学問としての差別論

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 はてなのブクマコメントですが、面白いものすべてにリプライするのはムリなので、ちょっとだけピックアップさせてもらいます。

 その前に、ぼくがここに書いた一連のエントリーに対して、かりにぼく自身がコメントするならば、指摘するだろう主たる論点が2つあります。第一に、差別という現象に学術的に接近しようとすると、差別の解消を目指す運動は部分的に後退せざるをえなくなるんじゃないのか。第二に、もし学術的にも実践的にも、「差別者=悪人」という強固な前提が邪魔になるとしたら、差別研究の発展も差別の解消も、永遠にムリなんじゃないのか。

 これらの論点そのものは見当たりませんでした。でも、これらの前提となるロジックをどこかに内包するブクマコメントが以下の2つ。

 hal9009 そもそも差別ってそれを悪として駆逐するための概念ではなかろうか。それを前提としてこの調査の結果に対する意味づけを考えると鈍感な奴・人権について学んでいない奴≒悪、というなんともな結果に... 2010/02/15

 samoku 社会 「差別者=悪人」のイメージを壊しつつ差別を無くすって実に困難そう。「悪人から権利を勝ち取る」って闘争イメージのほうが動きやすくはあるのだろうなあ。差別を咎める時に相手を悪人扱いするなという話でもある 2010/02/17

 加えて、エントリーの内容を誤読してはいるけど、やはり上述の論点の基礎を含むコメントがこれ。

 usneet この具体例は結局「差別はあっても仕方がない」と言うことになって危険。差別的状況の把握能力と差別心の有無は違う。差別心からしか「差別」は産まれない、という前提がなければ差別は伐てない。 2010/02/15

 いずれも差別論の実践的な特性について的確に把握されていますね。

 ただ、ぼくがここで書いてきたことは、どちらかというと、差別の解消という実践よりも、差別の解明という学術的な課題に力点を置いている、と理解していただけるともっとうれしいです。

 さて、上述の論点について、前々回のエントリーで触れた「敬愛する先輩」が、著書の中で「差別論」と「人権論」を分けようと主張しています。手元に実本がないので記憶に頼って紹介すると、真理を追究するための学術的な議論(差別論)と、被害を回復するための政治的な議論(人権論)を混同すると、いつまでたっても合理的な解にたどり着かない、という話です。

※ 佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 明石書店

 この主張はやや難解なロジックをその前提としていますし、「差別論」と「人権論」という類似概念にまったく違う意味を付与しなければならない難しさもありますので、誰もがすんなり理解して受け入れられる話ではないでしょう。

 その意味で、実効性には留保をつけざるをえません。おそらく佐藤さんもそれはわかっているでしょう。でも、ここで重要なのは、「学術的な議論と政治的な議論をいったん別のものとして論じるべきだ」という問題意識それ自体です。(差別論と人権論を分けようというのは、その問題意識を伝えるための手段にすぎません。)そして、ぼくもこの問題意識を共有しています。

 ということで、今回から何回かに渡って、なぜそのような問題意識が必要なのか、について書いてみたいと思います。

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このページは、mskimが2010年2月18日 10:50に書いたブログ記事です。

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