日本のキリスト教会と戦争責任
―日本基督教団の「戦責告白」を事例に―
竹ノ下弘久
 
 
* 本論文は解放社会学研究11(1997年)に収録されたものです。本論文の全文を,著者あるいはWebmasterに無断で加工,引用,転載,配布することを堅く禁じます。 


1 はじめに

戦後50年を経過した現在、日本の戦争責任をめぐる議論が注目を集めている。とりわけ、1990年代に入ってから、日本の第2次大戦下における「戦争責任」や「戦後補償」をめぐる要求が顕在化し、それとともに各界で議論されるようになった。石田雄[1996]は、戦争責任論の歴史的変遷に焦点を当てている。彼によれば、「戦争責任」という言葉は、厳密な内的規定を伴わないまま、時代によって異なった使われ方をしてきた。90年代には、その中でも新しい概念として「戦後補償」が登場した。「戦後補償」が、1990年代になって広い通用力を持つようになったのは、戦争被害者たちの補償要求が相次いで裁判の形で争われることになったからである。従来の戦争責任論と戦後補償要求との違いで重要なことは、これまでの戦争責任論が、主権国家間の戦争を前提として、その枠内で指導者責任を論ずる傾向が強かったのに対して、「戦後補償」という接近の仕方は、戦争被害者個人を視座の中心にすえて、その個人に対する人権侵害にどのような償いをするかという問題から出発している点である[石田1996:38]。戦後補償要求の代表的なものとしては、従軍慰安婦問題、韓国・朝鮮人の傷痍軍人・軍属の問題、在日韓国・朝鮮人をはじめとした在日旧植民地出身者の人権をめぐる問題をあげることができるだろう。

日本では1950年代頃に、戦争責任に関してある種のダブル・スタンダードが成立し、それは今日もなお影響力を有している。すなわち、対外的には必要最小限の戦争責任を認めることで国際社会に復帰し、国内においては、戦争責任の問題を事実上否定するか不問に付すのがそれである。1990年代に入ってから、上記の戦後補償要求の顕在化とともに、アジア諸国に対して日本の「戦争責任」がたびたび表明されてきた。しかしそれらは、アジア地域で日本がリーダーシップを発揮するという政治的必要性から表明されたものにすぎない。それゆえ、戦争の侵略性や加害性を認める政策転換に見合う形で、日本人自身の意識改革をいかに行うかという問題意識はきわめて希薄である[吉田1995:4-8]。このように、「戦争責任」をめぐって日本という「記憶の共同体」は、対外的にも対内的にも挑戦を受けているが、そこに本質的な転換をみるには到っていない

また最近では、このような戦後補償要求の動向や、日本政府の戦争責任の表明に対して、反発する動きが一部で見られる。西尾・藤岡[1997]は、1996年に改定され、1997年度から使用される中学社会・歴史教科書の「近現代史」部分を、「すさまじいばかりの暗黒史観・自虐史観・反日史観のオンパレード」として批判している。1997年度から使用される教科書は、近年の戦争責任論や戦後補償要求の高まりを考慮して、戦争に対する反省や謝罪の要素を盛り込み、明治以降の日本の近代を反省的に捉える内容となっている。彼らの主張をみると、日本の近代を前面悪とする内容では、これを読む子供たちが、愛着を伴うネーションへの一体感を形成できないと読み取ることができる。

過去の戦争やアジア近代史といった、エスニックないしはナショナルな集団間の過去の集合的記憶をめぐって対立が生じており、集団間で「記憶の闘争」を引き起こしている。同様の現象はアメリカの多文化主義論争の中でも見ることができる。そこでは、黒人を中心とした多文化主義推進派が、自己を積極的にとらえうる社会の構築、具体的には、既存の白人中心的な歴史認識の変革を求めているのに対して、白人を中心とした多文化主義反対派は、こうした動きすべてを「アフリカ中心主義」とみなし、これによってアメリカの分裂が進行するのではないかと不安に思い、反批判をくり返している [Schlesinger 1992]。アメリカの多文化主義論争では、黒人と白人が過去の集合的記憶の意味づけをめぐって、対立が生じており、多文化主義がエスニック集団間の出会いの場たりえていない[Takaki 1993]。アメリカの事例は、マジョリティが自己のエスノセントリスティックな歴史観を変えることがいかに困難であるかを示す証左となっている。

「戦争責任」をめぐる「記憶の闘争」が日本社会で顕在化し、主として政治的な謝罪の表明が聞かれるようになったのは、1990年代に入ってからである。しかし、日本で最も大きなプロテスタント教会である日本基督教団は、1967年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任にかんする告白」(以下「戦責告白」と略)をすでにだし、キリスト教会の「戦争責任」を表明していた。「戦責告白」もまた、日本社会における戦争責任論と同様、当初は日本の教会対アジアの教会という文脈で出されたものであった。しかし「戦責告白」公表後、これを対アジアの観点のみで理解するのではなく、在日韓国・朝鮮人の視点からも理解されようとした点は注目に値しよう。「戦責告白」が公表されてから、教会は、アジアとの連帯だけでなく、在日韓国・朝鮮人問題も戦争責任の1つとして重視するようになった。なかでも、在日韓国・朝鮮人の集住地域を中心として、在日子弟の教育問題や住宅問題、制度的な差別の問題に関わる教会やその信徒も少なくない。彼らの多くが、在日韓国・朝鮮人のエスニシティを抑圧し自尊心を喪失させる同化主義的な日本社会の現実を問題視する。そして、在日韓国・朝鮮人のエスニシティを尊重するとともに、彼らの人権を侵害する様々な民族差別の撤廃を志向するという多文化主義的な態度を身につけている。したがって、「戦責告白」は現在の「戦争責任」をめぐる「記憶の闘争」に1つの「和解」をもたらし、在日韓国・朝鮮人との多文化主義的な関係を形成する契機となっていたことから、その存在は非常に興味深い。

