者の多数を男性が占めるという例もあるが、留学同についてはこうした傾向は見られない。留学同の盟員は学生に限定されているため、参加のチャンスに男女で差が少ないということに理由があるのかもしれない。
一方、国籍については、在日朝鮮人全体に対して構成比が逆転するほど、大きく朝鮮に偏っている。これは、留学同が在日本朝鮮人総聯合会の傘下団体であるため、朝鮮籍を持つ学生のリクルートが容易であるということと、逆に韓国籍の学生が参加する場合には、さまざまな障害が存在することによる。障害とは、時に日本の公安委員会による嫌がらせなどもあるが、ほとんどの場合、在日本大韓民国居留民団に参加する家族の反対である。
表3 年齢 (欠損値省略)
| 総数(%) | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 27 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 210(100.0) | 34(16.2) | 54(25.7) | 57(27.1) | 32(15.2) | 15(7.1) | 11(5.2) | 6(2.9) | 1(0.5) |
表4 学年 (欠損値省略)
| 総数(%) | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 8 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 215(100.0) | 85(39.5) | 48(22.3) | 43(20.0) | 29(13.5) | 1(0.5) | 1(0.5) | 1(0.5) |
表三〜四は回答者の年齢と学年である。低学年が多くなる偏りが見られるが、これは留学同の調査を行なったサマーセミナーが、比較的低学年の参加者の親睦と啓蒙を重視する性質のものであることと、女性に短大生が多いことに理由がある。
また、学年の最頻値が一回生であるのに対して、一八歳の比率はやや少ない。入学前にいわゆる浪人を経験したものと、現役入学者との比率は類推するしかないが、一般の日本人学生に比べると、やや浪人生の比率が多いといえるのではないだろうか。これは、留学同の盟員の中に、民族学校を卒業した学生が含まれていることに理由があると思われる。多くの大学が民族学校の卒業生に受験資格を認めていない以上、民族学校の卒業生は、日本の大学を受験するために、浪人をして受験資格検定を受けることが多いからである。
表五は家族の人数である。日本人家庭に比べて、六人以上の割合がやや高めであるが、際立って家族数が多いというわけでもない。一般に、在日朝鮮人のきょうだい数・家族数は多いといわれるが、この調査対象者については、必ずしもあてはまらない。
表5 家族人数(本人含む) Mean 4.042
| 総数(%) | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7〜 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 216(100.0) | 7(3.2) | 21(9.7) | 47(21.8) | 65(30.1) | 46(21.3) | 20(13.9) |
表6 家族形態
| 総数(%) | 3世代型 | 2世代型 | その他 |
|---|---|---|---|
| 216(100.0) | 32(14.9) | 176(81.5) | 8(3.8) |
表六は、回答者の家族形態を示したものであるが、調査対象が学生であるため、ひとり住まいの場合は実家のことについて回答してもらっている。三世代型とは、祖父母の両方あるいは片方、および、両親の両方あるいは片方と同居の場合であり、二世代型とは、両親の両方あるいは片方と同居の場合である。一見して分かるとおり、二世代型つまり核家族型が趨勢を占めている。在日一世達の高齢化が進行したことなどの影響もあるだろうが、調査時点において一世世代と同居し、家庭内でその民族文化を伝達されつづけているという層は、少数である。
本節では、ここまで調査の母体となった留学同の特性を概観し、調査対象者のデモグラフィックな側面を紹介してきたが、次節からは、エスニシティはいかにして測定可能か、そしてそれはどのような形成過程を持つものなのかということについて、実証的に論じていくことにする。
3 民族的求心力の測定論
はじめの節では、民族的内実を規定するにあたって、単純な帰属意識だけではなく、民族的な志向性の発露全体を見据えた議論が必要なことを論じた。そのような志向性のことを、ここでは民族的求心力と呼ぶことにする。
