| * 本論文は解放社会学研究10(1996年)に収録されたものです。本論文の全文を,著者あるいはWebmasterに無断で加工,引用,転載,配布することを堅く禁じます。 |
1 はじめに
1970年代前半の日立就職差別裁判闘争における原告側の全面勝訴は,在日韓国・朝鮮人にとって,ひとつの時代を画する大きな出来事であった。それまで日本は“仮の宿”と考えていた在日韓国・朝鮮人にとって,もはや日本は“定住の地”であること,それゆえ,在日としての権利主張,人権獲得が必要不可欠な課題であることを,明らかにしたのだ。
本稿は,この裁判を提訴し原告として闘いを担った朴鐘碩【パク・チョンソク】の生活史を素材として,彼のアイデンティティの葛藤と変容について考察するものである1)。彼の生活史は,日本人・日本社会への同化から,日立就職差別事件を契機とした在日韓国・朝鮮人としてのエスニック・アイデンティティの確立への変容を示している。分析の手法としては,生活史事例を「解釈・分析志向」2)に依拠して記述,考察をおこなおうと思う。それゆえ,本稿は,まず朴鐘碩の生活史を分析するための諸概念を提示し,そして,それらの概念をもちいて生活史を記述,考察し,最後にその総括をおこなうという構成をとる。
2 分析概念
あらかじめ,朴鐘碩の生活史を記述し考察するための概念を用意しよう。本稿でもちいる分析のための主要な概念は,「社会化」と「アイデンティティ」の2つである。
まずはじめに,「社会化」について検討しておこう。
社会化論の理論的潮流は,T.P.ウィルソン[Wilson 1970]にならえば,規範的社会化論と解釈的社会化論の2つに大別することができよう3)。規範的社会化論とは,構造機能主義によって代表される社会化論であり,社会化を社会体系の機能的要件とし,状況が直接的に行為を規定すると考えるため,社会化における規定的要因を重視する。解釈的社会化論は,シンボリック相互作用論によって代表される社会化論であり,状況が直接的に行為を規定するわけではなく,状況は行為者の絶えざる解釈過程のなかで再規定されていくと考える立場である。それゆえ,社会化における行為者の解釈的プロセスを重視する。
しかし,規範的社会化論と解釈的社会化論は,両立しえないパラダイムというよりは,相補的なパラダイムと考えられよう。そして,朴鐘碩の生活史の事例も,この両者の社会化の過程を含むものである。それゆえ,社会化における規定的要因と行為者の解釈的過程の双方が,朴鐘碩の社会化のありようを考察する上で必要となろう。
社会化によって伝達されるものはさまざまであるが4),とくに私は「役割」と「志向性」に注目したい5)。これらを社会化との関連において定義すれば,役割とは規範的社会化過程のなかで伝達される内容をさし,志向性とは解釈的社会化過程のなかで獲得される内容をさすものといえよう。
また,社会化の議論においては,社会化を規定し,社会化の内容を伝達するものとして,「重要な他者」が注目されてきた。朴鐘碩についても,両親や兄弟姉妹,そして裁判闘争をつうじて知り合った人びとが,彼の社会化とアイデンティティの形成に影響をあたえている。ただし,「重要な他者」は,社会化の規定的要因として取り上げられることが多かったが,前述のとおり,一方的な規定ではありえず,行為者の解釈過程を伴うものである。それゆえ,本稿で「重要な他者」に注目するさいには,その規定的過程と解釈的過程の双方に留意したい6)。
つぎに,「アイデンティティ」概念と,それに関連して「自己イメージ」の概念について検討しておこう。
「自己イメージ」とは,文字どおり,個人が自己について抱いているイメージをさす。その内容は多岐にわたるが,自己像を記述的に把握するにとどまらず,評価を含むことが多い。自己イメージは,重要な他者による反応・評価の情報と,本人の直接経験による吟味とをとおして,本人によってたえず構成され,また再構成される7)[小嶋1993:543]。私は,本稿において,社会化論との関連において,「自己イメージ」がどのようにして形成されていくのかを見ていこうと思う。主体が自分自身という存在を肯定的にとらえるとき,それを「ポジティヴな自己イメージ」と呼ぼうと思う。ぎゃくに,自分自身を否定的にとらえるとき,それを「ネガティヴな自己イメージ」と呼ぶことにしよう。
「アイデンティティ」の概念は,この「自己イメージ」の概念との関連において把握される。すなわち,「アイデンティティ」とは,自己イメージが持続し一貫しているという認識と感情が個人によって宣言され,かつ,それが他者の評価によって社会的に位置づけられており,それゆえに,自己の存在の社会的意味づけの確信が形成されているものと考えたい[草津1978:115]。つまり,本稿では,アイデンティティとは,自己イメージの社会的に共有された個人的一貫性を意味する。アイデンティティの安定した状態では,自己イメージの個人的一貫性と社会的共有性は双方とも安定的であるが,アイデンティティの危機的状態では,その個人的一貫性と社会的共有性のどちらかもしくは双方が崩壊した状況にあるといえよう。
以下では,これらの分析概念にもとづいて,朴鐘碩の生活史を考察しよう。
3 朴鐘碩の生活史とアイデンティティの変遷
3−1 幼児期におけるエスニシティ継承の消極性
朴鐘碩は,1951年,愛知県西尾市で,9人目の子ども(5男)として生まれた。朴鐘碩の父母は戦前に渡日している。それは,日本の朝鮮半島の植民地政策の結果,郷里の農村では生活できなくなったためである。日本の敗戦後,朴一家は帰国するつもりだったが,たとえ帰国しても仕事がなく乞食のような生活だといううわさを聞いて,日本に留まることになった。
敗戦直後は,日本の各地に在日朝鮮人の子どもたちのために民族学校が設立されるが,すぐにも弾圧される。朴鐘碩の父母は,民族学校がつぶされ,子どもたちを日本の学校に入れるようになってからは,日本の役人にさからって,日本から追い出されては大変だという意識を持つようになり,ひたすら日本人らしく装って,家のなかでも子どもたちに日本語しか話さないような態度に変わったという。
