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▼加藤さん:
>> アメリカもソ連の朝鮮北部占領を「合意違反」などと言ったことはないはずですが。
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> 米津さんは合意した作戦範囲を越えた行動を、何と呼ぶのですか ?
>後に追認したとしても (連合軍最高司令官命令第一号) 、その行動自体は
>「合意違反」と言われても仕方ないと思いますが。
45年7月24日に開かれた米英ソ軍事会談で、ソ連側は朝鮮での米ソ共同作戦の可能性を打診しましたが、米陸軍参謀総長マーシャルは「アメリカ側には朝鮮に対する上陸作戦に廻しうるほど、攻撃船艇に余裕がなく、対朝鮮作戦の可能性は九州上陸が終わったあとでないと決められない」と返答します。
ポツダム会談当時、日本の降伏は1946年の秋と見つもられており、米ソ両国、特に45年11月に九州上陸を予定していたアメリカにとって、朝鮮はまだ先の課題でした。つまり朝鮮がポツダム会談で作戦範囲に含まれなかったのは、「占領しない」という合意があったからではなく、単に決定が後回しになっていただけのことです。
アメリカ軍部は一夜にして日本が崩壊するだろうとは予想もしていませんでした。アメリカ側は日本上陸作戦の遂行のためにも関東軍を中ソ国境に引き付けておく必要がありました。また関東軍の能力を高く評価していたアメリカは、朝鮮と「満州」に対する侵攻作戦には日本上陸作戦以上の困難を予想していたようです。したがってアメリカは、より少ない犠牲で日本を負かすためにも、ソ連による朝鮮占領を(積極的であれ消極的であれ)望んでいました。その点をアメリカの歴史学者ブルース・カミングスは次のように実証しています。
……ポツダム会談の記録を検討すれば、アメリカ軍の参謀たちは日本に対する軍事
作戦にはソ連の参戦が必要だという点において全く見解が一致していたのが分かる。
機密文献の中の一つは「アジア大陸における掃討作戦に関して言うならば、満州(も
し必要があれば朝鮮)におけるジャップの一掃はこれをロシア人に任せるというのを
目標とすべきである」とも述べている。(『朝鮮戦争の起源・第一巻』B・カミング
ス、鄭敬謨/林哲訳、シアレヒム社、89年、177頁)
……(ポツダム会談の)数ヶ月前、マッカーサーはソ連が対日戦に参加した場合の
結果について次のように述べている。ソ連は「満州・朝鮮の全域と、恐らく華北の一
部をもその支配下に収めることを望むだろう。このような領土の占拠は避けられない。
しかしアメリカは、もしロシアがこれだけの報酬を得たいと望むなら、一日も早く満
州に対する侵攻作戦を開始することによってその代価を支払うよう、主張しなくては
ならない」(同上、178頁)
一方ソ連も、ポツダムでアントーノフ陸軍参謀総長が極東地区でのソ連の目標を、「満州にある日本軍を消滅させることと、遼東半島を占領すること」と述べていることから分かるように、関東軍がそれほど早く壊走するとは考えておらず、朝鮮の占領は想定外のことだったようです。
つまりポツダム会談における作戦行動範囲とは、あくまで日本が46年秋まで持ちこたえ、アメリカの日本上陸作戦が行われるとの予測の上で、米ソの軍事協力のために引かれた実用上の取り決めであって、敵(日本)の状況にしたがってフレキシブルに対応しなくては、戦争の遂行はままなりません。
関東軍が敗走した時点で、朝鮮を目前に足を止めることは、みすみす敵(日本)に反撃のチャンスを与えることにもなりかねません。まして朝鮮の解放はすでにカイロ宣言で約束されていることなのですから、連合国の一員たるソ連には、朝鮮から日本を駆逐しない理由は何一つありません。
ポツダム会談の当事者であるアメリカでさえ認めていたソ連の朝鮮占領を、「ポツダム会談の合意違反」と非難するのは、ソ連の対日参戦を単に領土拡張欲にかられた「火事場泥棒」にすぎないとする偏見からくるこじ付けと言っていいでしょう。
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