本稿は、「戦責告白」を事例として、その成立の背景と受容の経緯を考察する。そして考察の結果から、現在の戦争責任をめぐる「記憶の闘争」の解決に向けて何らかの示唆をえたい。以下ではまず、「戦責告白」の成立過程を歴史的に検討してみよう。

2 日本基督教団と戦争責任の告白

2―1 戦前期における日本のキリスト教の特質

まず初めに、「戦責告白」の成立過程について検討を行う前に、その概要について触れておこう。「戦責告白」は、教団がその成立と戦時下に犯した過ちを自覚し、神と隣人(アジア諸国)に赦しを請い求めるものであった。「戦責告白」では、戦時下での教団の罪の自覚ばかりではなく、戦時下における宗教統制団体としての教団の成立過程も大きな争点となっている

本節では日本基督教団の戦争責任を論じるために、戦前期の教会と国家との関係を中心としたキリスト教の特質に注目したい。結論から先に述べると、戦前期、戦中期を通じて、「キリスト教は天皇制が突きつけた挑戦に苦慮し、苦闘し、自己弁護と自己規制をするうちに、自ら進んで天皇制に奉仕する宗教になっていった」[土肥1980:111]。近代天皇制は、政治的権力と宗教的権威を一身に掌握した。そして近代天皇制の確立のために、大日本帝国憲法と教育勅語が重要な指針となったことは、改めて本論で指摘するまでもないだろう。帝国憲法28条では、「信教の自由」が保障されているが、これはあくまでも国家神道の枠内での宗教活動の容認にすぎないことは明白だった。教育勅語は、天皇を中心とする国体を教育の基本理念とし、「臣民」に対する命令の形式で、天皇への忠誠を最重要の徳目として定めていた[村上 1973:184-186]。

近代天皇制国家の宗教的基盤である国家神道は、唯一神信仰を標榜するキリスト教と原理的には対立するものであった。その対立の様相については、井上哲次郎とキリスト教会との「教育と宗教の衝突論争」に端的に表れている[土肥 1980:110-120][小熊1995:55-57][生松1963]。井上哲次郎は、教育勅語の発布にあたりキリスト教批判を行った。彼によれば、キリスト教と教育勅語の精神は相容れず、キリスト教は国家にとって有害であると主張した。しかしこれに反論するキリスト教徒の多くもナショナリストであり、キリスト教も天皇制国家主義が唱える忠君愛国を教え、これを実行する力を提供するものであり、したがって臣民教育とは衝突しないと主張した。すなわち、教会は国家形成に有効であると主張することによって、自己の立場を弁護したのである。さらに日清戦争に際しては、キリスト教会はこぞって戦時目的に協力し、天皇制国家に忠実なるものとしての身の証しを立てようとした[土肥1980:124-126]。したがって、明治期の日本の教会は、国家と並行してそれに追随する関係をとっていて、それは大正、昭和と踏襲されていった。

このようなキリスト教と国家との関係を可能にした論理とは、以下のようなものである。そこでは、聖書の教えを国家を上回る権威があるものとして理解するか、または自己の信仰を私的領域に限定して、魂の平安を得ることに関心を集中するかのキリスト教理解が争点となる。そして戦前の日本のキリスト教理解は、後者が主流をなすものであり、そのため天皇制という政治の問題と信仰の問題を切り離して考える態度が支配的なものとなったのである[土肥 1977:53-61]。しかし、このような姿勢は、信仰の社会・政治問題への中立的姿勢を堅持することによって、天皇制下の日本社会の片隅にキリスト教会を閉塞せしめることになった[工藤1972:57-59]。またキリスト教は戦前の日本では異端視されていたこともあって、キリスト教倫理に基づいた社会にたいする積極的発言は、到底受け入れられるものではなかった。さらに、政府は神社非宗教論の立場を取っていたこともあり、教会が国家神道を容認することも比較的容易だったといえる。

教会と国家をめぐるこのようなキリスト教会の福音にたいする態度は、戦前期に一貫して継承されていくのだが、日本が満州事変以降戦争に突入すると、そのような態度はより顕在化し、最終的には大政翼賛会の流れをくむ宗教統制団体としての「日本基督教団」の成立へといたり、組織的に戦争協力を行っていくのである。戦前の日本のキリスト教会は、欧米の教会の状況を反映して、多くの小教派が乱立していた。しかし1937年に、教団設立認可主義をとり宗教的結社の自由を制限する「宗教団体法」が施行され、勢力的に小さな日本のキリスト教派の大半が、同法の規定によって解散しなければならなかった[福音と世界編集部1953a:15-23]。そこでキリスト教会は信仰真理の問題で一致を見ずに、国家からの圧力のもとで、1941年に日本基督教団を結成するのである。

日本基督教団は、キリスト教の統制団体として発展し、それ以後積極的に戦争協力の活動を行うようになった。詳細なその論証は省略するが、教団は国内と国外のクリスチャンに対して、日本のアジア侵略を正当化する言説を流布し、キリスト教と天皇制が一体化した日本的キリスト教を誇らかに推賞したのである
 

2―2 戦後の日本基督教団の存続

日本基督教団は、国家権力の介入により成立したキリスト教の統制団体であり、原理的には敗戦後その役割も終えたわけだから、戦後教団は解散すべきであった。だが、教団は解散することなく、戦後も存続することになる。教団は、戦時中、戦争に積極的に協力するが、戦後、それらを否定的に捉える契機を欠いていた。当時の日本のキリスト教徒は、自己を被害者として規定することはできたが、加害者として規定することはできなかった。特に戦時中、政府や軍部はキリスト教を危険思想とみなしていたため、上からの監視、統制、抑圧の手は緩められることはなかった。戦時中のキリスト教会の苦しい立場のために、キリスト教徒が戦争責任を問われた時、単純に被害者意識をもって弁護するばかりであった。教団の解散問題も、その成立には、神の摂理の導きのあったこと、教会がそれを信じて一致への信仰的決断をなしたことを、信じかつ主張することで回避された。