1950年代の在日朝鮮人の子どもたちをめぐる社会化の状況は,エスニシティの継承という軸に焦点をあてるならば,理念的に2つに分けることができる8)。ひとつは,朝鮮人エスニシティの積極的な継承を意図した社会化であり,いまひとつは,朝鮮人エスニシティの継承に消極的な,あるいはエスニシティの継承を意図しない社会化である。朴鐘碩の幼児期の社会化のありようは,後者のそれであった。
エスニシティ継承の指標として,以下の4つを一般的なものとしてあげることができるだろう。学校の選択(民族学校か日本の公立学校か),名前の選択(本名か通名か),出自の子どもへの伝達の有無,文化的慣習継続の有無(チェサを継承しているかどうかなど)である9)。これらの項目の前者を選択すれば,朝鮮人エスニシティ継承の社会化により積極的,後者を選択すればより消極的といえよう。ソーシャライザーである両親が,これらの項目をどう選択するかで,以後の子どもたちのアイデンティティ,生き方を大きく左右することになる。朴鐘碩の場合,これらはすべて後者に収斂することになり(ただし,チェサの継承の有無については,ライフドキュメントのなかでまったく言及されていなかったので,単純にそう断定することはできないが),朝鮮人エスニシティ継承の社会化により消極的であったということができる。
朴鐘碩の社会化が後者へと収斂した背景には,日本政府の民族学校弾圧に象徴される在日韓国・朝鮮人にたいする抑圧政策があった。1950年には,朝鮮戦争が勃発し,在日韓国・朝鮮人の帰国は事実上閉ざされていた。朴の両親は,それらの事件をつうじて「日本から追い出されては大変だという恐怖感」を持つようになり,子どもの社会化をめぐって後者を選択することになる10)。
3−2 学校社会への参入と社会化状況の変化
朴鐘碩は,1958年4月に西尾市内の小学校に入学する。彼はそのとき日本名である「新井鐘司【あらいしょうじ】」を用いていた。朴一家の4人の子どもたちが同じ小学校に通っていたが,彼の兄や姉も全員日本名で通っていた。しかも,小学校入学段階の朴鐘碩は,日本人として自己同定を行っていた。両親からも,自分が「朝鮮人」であることは告げられていなかったのである。これらは,両親の社会化選択の反映であり,またそれを強制した日本社会の様相の反映でもあった。
家族の枠内にとどまっていれば,彼の自己同定は日本人のままであったろう。しかし,朴鐘碩が就学時期にさしかかり学校社会へと参入すると,アイデンティティの揺れを経験することになる。その象徴的な事件が,彼が級友たちから「チョーセンジン」とののしられたことであった。彼はそのことについて「自分が,同級生から見下げられる人間であることに気づくようになりました」と書き残している。彼は,この事件以後,自己イメージにネガティヴな意味づけをおこなっていく。
ここで,朴鐘碩の学校社会への参入が,彼の社会化状況にどのような変化をもたらしたのか考えてみたい。近代産業社会における子どもの社会化状況を単純化して示せば,核家族システムの境界の壁が厚くなることによって,ソーシャライザーという役割は親によって独占的に担われるようになる。そして,子どもの社会化にかかわる親以外の他者は,親を介して間接的に子どもとかかわる[渡辺秀樹1989:33-6]。幼児期における朴鐘碩は,このモデルと同様に,親がゲートキーパーとしての一貫性を保持しており,それゆえ,日本社会からの朝鮮人にたいするネガティヴなイメージからは遮蔽されていた。
しかし,彼が学校社会へ参入すると,これまでゲートキーパーとして情報の取捨選択をおこなってきた親が,社会化の一貫性を保持することができなくなる。彼にたいして,親以外の他者,ここでは学校社会であったり仲間集団であったりするわけだが,彼らが親というゲートキーパ―を経由せずに,直接的に朴鐘碩に影響を与えることになる。親を介さない外部社会との接触は,外部社会における朝鮮人へのネガティヴな評価にさらされることになる。
以上のように,朴鐘碩の学校社会への参入という出来事は,ゲートキ―パーを介さない外部社会との接触可能性の増大という社会化状況の変化をもたらしている。彼は,親からの社会化によってではなく,学校社会における仲間集団との相互作用のなかで,朝鮮人としての自己の出自に気づかされ,ネガティヴな自己イメージを形成していく。
朴鐘碩は,社会科の時間に朝鮮半島の話が出ると,「顔を上げることができない思いでした」と語っている。「先生の話す朝鮮はつまらない国で,みんなが私をさげすみの目で見るような気がして,早く時間が終わってしまえばいいと,そればかり念じ続けたものでした」。小学校段階で彼が受ける朝鮮人としての社会化には,たえずネガティヴな意味が付与されているのだった。克明につづられた彼のライフドキュメントには,朝鮮人にたいするポジティヴな意味付与について一言も記されていない。
彼は,以上に述べたことに加えて,家庭の貧しさもネガティヴな自己イメージの形成に一役かったと記している。近所の子どもたちと野球をしていて窓ガラスを割り,みんなと弁償することになるが,そのお金が出せなくてみんなからさげすまれ仲間はずれにされたことなど,ほかにも多くの貧困にかんする象徴的な出来事がドキュメントのなかに報告されている。
3−3 同化志向と個人志向に立脚したアイデンティティへ
朴鐘碩は,1964年に西尾市内の中学校に入学する。彼は小学校段階と同様,日本名の「新井鐘司」を用いていた。しかし,中学校段階に入ると,彼の状況は大きく異なってくる。彼は,小学校段階では,ただ自分が嫌で嫌でしょうがなかったが,中学校段階では,そのような自分から脱却するモデルを兄姉の生き方から見出そうとしている。この時期になると,兄姉が成長して独立するようになり,彼らは日本人らしくふるまってこぎれいにしていた。朴鐘碩はそのような親族の様子から,このまま勉強していけば自然に日本人になれるものと考えていたようである。朝鮮人から日本人へとスマートに脱却していこうとしていた・・いるように見えた・・兄姉を,将来の自己のモデルとして位置づけていたのである。
