学術研究
1研究環境の整備
2専門の研究活動
3著書・論文の刊行
4学会発表
5学会の運営
6研究費補助金の申請
7サバティカル
8専門の研修への参加
教育
9カリキュラム・開講科目表の編成、時間割作成
10学生ニーズの把握と教育の企画
11ガイダンス、一泊研修
12履修指導
13学生相談、クラスミーティング
14オフィスアワーや個別指導
15メール、WBT、LMSによる課外指導
16ブログやSNSによる学生との一体感醸成
17授業担当
18研究指導
19学力の把握と学生管理
20成績評価
21教育内容・方法の工夫
22授業計画の作成
23教材研究
24教材作成
25教育機器の管理
26実習先との連絡・調整
27学生授業アンケートの実施
28FD研修への参加
大学運営・管理
29職場環境・人間関係の改善
30人事の管理
31受験生の選抜、入試作問
32学科、学部、大学行事
33教室会議・専攻会議の活動
34ワーキンググループの活動
35委員会の活動
36教授会の活動
37予算の立案
38将来構想の企画
39各種情報の収集と分析
40広報内容の検討
41パンフレット等の作成
42ホームページの管理
43補助金の申請
44自己評価報告書の作成
45学内各機関との連絡・調整
46入学式、卒業式
47人権研修への参加
社会活動
48地域との交流
49業界、企業、団体との交流
50講演、セミナー等での講師
51マスメディア等への露出
52ブログ等による社会還元
53審議会、研究会などの活動
営業活動その他
54オープンキャンパス
55高校等への出張講義
56高校訪問
57進路説明会
58保護者懇談会
59ホームカミングデイ
60サークルの顧問
61入試監督業務
 .
 左の表は、かつてぼくが大学教職員組合の仕事をしたとき、大学教員の「業務」の範囲を示すために作ったものです。労使交渉の中では、これらのうち、どこまでが俸給の範囲内であり、どこからが手当ての対象なのかについて話し合われました。

 まぁ、さしあたってそれはどうでもよくて、今回のテーマは表の16と52です。すなわち、ブログやツイッター、SNSの執筆は大学教員の「業務」(所属組織からの報酬を対価とする労働)なのかどうか。あるいは、それに対して、大学当局に編集責任、監督責任があるのかどうか。

 一般の企業においては、たとえ職員のブログが営業上のメリットをもたらしたり、企業イメージを向上させる広報上のメリットが生じている場合でも、業務命令がないかぎり、ブログの執筆は「業務」扱いにはならないでしょう。むしろ、就業時間内に執筆していれば、就業規則によっては職務専念義務違反に問われますし、会社の資産(PCやネットワーク)を不当に流用したということで横領扱いされることすらあります。ブログだけでなく、表の48〜53の「社会活動」は、いずれも企業では就業規則によって禁じられていることが多いです。職務専念義務を脅かす活動であると考えられているためでしょう。

 ところが、大学教員の場合、これらの「社会活動」が教員評価の査定項目に挙げられていますし、第三者機関による認証評価でも審査項目に数えられています。いずれも、禁止されるどころか、教員の業績として評価され、積極的な活動を奨励されています。

 では、所属組織を明らかにしたうえで、ブログを執筆するという行為は、所属組織における「業務」といえるのか?

 例えば、表の16の用途であれば「業務」としての色彩が強く、52(を含めた「社会活動」全般)は「業務」ではない、という考え方があるかもしれませんね。なぜなら、「社会活動」は研究者の倫理的責務として行うものであって、教員の仕事としてやるものではないというのが一般的な見解だと思われるためです。また、「社会活動」が教員評価の査定項目に含まれているのも、教員としての職務を遂行する能力をあらわす指標のひとつだからであって、「業務」の一部だからというわけではないでしょう。「社会活動」をいっさいやらなかったからといって、評価が下がるわけではないのはそのためです。

 ただ、実際にはそうキレイに線引きできるわけではありません。なぜなら、52の用途で運用されているブログであっても、実名で運用されていたり、学生たちにURLが周知されている場合、16の機能を併せ持ちますし、16の用途で運用されていても、そこに書かれる記事は、学者として、知識人としての見識の披露であったりします。

 つまり、大学教員のブログは、「たとえ私的な見解を綴ったものだとしても、大学の業務の一環」とみなすこともありうるし、逆に、学者であれば所属組織から依頼を受けて「私的な言論」をブログに書くことだってあるわけです。

 とはいえ、一般の社会通念からいえば、会社の業務で私的な言論を公表するというのは考えにくいかもしれません。会社の業務であれば、すべては会社を代表しての言動ということになりますからね。そのため、部下は上司の監督に服さなければなりません。部下のミスは、監督責任をもつ上司が謝ってオトシマエをつけるということも慣習的に行われています。

 でも、大学と一般の企業では、ずいぶん話が違います。

 授業を例に取りましょう。上の表でいえば、13〜25が授業に関連する業務です。このうち不可欠な業務だとされているのは、17、18、20、22、23の5つだけで、残りの8つは教員の裁量に任されています。13〜25を全部やっても給料は増えないし、最低限の5つしかやらなくても責められません。

 極端に言い換えると、賃金が支払われる業務(17、18、20、22、23)だけでなく、賃金不払業務(それ以外の8つ)を教員に自発的に負わせることで大学の授業は成り立っている、ということです。

 賃金不払業務については、さすがに業務命令で強制的に従事させるわけにはいきません。教員が自ら、個性と熱意と創意工夫の発露として従事するものでなければならない。教員のプライベートな努力(≒裁量)によって、学生たちは反射的に知的メリットを享受するという構図です。そこに、「業務」でありながら、「私的」な要素が入り込む余地が生まれます。

 授業だけでなく、大学教員の業務には公私混同が幅広く観察されます。クラスミーティングのために教員がポケットマネーを支出するとか、クラブ活動の顧問として学校行事のためにマイカーを走らせるというのはよくある話です。逆に、就業時間中に、業務かどうか明白でない社会活動を行ったりもします。そしてそれが業績の一部とされたりします。

 公私(業務かどうか)の区別を明確にしようとすれば、確実にパフォーマンスの低下を招きます。それくらい、大学では、教員の私的な要素が重要な働きをします。教員はプライベートなお金と時間と労力を遣って教育や研究に携わり、その成果を還元するために社会活動を行っているわけです。

 そろそろ、上の質問に答える準備が整ったと思います。

 大学教員が所属組織を明らかにして執筆した文章であっても、大学当局に編集責任、監督責任があるとはかぎりません。そもそも、大学にとって広義の「業務」とみなしうる言動であっても、それは教員のプライベートな知的活動から大学が反射的に利益を得ているだけ、という側面があるくらいなのですから。

P.S.

 ただし、前表の17、18、20、22、23であれば、大学の権威筋が監督権限を行使できます。つまり、教員が授業中に問題発言をして、学生から大規模なクレームが寄せられたような場合であれば、改善を指導したり、場合によっては何らかの懲戒の対象とすることができます。

 ある言動が「反社会的」だからという理由で非難されることはめずらしくありません。刑法に触れるような行動はもちろん、カルトなどはたとえ違法な行為を行っていなくとも「反社会的」な存在だとして批判されることがあります。ツイートの内容が倫理的に逸脱しているということで「反社会的」だと抗議される場合もあります。

 でも、「反社会的」とはどういうことを指すのか?

