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投稿[#63]およびそれに対する感情的な投稿は、HANBoardの目的とルールに反するため、本来ならば管理人削除の対象であることを申し上げておきます。
しかし、今のところHANBoardではゆっくりと静かに議論が進んでおり、読者、参加者にもこのような投稿に対して理性的に対処する余裕が十分にあると思われますので、今回は削除するよりも議論の対象にさせていただきたいと思います。[#63]を読んで不愉快になられた方もいらっしゃると思いますが、コメントをおつけになる場合は、HANBoardの目的とルールをお読みのうえ、建設的な態度でお願いいたします。
1.論点
さて、[#63]は韓朝鮮人への偏見や嫌韓感情の典型的な表出スタイルです。幸いなことに、私は各種の調査を通じて、今の日本においてこの種の意識を持つ者はきわめて少数であることを知っています。しかし、その一方で、投稿者が「大半の日本人の意見」だと勘違いしうるほど、アングラサイトなど一部では非常にありふれた意見であることも確かです。この矛盾をどう理解したらよいか?
アングラサイトに集ってこのような投稿を行う者と、その他の日本人を、まったく異なる意識を持つ、まったく異なる存在であると想定することもできます。ごく一部の特別な特性をもつ者だけが例外的にこの種の意見を持っているのだという解釈です。それも一つの合理的な考えでしょう。
それに対して、日本のなかで薄く広く共有されている何らかの感情、態度、意識が、この種の意見として濃縮して表出していると解釈することもできます。きわめて少数ではあっても、何らかの日本的なものを典型的に代表する意見なのだという解釈です。
どちらの解釈が妥当でしょうか? 私にはまだわかりません。そこで、以下に[#63]の特徴を描写してみたいと思います。
2.[#63]の主旨
[#63]は冒頭で形式的には質問というスタイルをとってはいますが、その内容は疑問を呈するというものではなく、「朝鮮人は我が強い、世界中の人から嫌われている」という主張を表明したものにすぎないことは明らかです。そして、投稿全体の主旨は、「朝鮮人は我が強く、世界中の人から嫌われており、トラブルの原因になる。日本が嫌いなのであれば日本から出ていけ」ということに要約されます。
このうち、「世界中の人から嫌われている」「トラブルの原因になる」は偏見によるナンセンスな勘違いにほかなりませんので、それを省けば、結局、「日本が嫌いなのであれば日本から出ていけ」という排外主義のみが残ります。とすると、内容を見てもまともな論点にはなりえません。
そこで、[#63]の推論構造を分析してみましょう。
3.[#63]の推論構造
(1)異文化理解の観点の欠如
「自己主張がハッキリしている」ということが韓朝鮮人の特徴として語られることがあります。これはかなり一般的な理解のようで、マスコミでも同様のことがよく語られますし、当の韓朝鮮人自身がそのような認識を持つことも少なくありません。
一般に「国民性」というものは拡大解釈されたイメージを含むものですが、さしあたって「自己主張がハッキリしている」ということが韓朝鮮人の文化的特徴であるという前提で話を進めましょう。
問題は、この文化的特徴が、美徳としても悪徳としても語られうるということです。自己主張は、情緒的調和を重視しがちな日本の文化的な価値観の中で、否定的に捉えられやすい部分があるといえます。とはいえ、日本においても、自己主張の重要性がつねに否定されているわけではありません。ところが、[#63]においては、「我が強い」「奥ゆかしさが無い」と明らかに悪徳としてのみとらえられています。
文化というものは、その文化を身につけた集団のメンバーにとっては自明のものであるため、存在を意識することはあまりありません。ちょうど人が空気の存在を意識しないように。
そして、自明のはずのことがらが通用しない異文化に接したとき、人はその異文化を「間違っている」と解釈することがあります。これを自文化中心主義あるいはエスノセントリズムといいます。[#63]はまさにその代表的なケースといえるでしょう。
エスノセントリズムに陥らずに異文化理解にいたるためには、まず、異文化を理解し、共感しようという態度が必要です。[#63]には、残念ながら異文化理解の前提となる共感的態度が欠如しているといわざるをえません。朝鮮人を「我(エゴ)が強い」といいながら、自文化を正統視するエゴイズムは理解されていないようです。
《余談1》
ある特性が、ある集団では美徳とみなされるのに、ある集団では悪徳とみなされることがあります。たとえば、かつて、アメリカで日系移民が経済的苦境を打開しようと懸命に働くことに対して、「日系人はケチなのでせこせこ働く」と揶揄されたことがありました。まだアメリカで勤労と貯蓄が美徳とされていた時代です。白人が勤勉に働くことは美徳とされる一方、日系人が勤勉に働くことが悪徳とみなされたわけです。これを、ダブル・スタンダードといいます。
参考)野村一夫「ダブル・スタンダードの理論のために」
http://www.honya.co.jp/contents/knomura/double/dou-txt01.html
http://www.honya.co.jp/contents/knomura/double/dou-txt02.html
http://www.honya.co.jp/contents/knomura/double/dou-txt03.html
http://www.honya.co.jp/contents/knomura/double/dou-txt04.html
(2)ナショナリズムへの嫌悪
韓国では、植民地から解放された後、国家復興のためにナショナリズムを利用して国民統合をはかりました。文化と国土を剥奪されたことへのコンプレックスと、それを取り戻したことへの高揚感があいまって、ナショナリズムは人びとの心の中に強く浸透していきました。韓国人は気軽に国家的自負を表明します。そして、この点に反感をあらわすのが、嫌韓感情の一つの特徴です。
[#63]にも、「朝鮮人(韓国人)はそんなにすばらしい人種なのでしょうか?」という下りがあります。この一文だけを取り上げると、揶揄のしかたとしても子どもじみた情けないものですが、(韓国の)ナショナリズムへの嫌悪のあらわれだと考えると、まだ理解できるのではないでしょうか。
こうした感情は、以下の3つのうちのどれかだと考えられます。
a 韓国のナショナリズムへの嫌悪
b ナショナリズム自体への嫌悪
c 国民的プライドを表明することへの嫌悪
aであれば(たとえばアメリカのナショナリズムは受容できるのに韓国のナショナリズムには嫌悪を感じる)、韓朝鮮を劣等視する差別意識にもとづくものと考えられます。それに対して、bであれば、日本の侵略や植民地支配を強固なナショナリズムのせいだとみなす戦後の日本の価値観によるものだと考えられます。cであれば、謙遜を美徳とする日本の文化的価値観のあらわれだと考えられます。
どれなのかは分かりませんが、個人的には、a〜cのすべてが複合的に作用しているのではないかと考えています。
(3)「嫌われている」という判断基準
ある人物や集団を評価するとき、いろいろな基準があります。有能かどうか。倫理的に正しいことをなすかどうか、等々。そして、[#63]では、明らかに「嫌われている」かどうかが一つの重要な評価基準となっています。
実証はできませんが、わたしの実感としては、とくに若い人たちのあいだで、「嫌われている」かどうか友だち選びの重要な判断基準になっているような気がしています。
しかし、「嫌われている」かどうかという判断基準は、とても非合理的です。なぜなら、自分ではなく他者の基準であり、しかも、感情にもとづく不安定な基準だからです。にもかかわらず、なぜ、重要視されるのか?