彼は,小学校段階とは異なり,学校生活のなかで自信をつけるようにもなった。ひとつは成績の上昇である。小学校では成績は中の上くらいだったが,中学校ではつねに学級のトップクラスに位置していた。そして,生徒会の役員や級長をやるようになった。彼はこのような中学校段階での経験から,「努力をすればかならず報いられるという気持ちが強くなり,私は,日本の社会でかならず出世してみせるという,淡い夢を抱くようになりました」と,書き残している。
以上の記述から,彼は兄姉という重要な他者をとおして,2つの志向性を役割として取得していることがわかる。その2つとは,同化志向役割と個人志向役割である11)。彼は,自然と日本人になること(同化志向役割の取得)で,さらに自分の能力を高め自己実現を図ること(個人志向役割の取得)で,周囲から付与されるネガティヴな自己イメージを払拭し,ポジティヴな自己イメージを獲得できると考えたのである。このふたつの役割は,重要な他者である兄姉から,明確な役割期待をもとにして伝達されたわけではない。同化志向役割の取得については,兄姉は朝鮮人から日本人へと脱却しようとしていたが,その試みが現実に成功していたわけではなかった。だが,彼の解釈過程のなかでは,朝鮮人から日本人になるという同化志向役割は,将来のあるべき自己イメージとして正当化されるのである。個人志向役割は,中学校のなかでの彼の成功(成績の上昇,生徒会役員への就任)と結合し,彼のポジティヴな自己イメージを形成する。
同化志向役割と個人志向役割にもとづいて構築された朴鐘碩のポジティヴな自己イメージは,アイデンティティとして確立され,以後の彼の生き方に多大な影響を及ぼすことになる。
3−4 アイデンティティの揺らぎと葛藤
高校進学にあたって,朴鐘碩と家族は意見が対立した。母や兄は,昼間働ける定時制をすすめた。本人は全日制を希望する。結局,アルバイトして食費を家にいれることを条件に,全日制の商業科を受験し合格する。
1967年,朴鐘碩は愛知県立の高校に入学する。食費を家にいれる約束を実行するために,深夜,名鉄の線路の枕木をあげるアルバイトに通うことになった。しかし,仕事に行くのがだんだん億劫【おっくう】になってくる。その理由について,朴鐘碩は「一緒に働く日本の人たちが休憩時間などに交わす世間ばなしのなかで,朝鮮人のことをひどくあしざまにいうことが,耳についてならなくなったからでした」と書き残している。彼は,最初のうちは聞き流すように努めたが,同じことを何度も聞かされるうちに,自分が卑怯な朝鮮人とばかにされている気がした。
朴鐘碩は,一度は,同化志向役割と個人志向役割に立脚することをとおして,ポジティヴな自己イメージの形成を志向する。そしてそれが,いったんはアイデンティティとして確立される。しかし,日本人になるという彼の決意は,すでに現在の自分が日本人になりきっているという完全な日本人への自己同定ではなかった。それゆえ,彼は同化志向役割によってアイデンティティを確立してはいても,それは完全に個人的一貫性を獲得したものではなかった。日本人の朝鮮人にたいする日常的な侮辱,軽蔑の言葉は,彼のアイデンティティに揺らぎをもたらした。
彼のこのようなアイデンティティの揺らぎは,学校社会への参入による社会化状況の変化とともに,とぎれることなく継続している。彼に必要なアイデンティティの一貫性は,日本社会から彼へのネガティヴな自己イメージの付与をとおして,阻害されてきた。ネガティヴな自己イメ―ジの付与は,アイデンティティの要件である社会的に意味づけられた自己存在の確信の形成を阻害することになり,真に一貫したアイデンティティの獲得を阻害する。彼は,アイデンティティの一貫性を保つことの可能な,真にポジティヴな自己イメージを形成することができないでいた。彼は,そのような苦悩を高校の教師に告げるが,その教師はまったく彼の気持ちを理解することができなかった。どこにいっても朴は,「うっとおしいものを心の中に包み込んだまま」だった。そう思いながらも,同化志向役割と個人志向役割以外に,一貫性を獲得しうるアイデンティティを導き出せない彼は,日本人らしく生きることを目標にして,「自分の気持ちをひきしめる」のだった。
1969年,朴鐘碩も高校3年になると,進路の壁にぶつかることになる。ときは高度経済成長の真っ只中であり,商業科には求人申し込みが殺到していた。彼は,「どうせ申し込んでも,朝鮮人なんか雇ってくれるところはないだろう」と思い,当初から就職に悲観的な気持ちであった。当時,日本は深刻な労働力不足に直面しており,労働市場は大変な売り手市場であった。そのような社会的状況にもかかわらず,彼自身が就職に悲観的になり,また現実に朝鮮人が大企業に入ることができなかったことは,朝鮮人にたいする日本社会の就職差別のすさまじさを物語るものである。
就職希望者は1学期のうちに全員就職先が決まり,ただひとり朴鐘碩だけが未決定のままだった。卒業間近になっても進路が決まらないのは,学年全体で彼ひとりになってしまった。ある日,担任教師に呼びつけられた朴鐘碩は,「朝鮮人でも親切に雇ってくれるところがあるから,そこへ行かないか,おまえのいけるところはそこしかない」と,就職先を強引に押しつけられた。彼は迷ったが,その日のうちに,その会社の人事担当者が来て面接をさせられ,すぐにも入社手続きのための書類を書かされることになった。彼は,商業科出身だから経理の仕事をやらせてくれ,夜間大学に通える暇もくれるのだろうと思い込んで,T鈑金に入社することを決めた。
3−5 日立の採用内定取り消し
高校卒業後,就職先のT鈑金で,朴鐘碩は彼の希望に反してプレス工の仕事をいいつけられる。また,「雇ってやったのだから文句は言わせないという会社の人の態度」に抵抗を感じ,1週間で会社を辞めることになる。アルバイトで食いつないだあと,在日同胞の先輩の紹介で,M製作所でプレス工として働くことになる。だが彼は,同じ高校出身の日本人の大半が企業の事務員として採用されるなかで,彼だけがプレス工として働かなければならないことに,憤りを感じていたようだ。彼は悶々とした日々を過ごす。
