紀州鉱山の真実を明らかにする会


記事番号:5317 (1998年11月25日 06時59分10秒)
投稿者:李在一 (属性:在日朝鮮人)
 メールアドレス:fwii2087@mb.infoweb.or.jp

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内容

「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の李在一です。

以下に当会の活動報告を転載します。


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「海南島1998年 夏」

          〜田独万人抗・石碌万人抗・八所万人抗・朝鮮村〜

1.田独鉱山で

ほぼ60年前の1939年2月、日本陸海軍が奇襲攻撃をして海南島を占領
し、軍政をしいた。その半年後、8月に石原産業は、海南島南部(現:三亜
市郊外)の田独鉱山を独占し、翌年7月から鉄鉱石を日本の八幡製鉄所に送
りはじめた。

このころから、石原産業は、三重県の紀州鉱山で朝鮮人を働かせていた(『
パトローネ』27、28、29、31号に紀州鉱山への朝鮮人強制連行にか
んする記事が掲載されています)。

田独鉱山では、海南島の民衆だけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中
国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人々が酷使された。

中国人民抗日戦争勝利50周年を紀念して政治協商会議三亜市委員会が編集
し、1995年8月に発行した『三亜文史D日軍侵崖暴行実録』(「崖」は
、海南島南部の現三亜市、楽東県の沿海地域を指す)には、日本軍と石原産
業が田独鉱山の鉄鉱石を略奪した6年間に、病死、餓死、殴殺、生き埋め、
銃殺された労働者は1万人以上であった、と書かれている。

今年6月下旬、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員3人が、田独鉱山で
どんなことがおこなわれていたのかを調査するため、海南島にいった。

2,侵略戦争と強制連行・強制労働

日本軍政下の海南島で、日本窒素は石碌鉄鉱山、三菱工業は那大錫鉱山と羊
角嶺水晶鉱山、浅野セメントは抱坡嶺石灰山の資源の略奪を始めた。

日本の植民地とされた中国東北部では、1932年から多くの中国人が、鉱
山、発電所などで強制労働させられていたが、海南島でも、日本軍・日本企
業は、中国人・朝鮮人・台湾人…を強制労働させた。

それにもかかわらず、大蔵省管理局がだした『日本人の海外活動に関する歴
史的調査(海南島編)』には、「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年よ
り終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦い、マラ
リヤ、赤痢、コレラ等恐るべき熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居す
る蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなか
った程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七
年間に生まれ変わった海南島が建設されたのである」と書かれている。

3,海南島の万人抗

万人抗は、日本支配下の鉱山で酷使され命を失わされた人々が重なって埋め
られている「墓地」あるいは大虐殺現場あるいは大処刑場であり、中国東北
部の撫順炭坑、老頭溝炭坑、豊満ダム、大石橋マグネサイト鉱山、鶏西炭坑
、鶴岡炭坑、北票炭坑、七道溝鉄鉱山、華北の大同炭坑、准南炭坑などにそ
の跡が残されている。

海南島には、田独鉱山、石碌鉱山や八所港などに万人抗がある。

1958年に田独万人抗に「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」が建てられた。
石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、
山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。
この工事でも多くの人命が奪われた。八所港の万人抗には、1964年に
「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた(「瓊」は海南島を意味する)。
数万人がいのちを奪われた石碌鉱山には、1965年に「石碌鉄鉱死難鉱工
紀念碑」が建てられた。

万人抗は、日本ではつくられなかった。中国各地の万人抗は、その地での強
制労働の苛酷さを示している。

4.朝鮮村

田独鉱山は、三亜市東方の郊外にあるが、三亜市北方の郊外に、朝鮮村とい
う名の黎族の村がある。そこで殺害され埋められた1000人以上といわれ
る朝鮮人を偲んで村人が、解放後に村名を変えたのだという。『日軍侵崖暴
行実録』には、日本軍は朝鮮の「政治犯」1000人を現在の朝鮮村にあっ
た収容所で殺害した、と書かれている。