日本基督教団の戦後の存続を促したものは、敗戦直後のキリスト教ブームに起因するものであった。マッカーサーは、キリスト教に対して積極的な好意を示し、アメリカ占領軍がキリスト者の諸活動を直接間接に応援し、日本の支配層もアメリカの意を好意的に迎えるためにも、キリスト教に好意的であった。このような状況のもとで、敗戦後5、6年の間は、キリスト教ブームの時期を画することになる。さらに、戦後いち早く来日した宣教師も、こうした教団の体制を了承する。アメリカからの宣教師もまた、教団の存在を日本伝道の便宜上無視することはできなかったのである[福音と世界編集部1955:18-21]。以上のような経過をたどり、日本基督教団は自己の質的変革を試みることなく、戦前・戦後と一貫して、状況に追随する形で自己の再編を行った。

 
2―3 戦争責任をめぐる内外からの日本の教会にたいする批判

以上のような日本の教会の状況は、日本社会を大きく反映したものであり、その縮図であったと判断できる。つまり、戦前期には天皇制と一体化し、戦争に積極的に協力し、戦後は、戦争に対する被害者意識を中核として、戦争責任を明確にせずそれを自己のアイデンティティとして位置付けなかったということは、日本の教会だけではなく、日本社会全般の状況であった。この時期において日本社会の縮図でしかなかった日本基督教団が、1967年に「戦責告白」を公表することになるわけだが、それを促した要因とは一体なんだったのだろうか。以下ではその要因として、第1にエキュメニカル運動の受容とそれに伴うアジアの教会からの戦争責任をめぐる批判、第2にキリスト教倫理に基づいた戦前の教会の戦争協力にたいする批判をとり上げたい。
 

2―3―1 エキュメニカル運動とアジア教会からの批判

キリスト教会は、ルターの宗教改革以降教派の乱立が顕著となった。信仰は個人化され、キリスト教の真理は主観化された。客観的真理を地上で代表していたはずの教会の権威は失われ、教派が無制限に乱立し始めた。しかし、教会が1つであることは聖書の明白な教えであり、世界の教会の告白でもあった。このような現状を憂える雰囲気が19世紀末から20世紀初頭にかけて形成され、キリスト教会の再一致を求める運動が盛んとなる。それらの試みは2度の世界的な大戦によって一時中断されるが、1948年にWCC(世界基督教協議会)が結成され、キリスト教会再一致の運動を継続することになる。キリスト教会の再一致と共にWCCの中で重視されている考え方は、教会をこの世との関連の中で見直すことであった。その中で、キリスト教徒は、聖書の教えや教会内部の世界の中で閉鎖的に生きるのではなく、キリスト教徒として社会に対して責任を負い、社会の中により積極的に参与していこうとする方向性が打ち出されたのである

これらのエキュメニカル運動の考え方(「世界の教会の一致」と「教会と社会との関係性の問い直し」)は、日本基督教団やNCC(日本基督教協議会)がWCCに加盟することを通じて、日本のキリスト者の間でも重要な考え方として受け入れられた。彼らは、1948年以降6年毎に開催されるWCCの大会に多くの代表団を送り、大会参加者との交流を通じて、より一層のエキュメニカル運動の必要性を痛感していく。しかし、問題はエキュメニカル運動の受容だけでとどまらなかった。エキュメニカル運動の受容は、日本基督教団が「戦責告白」を形成する1つの契機となっていく。

1960年代の初頭から、エキュメニカル運動の進展を通じて、徐々にアジアの教会との交流が始まっていく。WCCの総会に出席した教団関係者は、日本の教会のエキュメニカルな責任について反省を加えている。「日本の教会に現実に求められている責任は、漫然と世界教会を論ずることではなく、日本にとっての隣人―アジアに対する理解と信頼と愛情なのではないだろうか」と述べ、さらに彼は日本のアジアに対する戦争責任を痛感し、「アジアの代表の1人から『戦時中に日本が犯した戦争行為を考えれば、日本の教会はアジアの教会に対してもっと責任を持つべきではないか』とさりげなく言われた時に、戦争の傷跡の深さを思わずにいられなかった。戦争はいまだ終わっていない――。アジアに対する責任、アジア諸教会の期待に、私たちは何をもってこたえたら良いのだろうか」[阿部1962:14-17] 。エキュメニカルな交流の進展、とりわけアジアの諸教会との交流の進展を通して、日本人クリスチャンは、彼らからの告発によって戦争責任の問題に直面せざるをえなかった

敗戦直後は、自己を戦争の被害者として位置づけることで、教団の戦争責任は回避された。そのような状況は、1950年代になっても質的に連続していた。「太平洋戦争における戦争責任をめぐって」という座談会では、教団の国家への戦争協力は、主体としてではなく客体として行われたものであるから、われわれには明確な戦争責任はないと主張されている。また、教会の戦争協力は「キリスト者のまじめさ」として好意的に総括されている[福音と世界編集部1959:58-71]。敗戦から1950年代にかけては、エキュメニカル運動を論じアジアの教会との交流を論ずるとき、漫然と一般論的なエキュメニカル運動が論じられるのみであった。アジアの教会との交流から、よもや自分たち日本のキリスト者が、戦争責任を追及されようとは思ってもいなかったようである

