ずいぶんモメましたが、国民投票法案は衆議院を通過しそうです。
この法案によれば、投票権年齢は原則18歳以上。未成年には投票を認めないという原則と矛盾しますので、今後は18歳以上を成人とするように各種の法律が改められていくことになるでしょう。
ボクが知るかぎり、未成年には世界中の国で選挙権も被選挙権も認められていません。未成年のほかに参政権が制限される人といえば、禁治産者(自分で財産を管理する能力がない者)、受刑者、選挙法に違反した者、あとは国によって違いますが外国人など。
これは、(1)その社会のメンバーであるという資格があって、かつ、(2)意思決定に責任を負う能力があること、が参政権を持つための要件だと考えられているためです。受刑者や外国人は1の要件を満たさないという理由で、未成年や禁治産者は2の要件を満たさないという理由で、投票を認められていないわけです。
でも、はたして、未成年には「意思決定に責任を負う能力」がないのでしょうか。また、成人すればみんなにそんな能力が身につくのでしょうか。そもそも子どもと成人では何が違うのでしょうか。
少し法律から離れて、この問題を考えてみましょう。
フランスの歴史学者フィリップ・アリエスは、『「子供」の誕生』(1960年)という本の中で、中世のヨーロッパには「子供」が存在しなかったという主張を唱えて、世間をあっと驚かせました。もちろん、物理的に存在しなかったという意味ではありません。「子どもは保護され、愛され、教育されるべきだ」という考え方がなかったということです。
もう少し詳しく説明すると、中世のヨーロッパでは、7歳になれば「小さな大人」とみなされていたというのです。大人と同じ服装をし、大人と同じようにセックスの話題に参加し、大人と同じ遊びを楽しみ、大人と同じように労働の義務を負っていた。それが変わったのは、近代になって、社会をとりまく意識(メンタリティ)が変化してからのこと。子どもを"愛らしい"ものとみてかわいがるようになり、"純粋無垢"なものとみて道徳的、性的な問題から遠ざけようと配慮するようになった。この、近代になってからの「小さな大人」から「子供」へのまなざしの変化。それがアリエスのいう「子供」の誕生です。
この著書については、階級文化への考察が甘いなどいろいろと批判も多いのですが、現代人が自明のものと信じている子ども観が、じつは歴史のなかで作られたものにすぎないのだという新鮮な論点は、さまざまな研究分野から高い評価を受けました。
さて、「子どもは保護されるべき未熟で純粋無垢な存在だ」という考え方は、「子どもは社会の一人前のメンバーではない」という考え方に自動的につながります。そして、社会の一人前のメンバーとしての義務と責任を免除される代わりに、権利も制限されることになります。
例えば、子どもが犯罪を犯しても、成人とは違って刑罰ではなく保護を受けますね。これは、子どもには(物事の善悪を判断する)責任能力がないと考えられるためです。罰を受ける義務と責任を免除される代わりに、子どもは保護者の監督に従わなければなりません。
未成年の参政権が認められないのも、同じリクツです。子ども=未成年は、まだ保護を受け、教育を受けるべき存在なので、善悪や是非の判断に責任を持てない。したがって、投票という社会の意思を決定するプロセスにも参加する能力がない、というわけです。
ここで重要なのは、子ども期=未成年は何歳までかという判断は、アリエスの言うように、時代や社会によっていくらでも違ってしまう、ということです。
では、現代において、子ども期とは何歳までを指すでしょうか。
『家栽の人』(毛利甚八作・魚戸おさむ画)では、刑法の適用年齢引き下げの議論に対して、主人公が「現代では成人年齢が上がっているのかもしれない(から引き下げはナンセンス)」という内容の発言をします。20歳で成人できない未熟な社会なので、むしろ刑法適用年齢は引き上げるべきだという話です。
逆に、ニール・ポストマンは、『子どもはもういない』という本の中で、現代のように映像情報によるコミュニケーションが発達した時代には、子どもと大人のあいだに本質的な格差はないといいます。子ども期は消滅したのだ、と。
どちらの議論も、現代では子ども期の上限年齢=成人年齢が揺らいでいる、という認識は共通しています。もともと、くっきりと線引きできる問題ではないのですが、それがいっそう、不確かなものになっている。というより、たとえ成人していても社会的に未熟な人格があふれている、と人々は実感しているのかもしれません。
けっきょく刑法の適用年齢が14歳に引き下げられたことを考えてもわかるとおり、子どもにも一人前の人格を認めようというのが現代の価値観です。大人も未熟な現代、投票年齢を18歳に引き下げるというのは、時代に見合ったことなのかもしれません。

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