これまでのエスニシティ研究において、民族的求心力が発現する形態として、大きく二つの方向性が指摘されてきた。その一つは、民族的同胞集団との情緒的紐帯を重視する志向性であり、もう一つは、民族的な問題状況を意識した手段的な色彩の強い志向性である。前者の視点が「原初的 Primordial アプローチ」から、また後者が「動員主義的 Mobilizationalist アプローチ」から強調されてきたことは、周知のとおりである(11)。
表7 民族的求心力の指標群
| 関係志向 | 主体志向 |
|---|---|
| Y1)恋愛の対象 | Y5)政治的知識の獲得 |
| Y2)日常の交際対象 | Y6)民族的書籍の参照 |
| Y3)民族教育の継承 | Y7)民族問題の議論頻度 |
| Y4)結婚の対象 | Y8)本名使用度 |
今回分析に用いる変数の中で、民族的求心力を測定するためものは、表七に示した八つの指標からなっている。これらの指標は、上に述べた二つの志向性に着目して操作化したものである。
関係志向とは、同胞との情緒的紐帯を求める志向性のことである。関係志向を構成する指標については、日本社会への文化的統合が高度に進行している在日朝鮮人の若年層にとって、同胞集団との社会的ネットワークを構築・維持しようとする志向性が適切であるとの判断から、Y1, Y2, Y4 を設定した。また、世代継承性を操作化した Y3, Y4 は、やはり民族的同胞集団との連携を重視する関係志向の立場によく適合するであろう。
一方で主体志向の方は、一定の問題意識や自覚的な行為規範を必要とするような項目を操作化してある。例えば民族名については、原初主義の立場を代表する H. R. Isaacs が「基本的集団アイデンティティ basic group identity 」を構成する代表的な例として取りあげたものではあるが(12)、民族的マイノリティが対外的に民族名を日常提示するには、同胞集団に対する親密な愛着だけでなく、むしろ自覚的で戦略的な意志が必要だと考えられるため、本名使用度は主体志向の指標としてある。
以上のような操作化の過程が、統計学的に妥当性を持ちうるかどうかを確認するために、八つの指標にたいして主成分分析を適用した(表八)。 表八を見ると、共通性(Communality)と第一主成分の因子負荷量(Factor1)はいずれも 0.6 前後で安定して高い値を示しており、全指標が総じて民族的求心力をよく代表していることが分かる。
一方、第二主成分に着目してみると、関係志向の指標群と主体志向の指標群が、それぞれ正負の象限に分離しており、民族的求心力の指標群を二つの概念に分節化することは、統計的にも妥当だと判断される。またこのことは、民族的求心力を操作化した八つの指標から、全分散の55.8%を説明する主成分が二本抽出されているということからも確認できる。
表8 民族的求心力の主成分分析
| Factor | Eigenvalue | Cum Pct |
|---|---|---|
| 1 | 3.35118 | 41.9 |
| 2 | 1.11504 | 55.8 |
| 3 | .83066 | 66.2 |
| 4 | .75001 | 75.6 |
| 5 | .57327 | 82.8 |
| 6 | .54833 | 89.6 |
| 7 | .46939 | 95.5 |
| 8 | .36214 | 100.0 |
| Variable | Factor1 | Factor2 | Communality |
|---|---|---|---|
| Y1 | .65708 | -.47300 | .65548 |
| Y2 | .75989 | -.24592 | .63790 |
| Y3 | .63321 | -.02214 | .40145 |
| Y4 | .53861 | -.56148 | .60536 |
| Y5 | .43928 | .50819 | .45122 |
| Y6 | .68694 | .38182 | .61767 |
| Y7 | .72669 | .26895 | .60041 |
| Y8 | .67677 | .19673 | .49671 |
したがって、この主成分分析の結果からは、@全8指標がいずれも民族的求心力を代表する指標としての妥当性を備えていること、A民族的求心力は、関係志向と主体志向とに分節化されうること、という二点が明らかになったと言えるだろう。
しかしながら、民族的求心力に影響を及ぼす二つの因子の間に、完全な直交関係を想定するのは、社会的リアリティという観点からして難点を抱えている。また、探索的因子分析による単純構造の推定は、潜在的因子の識別に純粋性が欠けるという点や、独自因子に強い独立性を仮定しいるという点から、やはり問題点を含んでいる。
