もうじき卒業式、そして卒業式の後は「卒業パーティ」です。今は「謝恩会」とは呼ばないところが増えているのですね。
学費に見合った教授を受けただけなのに、感謝すべき「恩」を感じることなんてない...ということなんでしょう。たぶん。
考えてみると、教えてもらったことに対して恩義を感じるためには、それなりに条件があるんですよね。
(1)対価を支払っていない場合
人間社会において、互酬性(もらったらお返しをしなきゃいけないというルール)というのはきわめて強い規範です。
互酬性が崩れてしまう――いつも奢ってもらうばかりで奢ってあげるチャンスがないとか、いつも世話になる一方でこちらからは何もしてあげられないとか――と、罪悪感や憤怒などネガティブな感情を引き起こします。そして、ネガティブな感情は対人関係のじゃまになるので、そういう感情に見合うだけの権力関係が生じるようになります。
つまり、してもらう一方になると、してくれる相手に服従するようになるわけです。おごってくれる彼氏には従順になるとか、いつもやさしく教えてくれる先輩にはなついて言うことを聞くとか。
「恩」とは、まさしくこういう服従の一形態です。
でも、学校教育では、学生は授業料という対価を支払っていますので、普通に授業を受けているだけでは、なかなか互酬性はくずれません。
だから、学生が教員に「恩」を感じるのは、えてして、学業以外の面で何か世話になったりしたケースだったりします。悩み事の相談に乗ってもらったとか、いっしょに遊んでもらったとか、恋人を紹介してもらったとか。
(2)成長させてもらったという実感がある場合
とはいえ、フツーに教えてるだけなのに、深〜く「恩」を感じてくれる学生さんも中にはいますね。
それはたぶん、たんに知的好奇心が満たされただけでなく、何か具体的に「成長させてくれた」と実感するようなことが、授業やゼミ指導の中にあったんでしょう。
ただ、こういうのは学生の側に一定の感受性が要求されますからねー。
少なくとも、ぼくはニブいので、学生だったころにこういう恩義の感じ方をしたことがありません。
(3)独学では到達できなかったという確証がある場合
自学自習ではどうしても壁にぶつかることが多いものです。ほんのちょっとしたことに気づかずに、膨大な時間をムダにしてしまったりもします。8割がたパズルが解けているのに、あと2割がどうしても見つからないような気持ちになったりもします。
そんな個人的な研究課題について、何度も何度も考えて、何度も何度も試行錯誤して、それでもうまくいかないことがあるとしましょう。
ところが、ふと思いついて教師に相談してみたら、まるで魔法のようにちょちょいと説明してくれて、疑問が氷解したりする。
けっこう衝撃的な体験です。いわゆる、"目からうろこ"ってやつですね。コレはもう、圧倒的な知識と経験の差に敬服するしかありません。
しかも、独学に時間と労力を浪費しているだけに、教授した知識の価値を実感できる素地が学生の側にあるわけです。こういう体験が積み重なってくると、「膨大な独学時間に相当する知識を的確に与えてくれた」ことに対して、恩義を感じるようになる。
こういうのは、教師冥利に尽きますね。
ただ、残念ながら、そこまで苦労して自分で考えてみる前に安易に答えを求めようとする学生が多くて、「まずは自分で考えてみろ」と冷たく突き放すことが多いような気が...

うちも「卒業パーティー」はありますが,「謝恩会」はありません。「卒業パーティー」では教員は会費を徴収されます。
あー、うちの学科でも数年まえに「謝恩会」から「卒業パーティ」に名前が変わって、教員も会費を払うようになりました。
「謝恩会」時代もラスト2年間ほどは“カンパ”という名目で会費分を支払ってましたが。
まぁ学生たちがコスト意識に目覚めたのはいいことでもあるんでしょうねー。
ええー;
先生から会費を取るんですか??
それはおかしい!
その場にきてもらったお礼も含めての会ではないのですか?
私はそんな事ようしません。
それやったら、最初から飲み食いナシの、ありがとうをいう会で充分でしょう。
あ、
「一緒に騒ぎませんか?」なので
卒業パーティーなんですね。
恩とか関係なく、これからは お互い同じ社会人として仲良くしましょうね、の会なんですね。
> 「一緒に騒ぎませんか?」なので
> 卒業パーティーなんですね。
> 恩とか関係なく、これからは お互い同じ社会人として仲良くしましょうね、の会なんですね。
そうそう、「卒業パーティ」とはそういう趣旨なんです。
「恩」を感じている学生は、個人的にプレゼントを持ってきたりすることもありますが。