 言動の性質自体から「反社会的」であるかどうかを確定するための客観的な定義は、この世に存在しません。概念的には定義できないわけではないのですが、あまりにもあいまいで流動的な要素を含んでいるため、操作的には定義できないのです。

 例えば『新明解国語辞典』(三省堂)にはこう書かれています。

はんしゃかいてき(ハンシャクワイテキ)【反社会的】
その社会の法秩序にあえて反抗したり道徳上の社会通念を故意に無視したりする言動をとることによって、社会の他の成員にまで好ましくない影響を与える様子。

 しかし、ここでいう「法秩序」や「道徳上の社会通念」というのは、社会によっても、時代によっても変化します。しかも、人によっても判断が分かれますので、いつでもどこでも誰にでも通用する「これが反社会的な言動だ」という基準は、存在しないわけです。

 社会によって基準が違うというのは、例えば、東京都知事が「中国人はDNAレベルで残虐」というコラムを新聞に書いた件ですが、ヨーロッパであれば即、政治生命が終わるほどの大きな問題発言です。国によっては確実に刑法に問われるたぐいのものでしたが、日本ではごく小規模な抗議があっただけでした。

 また、時代によって基準が変化するというのは、例えば、2003年時点でディクシー・チックスが「テキサスから大統領がでたことを恥ずかしく思う」とイラク侵攻を批判したことは、当時のアメリカ社会においてきわめて「反社会的な発言」だったため、様々な迫害にあい、微妙な謝罪に追い込まれました。しかし、2006年時点にはすでに「勇気ある発言」が賞賛されるようになっており、2007年にはグラミー賞の関連部門を制覇しました。これは、音楽活動だけでなく、政治的な活動を評価されてのことだというのが一般的な解釈です。

 ただし、定義できないといっても、もちろん、「反社会的」な言動がこの世に存在しないという意味ではありません。

 社会には規範というものがあります。それに反する言動に対しては何らかの負のサンクション(制裁、罰)が作用します。破った規範の性質によっては、嫌味をいわれるといった軽いサンクションを受けるだけのこともあります。それに対して、重大なタブーに触れたりすれば、極刑を受けたり村八分にあったりという非常に重いサンクションが及ぶこともあります。そういう重い負のサンクションの対象となるような言動に対して、一般に「反社会的」というレッテルが貼られます。

 つまり、「反社会的」かどうかを決めるのは、問題とされた言動の性質ではありません。その言動をめぐる社会の価値判断(規範)が「反社会的」かどうかを決めるのです。「反社会的な言動」というものが客観的に存在するわけではなく、社会の構成員の大勢が「反社会的な言動」だとみなせば、それが「反社会的な言動」になってしまうということです。

 だからこそ、何らかの出来事に対して、ネットで世論を醸成する運動にも意味がある。社会の構成員の大勢を納得させられれば、負のサンクションを発動できるわけですから。Joi Ito氏がいうEmergent Democracyは、こういう運動の理想的側面に注目した概念ですね(伊藤譲一「創発民主制」)。

 ただ、1990年代以降、日本において実際にネットの《運動》が奏功したケースを見ると、そのほとんどは「創発民主制」というより『排除型社会』を象徴するものばかりでした。包摂より排除が、許容より不寛容が、多様性より画一性が、日本のネットを支配してきた。言い換えると、マイノリティへのヘイトスピーチを放置するという不正義はまかり通っているのに、ちょっとした発言の言葉尻をとらえてネットイナゴが殺到する、いびつなイジメ空間であった、ということかもしれません。

 ネットイナゴの成功体験ばかりが蓄積されるというのは、まあ、言論にとって望ましい姿ではないでしょうね。

 2ちゃんねる全盛期とは異なり、近年は日本におけるインターネットの言論空間にもいろいろと明るい兆しが見えてはいますが、悪貨が良貨を駆逐してきた歴史を振り返ると、それに期待することは難しそうです。

 集団内の誰かをこき下ろすことで、集団内に一体感が高まることがあります。「黒い羊効果」や「他者化」と呼ばれる現象です。

 こき下ろされる「誰か」がランダムに決まるのであれば問題はすくないといえますが、実際には、決まった属性や特性をもつ人が恒常的に排除される立場に選ばれることが多いものです。いわゆる、社会的弱者やマイノリティとされる人々ですね。社会学では、それを「他者」と呼びます。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号です。

 ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者、障がい者、同性愛者、等々、さまざまな属性や特性が恣意的に「黒い羊」に選ばれ、「他者」として排除されてきました。その人たちを差別したいから(だけ)ではなく、むしろ《その人たちとは違う私たち》の一体感を高めるために。

 この原理を政治手法に昇華させたものがいわゆるファシズムです。ファシズムは、「他者」を意識的に排除することによるカタルシスで熱狂的に社会統合を高める特徴を持っています。

 ただし、ナチス・ドイツによるユダヤ人等への虐殺を代表として、ファシズムは凄惨な人権侵害を必然的に発生させるということで、大戦後の社会がその抑制に尽力してきたことは周知の通りです。例えば、「他者」に対する憎悪の煽動を法で禁じている国は少なくありませんし、個人に対してオールマイティの権力を行使しうる立場の公人がぜったいに選択してはならない禁じ手だというのが国際社会の通念です。

 しかし、日本には、公人の中にもこの原則の重要性を理解していない愚か者がいますね。片山さつき氏は間違いなくそのお一人だといえるでしょう。以下は、昨日、片山氏がツイッターに投稿したツイート。

従軍慰安婦への見舞金は、必要ありません!海外で韓国が日本人学校の教育内容(当然竹島を日本領土としている)を提訴したとの報道ありますが、徹底抗議抗戦すべきです。訪米した閣僚は何してるの?反日、チェジュ思想を教える朝鮮学校の無償化検討などするから、舐められる!怒りと反対の輪広げよう! (@katayama_s 2011/09/25 12:40:15)
https://twitter.com/katayama_s/status/117805586627833856

 ここに登場する「チェジュ思想」とは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の思想体系である「チュチェ思想」(主体思想)の誤りであることは明白です。カタカナにすれば似ているようですが、単なるタイプミスではありません。日本において「チェジュ」といえば韓国の名勝地である済州島以外を指すことはありえず、わずかなりともこの分野の知識があれば、まず、両者を間違うことはないからです。

 言い換えると、片山氏は、隣国の思想体系についてわずかな知識すら持ち合わせていなかったにもかかわらず、上に引用した攻撃的なツイートを書いたということになります。誹謗中傷というほかありません。まあ、片山氏にとっては、「チュチェ思想」だろうが「チェジュ思想」だろうが、どうでもいいのでしょう。《わけのわからない「反日」のマインドコントロール源》だという偏見を流布したかっただけなのでしょうから。

 しかし、そのために、朝鮮学校を無償化の対象とすべきでないと主張しているのは、悪質な政治手法です。愚劣な政治家による見下げ果てた煽動ですね。公人によるヘイトスピーチは、刑法によって禁じられている国が少なくはないということをあらためて指摘しておきたいと思います。

