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久しぶりにまいりましたが、閉鎖という話になっているという事で、残念な気持ちです。
でも良くここまで大変なことを引き受けて来られたなあ、と言うのが、管理人さんにたいする率直な感想です。
私流の解釈で恐縮ですが、管理人様が実践しようとされた「理念」を理解するには、差別とか偏見とか、その原因、背景などを社会現象として考えるだけでなく、それらが発生する所に関わっている個々の要素を、その成立状況に遡って再検討してゆくような視座を確保して行く必要が有ると思います。
--多くの人はこの点ですでに脱落していると思います。しかも多くの場合、本人が気が付かない。
こういう手合いに相手になると、背景のない議論のために不毛な時間を費やす羽目になります。
たとえば”世界のおおかたの国で有事立法が制定されている”という事は事実であると言います。ところでその事と、今後の日本が有事法制を持つ場合にどういう事が起こるかという予測をすることとは、そこから類型的な推論を得る事はできても、直接関係した事実として採用することは出来ません。これは微妙で、見落としやすくて、しかも論議に上げ難いので、賛成派も反対派も、本人も気が付かないか、あるいは(特に賛成派には)分かっていならが意図的に無視されやすい。
そうすると、「当然の事」「とくに問題の無い事」の積み重ねの結果、人権を制限する事の是非の判断も、その期間も、その妥当性の基準も、一切が自衛隊関係者と、明らかにされていない「専門家」の一団にまかされているような法規を、正当化する議論が可能になります。
一般に情報というのは、stability(堅牢性)の高い情報と低い情報とが有ると考えられています。(ごく一般論のみです--メディアの変遷などにより両者のかかわりは微妙に変わって来ているのですが、そこまで詳しい事はここではとても言えませんので)
たとえば保存されている文書などは、比較的堅牢性の高い情報と言われます。それに対して人の証言などは、人間に寿命があり、また記憶がそんなに堅牢なものでない事を考えると、ややstabilityの低い情報と考えられます。災害などが起こった時など、その現場にいてとにかく恐ろしくて方向も分からず逃げた、などという情報は、その現場が失われてしまった状態で他人に伝達するのはとても難しいことです。つまり情報としては、「こわれやすい」fragilityなわけです。
通常、両者は密接に絡まりあっていて、区別できるとはかぎりませんが、両者は対等に必要です。性格の違いが有り、stabilityの高い情報というのは、時間と行程をかけて確認、ときには編集されたものである傾向があり、逆にstabilityの低い情報というのは、その時点で発生する現場からの近況報告、ときには突発的なアクション、という形をとることが多いです。
ですから両者には、同じアプローチは向いていません。stabilityの高い情報を扱う時には、その情報は形成されて来たものであると理解することが妥当であり、その形成に関わった当事者を追跡することで、真偽に近付くことができます。それに対して、比較的stabilityの低い情報を扱う場合には、その情報は発生したものであるため、その発生自体を一つの現象として受け止め、それからその発生状況に迫る事で、真偽に近付くことができます。
どうしてこのような話を今持ち出したかと言うと、昨今の、特に歴史検証をみていると、stabilityの低い情報を意図的に無視する、あるいはその極めて一部分の不整合性などを取り上げる事で、その情報としての価値をゼロにしようとする手法が目にあまるからです。
その一方でstabilityの高い情報を形成させた(いわば版元のような権限をもつ)政府によるの行為を、そのを政府が属するカテゴリーである「近代国家」のルールを基準として、とにかく考えられる限りの事象に無制限に当てはめる事で、虚像を作り上げようとしています。
日本の植民支配は朝鮮半島を近代化させた、植民者によって文化や科学が発達した、従軍慰安婦は職業売春婦、参政権は国民固有の権利、などなど。在日がどうのという前に、結局は単純な近代国家の概念から出発してそこに帰る意図しか見えない、ナショナリズムが言い換えられたものにすぎない。
こう言う事、今さらのように国家を精神的な楯にするような事は、かえって日本人自身の不幸の種をまいているのだと思う。
>アングラで捏造されたデマを信じる愚かさ。
>偏見あるいは罪悪感によって非現実的なまでに歪んだ在日像に向かって一方的に非難を投げつける臆病さ。
>気持ちよさそうに偏見や憎悪をぶちまけ、それが偏見や憎悪であることにすら気づかず、逆に正義面する偽善。
>それどころか、差別発言すら正当化されると思い込む独善。
>在日への無知にもとづく理不尽な踏絵と過剰な説明責任を一方的に押し付け、それへの返答がないことをさらに在日のせいであるかのように言い立てる傲慢。
>それらに気づいてなお自分には関係のない出来事であると傍観し、黙認する冷淡。
>これらはいくらでも溢れかえっているのに、いったい、知性、理性、良心はどこに隠れてしまったのか? 現状は、細々と続いている理性的対話がむしろ希少な状態になってしまっています。99年4月にも同種のサンプリングをしましたが、今回はその時以上に、ボードの理念を実践しうる状態にはないとの結論に達しました。
>99年のときは、管理体制の強化によってひとまず閉鎖を回避しましたが、今回は無期限のボード閉鎖が適切な措置であろうと考えています。
閉鎖--という以上になにか、勢力の形成につながる事を希望します。
閉息状況は、ネットワーク社会の末端部分から始まっています。意図的に閉息させることで、一方向への認識を流通させる、いわゆる「世論づくり」が出来やすい状況になってきています。
そのなかでのこのボードの閉鎖は、間違えるとこのような形でのボードの運営が不可能という実績を作ってしまいかねないので、そうならない事をねがっています。
『知性、理性、良心はどこに隠れてしまったのか?』と言われる事に関しては、社会的なminorityのみならず、minorな事実に多くを語らせる技法が必要と思います。ルールの作成者である政府が、その適応の対象(=国民)を設定し、設定された対象である「国民」が、「設定された対象として自主的に」政府を選ぶという、意図された同義反復の破れを発見できやすいのが、minorな事実から見つけやすいと思うからです。それを、『権力の非対称性』と考えられるのも正当だと思いますが、これはべつに人間社会に限った事ではないと言うのが自分のスタンスです。いやむしろ、人間の認識する形式は、最も当てにならない、間違いを生みやすいものかも知れない。真偽の認証というのは、必ずしも人間にとってfriendlyな形で出てくるわけではないでしょうから。
問題は、実際には一般の社会人が、そのminorな事実を検証していくのは現実にはものすごく大変だ、という事ではないでしょうか。ほんとうは、理性も良心も大勢の人の中でちゃんと生きているのだけれども、昨今のネット文化に流布された粗雑な論理が、とくに国家の成立や国益などという事に関しては”合法性”を根拠にしているために、よけいに言い出し難い状況を作っているのだと思います。
管理のご苦労を知らず無責任にも申し上げますが、多忙な社会人が、時間と労力を裂いてでも取り組める何かを作れる人であると、勝手ながら思っております。
もっともこういう言い方がかえってご負担でしたら、申し訳有りません。
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