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▼米津 篤八さん:
>ソ連の千島占領について、多くの人が正確なイメージを持っていないのではないでしょうか。
>
>実は私も今回勉強してはじめて知ったのですが、ソ連軍と日本軍が戦火を交えたのは、
>千島(クリル)最北端のシュムシュ島のみであり--それも先に砲撃を開始したのは無条件
>降伏したはずの日本軍であり、戦死者もソ連兵のほうが多かった--、
(中略)
>(『北方領土問題を考える』和田春樹、岩波書店、90年。『北方領土問題と日露関係』
>長谷川毅、筑摩書房、00年)。
ちょっと待って下さい。米津さんは、降伏したはずの日本軍が先に攻撃した、
とおっしゃいますが、私の持っている秋田書店 歴史と旅 増刊、大平洋戦史
総覧(平成三年)、によれば、8/17 午前中に対岸のカムチャッカ半島の砲台から、
午後には爆撃機によるソ連の攻撃が開始された、とあります。
さらに、ソ連軍が占守島に上陸を開始したのは翌18日「深夜」二時ですよ ?
とても平和裏に守備隊の武装解除を試みようとした行為とは思えませんが。
上陸戦闘において、先に発砲したのは日本軍かもしれませんが、前日から
長距離攻撃を繰り返し、深夜に上陸しようとする相手に反撃するのは、十分
正当防衛と見なせる行動だと思いますよ ?
また、千島列島に隣接する樺太では、日本本土の降伏を受けて停戦交渉を試みた
日本軍の武官が三度に渡って殺害され、避難しようとする民間船が三隻攻撃され、
二隻が沈没し、2000 人近い民間人が亡くなっています。
これらの事実を見る限り、とてもソ連軍の行動が紳士的だったとは言えないと
思いますが。
ちなみに占守島の第91師団の抵抗により、ソ連の進撃が遅れ、北海道上陸を
防いだ、と言われているのですが、このような言われ方をされては… 米津さん
はスターリンに北海道も差し出した方が良かった、とお考えなのでしょうか。
>また、「先住民の物理的排除」のようなことは行われていません。逆にソ連側は日本人
>島民の脱出を認めず、行政に組み込んで、配給を行い、仕事につかせました。もちろん
>ソ連式の生活になじめなかったり、規律の乱れたソ連兵の略奪に悩まされたり、本土に
>家族がいたりで「自主的に」島を離れた人が多かったのも事実です。
(中略)
>つまり公式的には引揚は自由意志によるものでした。実際は残留などごめんだ、という
>人が多かったわけですが、ごく少数ながら残留を選んだ人もいたことも事実です。少なく
>とも暴力的に「住民を追い立てた」のではありません。
ソ連国籍取得を希望しない住民を「全員退去させた」行為のどこが暴力的で
ないのでしょうか。また、土地はもちろん、戦後働いて得たルーブルの給与すら
没収され、全財産を失っているのですけど。
しかも、目と鼻の先の日本には直接送らず、樺太の収容施設に一旦送り、寒空
の中、戸外に二十日間も放置され、死亡した住民すら出ているそうです。
>ソ連の対日参戦はアメリカの強い要請によるものであって、「膨張主義」ゆえでは
>ありません。もともとソ連は対日参戦に消極的でした。
ハル回顧録によれば、スターリンの方から対日参戦予定があると表明した
ことになってますが…。それにスターリンは千島列島どころか、北海道の占領
すら要求してませんでした ? トルーマンが拒否しましたけど。
日本の帝国主義を非難するのは一向に構わないと思いますが、いくら何でも
ソ連の行為を美化しすぎでしょう。もっと是々非々の姿勢は取っていただきたい
ものです。
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