卒業してからおよそ4カ月後に,朴鐘碩は,日立製作所ソフトウェア―戸塚工場の募集広告を見つける。彼はこの広告を見て,「日本の最高の社会は,日本の最高の技術は,君に手をさしのべている,君の才能をここでいかそうと思わないのか,と,私に呼びかけてくれているような気が」した。彼は日立製作所に応募する決意をする。
この時期の彼のアイデンティティの構成は,中学段階と一貫していると考えられる。それは,同化志向役割と個人志向役割に立脚したポジティヴな自己イメージの形成であった。「日本の国家や社会の理解ある偉い人たちは,決して,能力あるものを見捨てるはずはないという気持ちが,私の何処かにくすぶっていました」とあるように,社会の評価基準は属性主義ではなく業績主義であると主観的に認識する。さらに彼は,「日本人らしく教育され,日本人らしく生きることを目標としてきた」自分を,朝鮮人を親に持つという理由だけで落とすはずがないと考える。同化志向役割と個人志向役割に立脚して,見かけも中身も日本人となんら変わりがなく,能力的にもけっして他の日本人にひけをとらないと彼は考える。
日本人らしくふるまい,日本社会に同化し,自助努力によって社会的地位の上昇を達成したい。日立に就職し,昇進することによって,朴鐘碩のポジティヴな自己イメージは,はじめて一貫性を獲得することができたはずであった。
朴鐘碩は,日立製作所ソフトウェアー戸塚工場を受験する。彼は,履歴書の本籍欄に「韓国」と書いて,試験も受けられないではねられることを恐れ,本籍欄には日本の出生地を,氏名の欄には日本名の新井鐘司を記入する。そして,32名中7名採用という難関を突破し,採用試験に合格。採用内定の通知を受けた彼は,戸塚工場への赴任の準備に取りかかる。採用通知には,赴任のさいに必要な書類として戸籍謄本の携行が指示されていた。朴鐘碩は,戸籍謄本が取れないこと,自分の本籍が韓国籍であることを連絡する。彼からの連絡を受けた人事担当者は,採用内定を保留とした。再度,朴鐘碩が連絡を取ったところ,採用内定取り消しを言い渡されることになった。
3−6 裁判闘争に立ち上がる
朴鐘碩は,日立製作所から自分が韓国人であることを理由にして採用内定が取り消されたことに,深い絶望を感じた。彼は嘆きと空虚感でいっぱいになりながらも,日立製作所への入社が実現するように仲介してもらうため,高校の元担任教師のところに相談にいった。だが,彼の顔を見た担任教師も,すでに日立製作所から連絡を受けており,彼に朝鮮人として生まれた運命だからあきらめろと慰めるだけだった。
朴鐘碩は,このような状況に直面し,「安酒を浴びるように飲んで憂さを晴らす気にはなれ」なかった。「無意味に生きてきたにせよ,私は自分の生きてきたあかしをたてるために,自分の描いてきたおろかな夢の実体を,徹底的につきつめずにはいられない気持ち」だった。彼の言う「おろかな夢の実体」とは,すなわち,同化志向役割と個人志向役割に立脚したポジティヴな自己イメージであり,自己の将来像である。彼は,同化志向役割と個人志向役割にあまりに密接に結合していたため,これらを容易に捨て去ることはできなかった。彼は,なんとしてでも日立に入社してやろうと考え,西尾の労働基準監督署に相談にいった。監督官は,内定通知段階で労働契約が事実上締結されていると判断し,横浜の労働基準監督署を紹介してくれた。
朴鐘碩は監督官にはげまされ,日立戸塚工場に再三電話をかけて,採用内定取り消しの撤回を求めるが,日立側ではまったく受けつけなかった。これでは埒【らち】が明かないと考えた彼は,たまたま彼の姉が横浜に住んでいたこともあって,横浜に移り,直接,日立戸塚工場に抗議をしようと考えた。だが,日立に抗議しても,相手側から彼が嘘をついた・・氏名欄に日本名を記載したこと,本籍欄に出生地を記入したこと・・と言われ,彼はまともに反論できずもの別れとなっていた。
そのような状況のときに,朴鐘碩は,横浜駅前で,慶応大学のべ平連の学生が入管法問題のビラまきをしているところにたまたま出くわした。彼はそのビラを見て,彼らが在日韓国・朝鮮人問題に関心を持っていることを知り,ひょっとしたら彼らは自分に力を貸してくれるのではないかと思い,半信半疑ながらも彼らに事件の経緯を話した。慶応大学の学生も,在日韓国・朝鮮人を抑圧する入管体制の打破を中心課題にすえて活動をしていたため,困惑を感じながらも,朴鐘碩の事件にかかわることになった。
相談の結果,この事件を裁判として提訴することが決められ,訴訟準備が進められることになる。そこで,弁護士と学生と朴鐘碩とが,共同で訴状を作成することになった。その訴状の内容とは,「原告は,出生以来日本の外に出たことはなく,日本人と同じ生活環境の中に育ち,労働能力も日本人と全く異ならず,あまつさえ原告は,被告会社のような大企業に就職できたことを喜び,前記ヒカリ製作所を正式に退社したやさきに,前記の違法かつ不当な解雇処分を受けたものであって,この精神的苦痛は甚大であり,金銭に置き換えるならば金50万円に相当する」というものであった。要するに,“朴君は日本人とちっともかわらないのに解雇したのは不当だ“という主張であった。
この訴状は,同化志向役割と個人志向役割に結合した朴鐘碩にとっては,自分の意識をそのまま反映した訴状であり,異論の余地はまったくなかった。また,学生や弁護士にとっても,在日韓国・朝鮮人の差別の現実にうとかったため,日本人に同化しきっていた朴鐘碩を所与のものとして認識したのである。
日立に採用内定を取り消されてから裁判闘争に至るまでの朴鐘碩を支えていたものは,同化志向役割と個人志向役割であった。彼が,その両者に強く結合していたからこそ,日立入社を断念することなく,仲間を集め,裁判提訴にまで至ったのだと考えられる。
3−7 裁判途上でのアイデンティティの危機