 片山氏のヘイトスピーチを受けて、在日コリアンがどう反応したかというと、まずはこちらのまとめをご覧ください。軽妙にユーモアで受け流していることが理解されるでしょう。

「チェジュ思想とは何か」http://togetter.com/li/192465

 憎悪の煽動は、「他者」の人権を犯にさらす罪であるというだけでなく、社会統合に深刻な打撃を与えることで国家秩序を掻き乱す罪でもあります。はたして、この日本社会の利益、この日本の民主主義を真摯に考えているのは、片山さつき氏なのか、それとも在日コリアンなのか。ぼくには、少なくとも前者ではないという確信がありますね。

1. リスク社会における「他者」

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。複数の国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、実存的な問題に改めて直面することになった人も多いのではないだろうか。だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのは、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがあるからだ。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう。」

 ただし、「普通の人々」は、危険の存在を暴き立てるような行動(例えば原子力発電反対デモに参加するとか)をとることで一時的に「避雷針」として敵意の対象となるだけだが、行動とは無関係に属性によって恒常的に「避雷針」の役割を押し付けられる人々がいる。すなわち、「他者」である。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象に貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市○○中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、「日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないか」という反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、リスクへの不安のヨリシロとして新しい暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

2. 「他者」にとってのリスク・コミュニケーション

 ところで、震災後、日本国内では大いにナショナリズムが昂揚したにもかかわらず、内閣は不思議と支持率を落としたように見える。毒舌の専門家らがそろって適切だと評価した政府の決定にすら、マスメディアが激しく攻撃していたところをみると、おそらく、政府の行動の是非が問われただけでなく、震災や原発事故のリスクについて適切な情報を提供できなかったことで、市民に不安と不満を高じさせたことが原因の一つかと思われる。

 このエピソードからは、リスクの大きさを正確に評価して意思決定することも重要だが、それだけでなく、リスクの受け手に積極的に情報提供をすることで、必要以上に不安を抱く必要はないという合意を形成することも重要だということを学ぶことができる。こうした合意形成のことを、リスク・コミュニケーションという。

 リスク・コミュニケーションといえば、一般には、行政や専門家や企業が何らかの決定をする場合、その決定によって影響をこうむると思われる関係者に、リスクの性質や内容について情報を提供したりすることによって、合意形成を目指すことを意味する。いわば、優位な立場にある者が人々を怖がらせないようにする工夫、ということだ。

 しかし、「他者」の場合、話はまったく異なってくる。「他者」は、優位な立場にあるどころか、差別され、排除され、苦悩と困窮と暴力の対象となる人々だ。しかも、このリスク社会においては、多数派が「わたしはあの人たちとは違って安心だ」という感情を共有するために「他者」を排除するという現象まで発生する。リスク社会における「他者」とは、安心を脅かすリスクそのものだという役割を一方的かつ理不尽に与えられる存在だといえる。

 「ゼノフォビア」という心理現象がある。端的に「外国人嫌悪」と訳されるが、異文化集団を怖がったり、嫌悪したりする傾向のことだ。差別感情の一種ではあるが、よそ者を警戒するのは当たり前だと、正当化されがちなことが特徴の一つである。

 ゼノフォビアは根拠の不明な不安感情であるため、合理的な理由などなくとも成立する。例えば、日本国民を対象としたある調査によると、「日本で発生している犯罪の何割が定住外国人によるものだと思うか」という質問に対して、回答の中央値は20%であったという。ところが、正解は約1%である。つまり、半数の回答者は、定住外国人の犯罪性を真実の値の20倍も高く誤認しているということになる。しかも、回答者の14%は、日本の犯罪の半数以上が外国人によるものだと信じていた。日本人は、外国人に対して非現実的なまでの犯罪性をイメージしているわけだ。「他者」は、こうやって、「危険な存在」という役割を付与されるのである。

 しかし、その役割付与がいかに理不尽であろうとも、現代の「リスク」への恐怖に対して、「平等」や「人権」といった近代の市民的規範によって抵抗することはもはやむずかしくなっている。となれば、「他者」は、自分自身を「リスク」とする屈辱的な役割をひとまず引き受けた上で、そのリスクは不安に思う必要がないほど低く、そもそもリスクという役割を付与することが間違っているのだと多数派を説得しなければならない。これが、「他者」にとってのリスク・コミュニケーションである。

3. 在日コリアンのリスク・コミュニケーション

 前述した外国人犯罪と同様、在日コリアンを危険視する言葉は、ほとんどがデマに近い。あるいは、少なくとも合理的な根拠に基づくものだとはいいがたい。とはいえ、ただやみくもにデマだと抗議しても、情動の次元で不安に凝り固まっている人々を安心させることはできないだろう。

 そこで、この節では、リスク・コミュニケーションを実践する場合のヒントとして、朝鮮学校を「リスク」視する主張に対して、具体的に反論を試みることにしよう。

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 「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない。」

 この種の主張に対して「反日教育などやっていない」と反論をしても、あまり効果は上がらない。なぜなら、この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう。

 デマに関する研究によれば、ネガティブなイメージを否定しようとするのではなく、むしろポジティブなフレームワークを与えることが有効だとされている。私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ。

 朝鮮学校の存在がどのように日本の役に立っているかといえば、以下のようなことが挙げられよう。

(1)朝鮮語話者の大量供給

 隣国との経済的、政治的な交流が不可欠である以上、隣国の言語を駆使できる人材は常に必要とされる。そうした人材を国家が自前で育成しようとすれば膨大な経費を国家予算から支出しなければならない。その点、朝鮮学校は大量の朝鮮語話者を継続的に輩出しているため、単純にその分の国家予算を節約することに寄与していることになる。しかも、2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、その多くが朝鮮学校出身者の手によるもの。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではない。

(2)誕生権経済のリクルート源

 これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることだが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難であり、その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。

 統計の取り方(「自営」の定義)にもよるが、在日コリアン男性の5割から6割が自営業主である。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかる。

 しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえる。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたとも表現しうる。グローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを日本に提供してきたのである。

(3)「民主主義の学校」の教材

 A.トクヴィルやJ.ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがある。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということだ。

 その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団である。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることができる。

 これは単に理念的な話ではない。ひとつ具体例をあげよう。

 移民の増加に伴って外国人に対する偏見が強まるという現象が世界的に観測されている。日本でも、外国人の多い地域ほど、外国人に対する偏見が強いことが複数の調査により明らかになっている。ただし、ひとつだけ例外があって、韓国・朝鮮籍者が多い地域ほどニューカマーを含む民族的マイノリティへの排外主義が弱いという現象が見られるのである。

 在日コリアンは、差別や不平等を自力で克服することにより、長年にわたって健全な市民生活を営んできた。その共生実践そのものが、日本社会に多様性への耐性を提供してきたのだと解釈できよう。これも、リスク・コミュニケーションである。

(4)継承語教育の世界的な成功例

 朝鮮学校が、継承語教育の世界的な成功例であることはよく指摘されるところだ。それは、グローバル化が進行する日本において、ニューカマーの子どもたちの教育のモデルともなっている。

