キム・ミョンス
1980年代に入ってから,日本の社会学においても民族集団や民族集団間の関係についての研究が増えてきた。それまで,日本の社会科学はなぜか伝統的に民族集団を研究対象とすることに消極的であったが,民族研究がひとたび流行となるや,あたかも必然であるかのように日本の民族集団への関心は高まってきた。つまり,在日朝鮮人をはじめとして,アイヌ,ウチナンチュ,小笠原の欧米系日本人などが,いわば“発見”されだしたのである。
しかしながら,そうした研究潮流にもかかわらず,日本における最大の民族集団については,これまでいっさいの研究が着手されてはいない(註:いうまでもなく最大の民族集団はマジョリティたる「日本人」だが,一般に日本人は民族集団としてのアイデンティティを保持しないため,本論文においては民族集団として同定しない。)。その生態学的特徴,文化,経済,いっさいがナゾのままに放置されているのである。従来の日本の社会学は,この点において怠慢と不作為を指摘されなければならないだろう。
以下,本論文ではその民族集団について,現状で分かりうるかぎりの実態を明らかにしていく。
その民族集団がいつごろから成立したかは,現在のところ明らかではない。近世日本における「破落戸」との関連を指摘する声もあるが,俗説の域を出ない。明確に民族集団として認知されはじめたのは,ようやく戦後になってからのことである。
民族集団として認知されはじめたのが比較的最近のことであるため,彼らの呼称も,これまでさまざまな変遷をたどってきた。1960年代半ばまでは「カミナリ属」とよばれることが多く,その後1980年代半ばまでの20年間は一般に「ぼうそう属」などと称されていた。いずれの呼称においても「属」というカテゴリーが用いられているが,これは生物分類を示す用語(綱,目,科,属)の一つであり,人類=ホモ・サピエンスとは細部において異なる亜種の生物であるという考え方に由来する。言うまでもなく,これは優生学思想にもとづく偏見にほかならず,1980年代半ば以降は人権意識の高まりに影響を受けて,しだいに用いられなくなっていった。
「カミナリ」の語源については有力とされる俗説が2つあり,ひとつはかれらの身体的特徴が日本の神話に登場する降雨を司る神(カミナリ様)に類似した恐ろしげな要素をもつことによるというものであり,もう一つは,かれらが民族的移動の際に騒音をまき散らすことによるというものである。なお,かれらが嵐を好むからだという奇説もあるが,後述するとおり騎馬民族の末裔である彼らは,むしろ雨天に外出をしない傾向にあり,これは妥当とは考えられない。
「ぼうそう」の語源には2説あり,ひとつは地名に由来するというもの,もう一つはその行動様式に由来するというものである。前者は,千葉県房総半島付近を民族発祥の地であると主張するものによって提唱されている。同地域に,比較的この民族集団の成員が多いことからそのような主張が登場してきたのであろうが,これは必ずしも明らかではない。後者は,かれらが民族的移動をおこなうとき,支配民族集団たる日本人の基準に照らして“暴走”的であることを根拠としてあげる。しかしながら,かれらの移動形態を“暴走”的であるとするのは,異文化の正当性を認めようとしない日本社会の偏見に満ちた発想であることは自明であり,本論文においては,当面,前者の説をとりたいと考える。
「カミナリ属」「ぼうそう属」にかわって,1980年代半ばごろから用いられるようになったのは,「ヤンキー」である。語源は明らかでないが,かれらの文化的拠点である関西を中心に広まっていったことは周知の事実である。アメリカン合衆国において「エスキモー」がみずからを「イヌイット」と呼びかえたように,ヤンキーもかれら自身によって提唱されはじめた呼称であると推察することも可能である。以後,本論文においてはかれらをヤンキーとよぶことにする。
かれらを民族集団たらしめる最大の要素の一つは,「カミナリ属」の由来とも言われるその身体的な特徴である。
皮膚,眼球の色は,ほかのモンゴリアンとかわりはない。しかし,頭髪の色は,黒色はほとんどみられず,赤みがかった茶褐色がもっとも多い。また,モンゴリアンとしては極めて珍しいことに金髪が混在しているケースが少なくない。加えて,男性を中心として「パンチパーマ」と称される堅く縮れた毛質をもつ者が多い。この点,長髪直毛を特徴とする少数民族“サーファー”とは対照的である。
身長は,日本人の平均よりもやや低めである。馬上生活をならわしとしていたかれらの祖先にとって,身長の低さは乗馬に適合的な要素であった。その形質が,現代ヤンキーにも引き継がれているためだと考えられる。