1970年12月8日,横浜地方裁判所に提訴,事件が朝日新聞の神奈川版で報道された。この報道記事は,朴鐘碩のネットワークを拡張することになった。この記事を見て,在日大韓基督教川崎教会を基盤に教会の青年会活動をしていた在日韓国人,崔勝久【チェ・スング】が,このグル―プのもとを訪ねた。こうして,崔勝久をはじめとして在日大韓基督教会や日本のプロテスタント諸教会の一部の人たちが,この問題にかかわることになった。崔勝久の存在は,朴自身が書き残しているように,「これからの自分にとって重圧となり,彼の叱咤激励が私の生き方に大きく影響し」たのである。
崔勝久と慶応大学の学生は,支援母体となる「朴君を囲む会」の結成準備にとりかかった。そのなかで,訴訟の基本方針や朴鐘碩のアイデンティティに変容を迫る重要な指摘がなされた。つまり,「日本人と全く変わらない朴を解雇したのは不当だ」という主張が問題となったのだ。この主張は,朴鐘碩自身のあるがままの意識の反映であり,同化志向役割と個人志向役割という彼の二重の役割に立脚するものであった。それにたいして崔勝久が,これは同化を促進する内容であり,ぎゃくに,同化した「新井鐘司」という人間を作り出している日本社会のほうが問題であり,その差別の実態を明らかにする必要があると指摘したのだ。
さらに,崔勝久は,当事者である朴鐘碩がどうして日本名を使用しているのか,本名を名乗るべきではないか,そして,今後,勉強して民族の主体性を回復すべきだという課題を突きつけ,朴鐘碩を糾弾した。朴鐘碩は,これまで学校で韓日の歴史を学んだこともなく,なぜ自分が日本名を名乗っているのか深く考えたこともなかった。彼はとにかく日本人になり,自助努力によって能力を高め,日本社会で成功するということしか考えられなかった。彼は崔勝久の言うことが理解できず,ひじょうに戸惑った。それは,彼にとって日立から就職を拒絶された以上の衝撃だったのである。そして,自分の本名が「パク・チョンソク」と読むことを,崔勝久からはじめて教わった。
「朴君を囲む会」という裁判の支援グループの結成後,彼はいっそう衝撃的な事態に直面する。それは,在日韓国・朝鮮人同胞からの朴鐘碩にたいする批判であった。「日本帝国主義の同化政策の延長にすぎない戦後の日本の同化教育にすっぽりつかって骨の髄まで日本化して,まるで,民族的自覚を持たない人間が,何を偉そうに民族差別などといっているのだ。日立という日本の財閥の搾取の道具になろうとしたあさはかな人間が,どうして民族の苦しみを語ることができるのだ」と,朴鐘碩は当時の批判を書き写している12)。
とくに,朴鐘碩が日立を受験するにあたって,国籍を偽り,日本名を用いて就職しようとしたことが,大きな批判の対象となった。また,日本の大企業に就職すること自体が同化につながるものとして非難された。彼がこれまで自己を正当化してきた,同化志向役割と個人志向役割に立脚したポジティヴな自己イメージの形成とアイデンティティの構築が,大きな批判の対象となったのである。朴鐘碩が裁判を提起し,それが在日同胞から批判されることによって,彼はアイデンティティの危機を迎えることになる。
彼のこの時期の荒れ方は,かなり激しかったようである。彼は日に日に消耗し,裁判をやめるとまで言い出すようになった。在日同胞からの批判やいつ終わるともしれない裁判のなかでストレスを感じた朴鐘碩は,それを日本人学生へとぶつけていった。彼は,「朴君を囲む会」の準備会に酒のにおいをプンプンさせながら出席し,「お前ら,みんな点検したる。1人5分以内でしゃべれ」と吠えまくったこともあった。
3−8 アイデンティティの自己点検と再構築
朴鐘碩は,在日同胞からのきびしい批判を受け,みずからのアイデンティティの再構築を試みる。いったん構成されたアイデンティティを,再度構成しなおすことは,ひじょうな苦痛を伴うといわれている。バーガーとルックマンは主観的現実の全面的変化を翻身 (alternation) として定義しているが,翻身にさいしては,主観的現実の従来の慣例的な構造の暴露と破壊という問題に対処しなければならない。それゆえ,翻身にとってもっとも重要な条件は,考え方の全過程を正当化しうる装置が存在することである。正当化されねばならないのは,ただ単に新しい現実だけではない。自分の履歴書のなかの過去の出来事や人物の全面的かつ根底的な再解釈を必要とするのである[Berger & Luckmann 1966= 77:264-75]。バーガーとルックマンの言う翻身の過程は,冒頭で指摘したアイデンティティの個人的一貫性を獲得する過程を扱ったものだということができる。しかし,個人的一貫性だけでは,アイデンティティの危機を克服することはできない。同時に社会的共有性が必要とされるであろう。
朴鐘碩のアイデンティティの再構成についても,その両者の模索の過程ということができる。朴鐘碩にとって,これまで彼の考え方を正当化してきた装置とは,同化志向役割と個人志向役割であった。だが,朴鐘碩は,この両者の役割とそれらにもとづいて構築されたアイデンティティの崩壊という危機に直面した。そこから彼は,アイデンティティの再構築を模索していく。それは,つぎのような営みとして実践されていった。
1つめは,韓日関係,在日韓国・朝鮮人問題を扱った歴史,文学,評論,差別にかんする文献を集中的に読んだことである。とくに,そのなかで彼が知ったことは,在日韓国・朝鮮人の形成過程とその歴史的経緯であった。彼は,自己の存在が日本の朝鮮半島の植民地経営の結果生じたものであることを理解する。それは,自己の同化志向役割と個人志向役割の再考を迫るものとなった。彼は自己の存在を,日常的文脈だけでなく,歴史的文脈のなかで理解することができるようになったのである。2つめは,彼がそれまであまり知らずまた知ろうともしなかった,両親の渡航の経緯や日本での苦難の生活,家族の人たちが受けた数々の被差別体験を知ったことである。彼はたびたび名古屋の実家に帰って,家族から話を聞いた。彼は,そのなかで,これまで家族の人たちにたいして抱いていた認識がまったく変わってきたと語っている。