そこで、主成分分析の検討で明らかになった二点をあらためて確認するために、民族的求心力の八指標を、確証的因子分析に適用した(図一)。
図内の下部に示した各指数は、モデルと実測値の適合度を示すものである。代表的な適合度の指数は、GFI(Goodness of Fit Index)と AGFI(Adjusted Goodness of Fit Index)だが、これらはいずれも経験的な水準(0.9以上)を十分に満たしており、かつ両者のずれも少ない。

n=188 d. f.=16 χ2=20.82 χ2/d. f.=1.30 GFI=0.97 AGFI=0.94 RMR=0.04
以上、適合度を示すどの指数を検討しても、この測定モデルについて、実測値との適合度の良さを確認することができる。したがって次は、各パラメータの具体的な推定値について考察していくことにする。推定値はすべて完全標準化解である。
関係志向と主体志向を構成する各測定変数からの因子負荷量は、いくらかのばらつきはあるものの、もっとも低い値を示した係数でさえも 0.41 であることを考えると、いずれも安定して高い値を示していると言えるだろう。このことから、特定の測定変数に大きく偏ることなく、各四変数のすべてが、それぞれの潜在概念をバランスよく代表しているということが分かる。
次に関係志向と主体志向との間の相関係数であるが、これは 0.69 という値を示している。この数値は、両者の分散の重なりが 48 %に満たず、それぞれを別の概念であると規定することが可能であるということを意味している。しかし、この種の社会調査において概念間に 0.69 という相関係数が見られるということは、たとえ分散の重なりが半数にわずかに満たないとはいえ、やはり非常に大きな値であることは間違いない。両概念の間にこれだけ強い親和性があるにもかかわらず、それを2つに分節化することが妥当であるかどうかという問題については、これにつづく議論の中で最終的な結論が導き出されるであろう。
こうした問題が存在するとはいうものの、以上の検討から、@各測定変数がそれぞれの潜在概念をバランスよく代表していること、A両潜在概念を相互に分割することが統計学的に可能なことという、ここでの測定論にかかわる、もっとも重大な二つの問題が検証されたと考えられる。
したがって以下の節においては、ここで議論した測定論に立脚しつつ、民族的求心力を分節化した二つの志向性が、それぞれいかなる形成過程を持つものであるかを特定化していくことにする。
4 民族的求心力の形成論
前節で測定した民族的求心力は、どのような動因によって形成されるものであろうか。
原初的アプローチを代表する一人と目される H. R. Isaacs は、獲得的で二次的なアイデンティティとは異なる、生得的であって所与のものであるアイデンティティについて論じており、それは民族的同胞集団に所属することによって派生するとしている(13)。
彼の議論にならうならば、民族的同胞集団への所属、言い換えると、生育過程における一次的な民族的同胞集団との接触頻度こそが、民族的求心力を形成する重要な要因だということになる。
そこで、一次的な民族的同胞集団との接触頻度を規定する要素として、居住地域が同胞集住地域であるか否か(居住地域内の同胞数)と、民族学校において教育を受けたことがあるかどうか(民族学校での教育年数)という二点を、説明変数に設定することにした。
もちろん、民族的同胞集団との接触頻度を規定するものとしては、他に家族・親族内ネットワークなどが考えられる。しかし、家族・親族内ネットワークによる効果は、単純にその総量によって数量化することは困難なため、例えば宗教儀礼や通過儀礼の開催・参加頻度、家族レベルでの民族組織への参加頻度などにより、多元的に測定しなければならないものであるが、この調査データでは調査票の制約から測定変数に含められていない。
一方、動員主義的アプローチからは、民族的求心力を形成する動因として、「利害」や(14)。つまり、社会的資源の希求こそが、利害集団としてのエスニシティを統合するという考え方である。
しかしながら、社会的資源の希求水準をそのままの形で操作化し、質問文化することは困難である。例えば、「あなたは…が望ましいと思いますか」「あなたは…が必要だと思いますか」「あなたは…が欲しいと思いますか」、などのような質問文は、確実にイエス・テンデンシーを引き起こすからである。