 朝鮮学校は、在日コリアンにとっての資産というだけでなく、様々な民族的マイノリティにとっての資産だといえる。さらには、民族的マイノリティの継承語教育の機会を拡大することにより、日本社会の多様性維持というマクロなメリットに大きく貢献しているのである。

(5)マイノリティの人的資本

 民族的マイノリティは何重にも蓄積的に排除される傾向にある。「身分証明書を持っていない人は、社会福祉事業から排除され、選挙権を得ることもできず、合法的に結婚することもできない」(ルーマン)という具合だ。その結果、低い階層に据え置かれたり、スラムを形成して劣悪な住環境に置かれたりすることが少なくない。貧困は犯罪の温床となり、それがまた差別を正当化する根拠として用いられる。

 ところが、在日コリアンの場合、解放直後から日本人と同等の教育を達成してきた。教育達成が出身階層に依存することを考えると、これは世界的にも異例の成功例である。言うまでもなく、在日コリアンが日本人以上に努力をしてきた成果だ。

 ただし、さすがに解放直後の貧困状況では、朝鮮学校がなければ、日本人と同等の教育を達成することはむずかしかったであろう。朝鮮学校があったおかげで、在日コリアンは社会的に転落せずにすみ、それが結果として、在日コリアンの犯罪率を押し下げ、日本社会の統合性維持というマクロなメリットに大きく貢献したのである。

4. リスクではなくメリット

 祖国志向の強い在日コリアンであれば、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」という発想そのものを嫌悪するかもしれない。また、「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略に、強い屈辱を感じる人も少なくはないだろう。

 しかし、そういう人に考えてもらいたいことが二つある。

 一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない(逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する)ということだ。この命題は、世界各国の調査で手堅く支持されている。

 たしかに、在日コリアンがこの国の厄介者だという信念は、まことに馬鹿げたものである。世界の民族状況を知れば、在日コリアンはむしろ「モデル・マイノリティ」と呼べる理想的な隣人であることがわかるはずだ。とはいえ、いかにナンセンスであろうとも、実際にそういう誤解と偏見が流布してしまっているなら、それを払しょくするために合理的な努力をせざるをえまい。

 もう一つは、朝連解散以降、在日コリアンは、実際に日本社会において「リスク」とみなされないように努力してきたという歴史だ。前述した通り、在日コリアンは、差別と不平等にあえぎながら、それを克服して日本人と相同の社会的地位を形成してきた。

 世界中の国家が民族的マイノリティにそれを望んで膨大な予算を支出しているというのに、在日コリアンは日本政府からそのための補助など受けることなく、独力で不利益を跳ね返してきたのだ。この地で立派に市民生活を営んできたということ自体、いくらでも誇ってよい民族集団の歴史なのである。

 問題は、在日コリアンがこの国で果たしてきた貢献について、日本政府はそれを正当に評価する視点を伝統的に持たないし、また、在日コリアンの側もそれを訴える運動戦略を採ってこなかったということだ。

 「人権」「平等」が分配の正義として通用した時代なら、「在外公民」として理不尽を訴えるだけで一定の改善は得られたであろう。だが、現代はリスク社会である。たとえ、根拠のない、偏見交じりの不安であろうとも、それを解消しないかぎり、理不尽な扱いも解消することはない。民族運動にもイノベーションが必要な時代である。そろそろ、在日コリアンはリスクなどではなくメリットであり続けたのだという事実を、自覚的に広く共有する戦略へと転換するべきであろう。

(注)本稿は、『人権と生活』32号(在日本朝鮮人人権協会発行)に寄稿した同題名のエッセイに若干の加筆、修正を行ったものである。

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、つねにすでにあった実存的な問題に改めて直面することになったという人も多いのではないだろうか。

 だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのも、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがある。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう」ということだ。そしてこの「避雷針」に選ばれるのは、いつだって例外なく、「他者」として構造的に疎外される人々である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象として貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市◎◎中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないかという反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、新しいリスクへの不安のヨリシロとして暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

 橋下大阪府知事が精力的にツイッターに投稿を続けています。昨日3月9日、朝鮮学校に対する助成金支給についてツイートした内容が、各方面に反響を呼んでいます。ツイートの概要は、以下の通り。(見出し数字は引用者)

    1. 「日本人拉致問題、隣国である北朝鮮の現在の振る舞いを考えると、日本と北朝鮮の歴史的な経緯を踏まえてもなお大阪府民の多くは、朝鮮学校への補助金支出には納得できない。」
    2. 「今の大阪府の状況だと、このまま朝鮮学校に補助金を支出する方が学校にとっても不幸。だって大阪府民は腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続けるから。」
    3. 「多くの住民が補助金支給に納得していなければ、不満を抱いていれば、日本と朝鮮学校の共生は成り立たない。」
    4. 「僕は学校と北朝鮮国家の関係性が遮断されることを目的とした大阪府のルールを作りました。」
    5. 「僕が作ったルールに従ってくれれば大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれるはず。これで初めて共生となる。」

  いかがでしょう。府知事ご本人も指摘されている通り、少なくとも政府による違法性の高い「高校無償化」除外よりは、ある意味で、筋が通っているように思われます。もちろん「ある意味で」とは、市民社会における公平と平等といった正義よりも、住民感情を重視する政治姿勢を明確に提示した点において、ということです。

  まあ、わたし個人としても、朝鮮学校は国民教育を捨てて民族教育に特化することが経営的にも重要な生存戦略のはずだと思っていますが、しかし、それは朝鮮学校関係者が自己決定すべき問題であって、中等教育において絶大の権力を持つ府知事が、子どもを人質に踏み絵を踏ませるようなものであっていいはずがありません。

  そして、それ以外にも、府知事のツイートにはいくつか重大な問題が含まれていますので、以下に指摘していきたいと思います。 

  第一の問題は、「大阪府においては、現状のままで朝鮮学校に補助金を支給することには納得できないとういのが大多数の意見」と論断しておられるが、じつは、その根拠をお持ちでない(ようだ)ということ。

  根拠をお持ちでないようだというのは、府知事がツイートの中で、「メディアの皆さん」に世論調査の実施を請願していることからうかがえます。しかし、根拠のない印象論で、これほど重大な政治的意思決定をしたということは、はなはだ重大な問題だといえます。

  印象論でよいというなら、賛成意見と反対意見が伯仲しているのが実態だろうというのが、わたしの印象です。ただし、排外主義的な要素を持つ反対意見は、排外主義の持つ権威主義的な性格により、より強硬な主張として表出するため、目立ってみえてしまう可能性はありますね。

  第二の問題は、北朝鮮に対する悪感情は、植民地主義とレイシズムにルーツがあるという事実を無視していることです。

  心理学分野には「感情温度計」という指標があり、偏見研究の文脈でこれを各外国人に適用した業績が多数あります。さまざまな人種・民族・外国人に対して、日本人の好悪感情を測定し、それを比較しているのですね。

  それらの結果をみると、戦後すぐから一貫して、「朝鮮人」と「黒人」が最悪の感情の対象に位置付けられてきたことがわかります。

  つまり、戦後についていえば、「日本人拉致問題」以前から、それどころか、おそらくは1948年に朝鮮民主主義人民共和国という国家が成立する以前から、恒常的に朝鮮人に対する悪感情は存在していたということなのです。 