3つめは,彼自身のこれまでの自己の生活史と,そのなかでの彼のアイデンティティを再点検したことである。これは,回顧的社会化とカテゴライズしうるものであり,成人期の社会化やアイデンティティの危機を迎えたときに,特徴的に見られるものである13)。朴鐘碩は,これまでの社会化のなかで取得した同化志向役割と個人志向役割に立脚したアイデンティティの危機を迎えた。彼は,在日韓国・朝鮮人の歴史的経緯や朴一家の渡航の経緯や生活史を知り,それを自分自身の生活史へと当てはめながら,新たなアイデンティティと自己の役割を模索する作業をおこなった。それを物語るものが,膨大な量の手記であった[朴君を囲む会編1974:237-60]。手記を書くという行為をとおして,彼は自己の再規定という作業をおこなったのである。
それらは,朴鐘碩に自己の朝鮮人観の再考を迫るものであった。それまでの朴鐘碩にとって,朝鮮人という存在は忌むべきものであり,負の存在であった。朴鐘碩は,朝鮮人が嫌だからこそ日本人になりたいと考え,そのためには自己の能力を高めるしかないと考えてきたのである。その場合,彼にとって,朝鮮人を負の存在たらしめたものは,日常的な生活体験を中心としていた。それは,家庭の貧困であり,日常的な朝鮮人への差別であった。だが,それらを作りだしてきたのは,まさしく日本社会であったことを,彼は上述の作業をつうじて認識するのである。つまり,朝鮮人を負の存在たらしめてきた日本社会というものが問題の根元であり,“負の存在である朝鮮人”から“正の存在である日本人”へと同化することによっては,問題の根本的な解決はありえないと判断したのである。
このような自己の再規定によって,朴鐘碩は新たなアイデンティティの個人的一貫性を獲得した。しかし,個人的一貫性の獲得だけでは,アイデンティティの危機から脱出しえない。彼は,この時点ではまだ,アイデンティティの社会的共有性を獲得しえていなかったのである。彼にたいする在日同胞からの「同化裁判」という批判は,なかなかやむことはなかった。そのかぎり,彼は自分にたいして自信を持つことはできなかったし,自己を正当化することもできなかった。
そのような彼にたいして決定的な転機をもたらしたのが,大阪での出張裁判であった。そこでは,朴鐘碩と同世代の青年たちの共通する生い立ちと,にもかかわらず差別に屈しないで堂々と生きる姿が,証言された14)。彼は,「この青年たちの証言を聞き,苦しんで悩んでいるのは私だけではなかった,自分が韓国人として人間らしく成長するためには,日常生活の環境を変えなければいけない,そして,青年たちと苦しみを分かち合い,互いに支えあって生きることが大切である,と痛感しまた」と書き残している。
朴鐘碩は,この証言によって,アイデンティティの社会的共有性を獲得することになった。すなわち,自分が日立を相手取って就職差別撤回の裁判を闘うことは,自分一人の利益だけでなく,同じような状況に遭遇している在日同胞の権益擁護に結びつくと考えられたのである。
彼は,「〔同胞〕青年たちと苦しみを分かち合い,互いに支えあって生きることが大切である」と痛感し,これまで在日同胞とのつきあいを避けてきたが,在日同胞社会とのまじわりを積極的に求めるようになる。彼は在日同胞が集住する川崎市の桜本へと住まいを移し,彼らから多くを学ぼうと決意する。彼は桜本で「祖国の言葉」を学びはじめる。「祖国の言葉」の学習,また,地域社会での同胞との深いまじわりが,朴鐘碩の朝鮮人観によりいっそうの変化をもたらした。すなわち,朝鮮人の存在がいっそうポジティヴな存在として捉え返されていったのである
3−9 新たな朝鮮人観の展開と役割の形成
これまで記述してきた,朴鐘碩の生活史と彼のアイデンティティの変容の意味するものを,いま一度,ふりかえっておこう。
朴鐘碩は,日立就職差別事件以前は,同化志向役割と個人志向役割に立脚してみずからのアイデンティティを構築していた。彼にとって,朝鮮人という存在はネガティヴな存在であり,そのままの位置に甘んじていては,自分自身もネガティヴなままで存在しなければならない。そこから脱却するために,彼はネガティヴな存在である朝鮮人からポジティヴな存在である日本人になろうとした。
しかし,日立就職差別事件を裁判として提起したとき,在日同胞から多くの批判が寄せられた。その批判の矛先は,つきつめれば,同化志向役割と個人志向役割という彼の価値観や生き方の中核をなすものにたいしてであった。既成の民族団体を中心とした在日韓国・朝鮮人社会では,朴鐘碩の同化志向役割と個人志向役割は容認されないものであったのだ。彼は,その批判に,日立によって就職を拒絶された以上の衝撃を覚え,アイデンティティの危機に直面する。彼はアイデンティティの模索のなかで,いくつかの経路から,自己の同化志向戦略と個人志向戦略の問題性に気づき,朝鮮人をネガティヴな存在たらしめている日本社会の存在に気づく。そして,自己のなかに内面化されているネガティヴな朝鮮人観から脱却し,ポジティヴな朝鮮人観を形成することを志向するのである。朴鐘碩は,それを在日同胞社会に積極的に参与することをとおしておこなおうとした。
このような過程をへて朴鐘碩のなかで新たに形成された役割は,「在日志向役割」と名づけることができるであろう15)。それは,在日韓国・朝鮮人という文脈に徹底してこだわるなかから形成された役割であり,アイデンティティであった。それは言うなれば,「被抑圧者としての歴史性への結合」を核としたアイデンティティ構築であったということができるであろう。朴鐘碩は,在日韓国・朝鮮人の歴史的経緯を自己や家族の生活史と重ね合わせながら理解するなかで,彼がこれまで内面化してきた在日韓国・朝鮮人のネガティヴなイメージは,韓国人・朝鮮人であること自体に由来するのではなく,日本社会が朝鮮半島の植民地化以降歴史的に作りあげてきたものであることに気づいたわけである16)。
「被抑圧者としての歴史性への結合」とは,在日韓国・朝鮮人が,自己の祖先の歴史的形成過程の理解をとおして,みずからの在日韓国・朝鮮人としての存在を肯定的なものへと位置づける自己正当化装置として機能する。朴鐘碩は,この「被抑圧者としての歴史性への結合」をとおして,自己のなかに内面化されてきた朝鮮人観というものを展開させるのである17)。
