1.日本の中の外国人
私たち教職員は、目の青い子どもや髪の毛や肌の色が違う人に対しては、自然と「外国人だ」ということを意識してしまいます。私たちの意識の中には、白人や黒人といった肌の違う人々だけを「外国人」として見てしまってはいないでしょうか? 同じ肌の色をし、同じ言葉をしゃべる人に対しては、そのような意識をあまり持ちません。
しかし、肌の色や、言葉が同じであっても、やはり外国人は厳然としてこの日本社会で生活しているのです。それも私たちの勤務する学校の子ども達の中にもいるのです。
(A)何気ない言葉の中に
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小学校のある教室から、先生の声が聞こえてきました。
「私たち日本人の祖先は、今からおよそ10万年前から1万年前頃に住み着き・・・」
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別の教室からは、歌声が聞こえてきます。不意にとぎれて先生の声がしました。
「みんな日本人なんだからもっと大きな声で歌いましょう。」
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中学校の教室では、英語の授業をしています。
「Now please answer me. Are you Japanese?」(声をそろえて)「Yes,
we are. We are Japanese.」
これらの言葉は、普段の授業の中でみられてもおかしくないでしょう。しかし、在日韓国・朝鮮人の子ども達は、特に自分の民族について考えている子ども達には、どのように聞こえているのでしょうか?
そのほか、「私たち日本人は、昔から手先が器用で・・・」「日本人なら美しい日本語を話しましょう」「君たちはそれでも日本人か」等々。
悪意があってのことではないでしょう。わざと、在日韓国・朝鮮人の子ども達を、無視しているわけではないでしょう。それだけに知らないうちに在日韓国・朝鮮人の子ども達を傷つけてしまう恐ろしさが存在しています。
(B)知らなかったでは・・・
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小学校低学年の教室で
「みなさん、昨日の晩ご飯で魚を食べた人手を挙げて」
「ハーィ」
「ハイ、あなたはなにを食べましたか」
「ハイ、チョギ(
、イシモチ)です。」
「そんなお魚はありません。ちゃんと言いなさい」
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幼稚園で、母親のことをオンマ(
)というと、友達が
「あんたのお母さんはお馬?」といわれた。すると先生が、その子をたしなめた後言いました。
「もう幼稚園に入ったんだからちゃんとお母さんといいましょうね。」
すべての教師が、(
)や(
)という言葉を知っていなければならないという訳ではありません。また、知らなくてもおかしくはありません。しかし在日韓国・朝鮮人の子どもがいるということを知らなかった子どもたちが、耳慣れない言葉を使ったときや見慣れない所作、言動をしたときに、即座に否定した、その子ども達の置かれている現状を知らないで、傷つけてしまう言葉を使った、などと言うことは教師が気をつけていさえすれば避けられることではないでしょうか。
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人権を教える場面で(あるいは、中学校の公民の授業で)
「君たちは20歳になると全員選挙権があるんだよ」
と在日韓国・朝鮮人の子どもたちがいるにも関わらず、言ってしまうのは、その子ども達がいることを知らなかったのか。その子ども達が選挙権を持っていないことを知らなかったのか。教師の無知が子ども達を残酷な目に遭わせてしまったといえるでしょう。
(C)日本人として、韓国・朝鮮人として
10人よれば10人の個性があり、100人いれば100人の個性があります。その個性を形成する要因の中の一つとして、民族の文化もあります。
日本人が、日本語を話すのになにも不思議がないのと同じように、韓国・朝鮮人が韓国・朝鮮語を話すのに何の不思議があるでしょう。振り袖が日本人の民族衣装であるのと同じように、チマチョゴリ・パジチョゴリも民族衣装なのです。異なった文化があれば、それが存在することを素直に受け入れるだけでよいのです。比較することはあっても、優劣を付けたり否定したりすることがあってはなりません。子どもを、その個性を認めることには、そのうちにある様々な要因を認めるとともに、民族が持つ文化をも認めることが含まれています。
日本人と韓国・朝鮮人の文化の違いを、しっかりと取り上げ、互いに認めあい尊重しあうことが大切なのではないでしょうか。
ひとりひとりを認めた上で、社会の現状を見つめ、在日韓国・朝鮮人の子ども達が直面する問題に自ら対処し、未来を切り開く力量をつける手助けをすることが、教師に与えられた責務といえるでしょう。
子どもをしっかりと見つめる教師の目が、子どもを生かし、成長させるのです。
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