  この悪感情の由来については諸説ありますが、「日本の属国だったくせに戦勝国然として傲慢なふるまいをする」ということに対する反感と、朝鮮人に対する蔑視感情があったということを否定する論者はほとんどいません。つまり、植民地主義とレイシズムです。

  かりに、北朝鮮の現在の振る舞いに、現代の日本の価値意識に照らして許容しがたい側面があると判断したにせよ、植民地主義とレイシズムを源流とする悪感情をそのまま「住民意識」として重視する府知事の姿勢は認めがたいところです。

  第三の問題は、植民地主義とレイシズムを源流とする以上、たとえ朝鮮高校が大阪府のルールに従ったとしても、「大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれる」という事態は予想しがたいということ。

  もちろん、現在でも補助金支給に賛成している府民の多くは納得するでしょう。一方、現在、補助金支給に反対している府民は、理性ではなく情動の側面で、朝鮮学校に悪感情を投射している可能性が高い以上、たとえ朝鮮高校が「大阪府のルール」を受け入れたところで、「腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続ける」状況が継続するだけです。

  むしろ、しょせんは恣意的な「大阪府のルール」を受け入れたところで、また別の恣意的な基準で排外意識が正当化されるだけ、というのが合理的な予測ですよ。

  世論調査をやれというなら、それこそ、「大阪府のルール」を受け入れた朝鮮初中級学校と、完全には受け入れなかった朝鮮高級学校とを比較して、悪感情に差異があるかどうかを尋ねてみることですね。よけいな誘導をしなければ、統計的に有意な差異は検出されないと思いますけどね。

  第四の問題は、一方的に条件を押しつけて、飲まなければ補助金を停止するというのは、「ルール」というより脅迫だということ。しかも、脅迫によって達成しようとしていることは、民族教育への介入だということ。

  第五の問題は、 橋下府知事がいう「在日と日本人の共生」とは、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配にすぎないということ。

  一般に、規模の異なる民族集団が接触すると、大きな民族集団が小さな民族集団を排除したり抹殺しようとしたりすることが少なくありません。そのプロセスでは、当然のことながら、凄惨な人権侵害が発生することも避けられません。

  したがって、そのような凄惨な競合状態が発生する前に、権力を委託されている行政府が、悲劇の発生を食い止める努力をしなければなりません。行政府が実現するべき「共生」というのは、こういうことです。

  そのための具体的な手法として、同化論、るつぼ論、サラダボウル論などが提案されては消えてゆきました。そして、現在のところ、もっとも有効性が高いと考えられているのが、多文化主義です。多文化主義とは、異なる民族集団が、文化的には独自性を保ったまま、経済的には平等を達成できるようにするべき、という立場のことです。

  一方、橋下府知事が明言したように、「僕が作ったルール」に従わなければ補助金を支出しないというスタンスは、世界的に悪質性が高いと考えられている「同化論」に近い。同化論は、現代の欧米諸国において、「差別と同じ」だと考えられています。なぜなら、それは「共生」というより、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配だからです。

  恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下知事のツイートには、「差別」を「区別」だと言い逃れようとするのと同様のグロテスクさを感じざるをえません。

 

 朝鮮学校の「高校無償化」については、第三者機関による周到な検討を経て、いったん適用が決まっていたにもかかわらず、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)による韓国砲撃へのリアクションとして、政府が審査手続きを停止している状態が続いています。

 朝鮮学校生徒保護者からは、先月、文部科学省に対して行政不服審査法に基づく異議申し立てがなされていましたが、このほど文部科学省から回答の通知が送付されました。内容は以下の通りです(参考:朝鮮学校無償化問題FAQ)。

平成23年1月17日付をもって、あなたから提出のあった公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定第14条の規定に基づく申請については、平成22年11月29日の北朝鮮による砲撃が、我国を含む北東アジア地域全体の平和と安全を損なうものであり、政府を挙げて情報収集に努めるとともに、不測の事態に備え、万全の態勢を整えていく必要があることに鑑み、当該指定手続きを一旦停止しているものです。(下線は引用者)

 つまり、朝鮮学校に「高校無償化」の適用手続きを停止している理由は外交上の判断だというのが政府の回答だったわけです。

 本ブログでは、政府が外交目的で在日コリアンを抑圧してきた歴史について何度か言及しました(例えば「人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家だ?」)。この主張の妥当性を巡っては意見もあったようです(例えばこちら)。しかし、外交のために理不尽かつ無意味に在日コリアンが抑圧されてきたということは、比喩でもなければ、私個人の思いこみでもなく、単に愚かしい事実にすぎないということを、政府自ら上記の回答によって示したわけです。

 前回の記事(「日系アメリカ人の強制収容所問題と朝鮮学校の無償化除外問題の相似について」)のテーマにも同じことが言えます。政府が海の向こうの軍事衝突を、国内のマイノリティへの人権侵害へとリンクさせた直後に、複数の論者が一斉に「日系人の強制収容所問題を思わせる」と言及しています(例1例2例3例4)。これは、政府が在日朝鮮人の子どもたちを「敵性外国人」扱いし、深刻な人権侵害に及ぼうとしている事実を各方面に鮮明に印象付けたことを示唆しています。

 ところで、国内に居住する外国人の人権侵害とバーターで外交上の利益を達成しようとすることを、俗に「人質外交」といいます。外交目的で朝鮮学校の審査手続きが停止されたのは、「人質外交」の典型事例ですね。ネットで数分検索するだけで、「人質外交」がどれだけ卑劣な人権侵害として忌み嫌われているかわかるはずです。しかも、今回は「人質」となっているのが高校生なのです。国家による破廉恥行為だとそしられても、容易に反論はできないでしょう。

 しかし、これほど愚劣で違法性の高い人権侵害に対して、日本社会はいささか冷淡であるように、ぼくには感じられます。

 丸一年にわたって、朝鮮学校の生徒たちはさまざまな負担に耐えてきました。「お前たちの学校などいらない」という悪意に満ちたメタメッセージを政府から受け続けました。しかし、日本社会の多数派の善意を信じて、毎週のように署名活動をやったりもしました。その信頼に対して、こんな理不尽な仕打ちで失望させたまま卒業させてしまっていいのでしょうか。

 まずは情報を収集したいということであれば、上記の 朝鮮学校無償化問題FAQ がきっと役に立つでしょう。そのうえで、もしこの問題の改善に何か寄与したいとお思いになったら、例えば、「不正義を許さない」という声を首相官邸に届けるのもいいでしょう。あるいは、「教育を外交問題によってゆがめられてはならない、がんばって筋を通せ」という主張を文部科学省に伝えるのもいいと思います。

 とにかく、残された時間は、もう多くはないのです。一人ひとりが、この不正義に加担せず、それぞれにできることを何か一つでも進めましょう。このまま時間切れになれば、日本社会は取り返しのつかないものを失ってしまうかもしれません。ニーメラーの警句は今ここでも重要な意味を持っています。

 

[本記事はアルファ・シノドス vol.64 (2010/11/15)に掲載された拙稿を荻上チキさんの承諾を得て転載したものです。]