そもそも、実際に「嫌われている」ことで関係を避けるケースもあるでしょうが、むしろ「嫌い」という自分の感情をストレートにあらわさずに周囲の評価を借りて正当化するためのレトリックであることが多いように思います。つまり、本当は「嫌われている」かどうかが問題なのではなく、自分が相手を「嫌い」かどうかという感情が問題ということでしょう。
異文化集団との接触は、価値観の衝突を含みます。好き嫌いという感情的な基準でしか評価できないようでは、異文化理解は難しいでしょう。もし、若い日本人の間でそのような評価基準が一般化しているとすれば、将来の国際交流はずいぶん大きな火種を抱えているといえるかもしれません。
《余談2》
社会心理学のほうではよく知られたことですが、ある意見に関心を持っているとき、周囲に賛成意見が2〜3割ほどあれば「みんな賛成している」と思いがちです。韓朝鮮人が世界中の人から嫌われているというのは、なんともナンセンスな話ではありますが、こうした話を信じてしまうのは、逆にいうと、もともと「韓朝鮮人が世界中の人から嫌われている」という意識を持っていた可能性が高いということです。
(4)内政干渉という推論構造
内政干渉というのは、本来は武力的圧力等を背景に国家主権を侵害することをいうのであって、侵略や植民地支配の被害を受けた諸国が批判の声を上げることをいうのではありません。教科書問題についても、「内政干渉だと認識するのは無理」(槙田邦彦・外務省アジア大洋州局長)です。
が、ここでは「口出しする」「理不尽な横やりを入れる」という程度の意味で使っているのでしょうから、そういうことをいっても始まらないのでしょうね。むしろ、わたしにとって関心があるのは、なぜ他国から「口出しされる」ことを嫌うのかということです。
日本も鎖国をしている/きたわけではないので、近隣諸国が相互の政策に口を出し合うのは当然のことです。それを「外交」といいます。ましてや、侵略や植民地支配の歴史と密接に関連する政策であれば、異議申立てをするのは正当な権利です。にもかかわらず、なぜそれを「口出しされた」「理不尽な横やりを入れられた」と歪めて理解してしまうのか?
他者からの「干渉」をきらう孤立主義の影響でしょうか。同じ日本人どうしですら他者の感情に配慮する傾向がもし薄れていると指摘されています。とすれば、他国、他民族の利害や感情に配慮し、「口出し」に聞く耳を持つのはむずかしいかもしれませんね。
(5)在日は日本嫌いという推論構造
[#63]には「もしも日本が嫌いなのであれば日本から出て行ってください」とあります。これは、在日は日本が嫌いであり、だからいろいろな問題に「口を出す」のだろうという推論構造をあらわしています。
在日は日本を嫌いなのだという誤った推論は、ハン・ワールドの中でいくら否定しても、なくなることはないようですね。しかし、単純な話、在日は日本が嫌いではありません。むしろ、韓国や朝鮮以上に、日本に愛着を抱いています。生まれ育った国なのだから、当たり前の話です。
参考)福岡安則「「在日」と日本人との共生は可能か」
http://www.han.org/a/fukuoka96c.html
にもかかわらず、在日は日本嫌いという誤った推論はなくならない。国木田独歩氏は、嫌いなら出て行けという閉塞的な排外主義に陥っているけれども、在日は日本嫌いという誤解そのものは、日本においてかなり一般的なものです。(これも調査の結果、確認しています)
いまは、「嫌われてもしかたがない」という意見が一般的ですが、今後、「嫌いなら排除しよう」という感情的で短絡的な排外主義が広まらないことを祈るばかりです。
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さて、ここまでに[#63]の特徴を5つ指摘しました。投稿者個人の特徴と思われるものは他にもありますが、ここに指摘した5つの特徴は、だれでも陥る危険のあるものかもしれません。もちろん、上述の通り、現時点では[#63]のような意見はごく少数にすぎません。でも、[#63]はいわば日本のネガティブな将来像をあらわしたものと考えられないでもない。
[#63]のような意見やその背後の推論構造にどう対処していくか、そこに、日本の将来像がかかっているような気がします。
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