しかしながら1959年に世界基督教協議会の下部組織として東アジア基督教協議会を設置するに伴い、アジアの教会との交流の機会が増え、日本の教会に戦争責任を求める声が届くようになった。その中でも日本の教会にとって最もインパクトが大きかったのは、韓国の教会からの告発であった。韓国の日本や日本の教会に対する戦争責任の告発は、日韓会談の進展や日韓条約の締結のときに、きわめて増幅することになる。なぜなら日韓条約の締結は、過去の侵略戦争の道義的責任を明確にしないまま行われたからである。そのため韓国の教会は、道徳的な理由からその締結、批准に反対していた。彼らは、日本が長年にわたって韓国を侵略し搾取してきたその罪を認識しかつ悔い改めているのか、それなくして両国の真の和解はないということを激しく主張した。韓国教会からの告発は、日本の教会を大きく動揺させ、戦争責任をめぐる問題は、1965年の教会の機関紙の論説をにぎわすことになった。その中でも森平太は、日本のキリスト教徒にたいして、太平洋戦争における被害者から加害者への意識の変換を主張した[森1965:1]。以上のように、エキュメニカル運動への参与と、それを通じたアジアの諸教会や韓国教会からの批判によって、日本のキリスト教会で、戦争責任の問題が頻繁に論じられるようになるのである。
 

2―3―2 キリスト教の教えと日本基督教団の戦争責任

他方で、「世界教会の再一致」というエキュメニカル運動の理念とは別の文脈でも、日本基督教団の戦争責任は議論されていたことに注目したい。それは安藤肇の著作やそれを受けた『福音と世界』の座談会での言説から読み取ることができる。彼らの主張するキリスト教徒の戦争責任は、戦争に協力するために、キリストの教えを否定したことから生じたものであった[安藤 1963][福音と世界編集部 1961:31-37]。

たとえば安藤は、そのことについて以下のように述べている。

日本の教会が戦争を支持し、あるいは肯定し、その遂行に積極的に協力したこと――中略――よりもさらに根本的な責任として、教会に問われるべきことは、そういう戦争強力、戦争を押し進めてゆく軍部や政治権力への追随の中で、イエス・キリストをどこかで否定しているという事実がありはしないか、ということです。――中略――こういう意識と考え方と態度を生み出した教会の問題と責任が、戦争責任として私たちの教会に重たくのしかかってくるのだと思います[福音と世界編集部 1961:31]。 戦前のキリスト教は、当時の日本社会の根幹にあった天皇制と妥協し、それに追随するかたちでキリストの教えを歪曲した。安藤にとって戦前のキリスト教会の行いは、神への冒涜であり、神にその赦しを請わねばならないものである。その結果彼は、キリストに対する罪として戦争責任を認識した。

菊地は、「私どもの一番悪かった点は、意識のなかでみことばを絶対としつつも、現実においては天皇とか国家権力の絶対化を許容していたということです」と述べる。彼が問題としていたのは、信仰を私的な次元へと閉塞させ、公的な領域に自らの信仰を介在させない二元論的態度であった。彼らにとって、このような態度が状況への追随を生み、キリスト教会の無批判的な戦争協力をもたらした。さらに戦後には、オーソリティが戦前の政府や軍部からGHQへと代わり、教会は戦前と同様それらを無条件に受け入れてきた。この座談会に参加したメンバーは、このような世俗的な状況への追随を志向する日本基督教団の体質を問題視し、イエス・キリストにたいする罪としての戦争責任を主張したのである。

2―4 「戦責告白」成立の経緯とその後の展開

1960年代の教団の動きを概観すると、上記の2つの流れによって戦争責任の議論が提示された。特に1965年から66年にかけては、韓国キリスト教会の日韓条約批准反対運動に、日本のキリスト教会が触発され、戦争責任をめぐる争点は、キリスト教系メディアにおいて極めて顕出性の高い争点となっていた[福音と世界編集部 1965a:88-95 ; 1965b:72-77]。また、この動きを加速させたのは、1965年9月に教団総会議長が、戦後初めて韓国のキリスト教会の招きを受け訪韓し、日韓の教会の関係が見直され、韓国教会の実情を把握しようとしたことであろう。日本基督教団は、その後韓国教会との関係をより密接なものにしていくことになった[教団新報1965/12/4 ; 1966/3/5]。また教団は韓国との関係を考慮するうえで、在日大韓基督教会・在日韓国・朝鮮人問題にも注目し、在日大韓教会と公式に話し合いの場を設けた。在日大韓教会が、公式に対等の立場で日本の教会に認知されたのはこれが初めてのことで、それ以前においては、教団機関紙にはまったく登場していない

韓国キリスト教会への関心の高まりとともに、1966年には教会の戦争責任が公の場でも議論されるようになった。そして、1966年8月29日から6日間、東京神学大学で行われた第17回夏期教師講習会の協議会において、数人の牧師たちから第二次大戦中の教団の戦争責任の問題について発言がなされ、教団としての公式の罪の告白を、10月の教団総会に正式に議案として提出することが決議されたのである。そして、教団総会で教団の戦争責任を取り上げることが満場一致で可決され、教団の最高決定機関である常議員会の付託となった[大塩 1967:12]。多くの人が教団が戦争責任を告白することに異論はなかったが、その内容をめぐって常議員会で激しい討論が繰り返された。教団総会で「戦責告白」が提案されたときの建議案では、教団の戦争協力、教団の成立の経緯そのものを自己批判し、それらを「否定的遺産」として継承するという点が強調されていた[教団新報1967/3/18]。

しかし、常議員会の議論を経て最終的に1967年3月に公表された「戦責告白」は、教団成立をめぐる重要な論点が修正されていた。それらは、第1に、教団成立には、政府・軍部の圧力だけではなく、各教会の自発的な決定も伴うものであった、第2に、教団成立には、神の摂理による導きがあった、という主張である。しかし土肥昭夫[1975:201-244]や大塩清之助[1967:19-20]の指摘によると、教会合同にたいする自発的決定は非常に疑わしい解釈である。そして、教派間の信仰や真理の問題で一致を見ずに、教会合同が行われたことは、歴史資料から明らかになっている。また、「神の摂理」という表現は、「戦責告白」起草者にとっては、教会合同は神が信徒に与えた1つの試練として解釈されており、これを否定的に捉えていた。しかし、「戦責告白」に反対の立場を取っていたものにとっては、「神の摂理」という表現は、教会合同を否定的なものから肯定的なものへと読みかえる余地を残したのである。

