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▼加藤さん:
> 別記事にも書きましたが、ポツダム会談中から英米はソ連参戦をもはや歓迎
>していなかったと思います。
ここではポツダム会談の時点でソ連参戦がどう取り扱われていたかを中心に反論します。
加藤さんはいまだに、ソ連の対日参戦はいわゆる「火事場泥棒」であり、ソ連は日本に対して一方的な加害者である、という図式に固執しているように思われます。
まあ、「第三の琉球処分」とも言われる“核”密約付きの沖縄「返還」=沖縄の永久基地化を、アメリカの「誠意」とまでおっしゃる加藤さんのことですから、千島のソ連引き渡しにおいて米ソが「共犯」だったと認めたくない気持ちもわかるような気がしますが、ソ連参戦が連合国の対日作戦の一部だったという歴史的事実を無視してはなりません。加藤さんご自身も「米ソの作戦行動範囲は、ポツダム会談で合意済み」とおっしゃっているではありませんか?
原爆を手にしたトルーマン政権がヤルタ会談の見直し(ソ連の対日影響力の縮小)を図ろうとしていたことは確かでしょう。しかし、ポツダム会談の場においてもなお、米英の首脳・軍当局は、ソ連の参戦・「満州」への進撃が日本の早期降伏に決定的影響をもたらすことを認識し、それを希望していたことは事実なのです。例えばトルーマンはその回顧録でポツダム会談の目的についてこう書いています。
ポツダムに私が行った理由は、多くある。しかしもっとも重要な理由は、ソ連から
自ら対日参戦の確約を得ること、すなわち米軍首脳が狙っていたことである。
(『トルーマン回顧録1』トルーマン著、76年、恒文社、 292頁)
中国に大兵を入れて日本軍を中国本土より追い払うよりも、私の希望は常に十分な
ソ連兵力を満州(ママ)に入れ、日本軍を追い出すことにあった。それがこの際できる唯
一の道である。(同226頁)
7月24日、トルーマンとチャーチルは「ソ連の対日参戦を奨励する。ソ連の軍事能力向上のため援助をおこなう」と明記された米英合同参謀本部の対日戦最終案を承認し、ソ連の伝えます。事実、アメリカは日本降伏までソ連に武器や鉄道関連設備を送り続け、1941年からの援助総額は110億ドルに達しました。
さらにトルーマンは、連合軍からの正式な対日参戦要請を求めるソ連側に対して、「1943年10月、モスクワ(終戦後の国連設置を決めた中ソ英米代表によるモスクワ宣言のこと)においてソ連が引き受け、また最近の国連憲章からしてソ連が参戦する義務のあることは明白」とも言っています。(『ポツダム会談』チャールズ・ミー、徳間書店、75年など)
つまりソ連の対日参戦は、終戦後に発足されることが合意されていた「国連」の一員としての義務とみなされていたのであり、ポツダムで確認された連合軍の対日共同作戦の一環でした。それゆえソ連の対日宣戦布告文には「連合国の義務」という表現が使われているわけです。
それでもなお、ソ連の千島領有は領土拡大を禁じたカイロ宣言に反するではないか、という見解もありましょう。私もソ連の千島領有には法的瑕疵があると考えていますし、南千島をアイヌの先住権を認めた自治区域とすべきだという主張をしています。
しかし、そもそも千島列島のソ連領有も、ヤルタ協定以前の43年秋に、ローズヴェルト自身が、戦後日本の脅威を少なくし、ソ連の安全保障上の必要に理解を示して、「実質的にソ連に引き渡されるべきである」と考えていたものだったのです。(五百旗頭『米国の日本占領政策・上』)
ですから、北方四島のソ連・ロシア領有が不当だというのなら、ソ連の対日参戦だけを問題にしても説得力はないのです。ソ連に参戦を強く求め、千島の引渡しを認めたアメリカ、ひいては連合国=国連のあり方も同時に問題にすべきでしょうね。ただしその前に、世界を敵に回して無謀かつ残虐な戦争をはじめた日本の責任を問われてしまうでしょうけど。
つまり、北方四島の問題を考えるにあたって、どうやって二度とそのような悲惨を起こさないような日本・世界を作るか、という発想が必要なのだと思います。
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