朴鐘碩のアイデンティティの葛藤と変容は,以上のように,同化志向役割・個人志向役割に立脚したものから,在日志向役割に立脚したものへの移行として跡づけることができるであろう。
4 まとめにかえて
本稿での記述を踏まえて,過度な一般化は慎みながらも,在日韓国・朝鮮人の社会化とアイデンティティの問題をめぐって,以下の3点を指摘しておきたい。
第1に,朴鐘碩の人生行路を決定する上で,初期の社会化の経験とそれを規定する日本社会のありようが,ひじょうに重要な位置を占めていることが指摘できる。朴鐘碩の両親は,子どもたちが将来とも日本で生活していくことを考慮して,エスニシティ継承に消極的な社会化をおこない,日本人としての自己同定を付与するかたちで彼らを育てた。しかし,地域社会において朴一家が朝鮮人であることは自明のことであった。朴鐘碩は学校社会に参入することで,自分が朝鮮人であることにはじめて気づき,朝鮮人としてのネガティヴな自己像を形成するのである。そして彼は,朝鮮人のネガティヴな自己イメージから脱却するために,日本人になることを望み,それを彼のアイデンティティのよりどころとした。在日韓国・朝鮮人の社会化を考察するさいには,幼児期,児童期における社会化の様相とそれを規定する日本社会のありように,ひとつの焦点をあてることが必要であろう。
第2に,朴鐘碩のアイデンティティは,社会化の規定的要因と自己の内部での解釈過程との相互作用をつうじて構成されたものであり,規範的な社会化と解釈的な社会化の相補的な過程にもとづいていた。個人という存在を理解するには,規範的社会化と解釈的社会化の双方の分析視点に依拠する必要があることを,このケースでも例証しているといえよう。
第3に,朴鐘碩のアイデンティティの再構築は,在日韓国・朝鮮人の歴史的状況に依拠することで達成された。すなわち,回顧的社会化をとおして彼のアイデンティティの核として獲得された装置が,「被抑圧者としての歴史性への結合」であった。それによって彼は,在日韓国・朝鮮人のネガティヴ・イメージは,韓国人・朝鮮人であること自体に由来するのではなく,日本社会が歴史的に形成してきたものであると理解した。「被抑圧者としての歴史性への結合」は,朝鮮人であることを否定的なものから肯定的なものへと転回させる装置として,注目にあたいしよう。
生活史をアイデンティティを軸に分析することについては,有末賢[1995:167-90]を参照されたい。
2) 水野節夫は,生活史のコンテクストづけの仕方を,「解釈・分析志向」と「編集志向」という2つのタイプに分類している。前者は,研究者が明示的な形で生活史資料の解釈・分析にのりだしていくタイプである。後者は,研究者が被調査者の言葉や言いまわしを生かしながら,本人自身の一生を浮き彫りにするために,編集という形で生活史資料の再構成に関与するタイプである。水野によれば,解釈・分析志向と編集志向は,論理的にはなんら矛盾しないが,経験的には両立しがたいものである[水野1986:170]。
3) Wilson[1970]は,既存の社会学的潮流を「規範的パラダイム」と「解釈的パラダイム」の2つに分け,それらの理念型を抽出している。「規範的社会化論」と「解釈的社会化論」の概念は,その議論を社会化論に適用したものである。
4)「社会化」は,「個人が他者との相互作用のなかで,彼が生活する社会(あるいは将来生活しようとする社会)に適切に参加することが可能になるような価値や知識や技能や行動などを習得する過程」[渡辺秀樹1988:76]を意味すると定義されるように,社会化のなかで伝達される内容は多岐にわたる。また,人生の各時期におうじて習得内容も異なる。
5)「役割」とは,多少とも統合されあるいは関連しあう価値・規範の集合からなるものである[渡辺秀樹1981:108]が,基本的には,(1 ) 社会におけるフォーマルな特定の地位の占有(医師,父親など),(2) 個人間の関係のなかでインフォーマルに定義された位置の占有(リーダー,フォロワーなど),(3) 社会の特定の価値・規範への同一化(正直者,愛国者など),を意味する[Turner 1955:316-7]。
エスニック・アイデンティティのありようを問題とする本稿では, (3)の意味での「役割」概念を重視する。
「志向性」については,渡辺秀樹の「個人が,人生の目標,目標実現の方法をめぐり,生活史の中で視点更新をとげつつ,目標に向かって接近してゆこうとする意思」という定義[渡辺牧1982:83]に依拠する。
6)「重要な他者」の概念は,Turner[1955:321-3]の議論に負うところが大きい。とくに,特定の重要な他者 (relevant others) が個人を直接的に規定すると考えるのではなく,自分の目的におうじて自己役割と他者役割が相互作用する過程を重視している点に注目したい。
7)「自己イメージ」は「役割」と密接に関連する。註の5) で述べたように,本稿では「役割」概念を「社会の特定の価値・規範への同一化」の意味で用いており,さらに,解釈的過程をとおして自己のなかに獲得されたものも「役割」として定義している。その意味では,「自己イメージ」は「社会化」の過程において形成されるひとつの「役割」であるともいえよう。
8) エスニシティの定義をめぐっては,宮原浩二郎[1994:8-13],関根政美[1994:1-17]を参照。ここでは,エスニシティは民族性とほぼ同義のものとして用いる。
9) エスニシティ継承の指標については,福岡安則氏の主宰する「マイノリティ問題研究会」での指摘によるところが大きい。
10)階層変数を導入して,朴一家の経済的貧困が,エスニシティ継承の社会化を阻害したという解釈も考えられる。しかし,少なくとも福岡安則・金明秀ほか[1994]の在日韓国人青年を対象とした調査の結果では,両親の職業階層と子どもの受けた民族教育の程度とのあいだには,有意な相関は見出されなかった(相関係数 .03)。