そこで、社会的資源の希求水準を間接的に表現するものとして、相対的剥奪感を説明変数に設定した。周知のとおり、相対的剥奪感とは、ある欲求の希求水準と達成水準との乖離によって生じる不満感のことである。今回用いた指標は、「生活条件(X5)」「社会制度(X6)」「固有文化(X7)」「医療(X8)」「教育(X9)」の五つの設問からなっており、すべて「とてもそう思う」から「まったくそう思わない」までにいたる四段階尺度になっている。
次に、動員主義的アプローチの立場を代表する別の変数として、留学同での活動年数を考えた。社会学的な常識からすると、団体への参加とは、主体的な行為の選択あるいは獲得的な体験であって、原初的アプローチが強調するような、一次的な同胞集団への所属ではない。むしろ逆に、動員主義の立場から主張されるように、「利害」の達成を目的とした手段的な行為の選択だと考えるほうが説得力があるだろう。
しかしながら、調査票の中で直接、留学同での活動年数を尋ねるような設問は設けていなかったため、回答者の年齢で近似的に代表させることにした。年齢よりもむしろ学年の方が妥当だと思われたが、学年の分散にはあまりにも正規性が乏しいため、比較的まともな年齢を用いることにした。ちなみに年齢と学年の相関係数は0.77である。
そして最後に、いわばコントロール変数として、性別を説明変数に用いることにした。ただし性別はコントロール変数という役割に留まるものではない。在日朝鮮人社会に今でも根強い男性中心的な価値観に対して、現代的な価値観に覚醒してきた在日女性が不快感を強めてきたことにより、同胞社会との接触、特に同胞男性との結婚に消極的になってきているとの指摘もある。そして官庁統計からは、後者を間接的に裏付けるようなデータも読み取れる。
しかしながら逆に、一九八五年に改定されるまで、日本の国籍法が男系的な形態をとっていたことにより、日本人男性との結婚によりもうけた子供は日本国籍を取らざるをえなかった。これによって、在日朝鮮人社会の間には、同胞女性が日本人男性と結婚することについて強い禁忌観が生じているということも考えられる。
つまり、在日朝鮮人の民族的求心力に及ぼす性別の影響は、現在のところ、明確には確認されていないのである。今回は、留学同という集団に限定した形ではあるが、性別による民族的求心力への効果を特定したい。

***はp<.01 **はp<.05 *はp<.10 ( )はn.s.。 n=172 R2=0.73
d. f.=98 χ2=148.71 χ2/d. f.=1.52 GFI=0.91 AGFI=0.86 RMR=0.06
図二を見ると、AGFI がやや低めに出てはいるものの、その他の指標は良好な値を示しており、このモデルと実測値との適合度は、おおむね望ましいと言えるだろう。
以下、外生変数からの因果的効果を吟味することにより、民族的求心力がどのようにして形成されるものであるかを論じていくことにする。
図中に直線の矢印で示したものは外生変数からの因果的効果であるが、関係志向の形成にもっとも大きな影響を及ぼしているものは、民族学校での教育年数である。また、民族学校での教育年数と同様に、「一次的な同胞集団との接触頻度」として想定した居住地域内同胞数からも、少なくない影響を受けている。
このことから判断すると、原初的アプローチから指摘されてきたように、一次的な同胞集団との接触頻度は、(在日朝鮮人学生の)民族的求心力の形成に対して、確かに有意な効果を持っていると言えるだろう。
しかしながら、視点を主体志向の方へ移してみると、民族学校での教育年数と居住地域内同胞数からの影響力は、統計学的に有意な値を示してはいるものの、関係志向へのそれと比べると、大きく後退していることが分かる。つまり、一次的な同胞との接触頻度は、かならずしも民族的求心力の形成全体に、普遍的な効果を持つものではないということが、ここで明らかになったと言える。
さて次に、主体志向の形成に着目すると、もっとも大きな影響を及ぼしているものは、留学同での活動年数である。政治色の濃い民族組織での活動経験の蓄積が、戦略的なアイデンティティの形成を強く左右し、主体志向へ影響を及ぼすという構図は、実に正当なものと理解されるであろう。
そして、動員主義的視点から導入したもう一つの説明変数である相対的剥奪感も、それに次ぐ大きな影響力を示している。
この2点から明らかなように、動員主義的アプローチから主張されてきた「利害」や「手段」というキーワードは、民族的求心力の活性化を考える上で、非常に有効な概念であると言えるだろう。
ただし、一次的な同胞との接触頻度で論じたことと同じように、これらの要因が、民族的求心力全体の形成に、均一な影響を及ぼしているというわけではない。相対的剥奪感からの効果は、主体志向と関係志向の両方に対して同じ様に高い値を示しているが、留学同での活動年数については、統計水準を十%まで落としても、関係志向に対して有意な影響が検出されていないからである。