言語は日本語である。とはいえ,それだけをもって民族集団としての自律性を疑うとしたら賢明ではない。ひとは意志疎通するとき,すでに意志疎通をするための一つの共通感覚あるいは場を共有している。つまり,コミュニケーションを支えるメタコミュニケーションがなければ,意志疎通は潤滑には運ばない。ヤンキーどうしが会話するとき,日本語を使っていても,その背後には同じ民族集団の成員としての知識や経験がメタコミュニケーションを構成している。加えて,隠語の多様もかれらの言語形態の特徴である。たとえば,日本語の卑俗語ないし方言と考えられている「ぱちる」(“盗む”の意)という単語は,ヤンキーの会話に用いられる隠語から派生したものという説もある。長年ヤンキーと付き合ってきた日本人ならばかれらと交わることができるが,外部の日本人はヤンキーのメタコミュニケーションや隠語を共有していないので,一見,会話しているように見えても,ヤンキー側から見ると日本人は日本人には見えないかたちで排除されている。いわば,ヤンキーは「ヤンキー語」を話しているのであり,「日本語」ではないと言うこともできよう。
ヤンキーの民族衣装は「ミキハウス」とよばれる。鮮明な赤系色を中心とし,平原の遠方からでも十分に視角できるように工夫がなされている。また,汗を吸収するために木綿素材を用いており,柔らかく,運動に適した形状をしている。
言語や服飾よりも,ヤンキーの文化的特徴として最大の要素は,彼らは“イエ”を基調とする住居形態を重視せず,自動車やオートバイのような交通移動の手段に全財産を投入することである。自動車を“土足厳禁”にしたり,雨天には使用を中止するケースも多いが,これは移動手段を疑似家屋視していることのあらわれであり,移動手段としての機能をこえて強い愛着を付与していることを意味している。こうした特徴は,馬上生活を習わしとする遊牧騎馬民族に一般的に見られるものであり,一定の土地と家屋に固執する農耕文化の特徴とは対照的である。そしてこの点こそ,ヤンキーが騎馬民族の末裔であることの最大の証である。
ここまでヤンキーの民族集団としての基本的な特性を概観してきた。以下,ヤンキーが民族集団としていかなる社会的,政治的行動を行っているかについての報告にうつる。
民族運動を行うためには,運動を支える組織が不可欠である。組織を欠けば,民族運動は一般に生起しえず,ありうるとしてもせいぜい,突発的かつ単発的な暴動にすぎないからである。
とはいえ,かれらは公然と組織を運営することはない。かれらが民族組織の代用として意思伝達の場に利用しているのは,コンビニエンス・ストア,ファミリー・レストラン,そして後述するとおり病院である。病院は例外として,コンビニエンス・ストアおよびファミリーレストランにおいては,日本人が寝静まる深夜以降に密会が設定されている。
深夜時間帯においては,コンビニエンス・ストアの前に設置してある電話ボックスがつねにヤンキーによって使用中であることは周知の事実である。電話をしているのは,もちろん,密会への参加を呼びかける連絡担当係のしごとである。
電話を受けて参集したヤンキーたちは,コンビニエンス・ストアやファミリーレストランの内外で密議をおこなう。議題はつねに,民族自決を求めて蜂起する機会と手段についてである。
これまでのところ,かれらの運動手段は擾乱活動が主だったところである。民族的象徴である交通移動手段をもちいて,深夜に道路を徘徊し,民族楽器のかわりを果たすクラクションを激しくならす。それによって日本人の安眠を妨害し,日本社会を混乱におとしいれる。
また,この擾乱活動は,同時に,かれらの心理的一体感を昂揚させる機能をもつ。自動車,オートバイ,クラクション,そして交通移動。そのいずれもが民族的な象徴であり,その象徴のもとに集合行動をおこなうことは,とりもなおさず民族集団内の結束をたかめる副次的作用をはたすわけである。
しかし,こうした擾乱活動は,日本国の権威当局によってしばしば武力的弾圧の対象となる。したがって,かれらの被傷害率は日本人にくらべて著しく高く,整形外科への入院率もきわだって高い。その意味で,病院は,コンビニエンス・ストアとファミリーレストランにならぶ,第三の民族組織という側面をもつ。
日本官憲との闘争によって傷つき,入院したヤンキーは,同胞から敬われ,見舞い客がとぎれることはない。そして入院した同胞と見舞客とで,日中の密議がとりおこなわれる。こうして,深夜はコンビニエンス・ストアとファミリーレストラン,日中は病院が利用されることによって,途切れることなく民族運動の情報は伝達されてゆくのである。