わたしたちは、海南島に着いた翌日、政治協商会議三亜市委員会の蔡文恵氏
に案内されて、朝鮮村を訪れた。黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を
木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細氏(83歳)から話を聞
かせていただくこともできた。周亜細氏自身も日本兵によって左足に傷を負
わされたという。

日本に戻ってから、わたしたちは、防衛研究図書館で、『海南警備府戦時日
誌』(全30冊)をふくめ、数十冊の資料を点検したが、この事実の関係資
料をみつけることができなかった。だが、橋正図書館では、いくつかの資料
を探しだすことができた。その資料には、1943年から1944年にかけ
て、朝鮮から全獄中者の約1割の人びとが「南方派遣報国隊」の名で海南島
に強制連行され、強制労働させられたという事実が示されていた(「南方派
遣報国隊」は、海南島では「朝鮮報国隊」とよばれたという)。

さらにその後、わたしたちは韓国の記録保存所で、海南島に強制連行された
獄中者に関する資料(名簿の一部など)を発見した。その名簿には、「治安
維持法」違反の人も含まれていた。

7月に、韓国KBS取材班が、海南島にいき、朝鮮村の虐殺現場のわずかな
一部分を「発掘」し、7人の遺骸に対面した。取材班は遺骸を埋めもどし、
祭祀をおこなった。

KBSの取材班をつうじて、わたしたちは、「南方派遣報国隊」の隊員とし
て海南島に強制連行され、虐待され、朝鮮人虐殺を目撃した人が、韓国慶尚
南道の固城におられることを知った。この人によれば、いったん「京城刑務
所」に集められてから海南島に強制連行された獄中者のなかには、マラリア
などで病死した人も多かったという。

8月31日夜、KBSは、ドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮のい
のち」を放映した。これは、「朝鮮報国隊」にかんする多くの新しい情報を
伝達するものであった(この番組制作に、紀州鉱山の真実を明らかにする会
の佐藤正人がコーディネイターとして参加した)。

50年あまりがすぎたいま、ようやく海南島に朝鮮人獄中者が強制連行され
命を奪われたという事実が、日本と韓国で明るみにだされようとしている。

5,民衆の持久的な抵抗とたたかい

日本軍は、海南島の各地の村々をくりかえし襲撃し、しばしば民衆を虐殺し
た。中国本土でおこなった犯罪(住民虐殺、婦女暴行、掠奪、軍隊性奴隷強
要……)のすべてを、日本軍は、1939年2月以降、海南島でもおこなっ
た。

抗日軍と民衆は、持久的に重装備の日本軍と戦いぬいた。日本軍が海南島全
域を占領・支配したことはなかった。1944年から、山岳部を中心に解放
区が拡大していった(海南省政協文史資料委員会編『日軍侵瓊暴行実録』上
下・続、海南出版社、1995年、1996年、参照)。

6,民衆のネットワークを

強制連行された朝鮮人が紀州鉱山で働かせていた時期に、海南島の田独鉱山
でなにがおこなわれていたかは、これまで日本では隠されていた。

これから、田独鉄山やフィリピンのカランバヤンガン鉱山(ここでも石原産
業は日本軍とともに資源と労働力と人命を奪っている)などでの強制労働の
実態をその地域の民衆とともに、明らかにしていくなかで、強制連行・強制
労働の現場であるアジア太平洋の各地と日本の各地をつなぐ民衆のきずなを
強めていきたい。


「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安東・軍威と紀和町で」

■慶尚北道の安東と軍威へ

かつて紀州鉱山に強制連行された人びとから当時の話を聞かせていただこう
として、わたしたちは、韓国の友人とともに、昨年5月江原道麟蹄郡に、8
月江原道平昌郡に行った(『パトローネ』31号を見てください)。

今年、わたしたちは、同じ目的で、8月18日から22日まで、韓国の友人
たちといっしょに慶尚北道安東郡と軍威郡を訪問した。

わたしたちは、低い山々のあいだに水田やりんご園やぶどう園や野菜畑がひ
ろがる村をまわった。数日前の水害の跡があちこちに残っており、川幅いっ
ぱいに水が溢れるように流れていたが、あたりの風景は静かでなごやかだっ
た。このような村から、五十数年まえ、男たちが、とつぜん家族と大地から
ひきはなされて、むりやり日本につれていかれたのだ。

■「死亡」した翌日に「逃亡」?

