不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、というのが前回のエントリーでした。かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。
前回の議論を整理する意味で、ひとつ別の定義を紹介しましょう。新保満先生が岩波新書で使った非常にシンプルな定義です。永遠の名著『人種差別と偏見―理論的考察とカナダの事例』(1972年)より。
「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」
つまり、新保先生は、(1)特定の社会集団(ないし社会的カテゴリー)に所属しているという理由で、(2)異なる取り扱いをしたら、それだけでもう差別だ、というわけです。すばらしい。オッカムの剃刀とはこのことか、と思わせる美しい定義です。
この定義において、「異なる取り扱い」が不利益を生ずるかどうかは問われません。なるほど、他人からはうらやましく見える特別待遇でも、当人にとっては不快だということもありますね。不利益も不当性と同じで、一意には規定できない面がある。だから定義には含まない。そして、不利益の発生を定義に含まない以上、その不利益が不当かどうかも定義に含まない。
ただ、この条件だと、差別に当てはまる範囲が広すぎて、直感的におかしいと思われる事例を排除できないのが難点でしょうか。
例えば、何らかの集団のメンバー(例:子ども、高齢者、障害者)を特別に保護の対象にすることも差別ということになります。たしかに、レディ・ファーストやインディアン法のように、温情主義が差別のあらわれという場合もあります。でも、特定の社会集団を保護する制度や行為のすべてが差別だということになると、ちょっと行きすぎでしょう。
つまり、新保先生の定義は、差別を把握するための十分条件にはなっているかもしれないけど、必要十分条件とは言えない。美しい定義なのですが、美しいだけに《何かが足らない》ということがよりハッキリする。
何かとは、やはり、不当性です。ここで冒頭の問題に戻ります。不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。
では、どうしたらいいのか。どうすれば差別を客観的に定義できるのか。今回は、二つの考え方を紹介します。
一つ目は、不当性の根拠を人権に求める、という解法です。何度か紹介した佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 (明石書店)から該当する記述を引用します。
「差異モデルでは、不当性の根拠付けは比較的簡単であるように見えます。『異なる扱い』が不当である理由、それは『平等』という規範に反するからにほかなりません。...中略...平等に扱われることが『権利』として構成されているからです。すなわち、差異モデルでは『権利(の侵害)』という論理が差別の不当性を最終的に基礎づけている論理であるといえます。」
ここでいう差異モデルというのは、新保先生のように、「異なる取り扱い」に注目して差別を定義しようとするアプローチのことです。前回紹介した3名も、「不利益な取扱い」を定義に含んでいましたので、やはり差異モデルということになります。
で、佐藤さんは、ようするに、「人権」を侵害されたかどうかを不当性の根拠にすればいい、といっているわけです。前回紹介した野口さんも同様の定義をしていましたね。
ただ、前回も書いたとおり、「人権」というのは普遍的で客観的なものではなく、時代によっても社会によってもダイナミックに変わっていく不定形なものにすぎません。だから、「人権」を根拠にして「不当性」を規定しようといったって、あいまいであることには違いはありません。実をいうと上記の引用箇所を初めて読んだとき、「うわ! 佐藤さん、不当性の議論から逃げたな(笑)」と思ったりしました。
しかしながら、「正当/不当」という価値判断とは違って、「人権」には国会や裁判所の議論の結果として法的な定義が与えられることが多いです。あいまいさは残るとしても、ぐっと具体的になることは確かですね。
まあ悪くいえば、定義を国会と裁判所に丸投げしてしまうということです。あるいは、学術的な正確さはおいといて、現実の被害の発生を食い止めるために何が人権侵害に当たるかは政治的に決めてしまおう、という実践的な関心といってもよい。
でも、逆にいえば、不当性=人権侵害だと決めてしまえば、それによって実践的なメリットが生じます。佐藤さんの表現を借りると、「不当性を見出し、是正していこうとするときには差異モデルは必ず必要になります。いわば対症療法のために必要なモデルであり、しかも差別問題において対症療法は非常に重要です。」つまり、法的な定義を背景として、違反(=差別)が発生したら、それを取り締まったり訴えたりすることができる、というわけです。日本だと、人権擁護法案がまさしくこのスタンスを形にしたものということになります。
