「差別は客観的に定義できるか」から「差別問題の構築事例」まで、4回連続で差別の定義をめぐる議論を紹介してきました。
現時点では、「われわれカテゴリーの恣意的な動員」に注目する佐藤裕さんの定義と、坂本佳鶴恵さんを筆頭とする社会的構築主義的な定義に、いろいろと有利な点が多いといえます。前者は差別する側の視点から差別を捉えることに成功していますし、後者は差別問題が生成されるダイナミズムをうまく記述することができる。しかし、それぞれ一長一短がありますので、決定版といえるような定義はまだ存在しない、と表現することもできます。
それは、言い換えると、何が差別で、何が差別でないのか、という問に答えることは、けっして簡単なことではない、ということです。今回は、それを前提として、議論をひとつ提起しておきます。
タイトルは、第1種の過誤と第2種の過誤です。
推測統計学の世界には「第1種の過誤」と「第2種の過誤」という言葉があります。前者は真実を見落としてしまうこと、後者は誤りを見過ごしてしまうことです。
例えば、ある公害による病気の被害認定が争点になるとき、(a)その公害による病気の典型的症状がほとんどすべてそろっていること、(b)その公害による病気の重要な症状の一つ以上があること、の二通りの基準があるとしましょう。(a)の立場をとれば、経験的にいって「被害者」は実際の被害よりも確実に少なく見積もられることになります。これが、第1種の過誤です。(b)の立場をとれば、「被害者」が実際の被害よりも多く見積もられる危険性を否定できません。これが、第2種の過誤です。
別の例を出すと、法曹界には「疑わしきは罰せず」という基本ルールがあります。これは、絶対に第2種の過誤(=冤罪)が起こってはならないというスタンスによるもの。一方で、医療界には「疑わしければ再検査」という基本ルールがあります。これは、絶対に第1種の過誤(=病気の見落とし)があってはならないというスタンスによるもの。
ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか?
おそらく、差別と聞けば加害者だけが懲らしめられるべきだと考える人は、法曹界のスタンスを採用するでしょう。自分が「差別者」という冤罪を着せられると困りますからね。
一方、差別と聞けば被害者をサポートすべきだと考える人は、医療界のスタンスを採用するでしょう。なぜなら、今はまだ世間に知られていないだけで、将来的には「差別」だと広く認められるようになる事象によって被害を受けているのかもしれませんからね。
「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」に書いたのは、この両スタンスの違いのことです。また、この両者の判断のグラデーションを、「差別の存在を認めない傾向とは」で紹介した表の中に確認することができます。
繰り返しますが、ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか?
ぼく個人の見解を述べるなら、医療界のスタンスのほうが適切だと考えます。なぜなら、(1)医療界のスタンスを採ることによってマジョリティがこうむるデメリットと、法曹界のスタンスによってマイノリティがこうむるデメリットを比較したとき、後者のほうが甚大だから、(2)マジョリティ側が医療界のスタンスを採るという姿勢を持たないかぎり、被差別のクレイムはなかなか通らないから、(3)加害を罰するよりも被害の救済のほうが実質的に重要だから、です。
ぜひ皆さんも、どちらのスタンスを採るべきか、その理由は何か、について考えてみてください。

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