このように、「戦責告白」は当初の建議案から自己批判的な色合いが薄められて、公にされた。だが「戦責告白」の公表は当初の予想に反して、教団に混乱をもたらした。とりわけ、戦時中に指導的な立場にいたもので、「戦責告白」に反対の立場を取るものが少なくなかった。「戦責告白」が公表されてから、反対派と賛成派とのあいだで懇談会が設けられたりしたが、双方の意見は批判の応酬で、互いに平行線をたどり意見の相違を埋めることができなかった[教団新報1967/6/17]。その後事態の収拾を図るために、教団の指導者層は常議員会において「戦時下責任の告白に関する五人委員会」(以下「五人委員会」と略)を設置し、「戦責告白」の位置づけをめぐって報告を行った。この報告の特徴は、これまで多くの議論を呼んだ「教団創立の問題」と「戦時下の教団の戦争協力」にかんして、それを肯定する見解を打ち出したことである。前者にかんして「五人委員会」の報告は、教団創立はあくまで「神のみわざ」によってなされ、宗教団体法はその契機にすぎなかったと述べている。後者に関しては、教会の祭司的役割を強調し、教団のなした行為は「国家のために『とりなし』を命じられる教会のあり方」として、聖書的な観点からみて教団の戦争協力を正当化したといえよう。「五人委員会」の報告は、「戦責告白」の反対者を意識してかかれたものであり、彼らを適当にたしなめつつ、「戦責告白」の意義を喪失させるものであった[土肥 1977:59]。

しかし「五人委員会」の報告は、賛成派、反対派双方から一層の反発を招き、さらに事態を混乱させた。反対派にとっては、「五人委員会」の報告が「戦責告白」の意義を弱めたことには満足したが、具体的に実例を挙げて論証しなかったことに納得がいかなかった[教団新報 1967/11/4]。その後も「戦責告白」をめぐっては混乱が続き、1968年10月に開かれた教団総会で、「戦責告白」に関する議論は一切打ち切られた。以後、「戦責告白」は公的な教団の声明としての位置づけがあいまいなまま存続し、議論は打ち切られることになる[土肥1980:444-445]。

韓国の教会では、「戦責告白」の内容に具体的主張や決意が欠けていたため、その意義に懐疑的な印象を持ち、告白にたいして無関心な態度を取っていた。しかし、「戦責告白」よりも、その後に現れた告白反対の声に、韓国教会は敏感であった。韓国教会はそれにいっそうの衝撃を受け、代わりに、「戦責告白」の立場にたつ者を見直し、注目したのである[池1967:6-13]。また教団は「戦責告白」以前に、韓国教会との交流をすでに開始しており、告白以後は協力関係を正式に結ぶため、「宣教協力」を結んだ。これは、「戦責告白」の具体化の1つとして報じられた[教団新報 1967/8/19]。このように、国内には多くの反対者がいる一方で、国外ではその成果は着実に実を結んだ。

さらに、韓国教会との交流の進展によって、在日大韓基督教会の存在は教団でも注目されるようになった。なかでも、「在日朝鮮人」問題を討議する「少数民族問題委員会」が日本基督教協議会に設置され、日本の教会が、「在日朝鮮人」問題にいかに関わっていくべきかが議論された。そして在日韓国・朝鮮人問題は、「戦責告白」の具体的取り組みとして位置づけられ、最初の会合では彼らの教育と就職をめぐる問題が重点課題とされた[NCCニュース1967/7/15]。「少数民族問題委員会」では、在日韓国・朝鮮人問題の把握のために有識者を交えて数々の勉強会が設けられ、認識を深めていった。そして、在日外国人の管理をいっそう強化するために、出入国管理法の改定案が国会に上程されると、「少数民族問題委員会」を中心にして反対運動を組織化していった。また出入国管理法以外でも、在日韓国・朝鮮人は注目され、教会メディアでは継続的なイッシューとなったのである

 

2−5 キリスト者の戦責告白の受容 ―関田寛雄の場合―

前節までで、「戦責告白」がどのような経緯で成立し、戦争責任をめぐる争点が、どのようにして教団内のアジェンダとされたのかについて記述した。本節では「戦責告白」が、どのように一人のキリスト者(牧師)の生き方を変えたのかを記述する。そしてこの事例を通して、「戦責告白」が、教団内のアジェンダにとどまることなく、戦争責任をめぐる「記憶の闘争」の和解の機能を果たした例証として提示したい。以下では、日本基督教団戸手伝道所の牧師である関田寛雄の事例を取り上げよう。

関田寛雄は1928年に生まれ、1955年に在日韓国・朝鮮人が集住する川崎市桜本で教会を構えることになった。しかし彼は、この地域に朝鮮人が多く、彼らがどういう状況下にあるかを前もって知っていたわけではなかった。桜本教会には、日曜学校に地域の子供たちがやってきたが、その中には朝鮮人の子供たちもいた。しかし彼らは日本名を名乗っていたため、関田も日本人として接していた。時がたつにつれてこの地域には朝鮮人がいるということは彼も知るようになった。しかし、彼は在日韓国・朝鮮人の置かれた状況をわからないままに、日本名を呼びながら日本人として接することが続いていった。1960年から毎年、桜本にある在日大韓教会と合同礼拝を行うようになり、在日韓国・朝鮮人の存在に触れる機会も増えていった。しかし合同礼拝によって、関田は在日韓国・朝鮮人問題に自覚的に触れることはなかった。