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先ごろ、ツイッターにて『アンネの日記』の知名度が低いというテーマでタイムラインが賑わっていたのですが、そこから派生した「日系アメリカ人に対する迫害の歴史」という別の話題が面白かった。きっかけになったツイートは、こちら。

yu_ichikawa:あと意外に知らない世界の歴史★日系人はアメリカでめちゃめちゃ差別されていた! 奴隷制度&ナチスのホロコーストと並び、日系人を戦争中、強制収容所にいれたことはアメリカ人が考える「歴史3大反省ポイント」。原爆とかではなく、日系人キャンプ。しかし、日本でこのネタ意外と知られてなくない?
[http://twitter.com/yu_ichikawa/status/3249265287626752]

なるほど、1980年代以降は、たしかに日系人の強制収容所が北米における戦後補償(リドレス)の中心的テーマだったといえるかもしれません。

1942年2月、「敵性外国人」の隔離を許可する大統領令によって、約12万人の日系アメリカ人が内陸部へと強制移住させられ、その多くは強制収容所に抑留されました。敵性外国人といっても、移住対象とされた日系人の6割以上がアメリカ生まれの国籍保持者であり、当初から憲法上の疑義が指摘されていました。

この問題へのリドレス(歴史的不正への謝罪と補償)が注目されるようになったのは、1978年に日系アメリカ人市民協会が大々的に運動をはじめてからのことです。戦時中の出来事を糾弾する運動にしては、時期が遅いと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、ひとたび「敵性市民」とされてしまえば、名誉回復に必要な条件(偏見の払拭、運動資源の貯蓄、有力な運動家の育成など)が整備されるまでに、とても多くの時間がかかるものです。

ただし、いざ運動を興してからの動きは早かった。1980年、連邦議会に専門の調査委員会が設置されます。83年、同委員会が「人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった」と結論づけ、連邦議会に謝罪と補償を勧告します。そして紆余曲折を経ながらも、88年には「市民の自由法」制定という形で運動が成就するのです。同法は、日系アメリカ人市民協会の要求をほぼ丸呑みする大胆な内容で、(1)連邦議会による公式謝罪、(2)拘留に抵抗したことへの有罪判決の大統領恩赦、(3)戦時の差別により剥奪された地位や資格の原状回復、(4)強制収容に関する教育を全米の学校で行うための総額12億5千万ドルの教育基金設立、(5)強制収容の生存者(現在の国籍を問わず)一人当たり2万ドルの金銭的賠償、が実施されることになったのです。

機が熟して運動が政治化するまでの期間が長かったとはいえ、わずか10年でこの劇的な成果をあげたわけです。この問題が1980年代の北米でいかに不正義に対する義憤をかきたてたか、容易に推察することができるでしょう。

ただ、この問題は、戦時ヒステリーの危険性や、尊厳の回復方法など、北米の政治状況に限定されない普遍的なテーマについてもさまざまな教訓を与えてくれます。現代の日本に暮らすわれわれにとっても、参考になるところが多いといえるのではないでしょうか。

私としては、今日的文脈から、特に以下の4点に注目しています。今日的文脈とは、日本政府が朝鮮学校に対して無償化適用除外を長期にわたって公式に検討している現状との比較において、という意味です。

(a) 母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。
(b) レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。
(c) マスメディアが前項の重要な手段となったこと。
(d) ようするに、民族浄化であったこと。

以下、この順に、現在の在日コリアンが置かれた状況との異同を考察してみることにしましょう。

(a)母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。

移民研究の中には、「出身国のイメージが改善したり劣化したりすることで、移民に対する周囲の処遇が変わった」という報告が非常にたくさんあります。最近の日本でも、日中関係の悪化にともない、中国からの旅行者に集団で嫌がらせをする事件が起こったりしましたし、直感的にもわかりやすい話ではないでしょうか。

しかし、旅行者ならまだしも、移民にとってみれば、異郷の地で生き延びることに精一杯なのに、自分が関与することのできない母国のイメージしだいで、人権状況が改善したり悪化したりするというのは、ずいぶん理不尽な話です。

例えば、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのですから、それも当然でしょう。

しかも、当時はまだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとしたふしがあります。つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したり。

とはいえ、現在の日本でも、憎悪の対象が韓国から北朝鮮に変わっただけで、1950年代当時とずいぶんよく似た構図が観察されます。

外国人に対する日本人の好悪感情を測定した各種の調査によると、戦後は一貫して北朝鮮への感情が最悪に近い位置で推移してきました。ただでさえ否定的な感情の強いところに、1994年の核開発疑惑、98年の「ミサイル」発射実験、2002年の拉致問題といった出来事が起こったわけですから、日本における北朝鮮イメージは、ますます悪化の一途をたどっています。

また、日本政府としては相手国と正式な国交がないこともあり、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点も、1950年代と共通しています。朝鮮学校のみを無償化の対象から除外するよう検討している問題は、その代表格といえます。

(b)レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。

北米では19世紀末から黄禍論に代表されるアジア系移民に対するレイシズムが強まり、さまざまな差別が半世紀にわたって常態化していました。そこに、宣戦布告を欠いた奇襲から太平洋戦争が始まったわけです。「日本は何をするかわからない不気味な国だ」という偏見交じりの敵対感情が強制収容の背景にありました。

また、潜水艦でやってきた日本軍がアメリカ本土に上陸するのではないかという恐怖は、さまざまな流言を生み出しました。「太平洋沿岸の日系人漁民が日本軍上陸の手引きをしているところを見た」とか、「日本軍上陸後は日系人がスパイとして誘導する手はずになっている暗号文を解読した」といった内容のものです。

その結果、レイシズムに起因する日系人隔離論は、あたかも軍事的合理性を持った政策であるかのように語られていったのです。なお、日系人の強制収容に軍事的合理性は一切なかったと証明できたことが、「1988年市民の自由法」を制定するための決定打になったそうです。

一方、朝鮮学校の無償化除外はどうでしょうか。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策です。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることでとうに除外で決着が付いているでしょう。

また、外交的観点からも、無償化除外は合理的でありません。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになり、日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねません。また、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕もありました。

つまり、朝鮮学校を無償化から除外するというのは、法的にも外交的にも、妥当性はないのです。そこに議論の余地はありません。問題はむしろ、妥当性がないにもかかわらず、世論調査では半数ほどの方が朝鮮学校を無償化から除外することを支持しているのはなぜなのか、ということです。

理由はいくつも考えられますが、その中に、北朝鮮や在日朝鮮人に対するレイシズムと流言が含まれているとしても、私には不思議ではありません。ネットをごく簡単に検索するだけで、以下のような文章が見つかるはずです。

(1) 日本の私立高校は完全な無償化にはならないのに、朝鮮学校だけ無償化するなどおかしな話だ。
(2) 他の外国人学校は無償化の対象ではないのに、朝鮮学校だけなぜ無償化するのだ。
(3) 朝鮮学校は閉鎖的な環境で反日教育を行っている。ちゃんと情報公開して相互理解の努力をしてくれないと、予算の支出は支持できない。
(4) 反日教育でテロリストを育成している学校になぜ日本人の血税を支出するのだ。
(5) ここまでして朝鮮学校に私達の税金を投入したいという心理が分からない。利権が絡んでいるのか。
(6) 北朝鮮の国益に直結する心配がある。