紀州鉱山が1946年に三重県内務部に提出すいた「朝鮮人労務者」の「名
簿」を持って郡事務所や面事務所へいって、戸籍簿を照合してもらう。戸籍
簿に記載されていないときは、死亡した戸主の名簿である除籍簿を照合して
もらう。

8月20日の昼過ぎだった。安東郡の臥龍面事務所で千炳台氏の戸籍簿をみ
ることができた。そこには「一九四四年八月壱日午前拾壱時参拾分参重県南
牟婁郡川上村大字大河内五百六拾四番地に於て死亡同居者三山移植届出一九
四四年八月弐日川上村長岡浅之助受付同月九日送附」(原文は日本「元号」
使用)と書かれていた。

だが、紀州鉱山の「名簿」では、千炳台氏は、1944年5月7日に「官斡
旋」で紀州鉱山に「入所」し、「運搬夫」として働かされていたが、3ヶ月
後の8月2日(死亡した翌日)に「逃亡」したことにされている。

強制連行された紀州鉱山で千炳台氏が命を失わされたのは27歳のときで、
故郷で結婚してから、2年も過ぎていなかった。

日本にもどって、わたしたちは、「参重県南牟婁郡川上村」の事務をひきつ
いでいる紀和町和気の川上出張所や紀和町役場などへいって調査を始めた。

■生きて戻れるとは思わなかった

8月19日、安東MBCテレビのスタッフと、軍威郡長に会って協力を養成
したあと、郡威郡召保面の老人会館にむかった。そこで、南正碌氏に会うこ
とができた。ゆっくり当時のことを語ってくれる。強制連行されるとき、妻
も子どももいたという。

「宿所は山のなかにあった。門番がいて、証明書をもらわなければ出ていけ
なかった。ひとつの部屋でおおぜいが寝た。削岩機のしごとで、ほこりを頭
からかぶった。大阪で土方をしようと3人で逃げた。大阪では飯場にいたが、
そこからも逃げて、東京の中島飛行場の工場で働いた」。

南氏によると、紀州鉱山にいっしょに強制連行された人のうち、張大烈氏と
張斗龍氏が健在だという。すぐみ張大烈氏の自宅を訪ねて、話を聞かせてい
ただいた。

8月20日夕刻、林聖熈氏を訪問した。農作業をしていた林氏は、ゆったり
したあしどりで、わたしたちを家の一角に案内してくれた。わたしたちは、
1時間あまり、話を聞かせていただいた。その間、林氏は、感情を抑えるか
のように低い声で静かに語りつづけた。

「ある夜寝ているとき、とつぜん面の役人が、つかまえにきた。昼来ると、
逃げられるから、夜にくるんだ。以前は令状があったが、令状を送って逃げ
られたことがあって、わたしらのときは、なにもなかった。面庁でひと晩ね
て、出発した。日本人が面庁に来ていて、見張っていた。行ったら生きて戻
れると思わなかった。紀州鉱山では人間としての扱いは受けなかった。逃亡
する人がでたときには、それをみていて止めなかった人も殴られた。解放に
なって、帰ってこれただけでありがたかった」。

■じぶんも死ぬと思った

8月23日に軍威郡内良里で張斗龍氏に会うことができた。紀州鉱山に強制
連行される前日、たまたま自宅の近くの道を歩いていたらとらえられたとい
う。「満州に行くか日本へ行くか」と訊ねられ、日本に行くと答えると、明
日出発だといっていったん自宅に戻されたが、「満州」に行くと答えた人は
そのままつれていかれたという。