民族的求心力を解明する際に、「利害」や「手段」などのキーワードは、あくまでもそれが有効でない側面を持つという可能性に留意した上で、用いられるべきものと言えるだろう。
最後に、性別の効果について論じることにする。性別については、関係志向に対してマイナスでやや弱めの影響が見られるが、主体志向については、有意な効果を及ぼしていない。関係志向にマイナスの効果があるということは、女性ほど、同胞との情緒的紐帯を求める志向性が強いということを意味している。もちろんこれだけでは、なぜ女性ほど関係志向が強いのかということは不明である。また、留学同というサンプルの特殊性が現われただけという可能性もある。したがって、性別による民族的求心力への効果というテーマは、引き続き研究が必要な領域だと思われる。しかしここでの結果は、少なくとも続く研究に対して、一つの論点を提示するという役割を果たすものではあるだろう。
さて、ここまでの分析で明らかになったことを、以下に総括しておくことにしよう。
また、上記の三点により、次のことが結論づけられる。
5 議論
本稿での分析でもっとも明確に示されたことは、民族的求心力は、その志向性の相異によって分節化することが妥当だということと、それぞれの志向性を形成する要因は、相互に異なっているということであった。
そしてこのことは、「エスニシティ」を単一の統合力を持つ存在として安易に規定するような論点は、誤った(あるいは不正確な)結論を導く可能性があるということを示唆するものでもある。
例えば、エスニシティ研究が盛んになった七十年代、原初的アプローチと動員主義的アプローチをとる研究者の間に、視点の妥当性をめぐって議論が表面化した。この議論について筆者は、各立場の研究者が、民族的求心力の「関係志向」的側面か「主体志向」的側面のいずれか一方のみを、「エスニシティ」の顕在形態として認知していたことに起因するのではないだろうかと考えている。
James MaKay が、両アプローチの問題点と有効性を指摘しながら、両者を統合する視点を明確に提示して以来、いずれか片方の視点のみで「エスニシティ」を記述しようとする論者は少なくなった。しかしながら、こと計量的実証研究に限って言えば、やはり「エスニシティ」を単一の統合的存在として捉えようとする視点は、いまだ多く散見されるように思われる。国民国家や単一民族国家の擬制性を、もっとも強く指摘し続けてきたエスニシティ研究者が、エスニシティの単一性神話からは解放されないでいるとしたら、なんとも皮肉なことだと言えないだろうか。
現在、多くの研究者が注目するようになった multi-ethnics の視点と同じように、本稿が、「単一性」の呪縛を指摘する働きを少しなりとも果たすことができるようにと期待している。
最後に、本分析の問題点と限界を指摘しておかなければならないだろう。
今回の分析は、民族的求心力に関する計量研究の空隙をうめるという目的を持ったものであるため、たとえばアウト・グループとの接触形態などは考察の対象としなかった。このことによって、グループ・ダイナミックスやエスニック・バウンダリーを論点とする研究者の関心には、応えるすべを失うことになっている。
この問題については、社会的ネットワークについての詳細なデータを同時に採集することで対応できる可能性もあるが、日常的な接触がむしろアウト・グループに限定されていることの多い在日朝鮮人の青年層にとって、どれほどの影響力を確認できるか疑問である。ただし、今回の調査のように留学同を対象とするか、あるいは「同胞企業」の経営者や同胞集住地域の居住者、民族学校の在校・卒業生などにサンプルを限定することが可能であれば、何らかの知見が検出されることも考えられることである。今後の検討課題として認識しておきたい。
また、今回の調査データが、分析に含めるべき変数の不備という問題を残している点を指摘しておかなければならないだろう。たとえば、調査対象がまだ大学生であることなどから、調査票に社会階層を代表する変数は含められていない。また、生育過程における民族的接触体験などについても、考察の対象になっていない。これらのことは、社会学的調査として重大な損失だと言わざるをえないだろう。
もちろん分析に含める変数群というものは、質問時間の限界などを代表とする様々な制約もあり、あらゆる関心に対応できるだけの変数を網羅するということは事実上不可能である。しかしながら先行する関連領域の知見や、理論上の洞察を十分に支えるだけの妥当性を備えていなければならないということも明白である。したがってこの点についても、次回の調査で早急に対応する予定である。
本稿は『年報人間科学』第15号(1994年)に掲載されたものです。本稿の全文を著者に無断で転載または引用することを禁じます。