いずれも、事実に反する粗雑な主張です。順に反論していくと、(1)もちろん「無償化」は単なるレトリックであり、一般の私立高校と同じく、公立高校の授業料相当が支給されます。(2)他の外国人学校は、すでに無償化の対象となっており、朝鮮学校だけが支給を留保されている状態です。(3)朝鮮学校は常時、授業参観を歓迎しており、日本国内のどの学校よりも開放的だといえます。また、政府の公式な調査チームが視察に臨んだにもかかわらず、「反日教育」と呼べるような教育実態はみられませんでした。(4)朝鮮学校出身のテロリストなど、過去半世紀の間に一人として登場していません。(5)在日コリアンも納税しているという当然の事実が視野から脱落しています。(6)朝鮮学校は恒常的な赤字経営で、教員の給料すら滞りがちな状態。北朝鮮に送金するなど完全なファンタジーです。

中には(1)(2)のように単純な誤解もありますが、あまりにも基本的な誤解が容易に修正されることなく放置されている状態そのものが、朝鮮学校の置かれた過酷な状況を示唆するものといえるでしょう。(3)は朝鮮学校について情報を知らないにもかかわらず閉鎖的で反日的だと思い込んでいるわけですから、偏見以外の何ものでもありません。そして、そういう状況の中で、(4)から(6)のように意図的に作り出されたとしか思えないデマも流布しているわけです。誤解と偏見とデマ――今の朝鮮学校を取り巻くものは、そう要約できそうです。

(c)マスメディアが前項の重要な手段となったこと。

戦時中は情報戦の一環として、対戦国への憎悪を煽り、偏見を強めるような宣伝が行われることが少なくありません。大戦中、日本で「鬼畜米英」と題したカリカチュアや、人種憎悪をあおるような記事が新聞に掲載されたように、北米でも日本人を揶揄するためにずいぶんレイシズムの濃厚な表象が用いられました。

それ自体は戦時の現象として広く観察されることですが、そのことを指摘したからといって、居住国でレイシズムにさらされる移民の苦難はいささかも和らぐものではないでしょう。なぜなら、煽り立てられたレイシズムは、対戦国への戦意高揚に昇華するだけでなく、国内に居住する移民への敵意やヘイトクライムにも転化するものだからです。

マスメディアがレイシズムを煽り立てるのは、なにも戦時中にのみ見られる現象ではありません。20世紀初頭のアメリカでは、新聞王ハースト系のメディアが中心となって、激しい日系人排斥キャンペーンが繰り広げられたことはよく知られています。また、1950年代における日本の状況についても、前述した通りです。2002年以降の北朝鮮報道も、その一つ。そして、朝鮮学校への無償化除外に関する報道にも同じことがいえます。

ここでは、やや長くなりますが、無償化除外問題についてツイッターで積極的に発言しておられる方のブログから関連部分を引用したいと思います。(Scrap-Laboratory 「徹底的な『他者』へのまなざし―朝鮮学校への無償化適用を巡る顛末に思う」より)

 けれどもっと重い責任を指摘されるべきなのは、言うまでもなく朝日・読売・毎日をはじめとする「本物の」全国紙だ(産経とか所詮全国紙まがいですから)。あいつらの論調は軒並み糞でしかなかった。もちろん朝日も読売も毎日も、当初から「原則として」無償化の適用に賛成という立場を取っていた。

 その無償化適用に「原則賛成」というロジックこそが糞だった。どいつもこいつも朝鮮学校の教育や政治的立ち位置に(それこそ産経と変わらないレベルの)罵倒を散々投げつけた上で、「まあ教育の権利という点から言えば、朝鮮学校も無償化するのが筋であろう」と恩着せがましく付け加える社説の数々。実にクソ極まりない。朝毎読(ついでに日経)のどれ一つとして、朝鮮学校への無償化適用が法案の趣旨からも当然であれば「国際条約に照らしても」適用されるべきであることを正面切って論じなかった。今思い出しても反吐が出る。

 確認しておきたいが、これら全国紙の中でただの一つでも「そもそも朝鮮学校を無償化から除外するという論理こそが常識外れのあり得ない差別なんだよ」ということを堂々と言ったか?否だ、もちろん否だ。最低でも朝日と毎日は(連中がリベラルという面の皮を被るなら)信濃毎日新聞の社説(http://bit.ly/bCEwea)くらいのことは即座に表明するべきだった。中井の妄言が報道された瞬間に、朝日と毎日はその程度の正論は言うべきだったし、その上で朝鮮学校側は、「私たちはこれまで日本社会に自分たちを知ってもらうための努力をたくさんしてきています」と返す。最低でもそこら辺がスタートラインになるべきだった。

表現は攻撃的ですが、記述されている内容自体はきわめて妥当なものだと、私には思われます。

全国紙がまるで示し合わせたかのように、朝鮮学校を無償化対象に含むには条件が必要だと主張している。そんな状況下で、朝鮮学校にのみ教育内容に注文をつけるなど、法的には許されないことだという事実に気づくリテラシーのある読者は、いったいどれだけいるでしょうか。

それどころか、朝鮮学校は、特別に注文をつけられても仕方がないような、問題の多い劣悪な教育機関だという偏見を植えつけられる人も、少なくないような気がしませんか。

(d)ようするに、民族浄化であったこと。

民族浄化といえば、内戦中の旧ユーゴスラビアにみられたように、異民族の大量虐殺を指示する用語だと思っている人も多いでしょう。しかし、比較的意味が狭いとされている国連の定義でも、「特定の領土に民族的単一性をもたらすため、その領土から計画的、意図的に特定の民族を暴力や恫喝によって排除すること」となっています。虐殺に至らずとも、大量の強制移住があれば、それは民族浄化なのですね。

ただ、国連の定義は二つの意味で、いささか範囲が狭すぎると私は考えています。一つは、「民族的単一性をもたらすため」という要件が厳格すぎて取りこぼしてしまう事例があること。もうひとつは、「排除すること」という行為に関する要件が厳格すぎて、潜在的な民族浄化を取りこぼしてしまうこと、です。

前者の要件によって取りこぼされてしまう事例の一つが、日系人の強制移住・強制収容です。アメリカは多民族国家であるため、たとえ強制移住が行われても、「民族的単一性をもたらすため」という定義に合わないのですね。しかし、中国人労働者は1882年にはアメリカ入国を禁じられていましたので、1942年当時に日系人を排斥したということは、すなわち、アジア人を排斥したということと同義だったのです。一つの人種を地域から消し去った政策を、民族浄化以外の言葉でどう呼べばいいのか、私にはわかりません。

一方、後者の要件はどうか。私は、物理的には排除されなくとも、「完全に無色無臭に同化して《見えない存在》になってしまわないかぎり徹底的にいじめるぞ」とか、「見えないところに消えてしまえ」とか、「この地に異物として存在することを許さない」といったメッセージを恒常的に受忍させられる状態は、やはり民族浄化としか呼べないだろうと考えています。朝鮮籍の在日コリアンは、その典型事例です。