わたしたちが張斗龍氏から話を聞いている集会場にたまたま来られた朴貴連
氏の夫も紀州鉱山で働いていたという。

■小学6年生の在日朝鮮人の感想

こんどの安東と軍威での聞きとりと「調査」には、小学校6年生の金思媛さ
んと19歳の金智媛さんのふたりの若い在日朝鮮人が参加した。わたしたち
の会員の平均年齢は40歳を越しているので、若い人びとの参加は、とりわ
けうれしい。

金思媛さんは、日本に再入国してからすぐに記録・感想文を書いた。その最
後の一節は、こうである。

「日本が戦争に負けたのも、いろんな国い対し、つぐなう、いいチャンスだ
ったかもしれない」。「一つでも多くの手がかりを発見した時、聞いた時は、
すごくうれしいです」。

■紀和町で

わたしたちが安東・軍威からもどったあとまもなく、8月29日から9月3
日まで、安東MBCテレビのスタッフが日本に来て、紀和町などを取材した。

安東MBCテレビ創業10周年を記念するドキュメンタリー番組を製作する
ためである。スタッフは、早朝から夜遅くまで活動した。

紀州鉱山の真実を明らかにする会も同行して、和歌山から紀和町にむかった
が、途中の由良にも田辺にも中辺路にも、おおくの朝鮮人の労働の跡がのこ
っている。

紀和町では、紀州鉱山本部事務所跡地に鉱山資料館が建てられている。

そこにはA級戦犯容疑者であった石原広一郎を賛美することばが掲げられて
いるが、朝鮮人労働者にかんする展示はまったくない。

また紀州鉱山に強制連行され、命を失わされたイギリス軍「捕虜」の「墓」
は、「外人墓地」と名づけられ、紀和町の「指定文化財」とされており、紀
和町役場企画観光課が作成したガイドマップに記載されている。

紀和町長と教育長にインタビューした安東MBCの李貞姫記者は、朝鮮人強
制連行・強制労働にかんする記述が『紀和町史』にも紀和町鉱山資料館にも
まったくない理由をくりかえし尋ねた。紀和町長も教育長も、朝鮮人強制連
行の事実を、これからは『紀和町史』・紀和町鉱山資料館で示していきたい
という。

■熊野市で

いまなお、朝鮮人虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』
の記述を根本的に改めようとしていない熊野市は、9月2日の安東MBCの
取材を拒否した。

その翌々日、9月4日、熊野市役所で、紀州鉱山に強制連行されたイギリス
軍「捕虜」との「交流」をつづけている紀南国際交流会主催の集会(オース
トラリアに日本兵「捕虜」の墓参報告会)がおこなわれた。

■石原産業大阪本社で

取材の最後の日、9月3日石原産業大阪本社に行った。そこで李記者は、朝
鮮人強制連行・強制労働にかんする記録を石原産業が提出することを求めた。

だが、石原産業は、終始あいまいな回答を続けるばかりだった。

なぜ、千炳台氏が死亡した翌日に、紀州鉱山の「名簿」では「逃亡」したと
されたのかという問いにたいしても、現場のことは現場で処理している、本
社ではわからない、名簿の原本も複写も石原産業にないので調べようがない、
といいはった。

紀和町小栗須の慈雲寺に、『紀州鉱業所物故者諸精霊名』と表紙に書かれた
423人の名簿がある。そこに、15人ほどの朝鮮人(および朝鮮人と思わ
れる人)の名が記されている。その一人、「子炳台」氏は、千炳台氏のこと
と思われる。

帰国するため空港に向かう直前、20代のわかい李記者は、
「日本に来る前は、事実を事実としてはっきりさせ、日韓関係に積極的な展
望をもつことができると、楽観的に考えていたが、いまは、重い気持だ」と
語った。


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