しかし、1969年の合同礼拝のときには、在日大韓教会の一信徒から日本人にたいして、「どうして日本人は朝鮮人を見ると、罪人扱いするのか」という問いが発せられ、彼の実際の体験が語られた。これに関田は大きな衝撃を受けた。関田は彼の「悲痛な」問いかけを聞き、これにたいして日本人として責任を感じた。また関田が彼の発言を自己の罪責として感じた背景には、1967年に日本基督教団が「戦責告白」を公表していたことが関係していた。彼は「戦責告白」が公表されたとき、その内容や表現に非常に感銘を受けた。そして「戦責告白」を背景として、教会での日本人を告発する言葉に出会い、在日韓国・朝鮮人問題は、戦争責任として教会が取り組むべき問題であり、またこれは過去のことではなく、「現在もなお彼らがその屈辱を味わう問題である」と関田は認識したのである。

翌年の聖餐式礼拝でも、在日韓国人信徒から合同礼拝にたいする批判を受けた。その批判は、「この聖餐式礼拝は十年以上もやってきており、パンとぶどう酒をみんなで分かちあってイエスの身体に預かるというが、桜本における日本人と韓国人・朝鮮人は差別によって引き裂かれたままである。そういう現実があるのに聖餐式では1つだということに何の意味があるのか」というものであった。大韓教会と桜本教会も、聖餐式礼拝は教会の儀式だから、クリスチャンどうし仲良くするということでやってきたにすぎなかった。その後激しい論争になったが、その時に追及された桜本教会の日本人信徒は、2週間関田が教会を留守にしている間に、教会の週報に韓国人教会を非難する文章を書いた。それは在日大韓教会で問題とされ、桜本教会は大韓教会から信頼を失い、大韓教会の牧師から合同礼拝の中止が言いわたされた。しかし、その後韓国教会の信徒と話し合う機会があり、結局在日大韓教会から合同礼拝の再開の申し入れがあり、現在もなお聖餐式は継続されている。1974年には桜本教会は後任の牧師に譲り、1976年に川崎市の戸手で伝道所をスタートさせた。そこでは新たに、「戦責告白」を基盤とした在日韓国・朝鮮人問題を自覚的に考える教会形成を目指すのであった。
 

3 考察

3―1 教会と国家をめぐるキリスト教の教義

2―1で検討したように、戦前の日本のキリスト教会の特質を見ると、そこには「戦責告白」を生み出す余地は存在しなかった。なぜなら、日本の教会ではキリスト教倫理は私的領域に閉塞しており、キリスト教倫理に基づいた公的領域への批判的な言説は、一部を除いて皆無に等しく、キリスト教会は国家目的に協力するために、キリスト教倫理を歪曲することも辞さなかったからである。しかし、そのような教会が戦後「戦責告白」の成立へといたるとき、また「戦責告白」を受容するとき、いかなる要因が介在していたのであろうか。以下ではその要因として、まず教会と国家との関係をめぐるキリスト教の持つ宗教的教義の特質に注目し、その変遷を簡潔にたどってみよう。

古代教会における教会と国家との関係は、対立関係にあった。キリスト教の草創期のローマ帝国は、国家崇拝、皇帝崇拝を国家秩序形成のための不可欠な構成要素とみなし、これを人民に強要した。しかし、その中でキリスト教徒は、皇帝崇拝やローマのヘレニズムの多神教を全く拒否して、自分達の信仰の自由と独立を要求したのである[Gessel 1977=85:57-59] [Wisloff 1959=1966:239-244]。だが、聖書のなかで教会と国家との関係を規定したローマ書13章を見ると、使徒パウロは、国家的権威への服従をこの世の世俗的日常性における神への奉仕の一部をなすものとみなし、国家を肯定的に捉えている側面がある。キリスト教の持つ「終末論的視点」は、キリスト者がすでに国籍を天に持つものとして、終末を目指しつつ地上で旅する存在であることを教える。それは、この世に対してつねに一定の距離をおき、「この世と妥協しない」ことを可能にするものである。いわば暫定的なこの地上の制度に対して、「究極以前的な真剣さで真剣に」仕え服従することを求めたといえよう[宮田 1996:13-14]。

ローマ帝国からの300年間の迫害の期間のあと、キリスト教はローマ帝国に公認され、カトリシズムはローマ帝国の国民の宗教とされた。そして、皇帝は真の神の僕であり、教会の息子とされ、真の神の崇拝に重い責任があるとされた。さらに、皇帝はキリストの支配権と神の法の支配権を拡大するということと、ローマ帝国は福音書の力で全世界を統一することをうたった。教会側も、皇帝の権威をキリスト教の目的のために効果のあるような形にしようと努めた。司教達は、教会と国家を同一視はしないが、両者の目的をできる限り一致させようとしていたのである[Gessel 1977=85:68-69]。結果的には、キリスト教の国教化は、キリスト者をローマ帝国と一体化させ、キリスト者の服従と忠誠を全面的に展開させたといえる。

国教化されたキリスト教が、そこから解放されるようになるのは、16世紀の宗教革命を経てからであった。ルターは、中世からの生活領域における神権政治の信念を継承するが、そこにある修正を行っている。彼は、ローマ書13章の解釈において、世俗的政治権力の諸機能を肯定的に述べ、宗教的権力は世俗的権力から区別され、批判される。そして、キリスト者は、世俗的権力を肯定し、これに協力するよう求める。ルターはこのような基礎付けをもとにして、国家と教会、法律と福音を相互に並立させる[Jacobs 1977=1985:101-108]。だが宗教改革者たちは、国家と教会を二元論的に並立させ、無条件に教会は国家に服従せよと説いたのではない。カルヴァンもまた、ルターと同様の教会と国家の二元論的並立を強調するものの、世俗権力が、公共の福祉に反したり、神への礼拝を妨げ神の主権に反逆する場合は、世俗権力への抵抗は、神への忠誠と矛盾しないばかりか、正当性を持つものとされたのである。だが、16世紀から17世紀初頭にかけての絶対主義王制は、神の代理人である王の持つ主権の絶対性を主張し、キリスト者の抵抗権否定の論理を導出していた[宮田 1996:125-129]。17世紀になると、絶対主義王制は市民革命によって圧倒され、近代的なデモクラシー概念が登場しはじめる。宗教改革者たちによる教会と国家の二元論的並立は、啓蒙主義思想によって政教分離原則をもたらした。そして、ホッブズからロック、ルソーへといたる政治思想の変遷では、政教分離原則の徹底とともに、すべての権利の基礎を社会契約におくことによって、権力の神授的根拠づけは完全に廃棄されることになった

