創氏改名
寄稿者 カン・ソンウ

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 このまえ創氏改名についての議論があったので私も一筆加えます。まず,儒教の影響が今よりもずっと強かった当時の朝鮮では,祖先から伝わった姓と父母から受けた名前を変えることは,不孝の極まりであるとして一般的に考えられないことでした。にもかかわらず大部分の人々が名前を変えたことは,直接あるいは間接的な強要なくしてはできなかったことなのです。

背景

 私は平壌で育ちました。小学校の二年生(昭和14年)になったら,小学校と中学校(正確な名前は,朝鮮人の学校は公立と私立ともに普通学校と高等普通学校でした)で,それまで毎週一時間あった朝鮮語の授業がなくなりました。そして「内鮮一体」「国体明徴」等のスローガンが学校と街で多く見えました。学校の名前も小学校と中学校に変わり,神社参拝とか教育勅語の暗記もさせられました。さらに「国語常用」をさせて,少しでも学校で朝鮮語で話をするのが先生に見つかったり,または知れたりしたら,罰を受けました。それから毎朝「皇国臣民の誓」をとなえさせられました。今でも憶えています。

 中学校では「皇国臣民の誓詞」  これに続いて昭和14年に「創氏改名」をはじめさせられました。

創氏改名

 創氏改名の発表があってしばらくしたら,家でもまた訪ねてくる大人たちもそのことだけを話しているように見えました。その内容は,創氏改名はしたくない,しかしもししなかったら罰を受けるかまたは将来困ることが起こるのではないかと心配することでした。政府では薦めるだけで,したがわない人々にどうするかについては何の発表もなかったのです。クラスでは時々先生が「今日は誰々が創氏改名をどの様にした」とほめて,ほかの児童たちにも早くするようにすすめました。

 それからしばらくたったら「田舎では多くの人が創氏改名を強要された」との噂が立ちました。また平壌や京城(今のソウル)でも強要があったと聞きました。後で直接本人から聞いたことですが,彼はソウルで小学校の担任先生から「お前は何故まだ創氏改名をしていないか。お前のお父さんは専門学校の教授だからこう云うことをよく知っている筈ではないか」と言われ,また散々なぐられて,家に帰されたそうです。彼は泣きながら家にもどって父母にこのことを話したそうです。

創氏改名のしかた

 時がたつにつれて多くの人々は有形無形の強要と,しない場合の将来に受ける悪影響を恐れて,名前を最小限変えることにしました。そうした人々の大部分は自分たちの現在の名前がすぐに分かりうるようにしたのです。たとえば金大植という人がその姓に一字をつけて金田大植とか金山大植とかにしたのです。また,日本でジャズバンドのリーダーで知られた古屋潤は本名が崔到禎でしたが,その姓崔をくずして山佳(ヤマヨシ)にしました。さらに,ある人は自分の姓の本貫(発祥地)も分かるように変えました。たとえば金大植の本貫が金海であれば金海大植にしたことです。

 昭和16年に中学校に上がってみたら,一年生220名のなかに名前を変えなかった生徒は5〜6名でした。そのなかには変えなくてすませられる人もいたのです。例えば,林大植(リンタイショク)は,日本に林という姓が多くあったためにハヤシタイショクと呼び方を変えただけですましました。

 名前を変えることで起こった悲劇もありました。ある人はついに強要に負けて名前を変えることに同意しました。いろいろ考えたすえ,祖先から受けた姓を変えるものは畜生と同じだとして姓を犬子としたのです。犬子は韓国語のケジャシク(畜生の意)の直訳です。

 ある田舎に×炳夏(姓は忘れました)がいました。彼も強要に負けて,はらいせいに姓を天野に変えました。それで普通はアマノヘイカで通しましたが,親しい人々の前ではテンノヘイカでした。それが警察に知れてひどくなぐられました。

 創氏改名は有名人あるいは高位官職にいた人々は強要はなく,また彼らは恐れる必要もなかったと思います。たとえば,例の洪思○(たつへんに羽)陸軍中将や金錫元陸軍大佐,また昭和15年芥川賞候補になった金史良(本名金時昌)です。その反面,声楽家長田絃二郎とか香山光郎(本名李光秀)みたいに完全に日本式に変えた人々もいました。

その後

 上記のように,日本は朝鮮人の皇国臣民化を積極的に始めたのです。しかしそれはあくまでも「内鮮一体」的なものではなかったのです。小さな例として,米の配給が始まってから中学校で昼食時にパンの配給がありました。そのパンは日本人の通う中学校では白いパン,朝鮮人だけが通う中学校では黒いパンでした。それをあの時の生徒たちはみんな知っていながら,誰も何も言わなかったのです。

 上級学校の入学許可には大きな差別がありました。昭和18年頃には朝鮮人青年にも徴兵令がしかれ,また未婚の若い女子たちを挺身隊員として徴発しました。これは都会では虚偽の甘言で,田舎では強制的に,したのです。それで田舎では,これを「娘の供出」と言いました。なぜかと言えば,各農家では耕作する田の面積によって配当された量の米を供出するのと同じように,戸籍を調べては各家庭に娘たちの徴発数を配当したのでした。そのときは知らなかったのですが,これで彼女たちは慰安婦になったのです。


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