朝鮮学校とその関係者は、内閣からの発言やマスメディアの報道を通じて、日本社会は朝鮮学校の存在自体を罪悪視しているというメタメッセージを受忍し続けています。朝鮮人になるための教育機関は、その存在自体が許されるべきでないという暗黙の意思を常に感得させられ続けています。これは、やはり民族浄化としか呼びようがない事態ではないでしょうか。

さて、ここまで4つの論点に沿って、北米における日系人の強制収容問題と、朝鮮学校の無償化除外問題の異同について考察してきました。時代状況の違いはあっても、国家的利益を優先し、民族的マイノリティの人権を抑圧する政策という点では共通していることを論じたつもりです。

ただ、最後に一つ、両者の大きな相違点を挙げておかなければならないでしょう。それは、北米ではこの問題がリドレスの対象となり、許されない歴史的不正義だったという共通理解が成立しているのに対して、朝鮮学校問題は毎年のように国連から改善要求を受けている、現在進行形の人権侵害問題だということです。

 

 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の局地的紛争を受けて、高木文科相と仙石官房長官が、それぞれ、朝鮮学校を無償化の対象とする方針を見直す考えに言及したという。

 なんと愚かなことか。人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家なのかといわざるをえない。もちろん、北朝鮮のことではない。日本のことだ。

 歴史を振り返ると、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのだから、それも当然だろう。

 そうした世論を受けて、当時の日本政府はどうしたか。まだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとした。

 つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したりしたわけだ。

 今回の日本政府のスタンスは、50年代当時と完全に同じ構図である。第一に、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点において。第二に、その愚劣な発想が法的にも外交的にも妥当性を欠くという点において。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策だ。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のである。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることで、とうに決着が付いているだろう。

 また、外交的観点からも、無償化除外は合理的ではない。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになるからだ。日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねない。むしろ、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕があったことを考えると、外交的にはむしろ日本の汚点になるといったほうがいい。

 この半世紀、日本の半島政策と在日外国人政策に、イノベーションも理念の深化もなかったということだろう。日本政府は、いったいいつになれば、自らの愚かさに目覚めるのか。

 

参考)各弁護士会の会長声明

日本弁護士連合会 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100305.html
東京第二弁護士会 http://niben.jp/info/opinion20100304.html
東京弁護士会 http://www.toben.or.jp/news/statement/2010/0311.html
大阪弁護士会 http://www.osakaben.or.jp/web/03_speak/seimei/seimei100310.pdf

 

 ハロウィンの朝、8歳の娘が魔女の帽子をかぶって、ぼくのベッドまであいさつに来てくれました。皆さんのお宅にも、小さな精霊や魔女が遊びに来たでしょうか。

 ハロウィンといえばモンスターのコスプレ。そして、モンスターといえば、思い出すのは『アダムス・ファミリー』です。(ぼくの場合)

 『アダムス・ファミリー』は、モンスターの一家がふつーの市民生活を営もうとしてどたばたトラブルを引き起こしていくコメディ。原作はチャールズ・アダムスによる古いコミックなのですが、1960年代初めにテレビドラマ化されると人気が沸騰し、1970年代にはアニメ版が放映され、そして1991年に『アダムス・ファミリー』、1993年に続編『アダムス・ファミリー2』が映画化されました(以下、『AF』『AF2』)。

 映画版は登場人物が天然ボケで痛烈なブラックジョークをかましていくさまを愉快に描いていて、世界中から好意的な評価を受けました。日本でも、ホンダの戦略車「オデッセイ」のコマーシャルに起用されるなど、一時はブームと呼べるほどの大ヒットを記録しました。

 でも、1991年に初作が映画化されると、米国では人種差別や障害者差別と闘っている人たちの間で議論が巻き起こりました。一方にいわく、「異民族や身体障害者への偏見と差別を助長する映画だ」と。それに対して、「いや、むしろそういう偏見と差別を逆手にとって嗤う高度な風刺なんだ」と。

 というのも、『AF』にかぎったことではないのですが、もともと「モンスター」というのは異民族や身体障害者、高齢者をゆがめてイメージ化したものが多いのです。クル病とせむし男の関係がわかりやすいかな。『AF』にもせむし男が登場しますね。

 あるいは、吸血鬼ドラキュラもそうです。この物語が生み出された当時のイギリスでは、植民地化による異民族との交流の増大にともなって、外国恐怖症(ゼノフォビア)が蔓延していました。同時に、ユダヤ資本の拡張に対して反発が広がっていた時期でもあります。『ドラキュラ』という作品は、ゼノフォビアとユダヤ人恐怖とが合体することで生みだされた非常に差別性の濃い物語なのですね。(詳しくは丹治愛『ドラキュラの世紀末―ビクトリア朝外国恐怖症の文化研究』東京大学出版会を参照のこと)。

 ようするに、異民族や身体障害者に対する嫌悪感や恐怖感が「モンスター」を生み出したという面もあるということです。『AF』の登場人物には一人として金髪碧眼のWASPらしい姿を持つ者はいません。みんな黒髪のオリエンタルな容貌をしています。 そう考えると、『AF』に対する評価も変わってくると思いませんか。

 そして、『AF』が公開されると、米国では実際に以下のような議論が起こったわけです。

あの映画は、『フリークス』のように、障害者や異民族を不気味な存在として見世物視している。差別や偏見を助長するおそれがある。
いや、『AF』では主人公たちを恐怖の対象として描いているわけではなく、むしろユニークかつ知的にトラブルを解決するさまは痛快なヒーロー/ヒロインとして好意的にとらえられているじゃないか。
たとえ好意的に描かれていようとも、不気味なステレオタイプをそのまま使っていれば偏見を垂れ流しているのと一緒だ。
というより、「不気味なステレオタイプ」を怖がることこそナンセンスなんだという映画でしょう?

 おそらくこうした議論を意識してのことでしょう、2年後に公開された続編『AF2』では、主人公の一人がサマーキャンプで人種的差別にあう場面が盛り込まれています。その場面では、無自覚で陰湿な差別の描写を通してアメリカの人種問題を風刺すると同時に、『AF』のモンスターが偏見を助長するのではなく、異民族や身体障害者をモンスター視するおまえたちこそ問題なんだ、という強烈なメタメッセージを伝えることに成功しています。 その点で、『AF2』はぼくのお気に入りですね。

 まあしかし、反差別のメタメッセージを込めれば、モンスターという表象が、差別表現ではなくなるということにはなりません。

 ぼくがアラスカで知り合った、祖父がインディアン、祖母がフィリピン系という女性。隔世遺伝で独特のオリエンタルな容貌を持った美女です。「親も姉もふつーの容貌をしているのに、自分だけナニ人かわからない顔だから、WASPしかいない地域の学校でずいぶん苦労をしたわ」とのこと。

 そんな彼女と『AF2』について話したところ、「たとえどんなメッセージがこめられていようとも、『AF』のようにマイノリティをモンスター化するイメージ自体が不愉快。問題は『AF』だけじゃないしね」、ということでした。

 「モンスター」という表象に込められたレイシズム。抑圧される立場の者は、それを敏感に察知し、不快に思い、無邪気に楽しんでいるあなたを軽蔑しているかもしれませんよ。

 

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