ここにいたって、国家は教会から解放されることになった。しかし他方で、国家は教会をおとなしい臣民の教師としか認めなくなり、信仰はちっぽけな人間の心的態度となってしまった[Otmar 1977=1985:146]。ホッブズ、ロック、ルソーも、あくまでも宗教を統治のための道具とみなした。さらに、啓蒙主義思想はキリスト教理解にも影響を及ぼし、自由主義的なキリスト教理解をもたらしたのである。このような政教分離原則と信仰の内面的、私的な領域への閉塞は、20世紀のナチス支配体制に対するドイツ教会闘争を契機に、大きな転換点を迎える。その転換点に基本的な座標軸を与えたのがカールバルトであった。彼は、人間に対する神の固有の存在と主権を主張し、人間の歴史や文化をふくむ被造物神化にたいする明確な否定を行った。そして、神に抗して人間を新たに強化し擁護する既存の秩序にたいして厳しい糾弾を示した。そのため、彼は人間の理性的な主体性を破棄し、個人を神のなかに確立し、あらゆる行為を神の行為に関連づけることを試みた。1930年代のドイツにおいては、現実の国家にたいするキリスト者の関わりが白熱した議論の的となっており、このようなバルトの視点は、これまでの政教分離や、啓蒙思想に影響を受けた二元論的並立を原則としたキリスト教理解に変化をもたらし、教会の国家にたいする抵抗権の主張を理論的に位置づけるものとなった。第2次大戦後においても、キリスト教的抵抗権の論議は継続された。そしてこれらの議論の続くなかで、これまで支配的だった無条件の国家的信仰の伝統が疑問視されるようになったのである。

以上の教会と国家をめぐるキリスト教の教義の歴史的変遷は、ある意味で日本の教会の状況と非常にパラレルなものである。明治以降日本に導入されたキリスト教は、教会と国家との二元論的並立を原則とした理解が主流のものであった。そしてその時期の日本では、国家神道の枠内でのみ、宗教的信仰の自由が保障されたにすぎない。そのため二元論的キリスト教理解は、国家への服従を理論的に正当化する教義であることから、明治期の日本におけるキリスト教の存続のためには機能的なものとなった。教会と国家との二元論的並立は、当初ルターにおいては、あくまでも神の主権を妨げない限りという留保がつけられ、日本のキリスト者の多くがそのことを認識していた。しかし、戦時中の日本のキリスト教会においては、信仰の及ぶ範囲は内面的、私的なものに限定されていたことから、無制限の国家への従属と協力をもたらす結果となった。戦時中においてもバルトをはじめとしたドイツ告白教会の神学は、日本のキリスト教会に一定の影響を及ぼした。しかし、鈴木正久や無教会派などの一部のケースをのぞいて、当時の主流的なバルトの捉え方は、彼の議論を教会の国家への無条件の服従を正当化する論拠として用いていたのである[宮田 1996:302-315]。戦後も、いち早く教会の戦争責任にたいする謝罪を表明したドイツとは対照的に、日本では教会と国家の二元論的並立を根拠に、戦争にたいする教会の政治的責任は回避されたのである。

他方で、「戦責告白」に影響与えた教義とは、これまでの議論で明らかなように、ドイツ教会闘争を契機に提示されたキリスト教理解であった。そこでは、神と人間との断絶と人間の神への従属が徹底化され、神の主権に反する国家への抵抗が強調された。戦前の日本の教会と国家との関係は、ルター主義的な二元論的並立に傾倒するあまり、無制限な国家への協力をもたらした。それはバルト的な、ある種一元論的な「キリストの王権論」とは対立的なものである。バルト的な観点からは、抵抗すべきときに抵抗できなかった戦前の日本の教会を、反省的に捉えかえす必要があるだろう。そのような立場から表明されたのが「戦責告白」であった。「戦責告白」が公表されたとき、キリスト教会では、賛成派と反対派の間で多くの論議を呼んだ。最終的には、「戦責告白」をめぐって、両者の間で合意を得ることはできなかったが、その対立の根底にあった教義とは、教会と国家との関係をめぐる二元論と一元論との対立であった。「戦責告白」に反対する人たちのなかには、戦時中に教団で指導的な地位にいた人たちが少なくなかった。彼らが反対する理由は、自己の立場の擁護だけではなく、彼らの当時保持していた二元論的教義も関係していたことは、興味深い点であろう。
 

3―2 戦争責任をめぐるキリスト者に対する批判

本節では、「戦責告白」が成立する上で、そして、キリスト者が「戦責告白」を受容する上で、戦争責任をめぐる他者(アジア教会、在日韓国・朝鮮人)からの批判が重要な要因であったという観点から論じたい。

まずはじめに、グローバルな教会ネットワークの形成を促したエキュメニカル運動と、それに伴う日本の教会にたいするアジアの諸教会からの批判について検討したい。当初日本の教会がエキュメニカル運動を推進し、アジアの教会との関係を求めていくとき、彼らから日本の教会の戦争責任を追及されようとは考えていなかったようである。しかし、アジアとのエキュメニカルな関係が進展するにつれて、アジアの諸教会や韓国教会から日本の教会の戦争責任を追及されることになった。そして、特に1965年から66年にかけて、プロテスタント教会のメディアで戦争責任問題がアジェンダとして設定される。言説の中には、日本のキリスト教徒に対して先の戦争にたいする被害者から加害者への意識の変換を主張するものもあらわれるようになった。

