差別と政治、差別の政治

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 前回のエントリーでは、実践面からいえば、どういう行為が「不当」なのかについての議論を国会と裁判所に丸投げしてしまうのも一つの合理的な解決策だと紹介しました。合理的というより、それ以外に方法がないといいますか。

 しかし、実をいうと、「机上の空論とはこのことか!」と謗られてもしかたがない暴論だと、ぼくは思っています。佐藤さんの議論は、学術的には美しいんだけど、いつも実践面が弱いんだよなぁ。

 だって、人権侵害の被害を回復したり、被害の発生をなくしたりするのが実践的な目標ですよね。人権侵害かどうかの判断を国会や裁判所に丸投げしたうえで、その目標が実現されるためには、国会や裁判所が人権侵害をしないという前提がなければなりません。でも、ぼくの知るかぎり、国会も裁判所も、少なくともぼくの判断では、たくさん人権侵害を重ねてきましたからね。とてもそんな信用はできないわけです。差別と政治というのは、どうもウマが合わない。

 そんなコメントが付かないかと半ば期待してネットを見ていたのですが、残念ながら(?)、そういう厳しいのは今のところありませんね。学者の言いなりじゃ、差別の巧妙さに抵抗なんてできないよ。

 例えば、中井洽拉致問題担当相が朝鮮学校を高校の実質無償化の対象外とするよう求めている。そして、今の時点では、鳩山首相もそれに反対してはいません。でも、朝鮮学校だけを除外するというのは、いくつかの法的な人権侵害の定義に抵触する話です。まだ議論の途中であるにもかかわらず、すでに国連の差別撤廃委員からクレームが付いていますね。もし、中井大臣の提案の通りに実施されることになれば、当然、訴訟が起こるでしょう。

 ところが、その種の訴訟で、マイノリティの訴えがなかなか通らない。なぜなら、日本の法律は、人権侵害の被害者をサポートするようには、作られていないからです。...ちょっと言いすぎかな? でも、そう思われても仕方がない面が多々ある、とは明言していいでしょう。

 実践面に期待して国会や裁判所に任せても、少なくとも現状では、実践的な答を得られない可能性が高い。とすれば、「人権侵害」の客観的定義を国会や裁判所に任せるというアイディアは、実質的にはあまり意味がないということになりかねません。

 では、何か代替案はないのか?

 つまるところ、差別とは政治です。政治といっても、議員の仕事の話ではありませんよ。社会学者にとっての政治とは、何が正しいのかをめぐるすべての争いのことです。(国会でやっているアレと間違いやすいので、こういう意味での政治をカタカナでポリティクスと書いたりもします。)夫婦の口げんかも政治なら、政策をめぐる世論も政治。裁判官だって世論を無視できない以上、法の運用もやはり政治の問題です。

 ある事象について「不当」であるという訴え(差別だ!)が、それを無視したり(考えすぎじゃない?)、否定したり(それが差別なら何でも差別になっちゃうよ)する多数派の声をかき消すことができれば、訴えのあった事象が世間の「不当なものリスト」に書き加えられていく。逆に、多数派の声にかき消されてしまえば、「不当」だとは認めてもらえない。こういう、一連のダイナミズムを、「差別の政治」と表現します。

 社会的構築主義の立場から、「差別の政治」に取り組んだ好著に坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』(新和社)があります。坂本さんは、「差別という実態的現象が存在し、つねにその存在については指摘できるかのように考え」ることは誤りだといいます。客観的には規定できないというわけです。なぜなら、「何が差別であるかは社会的に共有されているわけでは...中略...ない。差別という現象はある事柄を差別とする人々がいるのに対し、差別でないと主張する人々がいるということに問題の根本がある」からです。

「同一社会内で一致すると想定されている異質な規範間のずれが、成員により告発されあらわになった、社会現象である」

 これが坂本さんによる差別の定義。 「およそ差別というものに共通の原因など存在しない」という坂本さん(というより構築主義)ならではですね。要するに、(1)差別だという訴えがなされ、(2)そういう訴えがあったと広く知られるようになったものが「差別問題」だ、ということになります。

 構築主義は、「差別の政治」のようなダイナミズムを描写するうえで、きわめて強力な説明枠組みを提供してくれます。構築主義ならではの弱点もあるのですが、この立場によって初めて説明可能になる事柄は少なくありません。

 例えば、不当性の問題も、これによってある程度決着が付きます。ラフにいえば、「何が不当なのか」→「不当だと訴えのあったこと」というわけです。

 つまり、現時点ではまだ表面化していない規範のズレ(例えば常識と実感のズレ)があるとしましょう。誰かがそれを差別だと訴え、その訴えに広く注目が集まるようになれば、今後はそれが差別問題の一つに数えられるようになっていく。だから、客観的に不当性を規定しようとしても意味がない。むしろ、不当性をめぐる政治に注目しなさい、という主張です。

 最後に、同書から「差別の政治」をうまくいいあらわした文章を二つ紹介して、今回は終わりとします。

「差別は主観的なものである。しかし、それが共同主観に、より大きな共同主観になっていくよう争っていくものなのである。」

「差別は、つねにすでに認識され、差別として存在しているものではない。告発によって、見いだされていくものなのである」

(注)このエントリーは2010年2月26日に一部を公開し、2月28日に完成しました。

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このページは、mskimが2010年2月28日 03:14に書いたブログ記事です。

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