11)個人志向役割と同化志向役割は,福岡安則が「『在日』若者世代のアイデンティティ構築の分類枠組」として提示した4つのタイプ(「共生志向」「祖国志向」「個人志向」「帰化志向」)のうちの,後の2つを参考にしている[福岡1993:85-98]。基本的な定義は福岡に負っている。しかし,福岡の概念を朴鐘碩のケースにそのまま適用すると,概念と現実のズレが生じる。それゆえ,以下の3点について若干の修正を加えている。
1つは,モデルが適用される状況設定の違いについてである。ここでの福岡のアイデンティティ類型は,葛藤の克服を達成した個人を想定して作られた「脱葛藤型」のモデルである。それゆえ,各個人のアイデンティティは,その志向性をモデルの中心としているため,安定的である[福岡編著1991:26-31]。私は,むしろ,これらのモデルを,朴鐘碩の葛藤状況をこそ整理するための枠組として用いたい。朴鐘碩の場合は,福岡のモデルでいう「個人志向」と「帰化志向」に収斂しながらも,そのアイデンティティはきわめて不安定である。
もう1つは,「帰化志向」という名称とその定義についてである。
「帰化志向」の基本的な定義は「日本人になること」であり,そのために「帰化」への志向性を持つことである。朴鐘碩の生活史からは,「日本人になることで民族差別を受けないですむ存在になりたい」という傾向は見られても,じっさいに「帰化」を望むという志向性までは読み取ることができなかった。そのため,朴鐘碩の事例を説明する枠組の名称としては,「帰化志向」より「同化志向」のほうが適合的であると考えた。
そしてさらに,私は,福岡の名称にあえて「役割」という概念を付け加えている。「同化志向」「個人志向」という概念を社会化論の枠のなかに組み込み,朴鐘碩のアイデンティティの核が,社会と個人との相互作用のなかから生じているということを強調するためである。
12)たとえば,李恢成【イ・フェソン】は,『月刊エコノミスト』1971年5月号で,朴鐘碩にたいしてつぎのように批判している。「あの人は……自分の日本名に対する違和感を育てなければいけないと思うのです。就職上の差別など現実にはいろいろありますから,彼が大胆にも個人の名において日本の裁判所に問題を提出した勇気に対しては,ぼくは興味を持ちますけれども,しかし,よって立つべきアイデンティティは明確にしてほしい気がする。自分は朝鮮人なんだという主体的な発想のもとにおいて……問題を提出していたら,それは全く同感なのだけれども,自分の生き方があいまいのまま,朝鮮人として離れたところで,何かしきりに就職させろと言っているようだけど,じゃあ,もしかりに就職させてくれたら,自分はやはり新井という名で生きるつもりなのか,それで問題は解決されるのかと,ぼくは聞きたいんです。」
14)大阪の出張裁判では,何名かの在日韓国・朝鮮人から就職差別を中心にして証言がなされた。その証言者のひとりのK氏は,工業短大を出て,社会的にも労働市場は売り手市場だったにもかかわらず,在日韓国人であることを明らかにして就職しようとしたところ,短大を通してはどこも就職先は見つからなかった。その結果,彼は在日同胞の経営する企業に就職する。工業短大を出ても就職先が見つからなかったときには,ひじょうに落胆したけれども,いちいちショックを受けてもしょうがないと考えた。それほど朝鮮人への差別は常識化しており,それをどう克服するかという心の余裕はない,と証言した[横浜地方裁判所1973]。
15)「在日志向」という言葉は,すでに福岡安則[福岡編著1991:272]が在日韓国・朝鮮人のアイデンティティ類型のひとつとして用いているが,私は福岡とは若干異なる意味で用いているので再定義しておきたい。在日志向役割とは,簡単にいえば,在日韓国・朝鮮人であることをネガティヴでなく,ポジティヴに志向する役割である。同化志向役割と個人志向役割に立脚していたとき,在日韓国・朝鮮人であることを朴鐘碩はネガティヴにしか捉えられなかった。同化志向役割(日本人になることを積極的に捉える)と在日志向役割(在日韓国・朝鮮人であることを積極的に捉える)とは,ある意味で対極に位置するものと考えられる。
16)「被抑圧者としての歴史性への結合」という概念は,福岡のアイデンティティ類型の座標軸のひとつである「被抑圧の歴史への重視度」に大きく依拠したものである。福岡は,この軸を調査を踏まえた経験的直感によって設定している。しかし,この座標軸を,再度,個々の生活史に当てはめて,「被抑圧の歴史への重視」とアイデンティティの関連性を明確に問うてはいない。私は,朴鐘碩の事例をとおして,「被抑圧者としての歴史性への結合」とアイデンティティの関連性を検討してみた。その結果,「被抑圧者としての歴史性への結合」をとおして,自分が朝鮮人であることを否定的なものから肯定的なものへと展開させていることが確認された。
17)「被抑圧者としての歴史性への結合」に依拠したアイデンティティ構築は,自分自身が在日韓国・朝鮮人であることを肯定的かつ積極的に受け止めている人たちのあいだでは,共通に見られるものと考えられる。朴鐘碩と同様の事例は,福岡安則・辻山ゆき子[1990:116-27]のなかで描かれている徐敬輔【ソ・キョンボ】の事例にも見ることができる。彼は,朴慶植【パク・キョンシク】著の『朝鮮人強制連行の記録』といった韓国・朝鮮関係の本を読むことをとおして,在日韓国・朝鮮人の歴史的・社会的な存在の意味を了解する。その後の彼は,民族名の使用に象徴されるような在日韓国人としての民族的な生き方を大事にするようになり,それを実践しているということである。彼自身も,「被抑圧者としての歴史性に結合」するなかからアイデンティティを構築し,それを契機として在日韓国・朝鮮人である自己を肯定的にとらえようとしている。
また,徐敬輔以外にも,明確なかたちではないが,福岡[1993b]の生活史の事例からも,「共生志向」「同胞志向」「祖国志向」の人たちのあいだに上記の特質を読み取ることは可能だし,私自身が2年前に実施した朝鮮大学校の学生と職員にたいするインタヴューからも同様の傾向を認めることができた。
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(たけのした・ひろひさ/慶應義塾大学大学院博士後期課程)