このような教会メディアの戦争責任をめぐる論調は、ちょうど同じ時期のマスメディアのそれと比較するとその違いは明らかである。たとえば、1964年から65年にかけてのおよそ7ヶ月間をサンプルとした日韓の新聞の内容分析から、日本の36年間に及ぶ朝鮮半島植民地支配に対する認識・評価の相違について、日本と韓国との間でコミュニケーションギャップの存在を確認した研究がある[辻村・金・生田1982:241-262]。日本の新聞の論調は、過去の植民地支配は反省すべき点もあるが、早く忘れて、過去のわだかまりに起因する感情問題を排し、未来志向的に関係を作りたいというものであった。そしてこの時期の日韓交渉をめぐっては、植民地支配の道義的責任をたてに、韓国政府が日本政府に譲歩を要求するのは屈辱的だとして批判していた。他方で韓国の新聞の論調は、日本の植民地支配を道義的な問題と考え、謝罪を日本政府に求めており、植民地支配の道義的責任を明確にしない日韓条約の締結は屈辱的だとして、こちらも批判を行っていたのである。

宗教組織という次元で考えると、戦争責任の問題やその反省が、教会内アジェンダとして設定されたことが、「戦責告白」を成立させる要因として大きな契機となっていたことがわかる。その初発条件を整えたものを、エキュメニカル運動というグローバルな教会ネットワークの形成によるものと捉えることができるだろう。

同様の指摘は、キリスト者が「戦責告白」を受容する過程にも当てはまる。本論では、在日韓国・朝鮮人の集住地域に教会を構えた関田寛雄を、事例として取り上げた。関田が牧師としての生き方の中心に「戦責告白」を設定する契機となっていたのは、在日韓国・朝鮮人から日本人を告発する言葉に直面したことであった。そして彼は、「戦責告白」の理念を背景として、在日韓国・朝鮮人問題は戦争責任として教会が取り組むべき問題であり、またこれは過去のことではなく、「現在もなお彼らがその屈辱を味わう問題である」と認識したのである。

関田の生き方の変化は、在日韓国・朝鮮人から日本人への告発を大きな契機とするものであった。これが、彼にとって「戦責告白」を牧師の職業的使命として実践させるものとなったといえよう。したがって、「戦責告白」の成立過程と同様、「戦責告白」の受容という点でも、戦争責任をめぐる他者からの批判が、重要な要因であると結論づけることができるだろう。

 

4 おわりに

考察の結果をまとめよう。「戦責告白」の成立とその受容を可能にした要因とは、@教会と国家との関係をめぐる、神と人間との断絶と人間の神への従属を徹底化した、国家にたいする教会の抵抗権を主張するキリスト教の教義と、A戦争責任をめぐる他者(アジアの諸教会と在日韓国・朝鮮人)からの批判であろう。以下ではこの考察結果をもとに、「はじめに」で若干論じた現在の日本の戦争責任をめぐる「記憶の闘争」を捉えかえしてみたい。

西尾・藤岡は、1997年度の歴史教科書を批判して、「今の歴史教科書の本当に重大な問題は、日本の近代国家の生みの苦しみについての共感が全く欠けていることだと思います。自国の歴史を愛情をもって眺めるという姿勢が完全に欠落しているのです」と述べる[西尾・藤岡1996:25]。彼らによれば、ある歴史的出来事の肯定的側面と否定的側面の両方を記述するやり方では、子供たちが愛着を持ってネーションに同一化できないと主張する。彼らの議論の根底には、愛着を伴うネーションへの一体感、同一化の形成が前提とされている。他方で、戦責告白を可能としたキリスト教の教義は、「国家が国民の愛を求めはじめるとき、すでに『偽りの神の教会』の相貌をとって『不正な国家』になろうとしている」と述べ、愛を求める国家に警告を発する。そして、国家をいわば醒めた目で、神的権威をおびたものではなく、人間の製作品として世俗性のなかで捉える必要があると主張する[宮田 1996:229,256]。

現在の戦争責任をめぐる「記憶の闘争」は、戦責告白を可能とした要因のAを満たしている。すなわち、冷戦崩壊に伴う国際環境の変化と、人権意識の高揚は、90年代に入ってからの戦争責任論の再活性化をもたらした。また、一部の人たちにとっては、戦争責任にたいする批判が日本の戦争責任を反省的に捉える契機となっている。だが、それは一定の合意を帰結しておらず、過去の集合的記憶をめぐって対立・葛藤を引き起こしている。したがって要因Aだけでは、国民国家レベルで見た場合、戦争責任を反省的に捉えるものとして機能していないことが分かる。「戦責告白」自体も、日本基督教団内部で戦争責任にたいする謝罪と反省という意味で完全な合意を得たわけではない。しかし、そこには要因@で指摘した、神と人間という2分法に基づいたキリスト教的絶対主義が、世俗的な国家との関係における相対主義的視点をもたらしている。それは、国家を醒めた目で相対的に捉える視点を提示しているのである。要因@と対極に位置する主張を展開するのが、西尾・藤岡[1996]である。彼らは、愛着を伴うネーションへの一体感の形成が何よりも重要であると主張する。彼らの議論に従うと、日本の戦争責任を反省的に捉えることは非常に困難であろう。

それゆえ本稿の考察から、現在の戦争責任をめぐる「記憶の闘争」の和解に向けて、何らかの示唆をえるとすれば、国家の営みを相対的に捉える視点を提示することが重要ではないだろうか。キリスト教は、その神との関係における絶対主義を機軸に、政治的な相対主義を達成することができた。無論、日本ではキリスト教は絶対的に多数を占める勢力ではないことは確かだ。だが、国家を醒めた目で相対的に捉える視点は、キリスト教だけが有するものでもないはずだ。国家を相対的、反省的に捉えていくことが、現在の戦争責任をめぐる記憶の闘争の和解に向けて重要ではないだろうか。
 


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(たけのした・ひろひさ/慶応義塾大学大学院博士課程)