二つ目は、不当な被害(=差別の結果)から差別を定義するのはやめて、誰が不当な被害を生む行為をしたか(=差別の原因)に注目する解法です。差別をする側とされる側の非対称性に注目するアプローチと言い換えてもかまいません。
これの代表格が、頻出の佐藤裕さん。ミクロレベルの差別論に限れば、現時点でもっとも上手にパズルを解いているのは、まちがいなく佐藤さんだとぼくは思います。
その前に、まずは佐藤さんの議論に決定的な影響を与えた江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房)から、関連する記述を紹介します。
「『差別』とは本質的に『排除』行為である。『差別』意識とは単なる『偏見』なのではなく、『排除』行為に結びついた『偏見』なのである。『排除』とはそもそも当該社会の『正当』な成員として認識しないということを意味する。それゆえ『差別』は差別者の側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する『不当な』行為に対して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである。」
少し難しいですが、エッセンスは「『差別』とは本質的に『排除』行為である」という一文に端的に表現されています。ただ、新保先生と同様、すべての排除行為を差別であるとはいえないのが難点でしょうか。何か重要な要素が抜け落ちている。そこで、次に佐藤裕さんの定義。
「差別行為とは、ある基準を持ち込むことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である。」
おそらく、ミクロレベルの差別行為については、この定義で完成に近いのではないかとぼくは思っています。ただ、これを説明するのはちょっと面倒なんですよね。できれば、『差別論』 か、ウェブで公開されている佐藤さんの論文を直接読んでほしいところです。
と思っていたら、前回のエントリーを公開した直後に沼崎一郎さんからこんなツイートが。
@han_org A、B、C、Dがいるとき、Dに対してだけ、A・B・Cとは扱いを変える。扱いの違いにDが抗議する。なぜ扱いを変えるのかと問われて、私は「だって、Dは◎◎だから」としか答えられない。◎◎はカテゴリー。観察可能という意味で、客観的じゃないですか?
おぉ、カテゴリーの恣意的な動員をこんなにシンプルにまとめてくれるとは。わずか120字。もうこれで説明に代えたいと思います。
おなかがすいたので、なんとなく尻切れトンボだけど、今回はこれで終わります。
(注)上記とは別に、社会的構築主義の立場から差別を定義するやり方(例:坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』新和社)も有力なアプローチです。このアプローチでなければ説明できない事象はたくさんあります。でも、これはもう「客観的」に定義することはやめてしまって、ものごとを動態的に定義するというスタンスなので、今回は触れません。
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【追記】 2011年07月15日
昨日、こういうツイートを目にしました。「わたしたち」の同一性を確認するために「あのひとたち」との境界線が恣意的に引かれるという現象をずいぶん上手に表現してあると思います。ご参考までに。
yhlee:よく、朝鮮人にひどい目に合わされたから嫌いになったっていうけど、相手が日本人なら、どこ出身か確認して、栃木県人だったら栃木県人全員嫌いになる、とか、そいういうことはないのよね。わたしが悪いことしたら、社労士嫌いになるとか、子持ちの女性嫌いになるとか、そういうこともない。 [http://twitter.com/yhlee/status/91441892440551424]
yhlee:この発言のポイントは「経験から属性全部に嫌悪感持つのはけしからん」ということではなくて、「そのときの属性は、勝手に選ばれるものだ」ということだよん。出身県で嫌悪感持ってるので違います(キリッ)という方は、誤解です。わかりにくくて失礼。 http://ow.ly/5EOll [http://twitter.com/yhlee/status/91597807680626688]

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